最近Jonathan Cohnさんの書いた『Sick:The untold story of Americas health care crisis and the people who pay the price.』という本を読んだ。アメリカの医療保険が市民を守るという視点で見た時破綻に近づいている事について、様々な実例を挙げて示した本だ。邦訳されているのかわからないが、オバマケアがなぜ急がれるかも含め、アメリカの医療保険システムの現状を知る上で大変参考になった。今日紹介する論文は、このアメリカの医療保険制度の問題点を指摘している。コロラド大学とエール大学の共同研究で、タイトルは、『National study of health insurance type and reasons for emergency department use (救急外来を利用する健康保険の種類と理由についての全国調査)』だ。研究は救急外来を利用した人達がなぜ家庭医の代わりに救急外来を利用したか、またどのような医療保険に加入しているかを聞き取り調査した研究だ。結果は、救急外来を病気の緊急性から利用した人達では加入している保険に差は認められないが、救急の方が診療してもらえる可能性が高いとアクセスの点から救急を選んだ人達では、低所得者層対象の公的な医療保険メディケイドや高齢者対象のメディケア保健の人の割合が多いという結果だ。結局救急外来の機能が低下し、何の治療も受けずに帰される患者さんだけが増える。結論として、この問題を解決するには、公的医療保険の人にも救急外来以外に相談出来る場所を提供すべきと提言している。昔から指摘されている事だが、改めて確認された。アメリカの医療保険は、基本的には私企業によって提供される医療保険プログラムと、それを購入する個人が制度の基本だ。保健が買えない低所得者層に対するセーフガードとしてメディケードが1965年に創設されているが、税負担の理由からこのシステムの維持に必要な資金は常にショートしている。このため多くの州ではメディケードのカバー出来る医療は厳しく制限されており、病気になっても一般医によって見てもらえる可能性は著しく低くなってしまっている。このため、法律上差別なしに診察する事が義務づけられている救急外来(これも有名無実になりつつある現状もあるようだが)を選ぶ事になる。冒頭にあげた本で紹介されているアメリカの問題を確認出来る論文だった。(サイエンス誌オンライン版にも同じ趣旨の論文が掲載された。機会があれば紹介する)
アメリカではリーマンショック以来、個人の医療保険に入れず、さらに低所得者のカテゴリーにも入らないため、メディケードでもカバーされない人達が増加している。この結果、5000万人と言う多くの人が医療保険を持たないという状況が生まれ、この数は増え続けていると言う。さらに、アメリカンドリームを支えて来た中産階級ですら高齢化とともに私的保険システムから排除され始めており、医療保険の根本的改革が求められている事をひしひしと感じる。一方、我が国では保険間で受けられる診療に差別はなく、ほぼ平等の原則が守られている。一定の個人負担に加え、税が使われているが、医療へのアクセスの自由という点から患者に取っては世界一と言うシステムだろう。ただ、国の借金を考えるとこの維持は簡単ではない。このすばらしいシステムをどう持続させるのか、自分たちの課題として今後議論して行きたい。
1月3日:医療保険の種類で救急の利用率が変わる(Journal of General Internal Medicine 12月24日号掲載論文)
低グレードグリオーマの遺伝的多様性(サイエンスオンライン版掲載論文)
正月なのにめでたい話が出来ないのは残念だ。しかし、病気になると盆も正月もなくなる。出来るだけ多くの情報を届ける事を今年も心がけたい。しかし、今日紹介する論文は、明らかにされた事実に戸惑う典型だ。論文は先週サイエンス誌のオンライン版に掲載されたグリオーマのゲノム研究で、カリフォルニア大学サンフランシスコ校を中心に我が国からは東京大学のゲノムサイエンス研究室や脳外科等も加わった国際共同研究だ。タイトルは「Mutation analysis reveals the origin and therapy-driven evolution of recurrent glioma (再発グリオーマの起源や治療により誘導される進化が突然変異解析で明らかになった)」で、これもガンのエクソーム解析の例で23例のグリオーマを発生時と再発時で比べている。私はこれまで、ガンのエクソーム解析によりうまく行けば次の手を打つチャンスがある事を強調して来た。この背景には、再発してくるがんは、元のがんが時間とともに新しい変異を積み重ね進化した結果だという考えがある。しかし、同じ話は低グレードグリオーマでは通用しないことがこの論文で明らかにされた。グリオーマと言うと悪性で予後の悪い腫瘍の代表だが、その中で低グレードグリオーマは進行も遅く、手術が治療の中心になる腫瘍で、患者さんも手術を繰り返しながら長期に生存される事が多い。