鉄は細胞外から細胞内、細胞内から細胞外、あるいはミトコンドリア膜の外から内へ、と様々動きを見せる重要な金属イオンで、この輸送には様々な分子が関わっているが、これら分子に変異が起こると、鉄欠乏症で様々な異常が起こる。一番よく知られた異常は鉄欠乏性の貧血だ。
この研究では、輸送が滞ると、トランスポーターの前後で鉄イオンの濃度差が大きくなるはずで、鉄と結合し細胞膜を自由に通過する化合物が見つかれば、トランスポーターがなくとも勾配を利用して鉄を細胞内外に輸送できるはずだと考えた。
この可能性を確かめるため、細胞外の鉄を吸収するときに使う分子コンプレックスが欠損した酵母を用いて、鉄の吸収を可能にする低分子化合物を探索している。この結果、なんと戦前に台湾の大学で研究していた野副博士によって発見されたヒノキチオールが鉄の吸収を完全に回復させることを突き止めた。
構造解析の結果、鉄にヒノキチオール3分子が結合し、そのまま細胞膜を通過することが明らかになった。そこで、哺乳動物の鉄吸収に関わるDMT1分子が欠損した上皮細胞での鉄吸収をヒノキチオールが回復させることを確認している。また、DMT1欠損赤芽球細胞株を用いて、鉄吸収が回復するとヘモグロビン合成も正常化することを示している。
驚くのは、ヒノキチオールの作用が細胞外から細胞内への吸収だけでなく、例えば細胞内から細胞外への鉄輸送に関わるFPN1分子や、ミトコンドリア内への鉄輸送に関わるMfrn1分子の欠損も、ヒノキチオールで代償できることがわかっている。すなわち、トランスポーターが壊れ、鉄イオンの渋滞が存在するところでは、ヒノキチオールが交通整理をしてくれるというわけだ。
最後に、DMT1欠損ラット、あるいはFPN1欠損マウスを用い、鉄の輸送を調べると、ヒノキチオールで鉄吸収がほぼ正常化することを確認している。また遺伝子発現を低下させる実験が容易なゼブラフィッシュの発生過程を用いて様々な鉄輸送分子のノックダウンを行い、その結果起こるヘモグロビン合成異常をヒノキチオールが正常化できることを示している。ヒノキチオールはほとんど毒性がなく、またこの作用は鉄分子の渋滞があるときだけ見られるので、臨床にも使いやすいだろう。
鉄だけでなく、様々な分子の輸送が異常になる病気は多い。ストーレージ病と呼ばれる病気も、同じ様な発想で治療が可能になると素晴らしいのではと期待する。
最後にヒノキチオールのことを調べていて、これを発見した野副博士の名前が鉄男であることが分かった。わたしも科学者だが、それでも不思議な因縁を感じる。
野副鉄男博士とヒノキチオール
不思議な関係があるものですね。
遺伝子の機能が失われる突然変異による病気は、遺伝子治療しか方法がない様に思ってしまうが、分子の機能と生理学について理解できると、意外な解決策が見える場合がある。
→多様な視点からの粘り強い研究の重要性が理解できます。