今日紹介したいのは、アリストテレスの「霊魂論」(「心とは何か」)で、前回紹介した動物論諸作に先がけて書かれた著作で、現代の生命科学者でもそれほど抵抗なく読める面白い作品だ。
図1 アリストテレスの「Peri Psyches」は、岩波書店版では「霊魂論」、講談社版は「心とは何か」と訳されている。生命科学者から見るとどちらもタイトルとして適切でないと思うが、訳としては圧倒的に講談社版が読みやすく、生命科学の若い研究者や学生でもスムースに入っていける。
しかしこの本を読み通してまず浮かぶ疑問は、なぜこの本を「霊魂論」と訳したのかという点だ。冒頭の写真には、山本光雄訳の岩波版と、講談社桑子俊雄訳「心とは何か」を示したが、他にも京大出版会 中畑正志訳「魂について」の3冊の翻訳がある。それぞれプシューケースを「霊魂」「心」「魂」と訳しており、私たちがこれらの訳から受ける印象は、「心と体」という時の「心」に等しい。しかし、この本を読めばアリストテレスの「プシューケース」を「霊魂」や「心」として訳すと、少なくとも現代人に対して本の内容について間違ったイメージを与えることがわかる。例えばよほどの宗教・哲学好きでない限り、生命科学に関わる研究者や学生は、この本を手にとることはないだろう。
おそらくこの本の内容から一番適切な訳は「生命について」ではないかと思う。実際扱われているのは、無生物と生物の違いだし、その対象はあらゆる生物に及ぶ。もしこのことがわかるようなタイトルがついておれば、膨大なアリストテレスの著作の中でも、もっともっと生命学者に読まれる本になっていたのではないだろうか。例えば、20世紀分子生物学のきっかけになったと言われるシュレジンジャーの「生命とは何か」と同じタイトルでもよかった。
図2 分子生物学の黎明期に読まれた、物理学者シュレジンガーが生命について考えた「生命とは何か」
気になってWikipediaでこの本のタイトル、プシューケースが各国でどう訳されているかを調べると、日本語と英語が「心、soul」を使っており、ドイツ語、フランス語ではラテン語の「Anima」が使われている。なぜこの差が生まれたのか是非知りたいところだが、私自身の印象でも、animaのほうがしっくりくる。
この本の主題についてアリストテレスは、
「そこで私たちは探求の新しい出発点を取り、「生きているということによって」無生物と生物は区別される」と述べることにしよう。しかし、「生きていること」は多くの意味で語られる。そこで、以下のどれか一つが備わっていれば、私たちはそれを生きていると言う。すなわち、理性、感覚、場所的な運動と静止、さらに栄養に関わる運動、すなわち衰退と成長である。」
と、彼の主題が生物を無生物から区別している全ての特徴であり、その背景にある原理であることを明確に述べている。したがって、プシュケーを「心や霊魂」と訳してしまうと、生命の高次機能に限定してしまうことになる。例えば、
「つまり、心とは今述べたような能力の原理であり。それらの能力、栄養摂取能力、感覚能力、思惟能力、運動能力によって定義される」
からわかるように、この場合「プシューケース」は植物の栄養摂取能力のような生命の基本能力の原理でもあるので「心」と言ってしまうと混乱するだろう。この場合は「生気」とか、「生命の原理」とでもおきかえて読む必要がある。一方、理性、感覚といった生命の性質は、生命原理の延長上にあるとはいえ、「生命の原理」で置き換えてしまうと逆にわかりにくい「心=脳科学問題」だ。要するにアリストテレスのプシュケースの範囲があまりに包括的なため一つの単語で訳すのが難しく、哲学の人たちが自分たちに馴染みのある言葉を選んでしまったというのが実情だろう。
しかしプシューケースとは何かを考える哲学者は今もいるのだろうか?