ただ、なかなか完全に切除する事が困難で、再発・再手術が必要な事が多い。このゆっくりと進行するグリオーマの再発はただの取り残しなのか、あるいはグリオーマが進化して新しい突然変異を蓄積しているのかということをこの研究は調べている。結果は、驚くべき物だ。まず、最初切除された腫瘍と再発腫瘍に明らかな連続性が見られる(即ち多くの同じ遺伝子突然変異を共有している)ケースもある。しかし、半分(43%)近くの再発腫瘍では1−2の遺伝子変異は別として、最初切除した腫瘍の持っていた突然変異とは全く異なる遺伝子が突然変異を起こしていたという結果だ。更に重要なのは、初回手術後テモダールというお薬を投与した10人の患者さんのうち6人で、薬剤を投与しない場合には見られないより悪性のグリオーマへの進化を示す遺伝子の変異が誘導されており、この治療がより広範な突然変異を誘導してしまう事を示した結果だ。残念ながら今回の研究から、この腫瘍がゆっくり進行するとはいっても発見時に既に多様な腫瘍細胞が脳内に撒かれている厄介な物で、これまでの方法では、その中から別の細胞が選ばれ再発する事を防げない事、そしてアルキル化剤の投与は突然変異を誘発して逆行化である事がわかってしまった。物事が明らかになる事で気分が暗くなる典型の仕事だが、ただ光がない訳ではない。例えばIDH1遺伝子突然変異のように初発腫瘍から再発腫瘍まで共通に見られる変異もある。今後はこのような標的の機能を調節する治療の開発が待たれる。
CRISPRを網羅的遺伝子改変による網羅的分子探索(Science誌オンライン版)
素晴らしい技術は様々なテクノロジーや分野を統合するハブになる力がある。12月26日ここで紹介した、生きた細胞で特定の遺伝子を視覚化することを可能にしたCRISPRという技術はその典型だ。これまで困難であった事を一つ一つ見事に可能にしていく。先週サイエンスオンライン版に掲載された2編の論文では、この技術を使ってほぼ全ての遺伝子にまんべんなく突然変異が導入された細胞のライブラリーを作成し、細胞の機能に関わる遺伝子をしらみつぶしに見つける方法を報告している。両方ともマサチューセッツ工科大学からだ。タイトルは一つが、「Genetic screens in human cells using the CRISPR/Cas9 system (CRISPR/Cas9系を使ってヒト細胞の遺伝的スクリーニングを行う)」、もう一つが「Gnenome-scale CISPR-Cas9 knockout screening in human cells (DRISPR-Cas9システムを使った、ヒト細胞での全ゲノムスケールの遺伝子ノックアウトスクリーニング)」だ。
前にも述べたが、この方法では短いガイドRNAを変異を導入するホストゲノムの場所決めに使う。このRNAの配列をヒトゲノム配列を参考に設計すれば、ほとんどの遺伝子に高率に変異を導入するためのガイドRNAライブラリーを作る事が出来る。このライブラリーを調べたい細胞に導入すると、別々の箇所に変異が入った何万種類の細胞ライブラリーを用意出来る。この細胞集団を例えば抗がん剤で処理すると、それに抵抗性の突然変異を持った細胞だけが生き残る。両方の研究とも、このガイドRNA配列に、遺伝子変異のためのガイドと、どの遺伝子に変異を入れたかを知るためのバーコードの両方の目的を担わせている。このため、残った細胞でどの遺伝子が欠損しているかを次世代シークエンサーを使って簡単に見つける事が出来る。同じ様な試みは他の遺伝子改変テクノロジーを使って試みられて来たが、それ等と比べてこの実験系の凄いのは、変異が導入される効率が高く、両方の染色体とも特定の遺伝子に同じ変異を入れる事が出来る点だ。このおかげで、遺伝子の機能を両方の染色体で完全に欠損させる事が簡単にできる。一つの論文ではこの方法を使って、前に紹介した悪性黒色腫がガンの標的治療に抵抗性を獲得する過程に関わる遺伝子を調べ、これまで知られていなかった薬剤抵抗性に関わる分子を発見している。これらの分子から薬剤抵抗性の黒色腫を治療できる新しい薬剤が開発される事を期待する。また、同じ方法でこれまで治療の困難であった細胞の増殖に必要な分子も簡単にわかるようになるだろう。CRISPRといいiPSといい、世紀が変わって、新しいハブが急速に発展している実感を持っている。
遺伝子異常 卵子で一括診断 高い精度、命の選択懸念も(12月30日朝日新聞(大岩)記事)
