先日亡くなった利根川さんは、免疫グロブリン遺伝子などの免疫系の研究から脳研究へと焦点を変え、特に記憶が神経回路に固定される記憶のエングラムについての研究で有名だ。ただ素人から見ると、毎日新しい体験を繰り返している我々の脳内で、特定の回路が選ばれてフィックスされると言ったことが本当に可能かと思ってしまう。逆に言うと、毎日変化する脳のネットワークが記憶のエングラム研究を妨げている。
これに対し、今日紹介する沖縄科学技術大学院大学からの論文は、人工冬眠という技術を用いることで、脳内の新たな回路形成を抑えて、海馬に形成された記憶のエングラムをクローズアップ出来ることを示したユニークな研究で、8月13日 Science に掲載された。タイトルは「Artificial hibernation reveals synaptic engram architecture associated with memory retention(人工冬眠は記憶の維持に関わるシナプスのエングラム構造を明らかにする)」だ。
人工冬眠は視床下部のQ神経を刺激することで、体温や代謝を人工的に低下させ冬眠と同じ状態にする方法だが、冬眠の後でも記憶は維持されていることが知られていることから、冬眠で脳代謝を抑えることで、安定な記憶のエングラムをクローズアップできるのではと考えたのがこの研究のハイライトだ。
期待通り人工冬眠を誘導すると、全体の脳活動は低下し、シナプスの数も半分程度に低下する。また神経樹状突起から延びるスパインと呼ばれる構造も数が大幅に低下する。ただ、残ったスパイン自体の大きさは変わらないので、重要な回路だけが残って、後は整理されたのではと思える結果が得られている。
そこで恐怖の記憶、あるいは海馬の場所記憶システムを用いて、冬眠後に記憶が残っているかを調べると、若干ばらつきは大きい感じはあるが、冬眠後も同じレベルの記憶が維持されている。すなわち、冬眠の結果シナプスが大幅に整理されてしまっても、重要な記憶のエングラムは維持されている。
そこで今度は休眠中のスパインの動態を観察すると、休眠の始まりに多くのスパインが失われ、目が覚めると新しいスパインが再形成されることがわかった。先に見たように、残ったスパイン自体の構造や大きさは変化せず回路が固定できているように見える。さらに、冬眠から回復するときは大体同じ場所からスパインができてくることもわかった。そして、海馬の場所細胞マップは、冬眠後も細胞レベルの回路として維持されていることも確認している。
このように、通常の神経活動を大幅に整理して記憶のエングラムに関わるシナプス結合が人工冬眠によってクローズアップで来るようになったので、その構造的基盤を探索し、clustered engram synapse として知られる、密集したシナプスの塊こそが冬眠でも維持され、エングラムを支えていることを発見する。そして、この構造がエングラムの基盤であることを示すため、冬眠ではなく、海馬にアクチン形成を阻害する薬剤を灌流する一種の麻酔を行うと、今度は完全に記憶のエングラムが消失し、clustered engram synapse の数が低下する。すなわち、エングラム構造と記憶が連結された。
結果は以上で、動的で複雑な脳でも、人工冬眠によって記憶のエングラムをクローズアップして、特に構造と機能の研究を可能にする重要な論文だと思う。今後は、どの記憶がエングラムとして残り、何が残らないのか、それを決める clustered engram synapse の解析などが進むように思う。特に我が国は人口冬眠の研究も盛んなので期待したい。
