2020年6月17日
細菌叢の研究が進んでから、善玉菌と悪玉菌という概念が定着し、善玉菌を摂取して悪玉菌を駆逐するという理屈で、多くのプロバイオ製品が売られている。中でも発酵に関わる乳酸菌はプロバイオの王様といえる。科学が進む以前からの伝統もあり、病気と一定の相関を示すこともある程度わかってきた。ただ、善玉菌の条件を示すことは簡単ではない。おそらくプロバイオ研究は、今コマーシャルで行われているような話ではなく、食と健康を考える21世紀の大テーマだと思う。
今日紹介するベルギー・アントワープ大学からの論文はちょっと変わった観点から乳酸菌の中のLactobacillusを調べた研究で、5月25日号のCell Reportsに掲載された)。タイトルは「Lactobacilli Have a Niche in the Human Nose (Lactobacillusは人間の鼻腔にニッチを持っている)」だ。
この研究の目的は鼻腔の細菌叢を変化させて慢性鼻炎を軽減するためのプロバイオは可能か調べることだ。ただこの研究では伝統的に善玉菌として扱われてきたLactobacillusに焦点をあて、正常人と鼻炎患者でLactobacillusの存在容態が異なるかを調べている。
まずLactobacillusは少数ながら鼻腔にも存在することがわかる。そして期待通り、鼻炎患者さんではLactobacillusの存在頻度や量が低下していることがわかった。そこで、正常人鼻腔からのLactobacillusを分離培養を試み、大きく4亜種、100菌株の培養に成功している。実際には他の増殖の早い細菌が存在するため、この作業は簡単ではなかったようだ。
これらすべてのゲノムを調べ、それぞれの関係を調べたところ、驚くことに分離された菌株のほとんどは、多様性に乏しく、おそらく食品、特にヨーグルトなどを通して摂取した乳酸菌が鼻腔にも居着いたと考えられる。
しかし鼻から分離されたL caseiとL sakeiは、これまで知られている細菌から大きく変異していることも同時に明らかになった。この理由は、鼻腔という新しい環境に適応したと考えられる。
この研究ではその適応として、鼻腔のように酸素分圧の高い場所で生存するために強化された、カタラーゼなどの活性酸素の毒性を低下させるメカニズムとともに、洗い流されずに鼻腔に粘着する性質についても調べ、鼻腔に適応した菌株では線毛と呼ばれる細菌が細胞に接着するときに必要な構造に関わる遺伝子を発現していることを明らかにしている。
こうして鼻腔に適応したLactobacillusとして培養されたのは、馴染みの深いL caseiになったが、これが典型的な悪玉菌とされている、緑膿菌、ヘモフィリス菌などの増殖を抑制することを確認している。また、病原菌による炎症性サイトカインの分泌をLactobacillusが抑制できることも示している。
最後に、L caseiには抗生物質耐性が存在しないことを確認した上で、実際の鼻腔に投与する人体実験を行っている。鼻に噴霧後、5分、10―16時間、そして2週間目に鼻腔に噴霧したL caseiが存在するか調べると、10時間ぐらいまでは存在すること、また噴霧直後では他の細菌の量が低下することも確認している。
もちろん治療実験までには至っていないが、乳酸菌を鼻に噴霧しても重大な副作用はない。ただ、鼻水、鼻づまりは投与を受けた多くの人に見られたので、今後の課題になる。
以上が結果で、Lactobacillusに最初から決めてはいるが、鼻腔から段階的に善玉菌を取り出し、その臨床応用を目指すという点では、なかなか好感が持てる研究だった。
2020年6月16日
6月の終わり、短い時間だが妊婦さんたちと対話をすることになった。これまで、妊娠と新型コロナ感染についてはあまり論文を読んだことがなかったので、まずPubMedでCovid-19 & Pregnancyとインプットすると、なんと340もの論文がリストされた。そこで6月に発表された論文に限ってざっと目を通すと、何事についてもまだ結論を出す段階ではないと言える。ただ当然とはいえ、多くの妊婦さんが新型コロナウイルスに感染し、出産されていることはよくわかった。
もちろんしっかりとした統計を待つ必要があるが、日本産科婦人科学会の英文誌に、アイルランド、イスラエル、インドの研究者が発表した総説(5月7日に論文が受理されている)を読むと(上掲論文)、妊婦さんの心配に少しは答えられる次のような結果が示されていた。
