8月27日 側副血管内皮の起原(8月20日 Science 掲載論文)
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8月27日 側副血管内皮の起原(8月20日 Science 掲載論文)

2026年8月27日
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血管が閉塞すると、局所的に低酸素状態になり、細胞は死んでしまう。これを補うため、低酸素に反応する様々な血管増殖因子が誘導され、局所に新しい血管が発生する。特に太い血管枝から発生する新しい血管を側副血管と呼んでいる。既存の動脈枝から生えてくるので、動脈が伸びたものだと考えてしまう。事実、腹側血管の内皮がどこから来たか、遺伝マーカーを使う研究が行われており、動脈内皮が伸びてきたものとされてきた。

今日紹介する上海中国科学技術院大学からお論文は、これまでの通説の元となった実験システムを再検討し直し、心筋梗塞後の側副血管内皮のほとんどは毛細血管から由来することを示した研究で、8月20日 Science に掲載された。タイトルは「Tracing the origins of de novo coronary collateral formation in cardiac repair(心臓修復時に冠状動脈に新たに生まれる側副血管の起原を追跡する)」だ。

血管内皮細胞の起原を追跡するためには、発生後それぞれの場所の内皮を標識する必要がある。動脈起原と結論した実験では、Cx40 と呼ばれる分子をマーカーとして、成長後タモキシフェンを注射すると Cx40 を発現していた動脈内皮だけが標識されるという戦略をとっていた。この研究でも、まずこの方法を再検討し、Cx40 発現が決して動脈内皮特異的でないことを発見する。即ち、腹側血管内皮が動脈からだけ由来しているという結論は間違っている可能性が浮上した。

そこで、Cx40 と毛細血管特異的なアペリン (apln) 遺伝子両方を発現する内皮をラベル、Cx40 だけでラベルした内皮と心筋梗塞部位への寄与を調べると、動脈内皮由来の細胞よりはるかに多くの毛細血管由来内皮が側副血管に寄与していることを明らかにした。

この後は、これでもか、これでもかと、様々な遺伝子改変マウスを作成し、動脈内皮と毛細管内皮を別々にラベルして、同じ実験を繰り返している。結論的には、梗塞が起こった段階で動脈に存在していた内皮はほとんど側副血管には寄与しないことを証明している。

これほどのダメ押し実験が必要な理由は、血管内皮自体、場所に応じて遺伝子発現が変わるからで、動脈内皮も動脈から離れた途端異なる内皮に変化するし、逆に毛細血管内皮も動脈の来ると、動脈内皮として振る舞う。このおかげで、バイパス手術で静脈を移植した場合でも、時間がたつと動脈のように変化出来る。従って、遺伝子標識を誘導するために用いるタモキシフェンが体内に残っておれば、毛細血管内皮が腹側血管に到達した後で、動脈内皮として標識されてしまう可能性がある。

このような分化の揺らぎを明確に定義するための実験の圧巻は、平滑筋と相互作用する内皮だけを、人工 Notch シグナルを使ってラベルする方法の開発で、これにより確実に毛細血管でない内皮をラベルすることができる。さらに、毛細血管から由来した内皮が平滑筋の存在する腹側血管に入って、合成 Notch で刺激され、動脈の内皮へと転換することも明らかにしている。ここまでマニアックな血管内標識実験は今まで見たことがない。

これらの実験は再生力の強い新生児マウスで行われているが、大人のマウスの心筋梗塞でも同じ結果が得られることを確認し、あとは腹側血管内皮の形成に必要なシグナルを検討している。結論は、局所の血管増殖因子、特に VEGF-A によって誘導される YY1 転写因子が Notch シグナル経路など、血管形成に重要な遺伝子をエピジェネティックに変化させ、最終的に側副血管に統合されることが示されている。

残年ながらこの結果からだけでは内皮がリードして側副血管が形成されるとまでは結論できないが、今後持続的イメージングなどの研究が行われるだろう。そのとき、今回使われた遺伝子改変マウスが大きく貢献することは言うまでもないだろう。

カテゴリ:論文ウォッチ

8月26日 うつ病の海馬細胞を可能な全ての方法で調べ尽くす(8月21日 Nature Medicine 掲載論文)

2026年8月26日
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セロトニン吸収阻害剤はもとより、ケタミンや幻覚剤がうつ病症状を改善することから考えると、うつ病は神経回路の病気と考えるが、もっと深いところでは神経幹細胞からの分化細胞の供給が傷害された結果という研究結果も多く出されている。この考えに基づき、うつ病患者さんに神経幹細胞の増殖をサポートする薬剤の治験が行われており、このブログでも紹介した(https://aasj.jp/news/watch/4537)。 

今日紹介するコロンビア大学からの論文は、平均47歳前後の健常人、あるいはうつ病患者さんの死亡後の脳の提供を受け、海馬の歯状回とアンモン角の細胞について、現在可能なほぼあらゆる単一細胞テクノロジーを用いて解析し、うつ病が幹細胞からのリクルートメントの異常であることを示した研究で、8月21日 Nature Medicine にオンライン掲載された。タイトルは「Dysregulated adult hippocampal neurogenesis in major depressive disorders(大うつ病性障害で見られる成人海馬の神経細胞新生異常)」だ。

組織バンクから死後24時間以内の50人を超える大うつ病性障害 (MDD) の脳サンプルを得られるというのが驚きだが、この脳のpHを調べ、変性が進んでいないことを確かめた上で、

  • 細胞核を取り出し手調べる single nuclei RNAseq、
  • 同じサンプルでの Atac-seq, 組織、
  • スライドグラス上の組織からRNAライブラリーを作成する Visium、
  • RNA scope による高感度 in situ RNA、
  • 同じ目的の Xenium,
  • 細胞レベルではないが、選んだ組織領域の質量分析によるタンパク質解析、

とあらゆる解析方法を駆使して、MDD の脳を正常と比較している。

まず、正常脳で神経幹細胞から分化細胞へのリクルートが成人でも見られることを single cell 解析から明らかにしている。この研究では総数50万という大量の細胞が解析されており、遺伝子発現が重なり合いながら変化するのを利用する分化の道筋の解析 Pseudotime が信頼性高く行える。この結果、成人の海馬で、神経幹細胞から、様々な中間段階を経て顆粒細胞までの分化が確認され、さらに未熟細胞段階では増殖マーカーも発現していることを示している。そして、それぞれの段階を誘導維持する特異的な転写因子を特定、このように、成人の脳でもコンスタントに神経幹細胞からのリクルートが存在する。

この研究では Visium 等の空間トランスクリプトミックスを使うことで、これらの細胞分化が起こる場所も特定しており、歯状回の幹細胞から顆粒層へと分化した細胞が移動していることも確認している。

このように正常個体での神経細胞の新陳代謝を明確にした上で、うつ病の脳を調べると、歯状回で神経幹細胞数が上昇する一方、分化した neuroblast 細胞の数が変化することから、MDDでは未熟細胞からの分化が阻害されていることが示唆された。

後は、この結果として起こる様々な遺伝子発現について検討しており、うつ病では神経細胞のリクルート異常とともに、その結果としてセロトニンシグナル経路をはじめとする神経伝達システムの発現異常がおこり、さらに自然炎症の誘導が二本の柱となって、ストレス依存的に神経幹細胞のエピジェネティックの変化を持続的に誘導するというサイクルが進んでいることを示唆している。

実際には、様々な転写因子について詳しい解析が MDD で行われているが全て割愛した。おそらくストレス反応と脳の炎症が最初に来るような気がするが、その結果エピジェネティックな変化が幹細胞レベルで起こり、分化細胞の供給とともに、転写因子の発現異常などが重なるのがうつ病ということになる。

今後は、神経回路から考えるうつ病と、細胞レベルで考えるうつ病をうまく統合することが重要だと思うが、その先に本当のうつ病の根治法開発がある気がする。しかし、ここまで多くのテクノロジーを動員できる研究グループがうらやましい。

カテゴリ:論文ウォッチ

8月25日 頭蓋骨髄内のリンパ組織(8月19日 Nature オンライン掲載論文)

2026年8月25日
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頭蓋骨骨髄から脳へつながる血管についての論文が発表されたのが2018年(https://aasj.jp/news/watch/8894) だが、8年たった今年には頭蓋に直接ナノ粒子に詰めた薬剤を注射して脳に運ばせるという驚くべき研究まで進んでいる(https://aasj.jp/news/watch/28166)。 即ち、頭蓋骨髄と脳との関係には我々のまだまだ知らない秘密があることを示唆している。