確かに宗教では心とは何か、生命とは何かが問われるが、おそらくそれに真正面から取り組んでいる哲学者は少ないだろう。一方、現代の生命科学はアリストテレスが「プシュケース」として表現した生命の性質を、今や包括的に研究している。ただこの問題を一つの原理として研究することはまだまだ難しく、「無生物と生物の違い」を探る生命起源に関する研究分野から、「脳の認識、記憶、統合」についての脳科学分野まで、多くの分野に分けて研究している。その上で、情報や進化といった全分野を関連づける原理が存在することも認識しており、現代の生命科学は生命を包括的に扱い始めていると言っていい。ギリシャ時代の自然学を現代の科学と比べることは意味がないが、しかし生命と包括的に向き合おうという気持ちは互いに共通すると言える。
少し前置きが長くなったが、本の内容に移ろう。本は2部構成になっており、最初はイオニア以来、アリストテレスまでのギリシャの哲学者や自然学者が生命をどう考えていたかについて、アリストテレスがまとめた章で、2部はそれを受けて自らの考えを展開している。例によって、この時代の議論の一つ一つに真面目に付き合う必要は全くない。重要なのは、アリストテレスがどんな人だったのかという点だ。
すでに述べたように、プラトンやアリストテレスは、方法は全く異なるが、それ以前のギリシャ哲学の集大成を行うことを自らの義務と考えていた。この本の1部は「生命とは何か」に関するギリシャ哲学の集大成を図ったもので、デモクリトスを中心に、ピタゴラス派、エンペドクレス、プラトン、ディオゲネス、ヘラクレイトス、アルクマイオンなど多くの哲学者が述べていた生命の原理についての説が紹介されている。
例えばアリストテレスはデモクリトスの考えを以下のように紹介している(この文脈では心と訳されている箇所は混乱を招くので、プシューケースという原語を添えておいた)。
「デモクリトスは、心(プシューケース)を一種の火で熱いものであると言っている。彼は、形と原子とは無数にあるが、そのうちの球形のものが火と心(プシューケース)だと述べる(それは空気中のいわゆるちりのようなものであり、これは窓の間を通過してくると光線の中に現れる)。そして、あらゆる種類の種子の混合体を全自然の元素と呼ぶ(これはレウキッポスも同じ)。そのうちで球形のものを心(プシューケース)と呼ぶのだが、その理由はこのような形状はどんなものでもよく通過することができ、自分自身も動きながら他のものを動かすことができるから、というわけである」
慣れないと理解しにくいと思うが、 デモクリトスは無生物に生命を付与しているのも原子の一つで、これが私たちが栄養をとり、動く生命特有の性質の元になっていると考えている。なんと荒唐無稽な作り話と思われただろうが、実はこの文章を読んだとき、ライプニッツのモナド論、ボイルやビュフォンの種子説に近いので、驚いてしまった。すなわち、18世紀、自然史という膨大な著作を著したビュフォンでさえ、デモクリトスと50歩100歩だったのだ。いつか議論したいと思うが、おそらく18世紀の自然史家たちもアリストテレスを通してこのデモクリトスの考えを知り、参考にした可能性は高いと思う。
このように、「生命は数だ」とか、「空気だ」とか、あるいは「火だ」とか、本当にあれこれ考えていたのがよくわかる。とはいえ、単純にナンセンスとは言えないように思う。実際、現在も生命を数理で説明しようとする人たちはいるし、「火=エネルギー」の問題として捉える人もいる。大事なことは、最も宗教的と言われるピタゴラス派ですら、宗教くささを排した説明を心がけていることで、これは現在の科学と同じだ。ギリシャの自然学者にとって、生命はあくまでも自然の問題であり、自分で説明を考えなければならない問題だった。柄谷行人が「哲学の起源」で述べていた、イオニア哲学の本質がここにもはっきりと現れている。
これと比べると、その後のキリスト教はこの生き生きした議論を、すべて宗教的ドグマを持って排除した。だからこそ、17から18世紀この重石が取り除かれた時、ライプニッツやボイルたちがイオニアの哲学を再評価し、有機体論の形成へと進んだのではないだろうか。