妊娠していることで感染リスクが上がる可能性を示す証拠はない。 感染により発生異常が発生した報告はほとんどない。 胎児期および出産時に母親から胎児へ感染が広がる確率は低い。
とは言え、妊娠しているからといって病気の重症化が防げるわけではないので、産科医の側で利用できる治療方法を決めておく必要があるとおもう。
この総説で積極的に推奨しているのは、血栓防止のための低分子量ヘパリンの服用だけで、あとは薬剤の紹介でとどめている。副作用を考えると、当然の結果だ。しかし重症化する患者さんがいる以上、薬剤を用いる治療は重要になる。
個人的意見として聞いてほしいが、これまで様々な治療論文を読んできて、胎児に影響がほとんどないと思えるのが、中和抗体による治療だ。回復した方々からの血清、ガンマグロブリン、そしてモノクローナル中和抗体などが利用可能になると思うが、是非産科学会レベルで、これらの治療法の可能性を優先的に検証して欲しいと思う。
さて、論文を探している時、出産のために入院された妊婦さんの新型コロナ感染率を調べた4編の論文が気になった。
最初はニューヨークコロンビア大学から5月28日The New England Journal of Medicineに掲載された報告で、3月22日から4月4日までに入院した215人の妊婦さん全員にPCR検査をしたところ、驚くことに13.5%の方が無症状だがPCR陽性、1.9%の方はPCR陽性で発症していたことがわかった。
この論文で示されたニューヨークの高い感染率を裏付けているのがAmerican Journal of Obstetricsにオンライン発表された論文で、ニューヨーク大学ロングアイランド校附属病院に3月30日から4月12日までの間に出産のために入院した妊婦さん161人について行ったPCR検査の結果で、なんと32例(19.9%)がPCR陽性、そのうち11例が発症していたという結果だ。
一方、もう少し感染が落ち着いた時期で、しかもボストンになると感染率は低いことがハーバード大学からInfection Control & Hospital Epidemiologyオンライン版に報告された論文からわかる。マサチューセッツ総合病院を始めハーバード大学に属する病院に4月18日に入院していた出産を控えた妊婦さん757人全員にPCR検査を行ったところ、なんらかの症状を訴えたのが139例(18.4%)で、そのうち7.9%がPCR陽性だった。一方無症状の妊婦さんは618例(81.6%)で、そのうちPCR陽性は9例(1.5%)という報告だ。このことから、ニューヨークの感染状況の深刻さがうかがえる。
では我が国ではどうか? 6月4日慶應病院の産科からInternational Journal of Gynecology and Obstetricsオンライン版に発表された、慶應大学病院に入院した患者さんについての報告が参考になる。
この報告によると、4月6日から27日に慶應病院産科に入院した患者さん52人にPCR検査が行われ、2例(3.8%)が無症状だがPCR陽性だったという結果だ。
それぞれの研究で、陽性者は別の病室に移され、出産しているが、これまでのところ新生児への感染や目立った影響は認められていないという結果だ。いずれにせよ、流行期には妊婦さんも同じように感染する。感染が落ち着いた今こそ、妊婦さんが感染し、場合によっては発症した時の対処方法を決めておくことが重要だと思う。
最後に4編の論文を読んで、我が国の未来を背負う子供達が生まれる産院では、当分全員にPCR検査をしたほうがいいのではと個人的には感じた。
2020年6月16日
ゲノム研究が歴史研究であることを私にはっきりと認識させたのは、2014年ロンドン大学の研究グループによって、今生きている人のゲノムを解読するだけでヨーロッパとアジアの交流史が明らかになることを示した論文だ。この中では、なんとジンギスカンの遠征によるモンゴル族のゲノム流入の時期が、ゲノムから正確に推定できることが示されていた。
この衝撃は大きく、今もゲノムについて講義する時この論文を使っているが、6年以上経った今でもインパクトは色褪せない。
これらの研究は、ゲノム研究から明らかになった一塩基多型SNPを用いて、ゲノムの交流を調べているが、形質の変化という点では、欠損、挿入、重複といった大きな構造変異の方がインパクトがある。ただ、これらの変異は、病気を起こすようなまれな変異を除くと、特定するのが難しい。