今日紹介するワシントン大学からの論文は、頭蓋骨髄の中には脳由来抗原をサーベーランススルリンパ組織まで存在することを示した研究で、8月19日 Nature にオンライン掲載された。タイトルは「Functional role of skull lymphoid structures in CNS immunosurveillance(頭蓋リンパ組織の脳の免疫監視機能)」だ。

何か特別な現象がきっかけになったというより、脳との直接血管ルートがあり、頭蓋骨髄で作られた血液細胞が直接脳に到達しているとしたら、頭蓋内に抗原反応を調節するリンパ組織が形成しているはずだという、まあ当然の成り行きとして研究が始まっている。最初から、リンパ組織に存在するようなリンパ球が頭蓋組織にないか単一細胞レベルの探索を行い、その結果 Tfh と呼ばれる、リンパ濾胞に存在するT細胞の存在を発見している。他の骨髄組織を調べると、Tfh の下図は半分以下で、組織学的にもクラスターを形成しており、リンパ組織が形成されているように見える。

一方、B細胞も、いくつかの活性化マーカーを発現した集団が頭蓋骨髄だけで見られ、IgG を分泌するプラズマブラスト細胞も存在している。さらに、Tfh や B細胞は同じクラスターに集まっており、T と B細胞が直接接して存在する像も、頭蓋骨髄のみで見られることから、他の骨髄とは異なり、頭蓋骨髄ではリンパ組織が形成されていると言って良い。

最後にこのリンパ組織が機能的かどうかを調べるため、卵白アルブミン (OVA) をモデル抗原として脳に発現させ、これに対する反応が頭蓋で起こっているかを調べ、抗原が頭蓋へ移行していること、OVA反応性細胞の T、B細胞が誘導されていることを明らかにしている。

今度は同じようにOVAを発現するグリオーマ細胞を脳に移植し、これに対する抗腫瘍免疫反応を調べている。まず、CD40抗体を頭蓋内に注射して、局所的に抗体反応を抑えると、ガンの増殖が促進する。即ち、グリオーマについてはガン特異的抗体反応も重要な働きをしており、これはもっぱら頭蓋で合成される。逆に、CD40を刺激する抗体とともに IL21とインターフェロンγを投与することで、グリオーマの増殖を一定程度抑えることができる。また、この処理でNK細胞が増え、D8やCD4T細胞も強くはないが上昇する。しかも、CD8細胞のキラー分子の発現は大きく増強される。このような抗ガン作用は、全身に同じ処理をしても得られない。ただ全身のリンパ組織がなくても、頭蓋だけで反応が維持できることも示しており、極めて局所の反応と言える。気になるのは、全身のリンパ組織のないマウスとして、lymphotoxinノックアウトマウスを使っており、これで頭蓋の反応が起こるのは、LTαとは全く異なるメカニズムでリンパ組織を頭蓋では形成できることになる。

以上が結果で、特に驚きはないが、脳と骨髄の関係の研究はますます拡大する気がする。

カテゴリ:論文ウォッチ

8月24日 心臓を守ってくれる細菌叢(8月19日 Cell オンライン掲載論文)

2026年8月24日
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血管内皮でアルギニンから NO を合成して血管を拡張させる eNOS については一般の方にも広く知られているのではないだろうか。特に有名なのは、ペニスの血管での NO の働きを強め勃起を維持するバイアグラについては多くの紹介記事があふれている。また、NO の産生は私たちの身体だけでなく、細菌叢でも起こっており、以前運動後に起こる血管拡張が口内細菌叢をマウスを種で殺してしまうだけで打ち消されるという驚くべき論文を読んだことがある。即ち運動後の血流上昇に口内細菌が寄与しているという話だ。しかし、NO が本当に吸収されて全身の血管を広げているのかかなり疑問に感じていた。

今日紹介するスウェーデン・カロリンスカ研究所からの論文は、細菌叢からの NO 効果は、実際には NO ではなく、バクテリアにより NO から合成された dinitrosyl iron complex (DNICs) である事を示した、個人的には納得の研究で、8月19日 Cell にオンライン掲載された。タイトルは「Gut microbiota generate dinitrosyl iron complexes with cardiometabolic benefits(腸内細菌叢は dinitrosyl iron complexes を合成して心臓や代謝に良い影響を与える)」だ。

研究は最初から、消化管で NO はバクテリアにより DMIC へと変換され、これがNOの受容体システム」 sGC-cGMP を活性化させると仮説を立て、この可能性を検証している。まず、普通に飼育されたマウスと、無菌マウスの血液を分析すると、DNIC が細菌叢があるときだけ検出される。また、マウスに硝酸塩と鉄を摂取させると、DNIC が上昇するが、細菌叢がないと全く変化がないことから、組織で作られた NO や食物由来の硝酸塩はバクテリアの硝酸還元酵素を持ったバクテリアによって NDIC に変換され、これが血中に移行する事がわかった。

重要なのは、NOS 機能を阻害してホストの NO 産生を止めると、DNIC の量が大きく減ることから、バクテリアが合成する DNIC のほとんどはホストの NO 由来という点だ。最初述べたマウスウォッシュの話に戻ると、結局口内細菌は運動で合成が上がった NO を DNIC に変えていたのかもしれない。

次は、DNIC が NO と同じ sGC-cGMP 経路を介して作用することを確認した後、NO と比べて血中で安定で、NO の代わりに安定的に全身に回って血管拡張などの効果を発揮する、重要な分子であることを示している。

その上で、高脂肪食を摂取させたマウスに、硝酸化合物と鉄を同時に摂取させると、血圧の上昇が抑えられ、心臓の機能を正常化できることを示している。もちろん DNIC 事態を投与しても同じ効果がある。また、DNIC は代謝にも効果があり、高脂肪食による脂肪蓄積を抑え、空腹時血糖の上昇を抑える。その結果、脂肪肝の発生を抑える。

脂肪肝の発生を抑えることは単純に血管への効果だけでなく、DNIC は同じ sGC-cGMP 経路を介してロイシンの細胞内取りこみ抑えることで、mTOR のリン酸化を抑制することで、脂肪肝の発生を抑えていることを示している。

結果は以上で、バクテリアが不安定な NO を安定な DNIC に変えて循環や代謝を正常に保っているという話で、個人的にはマウスウォッシュ論文で感じていた疑問が解けたおもしろい研究だった。

カテゴリ:論文ウォッチ

全記事が5000回になったことを記念して、長年の読者の一人、上田俊吾さんが13年を振り返った素晴らしい寄稿を寄せてくれたので、5001回目の記事として掲載します。

2026年8月23日
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以下に掲載する記事を寄稿してくれた上田俊吾さんは、私がサンスターの研究所のアドバイサーをしていたとき、若い研究者との様々なミーティングをアレンジしてくれた研究員で、個人的な付き合いも長い。そんな上田さんから、私の病気の回復祝いとして、以下に掲載する私が書いた論文ウォッチの13年を振り返ったまとめ記事を送って貰った。私が書くより素晴らしいまとめなので、全記事5001回目として掲載することにした。 論文ウォッチ5000回は順調にいけば来年の5月31日日曜日で、誕生日の三日前になるので、そのときはZoomで他の方にも集まって貰って、13年の生命科学を振り返りたいと思っている。  では上田さんの25ページにわたる力作を是非お読みください。

西川伸一先生が記録している「生命科学の 13 年とその思考の系譜」

AASJ 論文ウォッチ(2013 年 8 月〜2026 年 8 月 18 日:継続中)から

上田 俊吾

はじめに

西川伸一先生は、2013 年 8 月から最新の生命科学の論文を読み、その解説を書き続けておら れる。ほぼ一日も欠かさず、2026 年 8 月 18 日までにおよそ 4,940 回(※2)。本書は、その全体を俯瞰、レビューし、二つの流れに整理してみたものである。

第 1 章は、先生が紹介された論文の側から見た「生命科学の推移」である。ゲノムを読むこ とから始まり、書き換え、患者に届け、細かく測り、そして設計するところまで来た 13 年を 追う。

第 2 章は、先生ご自身が繰り返し書かれてきた「考えの推移」である。論文の読み方から始 まった問いが、科学者の世界、制度、市民との関係、そして思想へと広がっていく道筋を追 う。二つは別々の流れではない。先生の稿では、ある論文の評価と、科学とは何かという問いが、 いつも同じ文章のなかに置かれている。二章に分けたのは読みやすさのためであり、実際に は一本の線である。これは現時点での整理であり、先生の連載は今日も続いている。

