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中世哲学を学ぶ(生命科学の目で読む哲学書 第9回)

2019年11月14日
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図1 中世哲学のガイドブックとして読んでみた著作。

アリストテレスを読もうと、ネットでどんな本が手に入るか探していた時、岩波書店から刊行された、アリストテレス全集全17巻(当時で一冊数千円していた)が、全巻セットでなんと1万2千円足らずと知って、それまで重要な著作は購入していたにもかかわらず思わず全巻を注文した。ほとんど傷もついていないばかりか、折り込み冊子もすべて揃った全巻を受け取って中身を確かめているうち、「得した」と言う最初の喜びが、「アリストテレス全集など図書館も含めて買い揃えようとする人などいないのか?」という悲しみに変わった。

「哲学と宗教全史」などといった大層な題の本がベストセラーになるのに、そこで紹介されているはずの哲学書を読んでみようなどと考えるのは、少数派のまた少数派であることを「1万2千円のアリストテレス全集」から実感した。私自身は「生命科学の目で読む哲学書」を書くことで、若い科学者やその卵を是非原著を読んでみようという気にさせることができればと願っている。

しかし哲学にアレルギーがない私にとっても、中世の哲学は最も遠い存在で、ラッセルの西洋哲学史の中世を随分昔に読んだ程度だった。そこで闇雲に中世の哲学書を読む前に、ガイドブックを読んでみて「私にとっての中世哲学」を考えてみることにした。

読んだのは、バートランド・ラッセル「西洋哲学史(中)」(これは学生時代以来の再読)、大澤真幸書「世界史の哲学 中世編」、山内志郎著「普遍論争」、そしてクラウス・リーゼンフーバー著「西洋古代、中世哲学史」、稲垣良典著「トマスアクィナスの神学大全」などだが、おかげで中世の哲学について自分なりの輪郭を描くことができ、さらに中世の理解なしに科学誕生の近代も語れないことをはっきりと認識した。

その上で「生命科学の目で見る」という趣旨から考えると、西欧で大学が始まり文化が教会から大学にも広がり始めた時代のスコラ哲学に焦点を当てて調べることにした。というのも、この時期にアリストテレスがキリスト教哲学に導入される。「信じるところから始まる」キリスト教神学者たちが、神秘的なプラトンならまだしも、「経験から始まる」アリストテレスの哲学にどのように魅せられたのか調べてみたいと思った。

例えばバートランド・ラッセルは、

「アクィナスの独創性は、アリストテレスに最小限の変更を加えることによってそれをキリスト教教義に適合させたことに示されている」

と、アクィナス≒アリストテレスとした上で、アリストテレスに傾倒すること自体、

「到達すべき結論があらかじめ定められているのだから、ある意味では理性に訴えることは不誠実なのである。・・・・・アクィナスには、真に哲学的な精神がほとんどない。彼はプラトンの描くソクラテスのように、議論がもたらす帰結がなんであろうと、とにかくそれに従おうとはしていないのである。あらかじめその結果を知ることが不可能なような探求に、彼が従事しているのではないのである」(以上全て引用はバートランドラッセル著、市井三郎訳「西洋哲学史 中巻」)

と、とても手厳しい。

とはいえ中世のスコラ哲学者たちはアリストテレスを読み、それに魅せられたことは確かで、さらにラッセルが言うように、キリスト教教義とアリストテレス哲学の間の矛盾をなんとか解消しようと努力をしていたことは間違いない。ある意味では、近代科学誕生で登場させるデカルトに重なるところもある(解決方法は違うが)。ラッセルの手厳しい批判を読んで、よし読んでみようという気がより強くなった。

具体的には、アルベルト・マグヌス、トマス・アクィナス、ドン・スコストゥス、ウイリアム・オッカムなどを読んでみようと考えているが、現在著作を集めている段階で、まだ読んではいない。そこで、今回はガイドブックとして利用した本の中から、スコラ哲学を題材にしてはいても、対照的なアプローチをとっている大澤、山内の著書を選び、中世スコラ哲学について見ていくことにした。