今日紹介するウェルカムサンガー研究所からの論文は世界様々な地域から得た911人の全ゲノム配列解析を、GRCh38と呼ばれる1000人ゲノムなどを参考に決定されたレファレンスと比較して大きな変異を集め、その分布を調べた研究で7月3日号Cellに掲載予定だ。タイトルは「Population Structure, Stratification, and Introgression of Human Structural Variation (ヒトの構造遺伝変異の人類構成、階層性、そして流入)」だ。
この研究で明らかになった構造変異の7割以上がこれまで発見されていないということで、大きな集団の解析に、このような構造変異を使うことの難しさを示している。何れにせよこの研究では13万近い構造変異を特定することができ、この13万の変異の各人種ごとの分布を調べると、人種ごとに明確な違いがわかる。さらに、欠損変異でを取り出して見ると、例えばアフリカの人種の中でもさらに細かい人種の違いと対応することが明らかになった。
このように人種の分離をゲノム構造変異で行える最大の理由は、このような変異のなかには、レアバリアントではなく、人種によっては多くの構成員に見られるコモンバリアントである点だ。その例として、この研究ではデニソーワ人の遺伝子流入率の多いオセアニアの人種について詳しく調べているが、8割以上の人に見られるような変異も発見されている。
いくつかについては進化との関わりを推察している。面白い例をいくつか紹介すると、例えばヘモグロビンの転写に関わるHBA2遺伝子の欠損は、高地に住むパプア人では全く見つからないが、ほとんど同じパプア人でも低地に住む人たちには8割以上に見られる。おそらくこれはマラリア抵抗性として選択されてきた。
あるいはNGAMと呼ばれるデンプン消化に関わる遺伝子上流の欠損はブラジルのカリチア人の4割に見られ、その食生活に関わる。
最後に、レトロウイルスなどに対する抵抗性を抑える方向で働くSIGLEC5遺伝子が54%の中央アフリカのムブティ族で欠損していることは、免疫が高まる危険をおかしてもウイルス免疫を高める方が良かったことを示唆している。
もちろんこのような変異のなかに、ネアンデルタール人やデニソーワ人由来の変異があることも確かめている。例えばデニソーワ人に認められる16番染色体上の重複変異は、ほとんど全てのオセアニア人に維持されている。またアメリカ現順民の26%に見られるMS4A1のエクソン欠損はネアンデルタール人由来で、なんとB 細胞の重要遺伝子CD20 をコードしている。
他にも種族特異的な遺伝子コピー数の増加など詳しくは説明できないほど、面白い発見に満ちていると言える。すなわち構造変異は形質へのインパクトが高く、それだけ面白い。
以上、民族形成を考える意味で大きな進歩だと思う。さらにこの研究から、レファレンスゲノムもさらに進化する必要が示唆された。これにより、さらに構造変異の発見が容易になり、ゲノムの人類史も面白くなる。
2020年6月15日
当分旅行は難しくなったが、アフリカ旅行の醍醐味の一つは、毎日毎日、毎時間、毎時間見たこともない鳥に出会えることだ。この多彩、多様な模様や羽色が形成されるメカニズムを理解しようとしても、どこから手をつけていいか途方にくれるだけだと思うが、こんな課題に果敢にチャレンジしている人たちがいる。
今日紹介するポルトガルポルト大学を中心とする研究グループからの論文は、羽色が大きく変化させるメカニズムの一端を明らかにしたオススメの論文で6月12日号のScienceに掲載された。タイトルは「A genetic mechanism for sexual dichromatism in birds (鳥のオスメスの羽色のパターンを形成する遺伝的メカニズム)」だ。
研究ではオスメス共に同じ黄色の羽を持つカナリアと、オスだけが真っ赤な羽色をもつショウジョウヒワを掛け合わせたF1に、カナリアのバッククロスを繰り返すことで作成された、赤い色彩の分布がオスメスで大きく違う形質を安定して示す交雑種を用いて、この違いを生み出す遺伝的変異を特定しようとしている。
基本的にはバッククロスにより、ショウジョウヒワの一部の遺伝子がカナリアに流入することで、この形質ができたと考えられるので、カナリアとショウジョウヒワ、そして新しい交雑種の全遺伝子配列を解析し、新しい形質に関わる遺伝子の特定を試みている。
その結果、赤や黄色の色彩の元になっているカロテノイドを分解するBOC2と呼ばれる酵素遺伝子をコードする領域がヒワからカナリアに移っていることが確認された。さらにこの遺伝子の発現をオスメスで比べると、赤い色の分布の少ないメスで発現が上昇していること、そしてオスメス共に、色素のない羽に強く発現していることが明らかになった。すなわち、赤い色を壊す酵素の発現パターンが、羽色の分布を決め、またオスメスの違いを決めていることを示している。
