ずいぶん昔になるが、昨年亡くなった岡田節人先生から、発生学で最も有名なシュペーマンは論文に一度も細胞という言葉を使わなかったと聞いたことがある。自分で確かめていないので、真偽のほどはわからないが、場所と時間を基礎に組織化された生物個体を考える発生学のことを上手く表現されたのだと、個人的には全面的に信頼している。すなわち、体の「何処に何時」を問わずして発生学はないという話だ。従って、単一細胞の遺伝子発現を網羅的に調べられるようになっても、「何処何時」というラベルをつけた細胞を取り出して調べられることが多かった。ところが、今日紹介するホワイトヘッド研究所からの論文は、まずプラナリアの体を完全にバラバラにして、場所とは切り離した後、それぞれの細胞を調べ、発生のプロセスを再構築する手法を用いており、これまでの古典的発生学とは正反対のアプローチが取られている(昨日の研究と比べるとそれがよく分かる)。タイトルは「Cell type transcriptome atlas for planarian Schmidtea mediterranea(Schmidtea mediterraneaプラナリアの細胞種の遺伝子発現地図)」だ。
昨日も述べたように、プラナリアではあらゆる組織が全能性の幹細胞から恒常的に新陳代謝しているため、細胞の分化過程が全て体内で起こっている。従って、卵からの発生過程を追うことはしていない。代わりに、プラナリアをバラバラにして得られた個々の細胞で発現しているmRNAを網羅的に調べ、細胞のデータだけから細胞分化過程を再構築しようと試みている。ただ、細胞が発現する遺伝子の中には、体の体制に応じて発現するものもあることから、幹細胞の多い咽頭とそれ以外の3領域に分けて解析を行っている。
このような手法を用いる時、すべての遺伝子についての発現量をそのまま用いるグループと、一部の遺伝子を選んで用いるグループがあるが、どちらでもいいだろう。原理的には、選んだ遺伝子が一つの次元を形成し、各次元の発現量を数値化して、多次元空間に分布させた後、見やすいように次元を圧縮して細胞集団を定義するのが基本的手法だ。
この研究では、5万個に及ぶ細胞を解析しているが、プラナリアはカエルなどと比べるとより単純なので、そのまま多次元空間の分布を見るのではなく、発現量に差がある遺伝子と、すべての細胞に発現している遺伝子群に分けて、2次元の主成分解析を行うことで、細胞集団を分けているが、結局は他の論文と方向性は同じだ。
この解析から、2次元空間に分布した細胞を44種類の明確な集団に分離できること、特徴的な遺伝子の発現から各集団の系統をほぼ特定できること、またこうして特定された細胞のプラナリアの体内での分布もほぼ予想通りなことを示している。すなわち、「何時何処」という情報がなくとも、かなりの精度で細胞の系列と分布を特定できることを示し、細胞からボトムアップでプラナリアを再構成することが可能であることを示している。
一種のデータベースができたわけで、あとはクエスチョンをもってこのデータベースを使えば様々なことが明らかになるだろう。論文でも、実に多くのクエスチョンが調べられている。主なところでは、
1) 幹細胞特異的な遺伝子を発現する集団だけ取り出してより詳しく見ると、これまでの研究で存在が想定されていた、最も未熟な幹細胞から各系列への分化方向が決まった中間段階への分化の階層性をほぼ完全に定義できる。
2) これまで特定できていなかった例えば腎臓の機能に相当する細胞集団の前駆細胞の特定や、消化管を上皮とゴブレット細胞に分けることができ、それぞれの前駆細胞も特定できる。
3) 神経系は24種類の集団に分離することができ、このうちの多くがこれまで定義できていなかったこと。
4) RNA干渉を用いて発現遺伝子をノックダウンすることで、細胞分化の階層性を明らかにできること。
5) 同じ筋肉細胞でも、ボディープランに応じて場所に関わる遺伝子の発現が異なっていること、
などだが、これ以外にも多くのデータを示している。
ただこのような詳細は、このデータベースの有用性を示す一例に過ぎず、細胞レベルから見ることで、プラナリアの細胞構築を再定義できることさえわかれば十分だろう。詳細についてはぜひオリジナル論文を読んで欲しい。
この論文を読んでいて、わが国の再生生物学の草分け、江口吾郎先生が独特の名古屋弁で、「西川くんは(形のない)「血(ち)」をやっとるから・・・」とおっしゃって、私の思考法が発生学からちょっと外れていることを意識させてもらったのを思い出した。しかし、プラナリアの研究がここまで「血」の研究に近づいたのをみて、一度熊本までどう思うか聞きに行きたい。