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アリストテレス以降、中世最高の哲学者オッカム:近代哲学の萌芽(生命科学の目で読む哲学書 第12回)

2020年3月2日
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スコラ哲学の最後にオッカムを読んでみようと決めていた。読むのは今回が初めてだが、「オッカムの剃刀」(=説明は最小限の仮定で行うべきとする寓意)という言葉はよく知っていた。またこの言葉に科学的響きも感じていた。とはいえ、アウグスチヌス、マグヌス、アクィナスと読んできて、プラトンやアリストテレスに傾倒しつつも、最後は聖書の言葉を絶対視するスコラ哲学の図式に辟易し、中世哲学の停滞をイヤという程味わってしまうと、オッカムも結局は同じ穴のムジナと諦めていた。

ところがどっこい、予想は完全に外れ、これまでのスコラ哲学とは全く異なる、「剃刀」のような鋭い感性と議論に感心し、近代哲学の萌芽を感じることができた(これは私の個人的評価)。

図1 オッカムの著作が収められている「中世思想原点集成18」

オッカムが我が国でそれほど注目されていないのは、オッカムの著作の和訳本の多くがが絶版になっているからだと思う。幸い、前々回利用した平凡社の中世思想原典集成に短い著作が何編か訳されており、第18巻 (図1)には「命題集注解(オルディナティオ)」「アリストテレス命題論註解」「未来の偶然事に関する神の予定と予知についての論考」の訳が収載されている。

訳に当たった人たちが神学としてオッカムに向き合っているからだと思うが、正直なところ訳がわかりにくく、読んでもオッカムの思想を理解できた気になかなかなれない。例えばオッカムは唯名論(後で説明)の論者として有名だが、訳されている著作からはこの側面がほとんどうかがえない。そこで洋書にまで範囲を広げて探し、ようやく図に示すオッカム著作の抜粋が英訳されている「Philosophical Writings」を手に入れることができた。この本では中世思想原典に収載されているオルディナティオの一部がオッカムの認識論として上手くまとめて掲載されており、このおかげで私の理解は進んだ。特に難しい英語ではないので、オッカムの思想を知りたい向きには、こちらをお勧めする。

図2 オッカムの文章の抜粋集(ラテン語と英語の対訳)

では、オッカムはこれまでのスコラ哲学者とどう違うのか?

今回読むことができたのはオッカム著書のほんの一部であることは断った上で、まず驚いたのは、スコラ哲学議論の中で最後の切り札(=議論の遮断)として頻繁に登場する聖書の一節の引用が全くない点だ。一方、アリストテレスだけでなく、アウグスチヌスの著作などは頻回に引用されている。前回紹介したように、アウグスチヌスは筋金入りの聖書主義者だが、それでも書かれた以上人間の思想にすぎない。オッカムがアウグスチヌスを肯定的に捉えている点は不思議な気がするが、いずれにせよ批判が許されない神の言葉ではない。このように、批判が可能な人間の言葉に引用を限ることで、自由な議論が可能になる。

神の言葉をドグマとして鵜呑みにすることを拒否するオッカムには、自分の頭で考え、人間同士で議論する近代的哲学の始まりを感じる。「論証にできるだけ前提を設けない」ことを大事にする「オッカムの剃刀」という考えは、オルディナティオで「必然性なしに複数のものを措定してはならない」という文章に現れているが、自分で考えること、そして聖書という絶対前提を排除した当然の帰結と言える。

オッカムの革新性は、聖書に頼らない点にとどまらない。個人的印象だが、神学的ドグマを意に介していないとすら感じた。例えば「未来の偶然事に関する神の予定と予知についての論考」は、ペテロが民衆に「お前はキリストと一緒にいたのでは?」問われたときに、「キリストとは無関係」と拒否したのに、なぜ天国が約束されているのだろうか?拒否することを神は知っていたのか?という素朴な問題について議論が行われている。当然伝統的キリスト教では「全てお見通し」ということになる。現代人にとってはどうでもいい問題だろうが、神が全てを作り、全てを知り、あまねく存在するという伝統的キリスト教の信仰からいうと、キリストの一番弟子といえども、キリストを拒否することが許されるのかは重大問題なのだ。実際、罪を犯してしまう自分が最後は救われることが予定されているかどうかは当時の人にとっては重要な問題だった。例えばワーグナーのオペラ、タンホイザーでは、一度神を拒否して悦楽の世界に落ちたタンホイザーは、ローマ巡礼でも許されず絶望することになるが、罪と許しの問題が当時の人にどれほど重要だったのかをよく表している。

スコラ哲学が神の存在への疑いを契機に始まったとすると、当然このような神の予知能力は格好の題材で、盛んに議論されたと考えられるが、この問題に対しオッカムは一つの答えをドグマとして押し付けることは全くしない。様々な答えを用意し議論するのだが、私の印象では結局「神の中にある必然的事柄」と「神のうちにはない事柄」を分けることで、神によって決められてはいない人間の自由意志をみとめる立場をとっていると思う。すなわち、神があらゆる世事に気にかけていると考えることなどないと明言しているのが次の文章からわかる。