以上のことから、羽色の分布という極めて複雑な形質も、BOC2遺伝子の発現調節を調べることでかなり理解できるのではという期待が持てる。
最後に、野生の鳥の羽色の分布を決める遺伝子を特定するために、オスメスの羽色の分布が大きく違うヨーロッパセリンやハウスフィンチの羽に発現している遺伝子を比較し、いくつかの候補遺伝子がリストできることを示すと共に、ヨーロッパセリンではヒワと同じようにBOC2を、オスメスの差を生み出す遺伝子として使っていることも明らかにしている。
残念ながら、複雑な模様ができるための遺伝子調節にまでは至っていないが、しかし一つのメージャーな遺伝子の調節領域の解析で、模様の形成という複雑なメカニズムに大きく近づけるという期待は湧いてくる。
2020年6月14日
私たちの細胞は概日リズムを刻んでおり、その結果活動期と休息期を繰り返していることから、薬剤による治療もこれに合わせて行うべきという話をよく聞く。しかし、細胞レベルでこの効果をはっきりと示した論文はあまり見たこともない。
今日紹介するハーバード大学からの論文は、単純な実験だが薬剤の効果を確かめるためにはやはり細胞の活動性を考慮して効果を調べる必要があることを示した研究で6月3日Natureにオンライン掲載された。タイトルは「Potential circadian effects on translational failure for neuroprotection (神経保護剤のトランスレーショナル研究がうまくいかないのは概日リズムが関わっている可能性がある)」だ。
この研究の目的は脳梗塞に対する神経保護薬を開発することだ。広く知られるようになったが、拘束後できるだけ早く血栓除去をtPAなどを用いて行うことで、梗塞による神経障害を抑えることができる。ただ、これは血流再開の時間を短縮する治療法で、低酸素による神経細胞氏を守るものではない。
これまでの研究で、高酸素治療を始めとして、ラジカル除去剤、グルタメート受容体阻害剤などがマウスやラットを用いた研究で神経保護作用があることが示されており、実際に臨床で試されたものもあるが、残念ながらトランスレーション研究段階で全て効果が認められないという残念な結果で終わっていた。
著者らは、マウスの実験もヒトの治験も全て昼間に行われているが、人間とマウスでは活動性が昼と夜で逆なので、細胞はそれぞれ活動期と休息期にあるはずで、この差が保護剤の効果の違いの原因ではないかと着想した。
そこで、夜活動期のマウスやラットを用いて、血流遮断、再灌流実験を行うと、昼間では効果があった神経保護剤の効果がほとんど消失することがわかった。すなわち、保護剤は概日リズム上、休息期にある場合のみ効果がある。この結果から、人間でも夜間休息期に卒中が起こる場合は別だが、昼間に起こる卒中に神経保護剤が効かないことはうなづける。さらに、卒中の90%以上は昼間に起こるので、ヒトでは保護剤が聞かないことになる。
この概日リズムに従う差が細胞レベルで起こっているかどうかを、マウスの皮質ニューロン培養で確かめている。概日リズム遺伝子Per1,per2をデキサメサゾンで誘導し、高い時を活動期、低い時を休息期として、酸素とグルコース遮断を行い、この時の保護剤の効果を調べると、大きな差ではないが休息期のみで効果がみられる。さらにこの効果が、細胞死のカスケードを抑えることで起こっていることも明らかにしている。
以上が結果で、細胞の実験は差が小さいため、他にも要因があるかもしれないが、私たちの細胞がいかに概日リズムを取り込んで生きているかがよくわかった。簡単な実験だが、着眼点は面白い。
2020年6月13日
病気の原因になる遺伝子が特定されても、特徴的な症状が発症するメカニズムが理解できないと、治療法の開発は難しい。結果、自ずと遺伝子編集で遺伝子を元に戻す、あるいは正常遺伝子を補充する、あるいは異常遺伝子を除去するなどの遺伝子治療が、治療法開発のゴールになる。
しかし、どんなに複雑なメカニズムでも、鍵となるプロセスを理解できると、治療法開発が可能になる場合がある。今日紹介するイエール大学からの論文はそんな例で、症状と遺伝子を繋ぐメカニズムがまだまだわかっていないレット症候群の鍵になる一つの過程を特定して、症状を軽減できる薬剤を発見したという研究で、7月2日号のMolecular Cellに掲載された。タイトルは「Dysregulation of BRD4 function underlies the functional abnormalities of MeCP2 mutant neurons (BRD4機能の調節異常がMeCP2変異を持つ神経細胞の機能異常の背景にある)」だ。
