全てのアリは単独で生活することはなく、異なる役割からなる社会を形成して集団生活をしている。どのように卵を産む女王アリが決定されるかは種によりまちまちだが、種によっては女王アリ、働きアリ、雄アリ、兵隊アリ、ショジョ女王蟻など、複雑に分かれてはいるが、基本は生殖能力のある階層と、そうでない階層に分かれる点だ。この社会性は、全てのアリの先祖に誕生した後、現存する全てのアリで維持されて来た。この研究ではこの最初に社会性をもたらしたイベントに関わる分子を、おそらく脳に発現して食性を決める分子だろうとあたりをつけ、現存の多くのアリについて、生殖能力のある個体と、生殖能力のない個体にわけ、それぞれの頭部で発現する遺伝子を比較し、生殖能力と完全に一致する遺伝子を探している。驚くことに、両者ではっきり発現の異なる遺伝子はインシュリンに極めてよく似たペプチド、ILP2だけに絞られるというラッキーな結果が得られた。
すなわち成虫になる過程でILP2の発現が高いと食欲が刺激され、多くのカロリーを摂取できる結果、生殖能力を獲得できるという、なかなかよくできたアリだけが持つ仕組みが成立している。このシナリオをより実験的に検証するため、さすがアリの専門家と思わせる、Ooceraea biroiと呼ばれる卵を産む女王アリと働きアリのステージを、子育て時期に応じて周期的に繰り返すアリを選んで調べている。そんなアリがいるのかと感心したが、このアリは卵が幼虫になる段階では働きアリとして幼虫を育て、手がかからない蛹になると今度は女王アリに変わって卵を産む周期を繰り返す。アリの中では変わり者だ。このサイクルから、幼虫は子育てに専念させるため、働きアリが女王アリに変わるのを抑えていることになる。そこで、幼虫から働きアリを離して生殖能力が現れる時に、ILP2の発現が高まるかどうか調べると、期待通り幼虫から離すとILP2の発現が高まり、逆に女王アリの段階で幼虫を加えると、ILP2の発現が低下することが確認された。さらに、ILP2ペプチドは脳の中央にある一握りの細胞だけで生産され、食欲中枢を刺激することも明らかにしている。ILP2が生殖能力を決めていることをさらに確認する目的で、働きアリの段階でILP2ペプチドを注射すると、期待通り卵巣が活性化され、卵形成が始まる。そして、シナリオ通り、このペプチドにより食物摂取量が上昇することが卵巣の活性化を誘導していることを確認している。
ILP2分子のみで生殖能力が決められることを、変わり種のOoceraea biroiを使って証明したことがこの研究のハイライトで、他のアリも含めたゲノムレベルの進化研究は全く手がついていない。しかし、示されたシナリオは説得力があり、この遺伝子をコードするゲノム領域を詳しく調べていくことで、エキサイティングなシナリオが生まれて来る予感がする。一つ物知りになったことが実感できる面白い研究だった。