2 第1章

読むことから、設計することへ― 生命科学は何ができるようになったか

なぜ「できるようになったこと」で並べるのか

13 年分の論文解説を整理するには、いくつもやり方がある。分野別に分ける、雑誌別に分け る、話題になった発見を並べる。しかし西川先生の稿を通して読むと、先生ご自身が論文を 評価するときの基準が、そのどれとも違うことに気づく。

典型が 2013 年 12 月 31 日である。CRISPR を使った実験の論文を紹介して、先生はこう書い た。

「CRISPR といい iPS といい、世紀が変わって、新しいハブが急速に発展している実感を 持っている」

ハブとは、多くの分野をつなぐ結び目のことである。先生はこの技術を「面白い新発見」と してではなく、周りの分野に何をもたらすかで測っている。同じ姿勢は 13 年間ほとんど変わ らない。だから稿を並べ直すときも、「何がわかったか」(発見の名前)より「何ができる ようになったか」で並べるほうが、先生の見方に沿うと考えた。

そう並べてみると、13 年はきれいな順序になる。読む → 書く → 届ける → 測る → 設計する。 以下、この順で追う。(図 1)

図1

4 読む ― カタログが治療につながった瞬間

2013 年、ゲノムのうちタンパク質を作る領域をすべて調べる「全エクソーム検査」が一般の 検査になったという報告が紹介される。がんの遺伝子の傷を癌腫ごとに書き出す作業が、 次々と埋まっていった時期である。

だが先生が重く見たのは、目録そのものではなかった。2013 年 11 月 8 日、メラノーマの BRAF 遺伝子について、2002 年に変異が見つかり、2012 年に薬が実用化し、2013 年に薬が効 かなくなる仕組みが解明された、という 10 年の流れを示したうえで、患者が注目すべきは 個々の成果ではなく「研究のスピードだ」と書く。そしてすぐに条件をつける。

「ガンも進化するから、そう簡単に負けていないだろう」

がんを、進化していく集団として見る視点である。薬が効かなくなるのは失敗ではなく必然 だ、という認識がこの時点で示され、以後 13 年ぶれない。

この見立てが確かめられるのは、13 年後である。2026 年 8 月 13 日、先生は膵臓がんの新し い抗 RAS 薬について、その耐性がどう生まれるかを追った論文を取り上げた。血液中を流れ るがん由来の DNA を継続して調べると、耐性が生じた例の 62 パーセントで、変異した RAS 遺伝子そのものが増えていた。しかも投与量が多い患者ほど、その頻度が高い。——2013 年 に書かれた一行が、13 年後、別のがん遺伝子で確かめられた形である。しかもそれを実時間 で捉えたのは、この 13 年のあいだに育った「血液からがんを読む」技術だった。この論文に は、第 2 章の終わり近くでもう一度戻る。

2015 年 1 月 30 日、この時代の本質が一行で言い当てられる。肺がんで、ある薬の組み合わ せが BRG1 か EGFR に変異のある患者にだけ効く、という報告に対して——

「ゲノムを調べずこの治療を受けてしまうと、ガンがより増殖してしまう」

ゲノム検査は「効く人を選ぶ」ためだけでなく、「害を受ける人を外す」ために必要になっ た。読むことが治療の前提条件になった瞬間である。

5,届ける ― 2017 年、治療が患者の手元に来た

2017 年は、先生の記録のなかで明確な区切りとして現れる。CAR-T 細胞療法(患者の免疫

細胞を作り変えてがんを攻撃させる治療)が米国で承認され、脊髄性筋萎縮症で 2 歳まで生 きるのが精一杯だった乳児が歩き、走った。遺伝子を入れた培養皮膚で、遺伝性の皮膚病の 少年の皮膚が再生した。そして、がんの発生した臓器を問わず、遺伝子の特徴だけで薬を承 認するという史上初の判断が下される。

2019 年 11 月 6 日、嚢胞性線維症に 3 種類の薬を組み合わせた治験を紹介した回の筆致は、 13 年で最も明るい。

「全ての患者さんが、全てのテストで、しかも 2 週間目から劇的に回復し、24 週まで回復状 態を維持」 「医学は着実に発展しているという実感を持つ」しかもこれは遺伝子を入れ替えず、壊れたタンパク質を小さな薬で働かせた成果だった。先 生はその点を見逃していない。

一方、2017 年から稿のなかにまったく新しい主題が入る。値段である。11 月 17 日、1996 年 から 2012 年に承認された注射用の抗がん剤の価格を追った調査を紹介し、批判が集中した 1 剤を除いてすべてが値上がりし続けていたと述べたうえで——

「末期で選択肢のなくなった患者さんに対して効果がある場合は、強気で売れると解釈する しかない」

翌 2018 年には日本の制度を名指しする。脊髄性筋萎縮症の薬スピンラザ、1 バイアル 932 万 円、年間 2,796 万円。「新薬創出等加算の優遇」が「異常な高薬価」を生んでいる、と。治 療が届いた年から、届け方の問題が始まった。

6, 測る ― どこまで細かく、どこまで大きく

読めるようになったゲノムを、次はどれだけ細かく、どれだけ大きな規模で測れるか。2018 年前後、その両端が同時に桁を変えた。測り方そのものが変わったのである。

2018 年、Science 誌が選ぶ年間の最重要成果の第 1 位は、細胞ひとつずつの遺伝子発現を読 む技術だった。先生はこの転換を、8 月 15 日の回の題そのもので言い表している——「変わ る蛍光抗体染色:見るから読むへ」。顕微鏡で見る時代から、配列を読む時代へ。組織を測 る原理そのものが変わったのである。

翌 2019 年には位置の情報も加わる。6 月 24 日には「顕微鏡を一切使わず、細胞の構造を DNA の配列データだけで画像化する」研究が紹介される。「読んで、見る」段階への到達で ある。

同じころ、規模の側でも桁が変わった。英国バイオバンクが 50 万人規模で成果を出す時期に 入り、すでに 1,000 編を超える論文の土台になっていた。先生がこの論文を「バイオバンク 作りの手引き」と評価した理由は、その考え方にある。

「完全を求めると失敗する」——全ゲノムの解読は最初から狙わず、まず試料とデータを集 め、後の技術の進歩に対応できる余地を残す 「一旦始めたら、それを発展させるために、より大きなコストを払う覚悟がいる」

そして 2022 年 6 月 27 日、Perturb-seq。約 5,000 の遺伝子を細胞ひとつにつき 1 つずつ壊し、 その影響を、特定の目印ではなく遺伝子発現の全体で読む手法である。

「バイアスなしにここまでわかると今後の細胞研究は加速する」

7 境界が溶ける ― 2019 年の「再統合」

2019 年 4 月、先生は自ら「生命科学は量的に進展するだけでなく、革命的変化を遂げてい る」と書き、その中心を「人間の科学を中心に置く生命科学の再統合」と表現した。この前 後、分野の壁が次々に崩れていく。

2015 年 6 月 4 日、「脳にはリンパ管がない」という 100 年来の常識が覆る。先生は「常識が 覆った例として長く語り継がれるだろう」と評したうえで、リンパ管を見分ける目印はすべ て揃っていたのに「全く疑われず現在に至る」ことに驚き、自分を「一番常識的な人間」と 書いている。

2016 年 12 月、腸内細菌がパーキンソン病を進める。2019 年 6 月には、腸内細菌がパーキン ソン病の薬 L-ドーパを分解してしまうことが示される。腸内細菌が薬の効き目そのものを左 右する段階への到達である。

2019 年 9 月には、脳腫瘍が神経の活動を利用して増え、脳に転移した乳がんが神経細胞とつ ながりを作ることが報告される。がんが神経を「配線として使う」——それまでの、血管・ 免疫・周囲の組織という枠になかった視点だった。この線は 2025 年、2026 年まで続く。

神経の病気も性格を変えた。2016 年に補体(免疫の一部)、2017 年にミクログリア(脳の 免疫細胞)が主役になり、2026 年にはクローン性造血——血液の細胞に起こる変異が、アル ツハイマー病の発症や脳の免疫細胞の入れ替わりに関わることが示される。「神経の病気」 が「免疫と代謝の病気」として読み直された 13 年だった。