レット症候群はX染色体上のMeCP2遺伝子の機能低下をきたす突然変異によって起こることがわかっているが、治療を考える時様々な障害がある。まずMeCP2自体メチル化DNAに結合することはわかっているが、メチル化されたDNAはゲノム上に無数に存在し、多数の遺伝子の発現が変化することから、症状と遺伝子の対応がつきにくい。さらに、この分子が欠損すると致死的なため、男性には見られず、X染色体を2本持つ女児でだけで見られる。通常の遺伝子と異なり、X染色体は一つの細胞で両方が働くのではなく、どちらか一本が不活化されるという特殊な方法で発現が決まる。逆にいうと、ここの細胞ではどちらかのX染色体が働いていることになる。従って、 レット症候群の女児では、正常遺伝子を持つX染色体を使っている細胞と、異常遺伝子をもつX染色体を使っている細胞が混ざって存在していることになる。このため、遺伝子操作も含めて異常を治そうとすると、正常の細胞まで影響を受ける心配がある。いずれにせよ、これらのハードルは発症メカニズムをしっかり理解することなしに克服することはできない。
この研究の一つのポイントは、男性由来のヒトES細胞のMeCP2遺伝子を遺伝子操作により変異させ、この細胞から神経細胞を誘導して使っている点だ。これにより、患者さんの細胞を用いることでは不可能な、全ての細胞が変異を持つという実験系を作っている。
こうして準備したMeCP2変異神経細胞の遺伝子発現を調べると、多くの遺伝子の発現異常が見られる(変化のうち6割は発現が上昇している)。従って、一個一個の遺伝子をしらみつぶしに正常化することは不可能だ。
この研究のもう一つのポイントは、この大きな変化全体を元に戻せる薬剤のスクリーニングを行なった点で、この結果BRD4とよばれる染色体構造調節に関わる最も重要な遺伝子の機能を抑制するJQ1を見つけることができた。そして、このJQ1を道具として利用して、MeCP2はメチル化DNAに結合してBRD4の結合を抑えて神経分化や機能を調節している。ところがレット型MeCP2変異があると、BRD4のゲノムへの結合が上昇し、ゲノム全体にわたる遺伝子発現異常が起こる。従って、MeCP2の変異はそのままでも、BRD4の結合をゆるく抑えることで、遺伝子発現を正常化できる。
詳しく見ると、発現に変化が起こる遺伝子の数は2000個近くで、これらの全てを正常化できるわけではないが、発生や機能に関わる重要な遺伝子の発現を正常化できているので、治療に使える可能性がある。
最後に、レット症候群モデルマウスにJQ1を投与する実験を行なっている。先に述べたが、X染色体遺伝子の発現の特殊性から、マウスの体は正常細胞と異常細胞が混ざって機能している。従って、異常細胞を正常化させることは、正常化細胞が異常になる心配がある。この研究ではそのバランスをとるため、低い濃度のJQ1を投与し続ける実験を行い、完全に正常化は難しいが、寿命を50%のばせること、神経症状をかなり抑えられることを示している。
もちろんこのままヒトにも同じ効果があるかはわからない。しかし、ヒトES細胞を用いた検討から少なくとも試験管内の効果は確かめられていること、さらに紹介は省いたがES細胞由来の脳オルガノイド培養でも効果が確かめられていること、そしてガンに使う量と比べると少ない量で効果があることなどから、治験まで行くのではないかと期待している。
2020年6月12日
これまで新型コロナウイルスの細胞内侵入経路については、スパイクタンパク質のS1部分に結合するACE2と、S2タンパク質を切断して、膜融合に関わるペプチドを遊離させるTMPRSS2を中心に研究が行われてきた。ただ、SARSと新型コロナのスパイクタンパク質の比較から、新型コロナウイルスにはホストに存在するもう一つのタンパク分解酵素Furinによる切断サイトがあり、しかもFurin切断部位の変異が高率に起こることが知られていた。Furinによる切断サイトは多くのウイルスにも存在し、Furinを阻害すると新型コロナの感染効率が落ちることが知られていたため、Furinにより切断後に残るS2タンパク質とホスト側の分子がウイルス侵入に関わるのではと予想されていた。