このように、アリストテレス以前のプシュケース論をまとめた後、2部ではアリストテレス自身の考えが披露される。強調したいのは、プラトンの神秘主義と異なり、アリストテレスは神秘主義を排し、自然学に徹してこの問題に取り組んでいる点だ。先の引用も含めて彼の言葉を見てみよう。
「そこで私たちは探求の新しい出発点を取り、「生きているということによって」無生物と生物は区別される」と述べることにしよう。しかし、「生きていること」は多くの意味で語られる。そこで、以下のどれか一つが備わっていれば、私たちはそれを生きていると言う。すなわち、理性、感覚、場所的な運動と静止、さらに栄養に関わる運動、すなわち衰退と成長である。」
「つまり心(プシューケース)とは、今述べたような能力の原理であり、それらの能力、すなわち栄養摂取能力、感覚能力、思惟能力、運動能力によって定義される。」
と問題を極めてはっきりと提示している。
しかもあらゆるものを説明してしまうと悪い癖もここでは抑えており、
「理性すなわち理論的考察能力についてはまだ何もはっっきりしていない」
と述べて、取り上げた問題が難しい問題である事を告白している。
だからと言って全て「生命の不思議」などと神秘のベールに閉じ込めることはしない。引用から分かるように、生物と無生物の区別は真面目に観察すれば一目瞭然で、さらに生命の特徴は、一つではなく様々な形で(理性から栄養まで)生物に現れることをはっきり述べている。すなわち、これらの特徴は下等から高等まで、階層的に現れる。例えば栄養による運動は全ての生物に共通に存在し、場所的移動を可能にする運動は様々な動物に、感覚、心的表象はより高等な動物に、そして思惟や理性などは、人間に特有の、しかし全て生物特有の性質であると述べている。
まさに現代生物学が、生命共通のDNA情報や代謝の問題から始め、動物の運動、神経系の進化、脳の進化、さらには人間の精神のような高次機能まで対象にしているのに似ていないだろうか?
このように、「生命とは何か」問題を、階層的に現れる生物の特有の性質として定義した後、全ての生物に共通の「栄養摂取と生殖」「感覚の問題」「知ること、考えること」にわけて考察している。しかし、今の生命科学者にぜひ読んで欲しいと思える考えを彼から学ぼうとしても難しい。結局この本を読んでわかるのは、アリストテレスが18世紀まで続く生命についての自然学の基礎を確立しただけでなく、18世紀に至るまで彼が到達した地点から少しも進歩がなかったことだ。
事実習うことはないにしても、ずっと読み進めると、よくここまで考えていると感心する。いくつか印象に残った文章を順番に引用しよう(全て講談社桑子版)。
「心(生命の原理)は物体ではなく、物体の何かなのであり、だからこそ物体のうちにそなわり、しかも、一定の条件を持つ物体のうちにそなわる」(筆者コメント:これは38億年前物理世界に新しい生命に伴う原理が生まれたことに通じる)
「栄養摂取能力は植物以外のものにもそなわっていて、心(プシュケース)の能力の第一のものであり、また最も共通のもので、これに基づいて「生きることが全てのものにそなわるからである」(物質代謝とエネルギー代謝が生命特有の性質であることは誰も疑わない)
「感覚器官の一部が作用を受けた時に、見ることが生じるからである。というのは感覚器官の一部が作用を受けた時に、見ることが生じるからである。見られている色そのものによって作用を受けることは不可能である。すると残るのは、中間媒体によって作用を受けることだから。」(感覚を媒体からの作用と明確に定義している)
「一般的に、全ての感覚について、感覚は感覚対象の形相を質料抜きで受け入れるものだということを把握しなければならない。それは、ちょうど蠟が指輪の印象の刻印をその材料の鉄や金なしに受け入れるようなものである。」(全ての感覚は一度神経の活動に表象される)