そして 2022 年 1 月、長く原因不明だった多発性硬化症について、EB ウイルスが引き金であ ることが示される。

8 老化が「病気」になった 10 年

2016 年、老化した細胞を取り除くと寿命が延びるという報告に、先生は「素朴な発想の勝 利」と書き、こう付け加えた。

「生物だけでなく、私たちの社会でもこの問題を真剣に考える時がきている」

2018 年 9 月には、老化の仕組みが 4 つ(慢性の炎症、細胞内のストレス、幹細胞の機能低下、 細胞の老化)に整理され、「老化を防ぐ」から「老化してから治す」へ主張が移ったことを 「本当は大きな転換点」と評価する。2021 年には抗老化のサプリメントが実際の臨床試験に 入り、2020 年 12 月には山中因子のうち 3 つで視神経が若返るという報告が出た。2022 年に は「若い個体の脳脊髄液が老いた個体の認知機能を活発にする」——2014 年に紹介した「体 液説」が、8 年を経て戻ってきた。

9 過去を読む技術が、歴史学になった

古代ゲノムは 13 年を通じて高い比重で扱われ続けた、数少ないテーマである。2014 年に先 生が書いた一節が、その理由を語っている。

「研究は恐ろしい速度で進展している。ゲノム情報と数理を駆使して新しい歴史が書かれて いるとおもうとわくわくする」

読める分子が段階的に増えていった。DNA(2013 年〜)、次に古いタンパク質(2015 年、 コラーゲンの配列で絶滅した動物の系統を決める)。2019 年には、DNA が取れない骨から コラーゲンだけでデニソワ人を見分け、さらに DNA のメチル化のパターンから骨格を推定 する研究が出る。2025 年には凍ったマンモスから古い RNA が取り出され、2026 年、ハルビ ンで出土した完全な頭蓋が骨のタンパク質に残る 122 か所のアミノ酸の違いから 15 万年前の デニソワ人と確定した。ついに顔が見えたのである。

9 2022 年 8 月 30 日、地中海の 1 万年・700 体の古代ゲノムが、古代ギリシャの歴史の記述と驚 くほど合致することを示した研究を、先生は「文理融合の手本」と評している。

パンデミック ― すべての技術が一度に試された 3 年

2020 年、コロナ関連はおよそ 70 本。それでも全体の 2 割弱にとどまる。感染症は生命科学 の一部であって全部ではない——稿の配分そのものがそう語っている。先生が組み立てた病気の理解は明快だった。8 月 17 日の講演で——

「ウィルスが肺の病気を作っているのではなく、いろんな炎症反応が病気をつくっている」

ウイルスは「たった 10 個の遺伝子でできた」単純なもので、複雑なのは人間の側だ、と。そ して重症の人ほど抗体は多く作られており、鍵は抗体の量ではなくキラー T 細胞の充実度に ある、と整理する。

RNA ワクチンについての評価も、効き目ではなかった。

「RNA ワクチンの優位性は効能より、生産の迅速性にある」

配列が公開された 1 月から臨床試験開始の 3 月まで、わずか 3 か月。設計から試験まで走り 切る力こそが本質だ、という読みである。

同じ 2020 年 11 月 28 日、ヒトの受精卵では Cas9 による切断が染色体の大きな欠損を高い割 合で招くことが示され、先生は「Cas9 でそのまま切断するという戦略は決して受精卵に適応 してはならない」と書いた。

コロナ関連は 70 本(2020 年)→50 本(2021 年)→20 本(2022 年)と減り、3 年で通常の 研究テーマに戻った。

10 設計する ― そして AI が生命科学の言葉になった

2023 年、生成 AI が実際の研究手段になる。AlphaFold の 2 億の構造を分類する Foldseek、変 異が病気を起こすかを予測する AlphaMissense、細胞ひとつずつのデータから遺伝子のつな がりを学ぶ Geneformer。先生は Geneformer について「後期高齢者の心臓が止まるほどの変 化が起きている」と書いた。

2024 年、ノーベル賞は物理学賞がニューラルネットワークに、化学賞がタンパク質の構造予 測と設計に与えられる。2025 年、David Baker 研究室の蛇毒中和ペプチド——AI で構造を作 り、配列を出し、結合の強さを 842nM から 0.9nM へ高め、マウスでは毒を打った 30 分後の 投与でもほぼ 100 パーセント生き残った。先生が最後に書いたのは性能ではない。

大腸菌で安く作れる。「開発途上国で使われることを考えると、誰もが中和剤を携帯するこ とができる時代が来ることを示している」

2026 年 2 月、AlphaGenome が 100 万塩基のゲノムを 1 塩基の細かさで読む。先生は「大き な興奮に襲われた」と書き、進化そのものを学ぶ Evo と組み合わされれば「生物学が神の領 域に近づく」と述べた。そして同年 8 月 8 日、AI が作った配列から、実際に大腸菌に感染す るファージが 16 種類生まれる。

13 年で、できることは読む → 書く → 届ける → 測る → 設計すると変わった。だが先生の記 録では、どの段階でも次に立てられる問いは同じだった。それは本当に、仕組みを説明して いるのか。

11 第2章

科学は、社会に何ができるか― 西川先生の思考の系譜

最初に置かれた定義

約 4,940 稿のなかで、西川先生が繰り返し書いたのは論文の中身ではなく、科学とはどうい う営みかだった。その定義は、連載開始からわずか 2 か月半で示されている。

2013 年 11 月 5 日、参加者 500 人以上の大規模な臨床試験の約 30 パーセントが論文にならず、 登録機関にすら結果を報告していないものが 8 割近くに達するという報告。ここでの語気は、 13 年を通じて最も厳しいものの一つである。

「無作為化した大規模臨床治験は、自分に偽薬が来るかもしれない事をわかった上で、参 加」する 「うまく行かなかった治験も結果は結果だ」 「人間が参加したトライアルは公共のデータであり、全て査読に回して論文にすることが重 要」 「治験を行う限り社会の責任が優先すると覚悟すべき」

同じ年の 12 月 10 日、査読制度を扱った回でも同じ考えが繰り返される。科学とは、ほかの 人と合意を作っていく公共的な手続きである。論文は個人の業績ではなく合意のための公共 の財産であり、だから発表しないのは倫理違反であり、査読は透明でなければならない。以 後 13 年、この定義がすべての判断の出発点になる。

12 手続きが壊れたとき ― 2014 年

2014 年、日本の生命科学は大きく揺れた。その渦中で先生は、長く関わってきた研究機関の 公職を辞している。理由は明快だった。その立場にいる限り組織の側に立って発言する必要 がある。だから「自由に発言する意味でも」辞めることにした、と書いている。前年に掲げ た「科学は公共的な手続きである」という原則を、まず自分の身分に当てはめた形だった。

そしてその夏、先生は個々の論文ではなく、研究者の世界そのものについて書く。

科学者の世界が「科学者間の連帯が欠如し、むき出しの競争だけがある格差社会へと変貌し ていた」 「笹井さんも、そして私自身もこの様な格差社会成立に手を貸した一人だろう」 「ついにこの格差社会が牙を剥いた」 「連帯感がある時人は死なない」

大切なのは、自分を例外にしていない点である。誰かを責めるのではなく、その競争の仕組 みを作った側の一人として自分を数えた。そのうえで若い研究者に向けて、「競争はしても 連帯感が損なわれない新しい研究者コミュニティーを目指して欲しい」と託している。

この視点は、同じ年に研究不正を扱った回にもそのまま現れる。中国で 2011 年だけで捏造 1,170 件・汚職 530 件が報じられた事実を紹介し、原因を「行政の評価が論文数とインパク トのみに集中している」ことに求め、こう結んだ。

「対岸の話ではない」

不正を個人の資質の問題としてではなく、評価の仕組みが生む結果として診断する。この構 えは、翌 2015 年の「構造問題として分析できない社会は『子供の国』」へまっすぐつながっ ていく。

13 やり方が定まる ― 2015 年

2015 年 4 月 11 日、米国 FDA が問題を指摘した治験 421 例の調査。そこから出た 78 報の論 文のうち、指摘に触れたのはわずか 3 報。この事実より先生が重く見たのは、分析のしかた だった。