今日紹介したいのは、1編はブリストル大学から、もう一編はミュンヘン工科大学からの論文だが、いずれもFurin切断サイトよって生まれるS2領域C末が血管増殖因子の一つneuropilin1に結合してウイルス侵入を媒介することを明らかにした研究で、いずれも正式論文ではないがBioRxivに掲載された。両方とも重要な貢献なので、おそらくすぐにトップジャーナルに掲載されると思う。とりあえず、それぞれの表題をBioRxivから転載しておく。
用いられた方法や、研究の焦点などは異なっているが、両論文ともFurin切断によりS2タンパク質C末にC-end法則と呼ばれるneuropilin-1結合部位が生まれることに着目し、neuropilin-1がウイルス侵入の受容体として働くかを調べている。
結論的にいうと、TMPRSS2が存在すればneuropilinも新型コロナウイルス侵入の受容体として働けること、侵入効率はACE2+TMPRSS2に劣るが、ACE2非存在下でもneuropilin+TMPRSS2だけでもウイルス侵入を媒介できること、そして両方が同時に存在すると、ウイルス侵入効率が促進されることを示している。
この発見は極めて重要で、例えばモノクローナル抗体を用いる治療や、ワクチンについてもこの結合も抑制できるよう設計する必要が出てくる。生物学的には、furin切断サイトのないSARSとの感染性の違い、神経細胞や血管内皮細胞にも感染する新型コロナウイルスの伝播経路などを理解する新しい鍵が示されたと思う。
これに加えて、ブリストル大学からの論文ではneuropilin1とスパイクの結合に関する構造解析が詳しく行われており、おそらくペプチドなどを用いた結合阻害剤の開発に重要な情報になる。
一方ミュンヘン工科大学からの論文は、
スパイクとneuropilin1の結合を阻害するモノクローナル抗体を開発し、将来の治療への道を開いたこと。 嗅上皮にはACE2,neuropilin,TMPRSS2の全てが発現しており、最初の侵入経路になっており、この結果嗅覚機能喪失が初期症状になること。 嗅上皮だけでなく、嗅覚中枢細胞にも同じように全ての受容体が発現し、これが脳への感染ルートになること、 スパイク自体がneuropilinを刺激して血管の透過性を上昇させる可能性もあること、
などを明らかにしている。いずれの論文でもneuropilin単独でもウイルス侵入を助けることも示されており、これにより血管内皮への感染も説明がつく。コロナウイルスの複雑な伝播経路解明だけでなく、新しい治療方法開発にも重要な貢献だと思う。
2020年6月11日
私たちの視覚は、現実の対象を見たり思い出したりする回路とともに、それを抽象化・言語化して記憶する回路の両方を持っている。例えば絵画などは両方が関与して成立していると言っていいだろう。さらに言葉にすることで、複雑な視覚認識の記憶が促進できるのも、両方が統合されているおかげだ。この全体が統合された表象こそが私たちが「知識」と呼ぶ記憶といえる。
今日紹介する北京師範大学からの論文は生まれつき完全に視力のない人が、色や形を言葉を基盤に認識する際の脳活動を、正常視力の人と比べた研究で、「言葉による視覚」の研究といってもいいだろう。タイトルは「Two Forms of Knowledge Representations in the Human Brain (人間の脳での2種類の知識の表象)」だ。
この目的には、私たちが色と形を思い浮かべた時に活動している脳と、全盲の方が同じ課題を行った時活動している脳の違いと共通性を調べる必要がある。研究では、果物や野菜の名前を聞いた時、その色について赤、黄色、緑、紫の4色のどれかに分類してもらうという課題を使っている。この時、赤と単色について答えてもらうだけでなく、赤と黄色が合わさっている、赤紫、などとその程度も答えてもらっている。
簡単だが素晴らしい課題だと思う。というのは、野菜や果物は触覚や味を通しても認識され、抽象化、言語化された認識と統合されており、より具体的な知識として存在すると考えられる。
結果は驚くべきもので、生まれつき全盲の人も、我々とほとんど同じ知識を持っているということがわかった。例えば、人参はトマトより黄色成分が多いと理解しているし、リンゴは赤と緑が混じって理解している。しかし、知識の多様性は全盲の人の方が大きい。すなわち、実際の視覚により普通は知識の幅が限定されるようにできている。いずれにせよ、言葉を通して色の配合まで頭の中に表象が形成されているのに驚く。
では、このような表象を支える脳内の領域はどこか?
