神経伝達速度がアクソンのミエリン化により維持されていることは神経科学のイロハだが、軸索がミエリン鞘と呼ばれる膜で包まれているのを電子顕微鏡写真で見ると、その美しさに感動を覚える。逆に言えば、このような美しい形態を維持することが簡単でないこともよくわかる。事実、神経損傷や多発性硬化症でミエリン鞘が傷害されると、再生には時間がかかる。また、老化により脱髄は進み、痴呆の原因になる。
今日紹介する中国四川大学と、米国シンシナティ子供病院からの論文は、HDAC3 阻害剤として開発されていた化合物 ESI1 がオリゴデンドロサイトの分化を促進してミエリン鞘形成を高め、多発性硬化症治療から老化脳でのミエリン化促進まで多様な効果を持つことを示した研究で、5月2日 Cell にオンライン掲載された。タイトルは「Small-molecule-induced epigenetic rejuvenation promotes SREBP condensation and overcomes barriers to CNS myelin regeneration(エピジェネティック若返りを誘導する小分子化合物は SREBP の相分離を誘導し中枢神経でのミエリン化の障害を突破する)」だ。
実に多くのデータが集まった論文なので、詳細は省いてポイントだけを紹介する。
この研究は、多発性硬化症(MS)の脳で、オリゴデンドロサイトは比較的正常に存在するのに、なぜミエリン化がうまくいかないのかという疑問から発している。MS 脳組織を解析した結果、ミエリン化に必要な遺伝子がエピジェネティックにサイレンスされていることを発見する。そして、このエピジェネティック変化を反映して分子マーカーを発現するトランスジェニックマウスを用いて、サイレンシングを解除する化合物をスクリーニングし、ヒストンアセチル化酵素 HDAC3 阻害剤としてインドで開発された化合物 ESL1 を特定する。この化合物は最初老化による認知障害を治療できることが示されていた。
後は発生過程、神経再生過程、そして MS で MSI1 の効果を調べ、オリゴデンドロサイトの分化を促進し、ミエリン形成能を高める結果、神経再生や、MS モデルマウスの再ミエリン化を促進し、症状を抑えることを明らかにしている。
次に培養細胞を用いて ESI1 が確かに HDAC3 を阻害することで、オリゴデンドロサイトをエピジェネティックにプログラムし直し、細胞分化だけでなく、細胞骨格の変化、そして何よりもミエリン形成に必要なコレステロール代謝に関わる酵素群の発現が再活性化されることを示している。
脂肪代謝システム活性化をさらに追求すると、HDAC3 阻害効果だけでなく、コレステロール代謝の核になる転写因子 SREBP 分子の核内での相分離を促進して転写活性を高めることも、ミエリン合成システムの促進に関わることも示している。ただ、この相分離の詳しいメカニズムについてはよくわからないが、スーパーエンハンサー形成と結びついていそうだ。
最後にもう一度生物学的効果の検討に移り、ヒト iPS 由来神経細胞オルガノイドで、ミエリン鞘の長さを延長できること、そしてインドからの論文が示したように、老化による認知機能が改善されるが、この効果が老化脳のミエリン化を再活性化させることによることを示している。
結果は以上で、これまで免疫を抑え、脱髄を抑制することに集中してきた MS 治療に、新しい治療可能性をもたらすとともに、アルツハイマーに並んで認知障害の原因になる白質障害の治療が可能になる可能性が示されたと思う。ESI1 が本当に薬剤として必要な性質を持つのか、他の細胞のエピジェネティックな状態の変化が問題にならないか、など検討項目は大きいが、MS、白質障害の新しい治療可能性が示されたことは極めて重要だと思う。
これまで免疫を抑え、脱髄を抑制することに集中してきた MS 治療に、新しい治療可能性をもたらすとともに、アルツハイマーに並んで認知障害の原因になる白質障害の治療が可能になる可能性が示された
Imp:
こんな切り口(治療法)があるとは。
無事、ヒト治験まで進んでほしいです。