日本流の分析は「倫理の徹底と透明性」といった抽象的な提言で終わり、実現できる具体策 が生まれない 「構造問題として分析できない社会は『子供の国』」

以後、先生の批判の後には必ず提案が置かれる。2020 年、専門家会議を「科学者の職務放 棄」と批判した 2 日後に代替案の連載を始めたのが、その典型である。

同じ年 10 月 17 日、専門家の意見の使い方を論じた回では「この意見には 100%賛成」と明 言し、日本の現状を突いた。

政治家・官僚が「前もって落とし所を定め、それを裏付けるために専門家の意見を聴いてい る場合が多い」

順序が逆だ、と。そして「信頼できる科学政策のシンクタンク」という具体策を出す。

もう 1 つ、この年に現れた大事な姿勢がある。8 月 13 日、プレシジョンメディシンが公衆衛 生の予算を削るという批判的な意見をまとめて紹介したうえで、先生は自らを「推進派」と 規定し、「様々な人と対話を進めたい」と書いた。推進する側だからこそ、反対意見を自分 の手で紹介するのである。

14 市民との断絶 ― 2016 年

2016 年 6 月 26 日、論文ウォッチ 1,000 回。3 年間の自己評価(「一つの論文を、様々な分野 の状況との関わりで理解できる様になってきた」)を記した直後、先生は直前に起きた Brexit を論じる。

知識人の劣化、年寄りによる若者支配 「SNS の普及により、本来の知識を磨くことが放置され、世俗に同化してしまった」ことが 分断を招いた 「書を求めて書斎にこもろう」

寺山修司の言葉をひっくり返したこの一句は、知識人が世の中に迎合したことこそが問題だ という診断である。同じ年、トランプ当選を 3 度にわたって取り上げ、最大の心配を「科学 界との断絶」に置き、科学者の側の課題として「一般人との溝を埋める新しいアイデアが必 要」と結んだ。

「書斎にこもれ」と「溝を埋めよ」は矛盾しない。世の中に合わせるのではなく、知識を磨 いたうえで市民に向き合え、という主張である。

そして 12 月 14 日、誤った健康報道の構造を扱った回で、先生は自分を例外にしない。

「私自身もテストステロンは高リスクと誤認していた」

何が科学を強くするのか ― 2017〜2018 年

2017 年 9 月、先生は 1 週間のうちに 2 度、ドイツを論じる。投資額は日本より少ないのに論 文の引用は米国と並び、特許の取得数は半分未満(あえてそう選んでいる)、世界大学ラン キングの上位 200 に 22 校。

15 「ドイツの研究者になぜドイツの学術が花開いているのかと質問すると、誰もがメルケル首 相のおかげだと答える」

2012 年にベルリンでメルケル首相が「研究者の生の声を聞きに来ている」姿を見た経験を挙 げ、日本を批判する。

「生の声とデータに基づかず、ウケを狙う思いつきを政策にしてしまう」

1 週間後、ペーボの著書を扱った回では意外な角度に踏み込む。ペーボが自分の私生活を率 直に書いても辞任を迫る者がいない社会——その寛容さと科学の水準の高さは「無関係だと は思わない」。制度だけでなく、研究者を人としてどう扱うかが科学の強さを決める、とい う主張である。

同じ年 4 月、米国 NIH の助成研究の大規模な分析から「基礎研究も応用研究も、技術開発へ の貢献の度合いにほとんど差がない」ことを紹介し、こう結んだ。

「個人の興味の満足に研究費が出せない世の中では、若い研究者は育たない」

2018 年、主題はデータに移る。AI と医療の 4 回連載の結論は「結局 AI として機能させるた めには、学習させるデータが勝負になる」。その 2 か月後、この年で最も鋭い警告が出る。 民間の遺伝子検査サービスのデータから犯人を特定できる技術について——

最大の心配は「権力によるデータ改ざん」である 日本の「森友・加計問題に見られる政府のデータ改ざん体質」を考えれば 「当分は警察に使わせるわけにはいかない」

同じ年、アスペルガーについての通説が資料の発掘で覆った件では、「自分ならどうするか と考えると、到底非難できる立場にない」と自らを省みたうえで、オーストリアが安楽死さ せた子ども一人ひとりの記録を残していたことに感心し、「記録保管の重要性」と「人間の 証言がいかに虚偽に満ちているか」を教訓として引き出している。

16 反科学への答え ― 2019〜2021 年

2019 年 1 月、遺伝子組み換え食品への反対をめぐる研究。強く反対する人ほど自分の知識に 自信があるが、客観テストの点数は低い。先生の反応は勝ち誇ることではなかった。

「科学者にとって反対派をバカにして喜べるという話ではない」 反対派は「リテラシーを高める教育には見向きもしない」 「今まで通りの方法ではすれ違いを解消することは出来ない」

では何が要るのか。その答えが同じ年の 4 月に始まる。「生命科学の目で読む哲学書」連載 である。

「6 年前にあらゆる公職から身を引いた」。当初は批判を受けたが、今は「本当に良かっ た」 「あらゆる制限から解放され」、今は「人生のうちで論文を最も読んでいる時期」 生命科学の大きな変化の中心は「人間の科学を中心に置く生命科学の再統合」である

2016 年に「書斎にこもろう」と書いた先生が、3 年後に実際にこもった。そしてその成果を、 公開の連載として書き続けたのである。

2020 年 5 月 5 日、専門家会議の「新しい生活様式」を、先生は 13 年で最も強い言葉で批判 する。人類はゲノムの多様性でウイルスと戦ってきた、という生物学の認識から出発して ——

「統一的生活スタイル」の推奨は「習近平中国の政策と類似している」/「暗澹たる気持ち になった」 これは科学者の職務放棄である 科学者の仕事は「健康とともに文化の多様性を守るために科学ができることを提示するこ と」である

17 2021 年 7 月 20 日、先生は 2019 年の問いに答えを出す。ワクチン接種をためらう大学生の理 由が「これまで使われていないワクチンなので、もう少し様子を見たい」という理にかなっ た判断であり、その材料は前年の秋に専門家自身が発した一般論だった、と指摘したのであ る。

「専門情報に納得して今もワクチン接種をためらう層は、決して SNS のデマに踊らされてい る層ではない」 複雑で刻々変わる知識の「断片だけを専門家の意見として上から目線で提供することがいか に危険か」

すれ違いの原因は市民の無知ではなく、専門家の語り方にある。

思想を支える科学 ― 2022〜2024 年

2022 年 10 月、ペーボのノーベル賞。先生が問題にしたのは、受賞報道が「役に立たない基 礎研究」であることを強調しすぎている点だった。そこから 19 世紀以来の思想の歴史へ話が 及ぶ。

その時代「個人と権威、また多様な権威同士がもろに衝突した」にもかかわらず「多様化し 深まる不協和を克服する思想は生まれなかった」 ウクライナ侵攻も同じ根にある 「欠けていたものの一つが、思想的試みを支える科学ではないか」

そして古代ゲノムが示す、確かめられる事実——「現代ヨーロッパ人のゲノムは、今まさに 戦争が行われている地域の古代人との交雑から生まれた」。だから「結局皆兄弟である」。

翌 2023 年、ChatGPT を哲学書連載の番外編で扱い、「経験のみで人間と同じ知性や理性が 形成できることを実験的に示す壮大な実験」と読んだ。経験だけで知性が育つのか、という 古くからの問いに、実際に手を出せるようになった、と。

18 2024 年 10 月、Google の「ハーバーマスマシン」——多くの人の意見を集め、批判も取り込 んで合意案を作る言語モデル。先生は AI が「グループ全体の意見を反映したまとめ」を作る 力は人間より優れており、意見の違う人どうしの「分断意識はかなり解消される」と述べ、 「プラトンの哲人王ではなく、ルソーの一般意志を探してくれる」と表現した。

2013 年に「科学とは他者と合意を作る公共的な手続きである」と定義した先生が、11 年後 に、その手続きを実際に動かす技術を見たことになる。(図 2)

19 図2

20 動かなかった 5 つの基準

対象は年ごとに広がり続けたが、評価の物差しは 13 年間ほとんど動いていない。

第 1 に、仕組みが説明できるか。2013 年の「プロの仕事」(専門家をうならせる厳密さ)か ら、2016 年の「生化学のプロとアマ」、2017 年の「現象論から因果論へ」、2025 年の「現 象論から因果性へ」まで一直線である。そして 2026 年 8 月 5 日、100 万人規模のデータでが んを予測する AI に対し、こう書いた。