「心的表象は感覚とも思考とも異なるからである。心的表象は感覚なしには生じないし、心的表象なしに判断を持つことはない。しかし、心的表象が思惟や思うことでないということもまた明らかである。心的表象の方は、望めば私たちの元に生まれる心的情態であるのに対し(ちょうど、記憶の入れ物の中に物を入れ、そしてその像を作る人々のように、眼前に何かを作ることができるから)、」
「心的表象は感覚器官のうちに残留し、感覚に類似のものであり、動物はこれにより多くの行動を行う。」(現在neural correlatesの研究の全てはこの課題に向かっている)
「「心は形相の場所である」とする人々は上手いことを言っている。ただし、心の全体ではなく、思惟する部分がそうである。」(アリストテレスの形相概念は全く神秘的ではない)
などなどで、問題の整理という意味では素晴らしい思考能力だと思うし、私のような凡人が到底及ぶところではない。実際、プラトンの神秘性と比べると、形相も、今風で言えば私たちの脳の問題として捉えている。しかし繰り返すが、彼の考えを知ったところで生命の原理問題について何か解決の糸口が見えるものではない。
そして生物を動かすものについて、レベルの高い思索を繰り返した後、彼は目的論者アリストテレスに立ち戻り、最後にこう締めて思考を終える。
「動物が他の感覚を持つのは、すでに述べたように「存在すること」のためではなく、「よく存在すること」のためである。例えば、資格を持つものは、水中や空中にいて、一般的に言えば透明なものの中にいて物を見るためである。また味覚を持つのは快と苦のために、食物の中にあるものを感覚し、それに欲望を持ち、そちらへ動くためであり、聴覚を持つのは動物が信号を受け取るためである。」
イオニアの様々な考え方を集大成してついに到達したのが「目的により組織化するのが生命の原理だ」という結論だ。
これは驚く。すなわちライプニッツから始まるデカルト機械論批判の様々な考え方を、カントが自然目的を持つ存在としてまとめるあの18世紀に酷似している。とすると、ダーウィンの登場まで、私たちはアリストテレスの到達点から一歩も抜け出せなかったことになる。
ではアリストテレスの目的論とはなんだったのか、次回は動物緒論を離れて、彼の「形而上学」を取り上げる。
さて稿を終える前に、生命科学をアリストテレスの到達点から大きく前進させたダーウィンの進化論とアリストテレスの「霊魂論」との意外な関係を指摘して終わりたい(と言っても、私がそう感じているだけだが)。
まずダーウィンの種の起源の最終センテンスを読んでみてほしい。
図3ダーウィンの種の起源下巻と、最後のセンテンス
言うまでもなくダーウィンは、「種の起源」の中で、単純な生命から多様な生物が進化するための理論を述べている。この進化の壮大なプロセスが、決して星の運行を考える物理学では説明できないプロセスであることを、「この惑星が確固たる重力法則に従って回転する間に・・・」進化が起こったことを明示した後、しかしこの進化の法則に従う生命も、最初「生命のもと(あまたの力)が、無生物に吹き込まれ」、物理世界に新しい世界が生まれたことを暗示している。そしてこの吹き込む(breath:息)という表現は、ギリシャ語の「プシューケー:息」と完全に重なる。おそらく、ダーウィンもこのセンテンスを書きながら「霊魂論」を思い出していたのではないだろうか。
しかし彼が読んだアリストテレスは「On the Soul」だったのだろうか。
17から18世紀キリスト教の重石が取り除かれた時、ライプニッツやボイルたちがイオニアの哲学を再評価し、有機体論の形成へと進んだのではないだろうか。
Imp:
Leibnizのモナドロジーの源流はこんな所にあったんですね。重要な事柄は廃れることなく連綿と受け継がれていく。Leibniz、アリストテレス的実体形相説の復活を目論んでいたとか?繋がっています。
イオニア哲学⇒アリストテレス哲学⇒長い暗黒時代⇒18世紀の有機体論。この流れに西洋生命科学の源流=本性を求めることができそうです。サイバネティクス、Neumannオートマトン理論にもこの血が流れていそうです。
今後の展開が楽しみです。