前回紹介したように(https://aasj.jp/news/philosophy/11539)、キリスト教は最初の400年ほどで、その由来であるユダヤ性を旧約聖書として棚上げするとともに(新約と旧約の矛盾は解決しないまま並存させているので棚上げという言葉を使う)、新約聖書の内容について「三位一体」、「キリストの受肉」、「マリアは神の母(テオトコス)」などの解釈を確定し、神と人間が対称化しつつも(すなわち神が身近な)、個々人の救いを願う絶対的な神をいただく、魅力ある一神教へと発展した。ローマの力が低下するとともに、西欧の中世は分裂の時代に入るが、宗教だけはキリスト教に統一され、当然文化もキリスト教に集約される。

このキリスト教の文化支配が最もよくわかるのが出版業で、このホームページに掲載した「生命科学の現在」の「文字の歴史」(https://aasj.jp/news/lifescience-current/11129)から少し引用する。

「ギリシャではすでに本作りが産業化していたようで、出版社と共にそれを支える様々な職人、例えば写本を受け持つ職人がうまれ、さらに彼らの組合まで存在したらしい。ローマ帝国時代にはいると、ヨーロッパ全土からの需要に応えて、出版社は本の大規模な輸出まで行っていた。ホラティウスやキケロのような売れっ子の作家は決まった出版社がついており、著作料が払われていたのも現在と同じだ。・・・・・・・・・(キリスト教一極支配により)、ギリシャ・ローマの市民文化は排除され、多くはイスラム圏に移って維持されることになる。そして当然のように、個人のコンテンツに基づく出版文化は、これを契機に消滅していく。グロリエの「書物の歴史」によると、この結果本を扱う商業を頂点に成立していた出版産業は完全に崩壊したらしい。また、公的私的に維持されていた図書館も、閉鎖され、略奪され、せっかく生まれたこの出版文化の成果も完全に消滅してしまう。その結果、ヨーロッパの大学や、都市で、教会から独立した世俗の活動が盛んになる12世紀ごろまで、出版文化は教会の中に閉じ込められ、独自の発展をとげる。」

このように全ての出版をほぼ手中に収めた教会による文化の一極支配下での哲学は自由であるはずはない。全ての思想はまずキリスト教を「信じることから始めなければならない」暗黒の時代だ。というのも、「信じること」を中心に置くと、「信じなければならないこと」が思想の自由を制限するだけでなく、「信じること」が必然的に他の可能性を拒否することにつながる。このような思想状況で、普遍的で理性的な哲学が生まれるとすれば、「神への信仰」を棚上げして考える必要がある。

この「神への信仰を棚上げしないと普遍的な議論ができない」という問題は、我が国の中世研究者を困らせているように思える。すなわち、キリスト教徒が少ない我が国で中世哲学の意義を伝えようとすると、「信じること」から始めないでも通用する議論が要求される。例えば今回読んだ稲垣良典さんの「トマス・アクィナス「神学大全」を読むと、

どのように一般的で漠然としたものであっても、神が存在するという認識が万人に本性的に植えつけられている、という主張はあきらかに事実に反する、と考える人が多いであろう。しかし、「わたしはどこから来て、どこへ行くのか」という疑問、というよりは心の深いところからわき上がってくる思いを抱いたことのない人はむしろ稀なのではないか。そして「幸福」という言葉をP・ティリッヒの言う「究極的関心」(ultimateconcern)で置きかえるならば、誰しも自らの人間としての「生」の全体を成立させ、方向づけ、つき動かしている「究極的関心」があることを認めるのではないか。そしてこの「究極的関心」は、トマスの言う人間の本性に植えつけられた神が存在することの一般的な認識を、現代風に言いかえたものと解釈することが可能なのである。」(稲垣良典. トマス・アクィナス『神学大全』 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.433-441). Kindle 版.)

と、心に植えついた神が存在するというトマスの認識が、例えば一般の人が持つ幸福への究極的関心と同じだと解釈できると述べている。本当にそんな解釈が許されるのか、トマスの著書を読んだ後もう一度議論したいが、結局この論理はキリスト教の立場に立った議論だと思う。事実稲垣さんはキリスト教信者としての立場を明確にしている。例えば哲学者としてはっきりと宗教から決別したカントの神の存在証明の議論に対して、

カントの因果性および存在の理解をめぐって横道にそれたのは、私の思い過ごしでなければ、21世紀の今なお、神の問題について哲学的考察を試みようとする者の前には彼の哲学が大きな障碍として立ちはだかっていると思われるからである」

