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5月26日 黒い森の少女(5月21日号Scientific Reports掲載論文)

2015年5月26日
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1990年ドイツ再統一直後、統合された地域が東独時代の雰囲気を残す間に見ておこうと旧東独を旅行した。その時訪れたシューマンの生まれた町ツヴィッカウで、ドイツでは人気があるとはいえほとんど聴くチャンスのないイエッセルのオペレッタ「Die Schwarzwaldmädel(黒い森の乙女)」を聴くことができた。統一後とはいえ、まだまだ東側の生活が残っており、小さな町の劇場を使って、なんと旅回りのオペラ一座がこの演目を上演していた。演奏のレベルから考えても、いつかはこのような一座は消えていくのだろうなと感慨深く聴いた思い出がある。今日紹介するデンマーク国立博物館が5月21日号のScientific Reportsに発表した論文も黒い森の少女の話で、今から3500年ほど前、ドイツ黒い森とデンマークの間にすでに活発な人的交流があったという研究だ。もちろんオペレッタの個人的思い出とは無関係だが、私も黒い森の少女というだけでここまで連想するようになると、かなり耄碌してきたかもしれない。論文のタイトルは「Tracing the dynamic life story of a bronze age femail(青銅器時代の女性のダイナミックな生活を追跡する)」だ。私は知らなかったのだが、1920年、デンマークユトランド半島のEgtvedで極めて良い保存状態で少女のミイラが発見された。樫のお棺に埋葬された今から3000−3500年前の少女のミイラはEgtved girlとしてデンマークでは有名らしい。埋葬品や方法から、当時の有力者の家族と考えられていたが、この研究ではこの少女の身体、及び着衣などのストロンチウム87と86の比を調べ、この少女の出身地を調べている。ストロンチウム同位元素比は、地域の地質を反映しており、またそのまま体内に植物を通して摂取されるので、この少女がヨーロッパのどこで育ったかなどがわかる。また、爪や髪の毛のように常に成長している組織では、いつ頃どこにいたのかを推定することができる。結果をまとめると、1)この少女自身の組織、及び埋葬時に着せられていた着衣はEgtvedで作られたものではなく、南ドイツ黒い森近くの地質に似ている、2)着衣の飾りとして使われている牛の尾はEgtved産と考えられる、3)髪の毛や爪を成長時期で分けて調べると、この少女は黒い森で生まれ、Egtvedにおそらく嫁いできて、埋葬される1年半までには一度南ドイツに帰っている。DNAも調べているが、埋葬されていた酸性の土壌のせいで、ルーツを確かめるまでには至らなかったという結果だ。Egtvedと黒い森は1000kmほど離れているが、この結果は、3000年以上前の青銅器時代にはすでに、有力者同士の結婚が行われるほど両地域の密接な交流があり、またこのような少女でも1000km離れた実家に帰郷できるほど道が確保できていたことがわかる。気になってネットでドイツのメディアを調べてみたが、案の定各紙が大きく取り上げていた。論文を詳しく読むと、この同位元素比から黒い森が特定できるわけではなく、南ドイツの広い範囲が候補として考えられる。わざわざ黒い森の少女と名付けたのは、イエッセルのオペレッタが著者の頭にもあって受けを狙ったのかもしれない。

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