「予測競争だけに終始して、経時的データから何がわかるのかの検討が皆無」 「黒い箱の診断ツール開発だけに使うことは、少なくとも医学研究としてはやめた方がい い」

第 2 に、着眼点。2014 年「このアイデアが全てだ」、2015 年「着眼点の勝利」、2018 年 「iPS を冬眠させる:着想に脱帽」、2021 年「膝を打った」。

第 3 に、患者に届くか。2013 年、新しさの乏しい高橋淳氏の論文を「何か新しい事がわかっ た訳ではない」としながら「是非報道して欲しい論文だった」と評したのが最初である。

第 4 に、地道な仕事への敬意。「地道」「手のかかる実験」「頭が下がる」が 13 年間繰り返 される。

第 5 に、自分を例外にしない。2015 年「一番常識的な人間」、2016 年「私自身も誤認して いた」、2018 年「到底非難できる立場にない」、2019 年「あまり人の意見を聞く方ではな い」、2025 年「全く門外漢で、殆ど理解できていない」。

この 5 つに加えて、2017 年から現れた値段への視線も動いていない。第 1 章で触れた 2026 年 8 月 13 日の回——新しい抗 RAS 薬の耐性を扱い、「全く新しい ras バイオロジーが始ま る」と評価した、その同じ回の最後に、先生はこう書き添えている。

21 「現存の ras 阻害剤のように月 100 万円を超す値段をよりアフォーダブルな価格に抑え てほしいと期待する。そのためには、特許の期間をもっと延ばしてもいいような仕組み が必要な気がする」

2018 年にスピンラザの年間 2,796 万円を「異常な高薬価」と書いてから 8 年。新しい薬が出 れば、必ずその値段を書く。しかもここでは、「高い」と嘆くのでも、特許を短くして後発 薬を急がせよという通り一遍の話でもない。特許の期間を延ばしてでも、月々の負担を下げ られる仕組みを作れないかという提案である。値段を、制度の設計の問題として考えている。 2015 年の「構造問題として分析できない社会は『子供の国』」が、13 年目の最終週にもそ のまま生きている。

最初の問いに戻る ― 2026 年 6 月 3 日

2026 年 6 月 3 日、78 歳の誕生日に、先生は右の耳下腺にできた唾液腺がんとリンパ節への転 移を公表する。5 センチを優に超える腫瘤で、「最近の大きくなり方から、かなりアグレッ シブだと覚悟しています」と書く。

そして続けた。

「これまで皆さんに伝えてきたように、ゲノムも含めて徹底的に調べようと決めており」 「主治医と患者だけでなく、病理やゲノム検査が統合されることで得られるデータに基づい て自分のがんを知り、納得して戦える新しい医療に貢献できたらと思っています」

顔面神経を切って作り直すことも覚悟しており、麻痺は避けられないため Zoom や講演は当 分中止する。しかし論文ウォッチは続ける。

「論文ウォッチはもう少しで 5000 回に到達します。そこまでは二人三脚で頑張ろうと話し ています」

22 2013 年に「人間が参加したトライアルは公共のデータである」と書いた先生が、13 年後、 自分の身体を公共のデータとして差し出した。最初に立てた定義に、最後は自分自身が入っ た形である。

6 月 15 日の手術のあとも、8 月 18 日まで一日も途切れていない。

累計およそ 4,940 回(※2)。5,000 回まで、あと 60 回ほどである。

23 あとがき

西川伸一先生とは、2019 年ごろから 2026 年 3 月まで、サンスター株式会社の研究部門でご 一緒させていただき、奇しくも 2026 年 3 月をもって先生がサンスターの研究顧問を退任する と同時に、私もサンスターを退職させていただいた。 先生からは「本物のサイエンスの考え方」をサンスターの経営や研究戦略に導入するため、 様々なご提言や多くのご指導をいただいた。本当に、先生の科学的な考察の深さに、ただた だ勉強させていただくばかりだった。 今回、退職後の時間を使って、先生の論文ウォッチを 2013 年から改めて俯瞰してみた。実に 13 年分で、累計約 4,940 稿(※2)もあった。 読み進めるうちに、気づいたことがある。先生が書いておられるのは、科学や技術の成果に ついての解説だけではない。その成果が社会に対して何をなしうるのかという問いが、いつ も同じ文章のなかに置かれている。むしろそちらが本題であって、論文はそれを考えるため の素材なのではないか——そう思うようになった。 そこで、一つの仮説を立ててみた。先生のこの 13 年の仕事を、ばらばらの 4,940 稿としてで はなく、ひとつながりの流れとして俯瞰したら、どう見えるだろうか。本書はその試みであ る。 先生がお読みになれば、おそらくこう言われるだろう。「これは違うで。もっと違う視点で 考えてみたら」「現象だけを並べても仕方がない。因果を考えなさい」。——お叱りを受け る覚悟で、ぜひご意見を伺いたいと思っている。 最後に。常々、先生は、5,000 回までは毎日やりきるとおっしゃっていた。5,000 回まであと わずかである。目標に届いたその日からは、どうか毎日でなくて構わないので、これからも 書き続けていただければと願っている。 2026 年 8 月 18 日 上田俊吾

24 注記 ― 出典と数え方について

(※1) 本書の引用はすべて、AASJ ホームページ(aasj.jp)に公開された「論文ウォッチ」および関 連する稿の本文によります。日付は掲載日です。

(※2) 累計回数は、西川先生ご自身の記述を基準としました。2025 年 6 月 3 日の稿に「論文ウォッ チもなんと 4500 回を超えました」とあり、そこから 2026 年 8 月 18 日までの 441 日をほぼ毎日更新と して加えた推計です。

カテゴリ:活動記録

8月23日 神経活動と血流調節の再検討(8月20日 Science 掲載論文)

2026年8月23日
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非侵襲的に脳活動を調べる方法の一つに機能的MRI (fMRI) があるが、これは我が国の小川誠二先生が米国ベル研究所で開発された方法で、酸素結合によるヘモグロビンの磁気特性の変化を用いて脳の局所血流の変化を捉えることができる。何よりもこの血流変化が脳の活動状態と一致していることが示され、脳の活動を血流変化として捉えるBOLD法が定着した。即ち、我々の脳は必要な場所にエネルギーを向けるシステムを持っており、これが脳の圧倒的省エネシステムの基盤になっている。

今日紹介するカナダ・モントリオール大学からの論文は、このBOLD法がどこまで神経活動と連結しているのかを、生きたマウスで神経細胞に血液を供給する血管のサイズ変化を調べるイメージングと脳活動イメージングを同時に行うことで再検討した研究で、8月20日号の Science に掲載された。タイトルは「Modality-specific neurovascular coupling via layer-segregated arteriole networks(神経の役割に特異的な神経血管連結は各層に分離した小動脈ネットワークを通して行われる)」だ。

この研究では足の痛み感覚とタッチされる触覚で興奮する感覚野を、神経のカルシウムイメージングとfMRIとおなじヘモグロビンの変化を同時に測定し、酸化ヘモグロビンと神経活動領域がほぼ一致することから、これまでのfMRIが間違いでなかったことを確認している。しかし、酸素が受け渡された後のヘモグロビンを調べると、触覚領域のほうが脱酸素したヘモグロビンが圧倒的に多い。即ち、触覚神経でよく酸素が消費されている。

この差は全て神経への血流を調節する血管の変化を反映しているので、単一細胞の神経とそれを支える血管の流れを調べると、痛み神経と触覚神経の血管を流れる赤血球の動態に大きな変化があることがわかった。即ち、痛み感覚神経ではほとんど血流の変化が見られない。これは大変だと、他の神経層も含めて横断的に調べると、他の層、特に4-6層では比較的血流は一致しているが、2/3 層で大きな変化があることがわかった。そしてこの差が、神経興奮に合わせた小動脈の拡張度の差と、拡張後の再収縮の差によることを明らかにしている。

以上の結果は、神経の役割ごとに異なるタイプの血管ネットワークが形成されており、しかも脳の各層ごとに血管網の反応性が異なることを示している。運動神経や、自発的な神経興奮についても調べており、自発興奮の場合、痛み神経と同じように浅い層での血流が低下する傾向を示したが、運動神経では浅い層も深い層も血管の変化はほぼ同じであった。

以上の結果は、神経血管の連結現象は、神経が活動すれば血流が向くという単純な話ではなく、神経の役割や、脳の各層で、対応する血管網が異なる反応をしていることを示している。もちろんこれまでのfMRI研究の結果を否定するものではないが、より正確な神経活動のモニターにはBOLDではなく、Cerebral Blood Volumeを測定する方法が適していると結論している。いずれにせよ、神経活動から発生するどのようなシグナルが今回示された血管の変化を誘導するのかが明らかになることで、より神経活動の測定も正確になると思われるが、AIの人たちも注目するむちゃくちゃおもしろい分野に発展する可能性がある。