この研究では抽象的な認識に関わる側頭葉前部と前頭前皮質下部に焦点を当ててまず調べて、全盲の人も正常視覚の人も強さの差はあるものの、果物の名前を聞いて色を思い浮かべる時には同じ領域が活動することを確認している。すなわち、抽象的な色彩の知識は、実際の視覚から得る場合も、言葉を通して得る場合も同じ領域に形成されることがわかった。
一方、正常視覚の人に見られる実際の色を感じる脳領域の活動は、当然のことながら全盲の人には全く存在しない。また、安静時の活動の同調性から領域間の結合を調べる検査により、正常視覚の人は視覚依存性の領域が抽象的に色を認識する領域と連合していることも明らかになった。一方、全盲の人ではこの領域が言語に関わる領域と強く結合していることもわかった。
以上が結果で、すなわち、言葉を通した視覚が存在することが明らかになった。
簡単とはいえ全盲の人と正常視覚の人の色の認識を調べるための課題を思いついたのがこの研究のすべてだろう。
2020年6月10日
タバコの発ガン性は、煙に含まれる様々な化学成分が突然変異の確率を促進するためで、タバコを吸う主な目的であるニコチン摂取自体は、ガン自体に大きな影響はないのではと思ってきた。事実この考えが、ニコチン以外の化学物質を減らす電子タバコの基盤になっているように思う。
今日紹介するWake-Forestバブテスト医療センターからの論文は、ニコチンがガンの脳内での増殖を促進する可能性を示して、ガンと診断されたらニコチン摂取をやめたほうがいいことを明らかにした研究でJournal of Experimental Medicineオンライン版に掲載された。タイトルは「Nicotine promotes brain metastasis by polarizing microglia and suppressing innate immune function(ニコチンはミクログリアの分化方向に影響して自然免疫を低下させ、ガンの脳転移を促進する)」だ。
この研究では、ステージ4の肺ガン患者さんを、今もタバコを吸っている人と、すでにやめている人に分けて脳転移の有無を調べ、ガン発症後も吸っている人では脳転移の確率が1.6倍も上昇していること、そして生存期間も大幅に短縮するという発見から始めている。
組織学的にタバコを吸っている人の脳転移巣を調べると、ミクログリアのなかでもM2と呼ばれるがん細胞の増殖を助けるタイプのミクログリアの数が上昇していることを発見する。
以上のことから、ニコチン刺激によりミクログリアの分化がM2へと引っ張られ、この結果脳転移したがん細胞の増殖が早まることが明らかになった。
あとは、ニコチン刺激がM2ミクログリアを誘導するメカニズムと、それによりガンの増殖が上昇するメカニズムを探ることになる。実際には、様々な要素が重なって脳内でのガンの増殖が促進することになるが、以下のようにまとめることができる。
ミクログリアはニコチン刺激により、Jak/STAT3シグナル経路が高まり、その結果としてM2型への分化が促進される。 M2ミクログリアはCCL20 ケモカインやIGF-1を分泌して、腫瘍、特に腫瘍幹細胞の増殖を高める。 一方、ニコチンはミクログリアの貪食や自然免疫を抑え、ガンに対する免疫が低下する。
以上が主なメカニズムで、それぞれの過程でニコチンの影響を元に戻す薬剤も発見しているが、結局はタバコをやめてニコチンを減らすことが、ガンの脳内の増殖を抑えるという話だ。いい忘れたが、これは脳内での話で、他の部位の転移にはニコチンは影響がない。
最後に、この研究はWinston-Salemにある研究所から発表されているが、言わずと知れたWinston-Salemはタバコの銘柄にもなっているほど、タバコ産業で栄えた街だ。その街でいまはanti-smokingの研究が行われていることを知ると感慨が深い。