「私は次のように言おう。神の内に形相的にあるものないしあることが可能なものは必然的に神である。ところがAを知っていることはそのような仕方で神の内にあるのではなく、ただ述定によってあるに過ぎない。なぜはら、それはときには神について述べられ、ときには述べられないような、ある概念ないし名称だからである。かつそれは神である必要もない。なぜなら「主」という名称は神について偶然的に、かつ時に応じて述べられるが、だからと言ってそれは神であるわけではないからである。」(未来の偶然事に関する神の予定と予知についての論考:平凡社中世思想原典集成 18 清水哲郎訳)

当時、よくここまで言えたなと思うが、実際オッカムはローマ法皇庁のお尋ねものになっていたようだ。このようにオッカムは全てが神によって決まっているとは思っていなかった。そしてこの議論は、自由意志のない幼児に天国を保障しようとする「幼児洗礼」の是非の問題として、20世紀の神学者カール・バルトまで続いていく。

「未来の偶然事に関する神の予定と予知についての論考」は神学問題についての議論だが、科学や論理についても、これまでのスコラ哲学者と違う議論をオッカムは展開している。特に印象深いのはその主観主義立場だ。私は近代科学は17世紀デカルト、ガリレオに発すると考えているが、科学的真実についてのオッカムの議論は近代を先取りして、科学が間主観的な合意の問題であることを理解していたように思う。少し長くなるが先のPhilosophical Writingsに収められている「On the notion of knowledge or science」から英語のまま引用しよう(文章をスマフォで撮影して使っているので、読みにくいことをお許しいただきたい)。

驚くことに、オッカムは絶対的知識があるなどとは信じていない。代わりに「知識とは様々な考え(propositions)の集まりにすぎない」と明言している。そして、自然科学により得られたpropositionは、感覚されたもの自体ではなく、感覚的経験が心的にプロセスされて普遍化されたものだと述べている。そして、科学とは感覚により認識された事柄を心的過程(今風に言えば頭で)を通して普遍的考えとしてまとめることだと言っているのだ。

さらに次のように続けて、

科学とは、先に紹介したように対象についての心に浮かべる内容に関わるが、具体的な対象が必ず対応している。それに対して論理は、実際の対象とは無関係に心の中の対象について、心の中で処理することだと述べている。たまに「科学とは何か?」について様々な方と語り合うことがあるが、現代の科学者でも、科学とは何かについてオッカムほど深く考えている人にはなかなか出会わない。

このような科学に対する彼の理解は、オッカムと言えば唯名論とされている、彼の思想の中核を反映したものだ。

まず普遍論と唯名論をおさらいする意味で、以前紹介した(https://aasj.jp/news/philosophy/11720)山内志朗さんの普遍論争(山内 志朗. 普遍論争 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.191-203). Kindle 版.)の一節を再掲してみよう、

「実在論(realism)とは、普遍とはもの(res)であり、実在すると考える立場で、換言すれば、普遍は個物に先立って(anterem)存在する、と考える立場とされます。プラトン、スコトゥス・エリウゲナ、アンセルムスなどが代表者とされます。

唯名論(nominalism)は、普遍は実在ではなく、名称(nomen)でしかない、したがって普遍はものの後(postrem)にあるとするものです。個々の人間は触ったり触れたりできますが、普遍としての人間では感覚可能ではなく、触ることも見ることも酒を飲ませることもできません。ですから、唯名論というのは、常識にかなった思想とされたりします。代表者は、ロスケリヌス、オッカム、ビュリダン、リミニのグレゴリウス、ガブリエル・ビールなどです。」

すでに述べたが、普遍論争は歴史的には面白い議論だが、現在の問題としては不毛の議論と言える。というのも、脳による高次機能についての理解が進んだ現代では、私たちがものを認識するとき、それまでの経験から統合されカテゴリー化された表象(この中には個人の直接の経験だけではなく、歴史を含む人間全体が種として形成してきた様々な知識も、学習を通して統合されている:これを普遍といっても良い)が、瞬間・瞬間の感覚的経験に介入していることがわかっている。すなわち、意識、無意識を問わず私たちの経験の積み重ねは、物を認識するときに常に参照される表象として脳内に形成されている。この意味で、プラトンのイデアや、普遍は存在するのだが、全て脳内の表象として存在している。

逆にいうとイデアや普遍が脳内の表象だと考えてしまうと、普遍論争はもはや成立しない。その意味で、オッカムはこのレベルの理解に到達しており、ただの唯名論者ではなく、普遍論争に終止符を打つことができる思想に到達していた。

もう一度先の「Philosophical thinkings」からの引用の一部を、今度は日本語に訳して見てみよう。

「自然科学によって知られることになる考えは感覚できる事象や物から構成されるのではなく、そのような事象や物に対応する心的内容、あるいは概念からできている。」

驚くことに、認識も普遍化も全て心的過程(現代的にいうと脳過程)だと言っている。そして先ほど紹介したように、論理的処理は心に浮かぶ内容を対象に心的に処理することだと定義していることは、普遍化は心的過程を通して行われる結果で、決して普遍的な何かが実在して、それが個別の認識で参照されるわけではないと明言している。