以下のWordPressからわかるように、この記事はHPにアップロードした5000回目の記事になる。

論文ウォッチについては、下図にあるようにあと281の記事をアップロードする必要があり、おそらく来年の5月ぐらいになると思う。なんとか健康で、論文ウォッチ5000回を迎えたいと思っているが、ともかく全記事が5000回になったことは本当にうれしい。

カテゴリ:論文ウォッチ

8月22日 炎症を調節する意外な分子(8月20日 Science 掲載論文)

2026年8月22日
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細胞死の中でも好中球で起こる Neutrophil Extracellular Trap (NET) はユニークなので、このブログでも何度も紹介してきた。具体的には、細胞死が誘導された白血球が脱凝縮したDNAをほとんど分解することなく細胞外に吐き出す現象を指す。この結果、吐き出されたクロマチンにより炎症が局所化して長く続くことになる。誘導過程についてはよく研究されており、NETが誘導される前にヒストンのシトルリン化を誘導してクロマチンをほどけやすくする酵素やクロマチンの分解を促進する Neutorophil Elastase などが核内に移行する厳密にプログラムされた現象であることがわかっている。

今日紹介する英国のクリック研究所からの論文はこのプログラムになんとDNA組み換えに関わるRAD51も関与することを明らかにした研究で、8月20日号の Science に掲載された。タイトルは「RAD51 stabilizes neutrophil extracellular traps to compartmentalize inflammation(RAD51はneutrophil extracellular trapを安定化させ炎症を限局化する)」だ。

おそらく白血球が吐き出したNETを眺めていて、活性化酸素で切断されたクロマチンが枝状にまとめられているのを見て、RAD51による一種の組み替えが起こっているのではと想像を巡らせたのだと思う。そこで白血球のNETを誘導すると、RADは neutrophil elastase と同じように細胞質から核内に移り、その後DNAとともに組織へと吐き出されることがわかった。さらに、RAD51の阻害剤を加えると、NETの枝状の塊が緩くなり、DNA分解酵素の作用をうけやすくなる。即ち、NETが組織内で持続するために必須の分子であることを発見した。

NETは様々な刺激で起こるが、おもしろいのは刺激に応じてRAD51の誘導が変化することで、カンジダのフィラメントは誘導能力が高い。これにより、炎症の限局化程度が変化することが予想される。そこで、しっかりと限局するNETと緩いNETでの炎症状態を比べるため、RAD51を阻害して緩いNETを作って、様々な炎症性サイトカインを比較している。その結果、完全なNETの場合誘導されるIL-1βの発現が、RAD51阻害により緩んだNETでは大きく低下することがわかった。これは NETが炎症を増強していることを示すが、話はそう単純ではなく、通常なら IL-1βと同じように振る舞う IL-6 は、RAD51阻害で逆に上昇する事がわかった。他のサイトカインを調べると、NETが緩むことで2型の炎症へとスイッチすることが明らかになった。

この原因を探ると、NETが緩みDNA分解酵素の作用を受けやすくなると、切断されたDNAが血中に入り、これが単球のTLR4を介して IL-6等の炎症物質を誘導していることがわかった。実際、RAD51を阻害すると、血中のDNA量が上昇するし、また血中に単球が移行出来ないようにすると、IL-6は誘導されない。

以上の結果は、RAD51がNETの構造の安定度を調節する重要な因子で、この作用のチューニングにより炎症の様態が全く変化することを示している。最後にヒトのアスペルギールス感染症をこの視点から再検討しており、一般的にはある程度緩いNETが形成されている病気であることが示されている。最後に、この緩いNETにより活性化された IL-6やエオタキシンを中心とする炎症が、重症の喘息の原因になっている可能性を示唆しRAD51も治療の対象になる可能性を示している。

RAD51は免疫グロブリン遺伝子の再構成に必須で、免疫学者には馴染みの分子だが、これが炎症の調節に関わるとは、以外性のあるおもしろい論文だった。

カテゴリ:論文ウォッチ

8月21日 少し変わったガン免疫の話(8月19日 Cell Reports 掲載論文)

2026年8月21日
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今日はガンキラー細胞に関わるが、決して直球というわけではなく、変化球を投げられたような研究を2編紹介する。

まず最初は我が国の大阪大学、慶応大学、そして理研からの論文で、110歳を超える方の T細胞 から明らかになる、ユニークな CD4Tキラー細胞 についての研究で、8月19日 Cell Reports に掲載された。タイトルは「CD4 CTLs in supercentenarians: Signs of adaptive expansion in healthy aging(超百寿者に見られる CD4CTLs : 健康的老化に伴い上昇する証拠?)」だ。

この研究では70-100歳までのAグループ、100歳代のBグループ、そして110歳を超えるCグループに分け、末梢血の免疫細胞を調べる中で、通常見られることが少ない CD4陽性 の キラー細胞CD4CTL が100歳を超えると増加し、Cグループではなんと末梢血T細胞の20%に達することを発見する。

この CD4CTL の分化経路を確認した後、T細胞受容体 (TcR) を調べると、通常は起こらないはずの2種類の TcRβ や TcRα を発現した T細胞 の数が増加しており、また個人ごとに特定の TcRレパートリー が増加していることを発見する。また、TcRγを発現した CD4細胞 すら見つかる。血液で言うと一種のクローン増殖が起こったように見える。即ち特定の TcRクローン、それも通常は希なユニークなクローンが増加している。そこで、超百寿の人たちで見られた TcRレパートリー と同じ V遺伝子 の発現をデータベースで探すと、なんとガン患者さんについてのデータベースに記録されているレパートリーと一致した。すなわち、超百寿者ではガンの環境で刺激されたレパートリーが選択的にクローン増殖していることを示唆している。

超百寿者の血液を使った研究はここまでで、あとは CD4CTL が何かについて詳しく調べており、ガン組織でさまざまなサイトカインを発現し、炎症を通して、あるいは直接ガンやウイルス細胞、さらには老化細胞のサーベーランスに関わる可能性を示唆している。マスメディアにも多く紹介されており、「がんに対するキラー細胞が多いと長寿につながる」といった感じで紹介されているが、本当にクローン増殖を誘導した抗原が何かについては今後の研究が必要だ。しかし超高齢者から学ぶことは多い。

次はワシントン大学からの論文で、Il2β受容体特異的に操作した IL-2 をそのまま患者さんに投与するより、ビフィズス菌に発現させて静脈注射することで、ガン組織でキラー細胞を増殖させることができることを示した研究で、7月23日の Science Advances に掲載された。タイトルは「Engineered probiotic Bifidobacterium for tumor-targeted pancreatic cancer therapy(ビフィズス菌を膵臓がん治療用に操作する)」だ。

IL2Rβ に特異的に結合することで、エフェクターを増やし、Treg を減らすことができる スーパーIL-2 や IL-15 については何度も紹介してきたが、これまでの治験では毒性も残ったりで期待ほどの効果は上げていないらしい。そこで、ビフィズス菌にこの スーパーIL-2遺伝子 を入れてガン特異的に発現させるというアイデアが生まれた。

ビフィズス菌を腸に移植するというのはわかるが、静脈に注射してガン組織に選択的に移行するというのは想像していなかった。ただ、ビフィズス菌は嫌気性菌なので、ガン組織のような嫌気環境に選択的に移行する事が知られていたようだ。この研究でも、注射後様々な臓器を調べ、ガン組織にだけ選択的に残っていることを確認している。また、腫瘍組織でビフィズス菌は STING分子 を介して自然炎症を活性化し、分泌する スーパーIL-2 が CD8T細胞 の増殖を選択的に誘導することを示している。

ここで使われた膵臓ガンモデルは、ガン細胞を直接膵臓に注射するモデルで、出来れば自然発生型のモデルを使ってほしいと思ったが、このモデルに スーパーIL-2 を分泌するビフィズス菌を静脈注射すると、腫瘍の増殖を抑えることができ、ガン組織のエフェクター細胞の数が増える。ただそれほど高い効果というわけではないので最後にゲムシタビンとの併用、あるいは放射線との併用治療実験を行い、ビフィズス菌が治療効果を高めることを示している。