と述べており、「信じること」から始める稲垣さんにとって、カントの批判に応えることが重要であると明言している。

稲垣さんの考えの是非についてはこれ以上議論しないが、信じるところから始めることを認めた上で、理性的であることは難しい。その意味で、「信じること」から始まることを疑わなかったトマス・アクィナスやアルベルト・マグヌスが、いかに「信じるのではなく、まず経験(見ること)から始める」アリストテレスの著作に魅されたのか、ますます興味が湧いてくる。言い換えると、キリスト教支配の中世で初めて、科学的思想が認められたわけで、17世紀の科学革命の先駆けとも言える思想的変化が起こっていたのかも知れないと期待してしまう。

残念ながら、この点について稲垣さんは、

(トマスの学は)、聖書にもといづきつつも、聖書の補足、付加、さらには聖書の代わりになるものとして人間理性が(アリストテレスを頼りに)つくりあげた作品、いわゆる「スコラ神学」ではない。

とそっけない、なぜアリストテレスが受け入れられたのかについては興味がないようだ。

しかし中世後期、教会とは別の誕生間もない大学で、「(見えるものを)経験することから始める」アリストテレスの再発見から広がったインパクトは、「(見えないものを)信じることから始める」キリスト教神学を揺り動かしたことは確かで、これこそが「普遍論争」と呼ばれるスコラ哲学最大の問題として現れた。

山内史郎さんの本はズバリ「普遍論争」というタイトルで、当時行われた議論を詳しく紹介している。山内さんは稲垣さんと同じで、中世哲学に魅せられた研究者の一人だと思う。この本の目的は、「普遍論争」とは何か、誰が何を議論したのかをできるだけ正確に伝えるとともに、これまで通説となってきた普遍論争の理解に問題があることを指摘することだと思う。実際、私が聞いたこともない多くの哲学・神学者を引用し、また全く私の知らなかった専門用語(例えば「代表理論」、「項辞」など)を解説しながら、山内さんの主張も同時に展開している。もちろんこの過程で議論の発端になったアリストテレスの著作についても丁寧な説明が行われている。その意味で、山内さんは典型的な厳密なアカデミックな手法を重視する哲学者で、この議論に関わった一人一人の論点をできる限り正確に解釈しようと腐心しているのがよくわかる。従って、普遍論争の紹介という点では、山内さんに聞くのが一番だ。

さて本の冒頭で山内さんは通説と断った上で、

「この普遍がどう捉えられるかについては、中世哲学において、様々な見解が出され、激しく論議されたものですが、通説によると大きく分けて三つになるとされています。実在論、概念論、唯名論というようにです。

実在論(realism)とは、普遍とはもの(res)であり、実在すると考える立場で、換言すれば、普遍は個物に先立って(anterem)存在する、と考える立場とされます。プラトン、スコトゥス・エリウゲナ、アンセルムスなどが代表者とされます。

唯名論(nominalism)は、普遍は実在ではなく、名称(nomen)でしかない、したがって普遍はものの後(postrem)にあるとするものです。個々の人間は触ったり触れたりできますが、普遍としての人間では感覚可能ではなく、触ることも見ることも酒を飲ませることもできません。ですから、唯名論というのは、常識にかなった思想とされたりします。代表者は、ロスケリヌス、オッカム、ビュリダン、リミニのグレゴリウス、ガブリエル・ビールなどです。

概念論(conceptualism)というのは、実在論と唯名論の中間にくるもので、普遍とは個物から独立に、そして個物に先立って存在するものでもなく、かといって抽象物とか名称でしかないと考えるのでもなく、ものの内(inre)に存在し、思惟の結果、人間知性の内に概念として存すると考える立場です。代表者はアベラール(アベラルドゥス)とされています。」(山内 志朗. 普遍論争 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.191-203). Kindle 版.)

と、普遍論争での議論の論点をまとめている。もう少しかみ砕いて展開すると、私たちが普遍的(例えば机をみて、個別の机だけでなく机全体の普遍性を読み取れること:プラトンのイデアを考えればいい)に物を認識できるのはなぜかについての議論で、大きく3つの立場があったことを述べている。その上で、各哲学者の論点を正確にまとめているのだが、残念ながらなぜ同じ信仰を共有している人たちが、わざわざ3派に分かれて普遍について議論しなければならなかったのかについての見解は全く述べられない。

一方、山内さんにとって普遍論争とは何だったのかについては、次の一言に集約されている。

私は中世哲学の表看板としては、「〈見えるもの〉と〈見えざるもの〉」の方がよいのではないかと思っています。〈見えるもの〉を通して〈見えざるもの〉に至ろうとする傾向が主流であると言いたいのです