普遍性がそれ自体で存在するのでなく、個別の体験が心的に処理されたものであることは、「Philosophical Thinkings」の中で認識論を扱った文章を抜粋した「Epistemological Problems」(オルヂナティオも含まれている)に何度も繰り返して述べられる。

例えば抽象について、

「多くの個別の事象や物から抽出したものに関する認識で、抽象的認識とは多くの事象から抽出してきた普遍性の認識に他ならない。そして、この普遍性が実際の対象と同じように心の中に質的実体として存在できるなら、当然普遍性は直感的に知ることができるし、抽象的という言葉の最初の定義に照らせば、そのような知識は直感的で抽象的といえる。」

と述べている。すなわち、普遍はまさに個別の認識から抽象されたもので、心的な実態として常に存在し、経験するときに感じる直感はここに由来すると結論している。

長い文章なので訳さずそのまま掲載するが、以下の文章では実際に経験しなかった歴史的事実も、実際にはそれを偶然経験した人から知識として得ることができると述べている。すなわち、普遍とは、自分自身の心的過程を通して実際の経験を抽象化するだけでなく、他の人の経験も自分の心的な内容として統合されたものだと明言している。

なんと革新的な思想だろう。中世とは思えない。17世紀近代を考えるときガリレオ題材に考えてみたい近代的科学の定義に近い認識にまでオッカムは到達している。すなわち、この文章には普遍性とは他人と自分の認識を統合するプロセスであることがはっきりと示されている。

オッカムが「心的内容」というとき、脳のプロセスを考えていたかどうかはわからない。おそらく違うだろう。ただこうしてオッカムを見てくると、脳の高次過程として現代の科学が理解していることを、「心的過程」として理解していることに驚く。だからこそ、普遍性やイデアが実態として、心の外にあるという荒唐無稽な考えを拒否できているのだ。

同じことが繰り返し述べられているだけだが、もう一つ文章を引用してみよう。

この文章の最後の部分では、「そのような普遍性とは心的な内容に他ならない。だからこそ、心の外にあるどんなものも出来事も、そのような普遍性ではあり得ない」と結論しているが、ここまで言えるのも彼が科学、論理、認識などを心的なプロセス(脳のプロセス)として解釈する革新性を持っていたからだと思う。

現在プラトンのイデアを文字通り信奉する哲学者はいないと思うが、しかし脳科学的に考えると、イデアや普遍性に対応する脳内の表象が私たちの個別の認識に介入することは当たり前のことになる。このことをオッカムはすでに理解していた。まさに、アリストテレス以降、最も偉大な哲学者といっていいと思うし、スコラ哲学に分類するのはやめたほうがいいとすら思える。

こんな先進的思想の持ち主が。当時のキリスト教教義の世界で生きられるとは私には到底思えない。実際「Philosophical Thinkings」に掲載されている「God’s Causality and Foreknowledge」、すなわち神学の核心問題についての議論を読んでみると、神が全てを知るというテーゼについて、実にのらりくらりと議論を繰り返し、「どうぞそうお考え下さい」とは言うものの、「・・・・だから、それは正しい」と言った明言は避けているように読める。これは、「未来の偶然事に関する神の予定と予知についての論考」でも同じだ。

例えば次の短いセンテンスを見てもらおう。

「いろいろ問題はあるが、神が将来のすべての偶発的な事実についても明らかに知っているという考えは保持する必要がある。ただ、どのような方法でそれが可能なのか、私は知らない・・・」

と突き放している。さらに次の文章では、神は過去、現在、未来についてすべて知っていたと述べた後、最後に「この結論は自然の論理からアプリオリに証明できるわけではないが、聖書や聖人の言葉としては証明されていることはよく知られている」、と皮肉っぽく述べている。

この言明自体は、従来の神学的ドグマを認めるものだが、しかしいくら読んでも積極的に主張しているようには思えないし、英国風皮肉に満ちている。

そろそろ結論にしよう。オッカムを「オッカムの剃刀」や「唯名論者」と言ったレッテルで理解してはならない。彼の思想の本質は、主観主義に立ち、主観が心的過程であることを理解し、それぞれの心的過程が、現在の世界だけでなく、過去、未来の人類と関連していることを理解していた点にある。アリストテレス以後、ローマで世俗化した哲学は、中世キリスト教により完全に滅亡した。スコラ哲学は、神の世界と世俗を二元論的に捉える革新性は持っていたが、アリストテレスの哲学の復興とは程遠い思想だった。しかし、オッカムに至ってついに中世の殻は破られた。彼の思想は、デカルト、ガリレオと言った17世紀近代科学思想を先取りするだけでなく、その後の英国経験主義の思想すら先取りしているのではないかと思う。

私自身も、長い中世からようやく抜け出せた気がした。