事実、名前の由来を聞いて「エ!」と驚いて、2度と忘れない分子もある。その一つがKisspeptinで、最初メラノーマの転移を抑制する分子として発見された。その後この受容体がG-タンパク質共役受容体であることを、武田薬品の研究室におられた故藤野さんたちが特定する。私がKisspeptinを初めて目にしたのは、藤野さんたちがNatureに発表した論文だが、なぜ転移を抑制する分子にこんな名前が付いているのか不思議に思った。
今日紹介する論文を読みながら気になってもう一度調べ直すと、Wikipediaには、この分子が発見された町Hersheyの有名なお菓子Hershey’s Kissにちなんで命名されたことがわかった。
この色気のある名前が幸いしてか(?)、この分子の研究はその後大きな転換を遂げる。2014年7月23日にこのホームページで紹介した論文では、視床下部で分泌される新しい性ホルモンとして、排卵誘発剤で誘導される卵の成熟度をあげることが示されていた(http://aasj.jp/news/watch/1907)。
まさにKisspeptinという名前にふさわしい機能が後からついてきたことになるが、今日紹介するロンドンのインペリアルカレッジからの論文は、この名前にさらにふさわしい機能を発見した極め付きの論文でJournal of Clinical Investigation オンライン版に発表された。タイトルは「Kisspeptin modulates sexuall and emotional brain processing in human (Kisspeptinは人間の性的感情のプロセスに関わる)」だ。
Kisspeptinは性ホルモンに関わる視床下部だけでなく、感情のプロセスに関わる大脳辺縁系にも発現が見られる。この研究では最初から、Kisspeptinが辺縁系の刺激を通して性的興奮にかかわるのではないかとあたりをつけて、25人のボランティア男性の脳の反応を機能的MRIを用いて調べている。
実験はまずKisspeptinを静脈注射しても性的興奮に関わる男性ホルモンやオキシトシンの血中濃度は変化しないことを示した上で、被験者にセックス中のカップルの写真、セックスなしに抱擁しているカップルの写真、男女関係とは無関係の喜んでいる写真などを見せ、写真を見た時起こる辺縁系の興奮がKisspeptinで増強されるかMRIで調べている。
詳細を省いて結論のみまとめると、セックス中のカップルを見た時、辺縁系の様々な領域が興奮するが、左の扁桃体、前後の前帯状皮質の興奮が特に増強される。面白いのは、写真だけではあまり興奮しなかった人の方が、Kisspeptinの効果が高いことだ。
また同じ反応はただ抱擁しているカップルの写真を見せた時にも起こる。したがって、よりプラトニックで精神的な興奮に関わるようだ。
無関係の写真や、あるいは同じ写真のネガを見せても反応は起こらないし、また実際の精神的興奮度にKisspeptinは影響がなく、効果はMRIで初めて把握できるようだ。
ではなぜKisspeptinにこのような効果があるのか?これについては全く説明できていない。研究ではKisspeptin注射により前帯状皮質の周りにある、気持ちを憂鬱にさせる場所が刺激されることから、悪いムードを抑え、いいムードをあげる効果があると議論しているが、結論にはさらに研究が必要だ。
いずれにせよ、性的な効果など全く想定せずにつけた名前が一人歩きして、今やガン領域ではあまり注目されず、性的興奮を高める効果に注目されるようになるなど、Kisspeptin以外には聞いたことがない。恐るべし唯名論。