2020年6月9日
光遺伝学の登場で、神経ネットワークの形成と機能についての理解は急速に進んだ。ただ、この実験系では各神経細胞を単純化した素子として扱ってしまって、刺激による細胞レベルの変化はどうしても見落とす。しかし神経活動は、細胞自体の生化学的反応、遺伝子転写、形態変化誘導などを通して、持続する記憶を形成できる。一個の細胞に様々なチャンネルや受容体が発現、それぞれが刺激依存的に調節されるからで、このことをエリック・カンデルは「記憶は神経細胞分化」と表現した。すなわち、ネットワーク解明と同時に、神経細胞文化の研究も進めていく必要がある。
今日紹介する中国中山医科大学と、ニューヨーク大学から発表された論文は、神経細胞が興奮を抑えられたことも長期に記憶できるメカニズムを明らかにした研究で、6月25日号のCellに掲載された。タイトルは「Neuronal Inactivity Co-opts LTP Machinery to Drive Potassium Channel Splicing and Homeostatic Spike Widening (神経細胞の活動停止は長期記憶のメカニズムを利用してカリウムチャンネルのスプライシングと恒常性維持のため興奮スパイクの幅を広げる)」だ。
まず、この研究では光遺伝学などの新しいテクノロジーは全く使われておらず、私が現役時代のテクノロジーのみで研究を行なっているのに驚いた。さらに、研究対象が神経興奮による記憶ではなく、神経興奮の主役ナトリウムチャンネルをフグ毒で抑えた時に形成される記憶に焦点を当てるという、少し天邪鬼な研究である点が面白い。
テトラドトキシン(TTX)で神経の興奮を48時間抑制した後、TTXを取り除き刺激すると、興奮スパイクの持続が長くなること、そしてこの変化がビッグカリウムチャンネル(BK)と呼ばれる分子の一部がスプライシングにより除かれる確率が上昇し、これがBKの特性を変えることで、神経の興奮パターンが変化することを明らかにする。すなわち、興奮の抑制がスプライシングを変化させ、短いBKが多く発現することで興奮パターンの記憶が成立することがわかった。
これがわかると、あとはなぜスプライシングが変化するのか、刺激が抑えられていることがどうして細胞内の変化を誘導できるのかについてメカニズムを明らかにすることになるが、膨大な実験が行われているので、詳細は省いて結果だけをまとめる。
TTXで興奮が持続的に抑えられると、末端のスパインレベルでのグルタミン酸シグナルを介するカルシウムチャンネルの開く回数が高まり、流入するカルシウムによる様々なCamKK の活性化がおこる。活性化された CamK分子のうち、βCamKKはその後、細胞体の閣内へ移行する。すなわち、ナトリウムチャンネルの活動抑制が、ホメオスターシス維持に関わるカルシウム受容体の刺激を高めることで、神経の恒常性が維持されると同時に、活動抑制が記憶される。 このCamKKは核内でNova2と呼ばれる分子と結合し、BK遺伝子の29番目のエクソンをスキップした短い分子を合成する。 この短いタイプのBKは抑制が外れた後の、神経興奮の持続性の変化を誘導し、記憶反応を起こす。
以上がシナリオで、神経活動は興奮スパイクだけでなく、恒常性を維持するためにカリウム、カルシウムチャンネルが相互作用して微妙な調節を行っていることがよくわかる研究だ。驚くのは、興奮による記憶形成では見られなかった、自閉症や統合失調症に関わることが知られている多くのシグナル分子がこの過程に関わっていたことで、スパイクを抑制されたことの記憶の重要性を認識した。