私が医学部に入学した1968年は札幌医大で和田心臓移植が行われたが、和田さんが殺人罪で告発されたこともあり、その後我が国では「脳死は人の死か?」についての国を2分する議論が続いた。この結果臓器移植法が制定されるのは1997年まで実に30年近くかかることになる。
医学部を目指していたからか、私自身は脳死を人の死とすることは当然のことだと考えていたし、移植という医療に特に違和感を抱かなかった。その後、今度はヒトES細胞樹立の条件を議論する側に回って、科学技術会議の「ヒト胚研究小委員会」の委員として、胚は人間かの議論に参加した。この際、受精卵を滅失するという行為を脳死議論と比べる機会があり、改めて日本が死体を大事にする儒教文化に強い影響を受けていることを認識した記憶がある。
いずれにせよ心臓移植は、身体の死、すなわち心臓死を前提としては成り立たない。これは、動物を用いた前臨床研究が進んだ頃から認識され、脳死を人の死とする議論が各国で始まったようだ。今日紹介する米国ハーバード大学Troug博士の意見論文は、米国で脳死という概念がどのような歴史をたどって今に至るかをうまくまとめた論文で、6月7日米国医師会雑誌にオンライン出版された。タイトルは「The 50-year legacy of the Harvard report on brain death(脳死についてのハーバード大学レポートの50年の遺産)」だ。
この論文を読むまで米国で最初に脳死を正式に定義したハーバード大報告が1968年8月に発表されたことを知らなかった。この意見論文はハーバード大報告が50周年になるのを記念して書かれたものだが、私が医学部に入学した年と重なることを知り、感慨が深い。
今日は書かれた内容を淡々とまとめる。
脳死の定義の必要性は、1)人工呼吸器の発達で脳幹の機能が失われても身体を生存させることができるようになり、生命維持装置を外す判断が求められたこと、2)心臓以外の臓器移植の成功が続き、心臓移植の前臨床研究がほぼ終わったこと、の医学的理由から始まった。
これに対応して1967年Beecherを議長とする委員会が研究者主導で形成され、「蘇生の可能性のない昏睡とは何か」についての1年間の議論がハーバード大報告として発表される。
この時、「24時間、患者さんが刺激に反応せず、自発的に動かず、呼吸せず、反射がないという症状に、脳波で脳の活動が全く記録できない場合を脳死とする」と定義される。
アメリカは合衆国なのでこのようにまず民間主導で話が進むのだろう。その後、この脳死定義を基礎に、1970年のカンサス州を皮切りに、各州で脳死の定義と、臓器移植に関する法整備が進んでいく。報告が発表されて2年で州レベルの議論が進むというのは迅速だ。
1981年になって初めて、国として死を一律に定義する法律UDDAが成立し、死は、1)心肺機能の不可逆的停止、2)脳全体にわたる完全機能停止、と定められる。ただこれはあくまでも国の方針で、この法律を運用しやすいよう様々な条項を加えた独自の法律を制定している。
おそらくわが国でもそうだが、アメリカでは移植を別にすると厳密な脳死判断なしに生命維持装置を外すことが一般に行われるようになり、この法律はもっぱら臓器移植のための法制度として機能するようになった。その結果、現在では8000例を越す脳死による移植が行われている。
ただ、脳死の概念自体はその後も議論され、アップデートされている。なぜ脳死と身体死を統合する試みが行われ、1981年にはBernat委員会では、「脳が身体の複雑な機能を調整する唯一の臓器である」とする考えが示される。
しかし、その後脳死と診断されて蘇生するケースはなかったものの、生命維持装置だけで20年生物学的生命が維持されるケースが出たため、脳と身体の関係がもう一度議論され、最終的に「有機体」としての人間にとって脳は欠かせないという考えが受け入れられるようになった。
以上が論文の内容で、ハーバード大報告は米国医療を支える一つの重要な概念として、大きな遺産を残したという結論だ。
個人的には医学部入学と重なって、特に感慨が深いが、議論をよく読んでみると、17世紀デカルトが二元論で心と体を別々の人間の条件として定義したことから議論が始まり、ライプニッツを皮切りに両者を新たに統合するための議論が始まり、18世紀「有機体論」の概念が生まれた歴史が繰り返されることに気づき、この背景にヨーロッパの長い歴史遺産があることにも驚いた。倫理問題は、各国の歴史から切り離しては存在しないことが改めてわかる。