すなわち、「見えるもの」と「見えざるもの」と言うわかりやすい概念を持ち出し、一見矛盾する概念をどう両立させるか議論したのが普遍論争というわけだ。

しかし見えるものを通して見えざるものに至るという図式は、キリスト(=見えるもの)を通して神と御霊(=見えざるもの)に至ることを説くキリスト教の教義と完全に重なる。見える対象から始めるために、キリストを受肉させ、神性を2元化したことで、キリスト教は世俗化に成功した。とすると、山内さんの指摘は、普遍論争ではキリスト教の本質が議論の対象になったことになるが、なぜこの時「普遍性」が問題になったのか?

先に触れたように、見えざる神への信仰を原点とするキリスト教神学に、アリストテレスの哲学をそのまま認めるのは難しい。なぜなら、全てを見えるものから始めるというアリストテレスの思想には、見ないで信じることへの拒否がこめられている。このように、中世の神学者は見えざるものを「信じるべき」とする論理からからスタートし、一方アリストテレスは「見えるもの(=信じる必要の無いこと)」からスタートすべきだと主張している。私にとっては、どうしてアリストテレスがキリスト教神学に忍び込めたのか、そこに興味がある。

結局この矛盾は、どこまで行っても本当に解消するようには私には思えない。どこかの段階で、「矛盾してはいない」ことを信じることでしか解消しないはずだ。おそらく山内さんにとって、この究極の解決法は必ずしも避けるべき方法ではないようだ。例えば、

私は神秘主義に関心を持っていますが、それは神秘主義の前提に一種の共約不可能性があるのではないか、という直観があるからです。永遠性、恒常性、必然性がスタティック(静態的)なものとしてあるのではなく、流動的、力動的なものとして語られることが哲学史の中でよくあります。スタティックなものが理想としては不十分なものだからではなく、そのようなもの――理念でもイデアでもかまいません――への憧憬を初めから妨げているものがあるようにも思われるのです。テロスが永遠にして必然的なものであるのは、テロスが備えるべき性質ですが、テロスへの道程に障害が存在し、テロスへの途上にあることをテロスにするしかないことがあるように思われます。常に途上にあるという事態についてはよく語られますから、脇に置いておくとして、そこに登場する障害を、私は「共約不可能性」と呼びたいのです。共約不可能性とは対角線や対人関係だけに見られるものではありません。そして、現代は「共約不可能性」を実体化し、そしてそれへの対処の仕方を失った時代であると私には思われます。中世において共約不可能性は神学的な場面で登場していますが、とにかく「共約不可能性」を日常性の中に住まわせていたように思われるのです。フランシスコの素朴な言葉の中に「共約不可能性」を感じ取るのは冒涜なのでしょうか。私はこれについて同意してもらおうとは思いません。私が同意してほしいのは、「共約不可能性」が無意味な概念ではないこと、中世哲学においては共約不可能性が基本的な概念として機能していた、ということです。

と述べて、共役不可能性(すなわち同じ基準で判断できないこと)を積極的に認めることで、両者の矛盾を解決した中世神学者への支持を表明しているように思う。

私のように科学領域で生きてきた人間にとって「共役不可能性」という言葉は、科学的理論でさえ同じパラダイムに立たない場合共役することが難しく、新しい理論は常にパラダイムシフトを伴うと主張したトマス・クーンを思い出させる。しかしクーンの場合「共役不可能性」はそのまま放置されることではなく、対立は新しいパラダイムへの移行、即ちパラダイムシフト促し、新しいレベルで共役される。この意味で、「共役不可能性」を、そのまま「共役の必要がない」と解釈する山内さんは、ラッセルとは真逆で、アクィナスへの共感を強く感じる。

しかしこれは科学者と、哲学者の違いというより、キリスト教に対する違いを反映しているのだと思う。山内さんと比べた時、「世界史の哲学(中世編)」を書いた大澤さんは、キリスト教をあくまでも西欧を形成した歴史的事象として捉えている。そしてこの本で大澤さんは、「なぜアリストテレスがキリスト教教義に忍び込めたのか?」という私の疑問に明快でしかも現代的な答を与えてくれている。