結果は以上で、ビフィズス菌を静脈注射しても大丈夫で、しかも嫌気的環境が形成されておれば腫瘍に蓄積することが出来ること自体がおもしろい。ただ示された IL-2 の効果はそれほど高くないので、他の遺伝子のキャリアーとして使った方が良さそうだ。

以上、変化球型キラー細胞研究2編でした。

カテゴリ:論文ウォッチ

8月20日 脳オルガノイドを5年以上培養したら(8月19日 Nature オンライン掲載論文)

2026年8月20日
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培養を長期に維持する培養条件はどんどん開発されているが、実際に長期培養をやるとなると、培養を担当するスタッフには大変なストレスになる。様々な細菌やウイルス感染が持ち込まれると、その時点でそれまでの苦労は水の泡になる。このようなコンタミネーションがないとしても、例えば培養中に急に細胞の状態が悪くなってしまうと、それが正常の老化なのか、あるいは何らかのミスなのかが判断がつかないまま、それまでの努力が失われる。

それでも、苦労をいとわず長期培養にチャレンジする研究者は必ずおり、今日紹介するハーバード大学からの論文はヒトiPS細胞から脳オルガノイドを形成させ、それをなんと5年以上培養し続けて起こる変化を調べた研究で、8月19日 Nature にオンライン掲載された。タイトルは「Human brain organoids record the passage of time over multiple years(ヒトの脳オルガノイドは複数年にわたる時間経過をレコードしている)」だ。

論文を魅力的に見せるテクノロジーに長けたグループのようで、5年培養したら神経再生過程が変化していた等と書く代わりに、脳のオルガノイドが時間を記録しているというタイトルを付けている。しかし結局は培養でも5年もすればエピジェネティックな変化が起こってくることを示した研究と言える。

このグループはできるだけ正常の脳に近いオルガノイドができる培養条件を長年研究してきており、その成果として5年という長期のオルガノイドの培養に成功している。異なる培養時間のオルガノイドの遺伝子発現を比べると、見事に発現遺伝子が徐々にシフトしていることがわかる。そしてこの変化は、DNAのCpGアイランドのメチル化と対応し、メチル化状態は実際の時間と正比例する。

一方で含まれている細胞の変化を見ると、最初増加してきた分化した神経細胞、特に介在神経は時間とともに減少するが、グリア細胞の数は上昇する。即ち、オルガノイドと言っても全く異なる細胞集団になっていることがわかる。この変化は実際の脳とは大分異なるので、長期培養だからと行って手放しで喜べない。

ただ、オルガノイドを自然の神経興奮が誘導出来る培地に移して培養すると、少なくとも1.5年までは機能的神経が維持され、しかも若いオルガノイドよりシナプス形成は強くなっていることがわかる。細胞レベルで調べると、神経興奮が起こることで興奮神経の数が大きく上昇していることがわかる。一方、介在神経は大きく抑制される。おそらく、同じ実験は5年以上経過したオルガノイドでは、興奮神経数が少なすぎて難しいのだろう。一方、オルガノイドを神経興奮が起こる培地に移して培養すると、2年間は興奮神経のネットワークを維持することができる。以上の結果は、脳ネットワークの維持に持続的な刺激が必要で、この条件でさらに長期に培養することが重要なことがわかる。

いずれにしても、5年培養した細胞の解析はこれ以上行われず、この後oldと表現されるのは1年程度経過したオルガノイドで、まだ興奮神経や介在神経が残っているこの時期のオルガノイドを用いて神経細胞の増殖力を調べている。一度オルガノイドを崩して細胞浮遊液にしたあともう一度オルガノイドを形成させると、oldオルガノイド細胞も再度オルガノイドを形成し、そこには崩す前のオルガノイドと同じ細胞が再生している。ただ、オルガノイドの大きさは小さく、増殖力は低い。ところが、若い細胞とミックスししてオルガノイドを形成させると、興奮神経が半分以上含まれるオルガノイドが形成される。さらに、未熟な神経前駆細胞も出現することから、oldオルガノイドの神経細胞にも、若い細胞のシグナルに反応して未分化神経細胞を再生する能力がある。ただ、oldオルガノイドの場合、興奮神経は2週間という短期間で数多く発生してくることから、すぐ成熟する前駆細胞が多く存在すると考えられる。

結果は以上で、これをoldオルガノイドの神経細胞が時間を記録していて、すぐに成熟細胞へと分化する記憶があると表現している。しかし個人的には、エピジェネティックに分化が方向付けられ、すぐに増殖力がある前駆細胞がoldオルガノイドには存在していると行った方が自然な気がする。皆さんはどう思われるだろうか?とはいえ、この研究のハイライトは5年間脳オルガノイドを維持したという一点にある。

カテゴリ:論文ウォッチ

8月19日 CDK4/6 阻害剤はRb-1をエストロジェン受容体転写活性促進へと解放する(8月12日 Nature オンライン掲載論文)

2026年8月19日
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乳ガンの治療薬の選択肢は広がっており、特にエストロジェン受容体 (ER) 陽性の患者さんでは、ER阻害ともに、CDK4/6 阻害剤が使用されている。CDK4/6 は一般的な細胞周期阻害剤なので、もっと他のガンにも効いて良さそうなのに、圧倒的に乳ガンで成功しているのをちょっと不思議に感じていたが、今日紹介するオーストラリア・Peter  MacCallum ガンセンターからの論文を読んで、この謎を解くことが出来た。論文は8月12日 Nature にオンライン掲載され、タイトルは「Rb-driven transcription limits its tumour suppressive effects in breast cancer(Rbにより誘導される転写が乳ガンに対する抑制効果を台無しにする)」だ。

CDK4/6はRb1 のリン酸化を促進することで Rb1 を E2F から遊離させ、これにより細胞周期に必要な様々な分子の転写が E2F により誘導され、細胞周期が促進される。従って、CDK4/6 阻害は E2F の抑制を維持することで細胞周期を止める。これは生物学で習うスタンダードだが、Rb1 の働きを E2F 阻害という狭いサーキットの中でだけで見てしまっている。ただ、ずいぶん昔に紹介したように、Rb1 にも他の転写に関わる機能があることは指摘されていた(https://aasj.jp/news/watch/6219)。 

この研究も、乳ガンで CDK4/6 阻害したとき、リン酸化されなかった RB1 が他の転写機能をもっているのではと考えたところから研究が始まっている。実際には、乳ガン細胞に CDK4/6 阻害剤を加えたとき、E2F から離れた Rb1 がゲノムのどこに結合するかを調べている。そして、Rb1は CDK4/6 阻害により、それまで結合していなかったプロモーターやエンハンサー領域に結合することを確認している。

最も驚くのは、Rb1 が結合しているエンハンサー部分の多くがエストロジェンにより調節される遺伝子のエンハンサー部分で、実際に転写されてくる mRNA を調べると、転写が促進される。即ち、CDK4/6 阻害剤は細胞周期を止めると同時に、エストロジェンの転写を促進することがわかった。これは試験管内のことだけでなく、CDK4/6 阻害剤を投与された患者さんから得られるバイオプシー標本でも、確認される。

例えばエストロジェンはサイクリンD1の転写を調節しているが、CDK4/6 阻害剤を加えるとサイクリンD1の転写が促進される。結果、せっかくCDK4/6 阻害剤で E2F 活性を抑えても今度はサイクリンD1が E2F を活性化して細胞周期を回してしまう。この時、同時にERを阻害すると、サイクリンD1や他の ER 依存性の遺伝子の転写は抑えられ、CDK4/6 阻害剤の効果を維持することができる。

Rb1 が効果を示すメカニズムについても調べており、ER と結合してエンハンサー上に存在する脱メチル化酵素 KDM5A に CDK4/6 阻害剤により解放された Rb1 が結合し、KDM5A の機能を抑えることで、H3K4me 型ヒストンを維持して転写が促進されることを示している。

以上のことから、CDK4/6 阻害剤は ER 阻害とともに使用して初めて高い効果が得られることがわかる。例えば ER の変異により常に活性化型の ER が出来ている場合は、ER を分解するタイプの薬剤と併用すると、大きな効果が得られる。

乳ガンの多くの患者さんの経験を通して、今回示唆されたような至適な治療方法は経験的に認識され、実用化されているが、Rb1 と ER の強い関係を知って、CDK4/6 阻害剤+フルベストランと言う処方の意義をはっきり認識できた。

カテゴリ:論文ウォッチ