この本は、「中世こそが、西洋がまさに西洋としてのアイデンティティーを獲得した時代である」という認識から、西洋の理解には中世哲学、特に大学誕生により生まれたスコラ哲学の理解が必須だという大澤さんの確信に基づいて書かれており、中世の政治、経済、文化全般の歴史を、見えるもの(キリストの体)と見えざるもの(神と御霊)の2元論を認めるローマカソリックの教義の帰結として見事に解き明かしている。山内さんの「普遍論争」と比べると、アカデミックな印象はないが、決して荒唐無稽な議論ではない。様々な思想家の著作はもとより、小説から映画まで持ち出して、持論を展開して、読者をグイグイ引き込んでいく本だ。

この本では普遍論争は2章で詳しく扱われているが、彼の言葉を引用しながら普遍論争が行われた背景をまとめると、

1)、普遍論争が教会ではなく大学で行われたことから、

まずは、中世のヨーロッパにおいて、知(学問)が信(宗教)から独立しようとしていたということを示しているだろう。言い換えれば、このとき、哲学(愛知)と宗教(教義)との間に、微妙な亀裂が走っているのである」(大澤真幸. 〈世界史〉の哲学 中世篇 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.510-512). Kindle 版.)、

と、大学では「信仰」に基づきつつも、「理性」との矛盾、すなわち信仰と理性の矛盾を率直に語ることができたとしている。

2)、次に

「神の存在証明は、それ以上に、神にとって否定的な効果をもたらす。どうしてか?証明が失敗しているからではない。証明がエレガントでないからでもない。何が問題なのか?まさに証明を試みているという事実、その成否はともかくとしてまさに証明しようとしたという事実が問題なのだ。神の存在が確実であるならば、どうして、わざわざそれを証明する必要があるのか。このように反問してみれば、その冒瀆性は明らかだろう。」

と、普遍論争が始まった動機は、神の存在証明を理性的に行うことだったが、神の存在を証明しようなどと動機を持つこと自体、「信じること」から始めることに対する疑いが生まれた証拠だと推察している。

3)、そして最後に、

「神の存在証明は、信に対して懐疑が侵入していることの、哲学者の内的な表現、主体的な表現である。それに対して、普遍論争は、同じことの哲学者たちの間の間主観的な表現であると見なすことができる。普遍論争においては、懐疑は、外的に見える形を取る。それが、今しがた述べたように、唯名論である。」

と、普遍論争の引き金は、「信じるところから始めること」への疑念で、これはスコラ哲学者に共通だが、この矛盾解消は各個人多様な方法で行われ、3派に大きく分類できるが、試みたことは同じだと結論している。

このように、普遍論争に関する明快な説明を述べた後、

トマスもスコトゥスも、神であると同時に人間でもあるところのキリスト性を捉えようとしている──そしてそのことに失敗している。そのように解釈できるのではないか。」

と、普遍論争がローマカソリックの成立過程で決定された「神であると同時に人間でもあるキリスト性の矛盾を解消する努力だったが、それはもともと不可能な問題だった」と断じている。

大澤さんの議論は、なぜアリストテレスが中世神学に忍び込めたのかという私の疑問に対する一つの明快な答えとして納得できた。私なりにまとめると、イスラム圏から再導入されたアリストテレスという偉大な思想的触媒に触れてしまったスコラ哲学者が、「人は己の信仰に確証を得ることはできない(キルケゴール)」ことに気づき、自分の問題として、「信仰」と「理性」の矛盾の解消の糸口を、宗教に対しては完全否定的ではないアリストテレスに求めた、まさに人間的な過程だったということになる。また、一見普遍論争がプラトンのイデアとアリストテレスによるその否定の間の論争のように見えるのは、普遍論争が始まった時には、プラトン哲学が新プラトン主義を介してキリスト教教義の懐に既に入り込んでいたためと理解した。

しかし以上は全てガイドブックを読んでの印象で、これから実際の原著にあたりながらさらに追求していきたい。

最後に生命科学者の立場から普遍論争に一言。

20世紀以前の哲学者を「脳科学を知らないから」と非難する気はないが、普遍論争だけでなく、特に形而上学の問題を現在の哲学者が議論する時、我が国では我々の認識や概念の全てが脳内の表象として生まれていることにあまりにも無頓着な気がする。例えば、「普遍論争」での「普遍」やプラトンの「イデア」は、感覚インプットとして「今」認識されているものとは異なると言えるかもしれない。しかし、私たちの脳は、それまでの成長過程での経験の総体を様々な形で脳内に実際に存在する(もちろん簡単に把握できるものではないが)表象として保持している。このため、個別の認識も、必ずこれまでの経験が統合された表象を参照し、またそれにより介入される。これは、トップダウン経路とボトムアップ経路として知られる現象で、実際私たちはトップダウンの経路が機能しないと、個別のインプットを認識することができない。すなわち、個別と普遍は常に脳の認識過程で統合されている。

さらに、私たちの頭の中で表象した経験は、言語(今では様々なメディアが存在する)を通して社会的表象として共有され、そこからもフィードバックされる。この結果、自分が考えたのか、他の人が考えてきたことなのかの区別がつきにくくなることも多い。

このように、ちょっと脳科学をかじれば、普遍論争が行われた動機や時代は面白いが、そこで議論された論理自体を取り出して議論しても意味がないことがわかるはずだ。はっきり言って「個別か、普遍か」という議論自体は意味がない。私たちは両方から離れられないし、脳は努力しなくとも両方を統合している。今後、それぞれの時代の哲学を議論する時、脳科学ももっと積極的に取り入れた議論を展開したいと思う。

普遍論争に限らず、我が国の哲学の方々と話をすると、もう少し脳科学を学んで欲しいなと思うが、嘆いても仕方がない。平行線は覚悟して対話を続けることが重要だと肝に命じている。

11月14日 クリスパーシステムをバイオセンサーに使う(Angewandte Chemie Int. Ed: 58 2-9掲載論文)

2019年11月14日
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最近クリスパーも当たり前になって、紹介する機会も減ってきたが、このシステムを思いも掛けない目的で使うための技術開発は着々と進んでいる。ただ、分子センサーに使うというアイデアは初めてだ。

さて、皆さんは昨年5月1日にCas12aについてこのブログで紹介したのを覚えておられるだろうか(https://aasj.jp/news/watch/8385)。普通のCasと異なり、Cas12aは特異的なDNAだけでなく、周りにある一本鎖DNAを切断してしまう活性を持つ。

今日紹介するクリーブランド、ケースウェスタン大学からの論文はこのCas12aの特徴を生かして血中などに存在する特定のDNAやタンパク質を検出するシステムの開発でAngewandete Chemie International Editionに掲載された。タイトルは「Exploring the Trans-Cleavage Activity of CRISPR-Cas12a (cpf1) for the Development of a Universal Electrochemical Biosensor(CRISPR-Cas12aのトランスDNA切断活性をユニバーサルな電気化学的バイオセンサーの開発に用いる)だ。

この研究ではCas12aがガイドとして用いるCRISPR-RNAと標的の2本鎖DNAとがマッチした時、標的DNAとともに、周りにある一本鎖DNAを切断する活性を利用して、この非特異的酵素活性を電気的に検出するシステムを着想し開発している。具体的には、金箔の上に10塩基の長さの一本鎖DNAを貼り付ける。このDNAの断端にはメチレンブルーが結合されており、これにより化学的電流が発生するようになっている。しかし、DNAが切断され、メチレンブルーが表面から消失すると、電流が流れなくなるという原理を用いている。

この場合検出するのは例えばウイルスDNAのような、特異的なDNAが存在するかどうかで、存在する場合だけCas12aが活性化され、その場合チップ上で検出できる電流が落ちる。

様々な条件を検討した結果、最終的には109Mの濃度の標的DNAを2−3時間で検出できることを示しており、濃縮なども考えれば実用範囲に持っていくのはそう難しいことではない。さらに、特定のDNAに限って検出するとき、ミスマッチが起こっている場所に応じて電流の低下が変化することから、標的DNAの変異の場所を特定できる可能性も示している。

ではこの系を核酸ではなくタンパク質を検出する系として利用できるかが次の課題だ。著者らは特定のタンパク質と結合すると同時にCas12aを活性化できるように改変したアプタマーと呼ばれるDNAを作成し、まずこのアプタマーをそれと結合するタンパク質と混合させたあと、残ったアプタマーをCas12aの活性化に用いることで、アプタマーと結合した標的タンパク質の量を、DNAと同じように測定できることを示している。

以上が結果で、考えれば核酸が持つ様々な特異性をうまく利用したバイオセンサーが可能なことはよくわかった。おそらく価格も安いと思うが、あとは競争力だけの問題だ。しかし、CRISPRの可能性は驚くほど広い。

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