朝日の大岩さんは日本以外で行われた研究で市民の関心の高いものを選んで紹介しているようだ。今回も、基本的には北京大学で行われた卵子の単一核のゲノムを調べる研究について紹介している。論文は「Genome analysis of single human oocytes (一個のヒト卵子のゲノム解析)」とタイトルがついており、12月19日号のCell誌に掲載された、ハーバード大学と北京大学を兼任しているXieさんのグループの研究だ。この研究の根幹は、単一細胞のゲノムを正確に調べる事を可能にする新技術の存在だ。Xieさん達はMALBAC(方法の詳細は専門的なので省く)と言うこの新技術の開発者で、これまでも精子を含む様々な細胞を調べてトップジャーナルに続々論文を発表している。私たちの身体は約50兆個の細胞からで来ているが、どの細胞でも一個の細胞だけでゲノム遺伝子を正確に調べる事ができる様になると、個々の細胞の個性や、ガンの危険がどの程度早くから用意されているのかなどを明らかにできるため、様々な分野への波及効果が大きい。その意味では、MALBAC法の開発はこの分野への重要な貢献と言える。この技術を卵子について応用したのが今回の研究だ。材料としての卵子はこの方法の評価にとっての最高の応用問題だ。何故なら、受精後の一個の卵子には2つの極体と、2つの前核と呼ばれる別々の核が存在しており、この4種類の核は卵子が2回の減数分裂という染色体の数を減らす特殊な分裂過程で起こったゲノム変化の記録になっている。実際、この過程では染色体同士での交叉と呼ばれる種に取って重要な遺伝子の交換が行われる。また、染色体重複などの異常もこの過程で生まれる事が知られている。従って、この極体と、前核のゲノムを別々に解析出来るようになった事は基礎研究としても極めて重要だ。事実この研究のハイライトはまさにこの点で、卵子での染色体組み替えの様子や、そのためにヒト卵子に備わっている様々なメカニズムが現象的にではあるが明らかになっており、予想されている結果とは言え基礎研究として高く評価できる。
さて、2個の極体は結局卵から排出され子孫に伝わる事はない。しかし、極体にはお母さんのゲノムの全て(第一極体)と、子孫に伝わらなかったゲノム(第2極体)が残っている。従って、両方別々に調べれば、卵に残った子孫に伝わるゲノム(雌性前核)の構成を予想できる。一種廃物利用により卵の雌性核の遺伝子診断が出来ると言う訳だ。朝日の大岩さんの記事はこの点を取り上げている。図入でうまくまとめてあり、特に新技術が使われている事も図を見るとわかるようになっている。ただ、単一細胞ゲノム研究が生殖補助医療にとどまらず、ガンなど多くの分野で如何に重要な技術であるかも紹介して欲しかった。Xieさん達もせっかく基礎的にも面白い結果を示しているにもかかわらず、ディスカッションではこの基礎的な結果はそっちのけで、生殖補助医療への応用ばかり強調している。このディスカッションを読めば、大岩さんが生殖補助医療部分を強調する記事にするのも仕方ないかもしれない。それを認めた上でそれでも、卵の遺伝子診断問題をデザイナーベービーに関連させるのは違和感がある。しかも専門医のコメントの中にこの言葉が使われるとよけいだ。この言葉はダーウィンの進化論の根幹に関わる問題なので議論は控えるが、デザインすると言う前向きの過程と、異常を見つけて選択すると言う後ろ向きの過程の間に横たわる大きなギャップを認識すると、軽々にデザイナーなどと言う言葉は使えない。デザイナーと言う単語の問題は、反ダーウィン主義の人達がよりどころにしている「インテリジェントデザイン」と言う言葉を見ても明らかだ。最後に一言。見出しはひどい。前回の自閉症に対するオキシトシンの効果についての朝日の記事もそうだった。ただ、友人から見出しはデスクがつけると聞いた。従って、大岩さんや今さんの問題ではなく、デスクの責任だろう。やはり見出しも記者が書いて欲しい。
家族性アミロイド症のジフルニサル治験で有効判定(アメリカ医師会雑誌12月25日号掲載)
家族制アミロイドーシスはトランスサイレンチンという分子をコードする遺伝子の突然変異による希少疾患で我が国では難病指定されている。突然変異によってこの分子の4量体の正しい構造の崩壊が促進し、代わりに異常な重合体が形成され全身の組織にアミロイド沈着が起こり、多発性神経炎をはじめ心臓、消化器などの全身症状を示す。この分子のほとんどが肝臓で造られる事から、肝臓移植が有効である事が証明されているが、日本では困難な治療法だ。ただ最近トランスサイレンチンの4量体の崩壊を止める薬剤の開発が進み希望が生まれている。事実2011年にはファイザーから新薬が発売され、本年我が国でも承認されている。ただ1カプセル5万円を超える高価な薬剤だ。利用される患者さんの少ない希少疾患に対する薬剤はどうしても高価になる。これに対し、アメリカ国立衛生研究所では既に承認利用されている特許切れのジェネリック薬剤を他の病気に利用できないか調べる再目的化(repurposing)研究を推進している。期待される薬剤の一つがジフルニサルで、サリチル酸系の抗炎症剤で歴史の古い安価な薬だ。この薬剤がなんと家族性アミロイドーシスの進行を止める可能性が報告され、小規模のパイロット研究でも患者さんへの効果が確認されていた。我が国の難病班の報告でも、この薬剤の治験が進行中である事が記載されている。今回効果を確かめる目的で、日本を含む5カ国にまたがる大規模臨床治験が最も厳しい条件で行われ、その報告がアメリカ医師会雑誌12月25日号に掲載された。「Repurposing diflunisal for familial amyloid polyneuropathy, A randomized clinical trial (ジフルニサルを家族制アミロイド多発性神経炎の治療へ再目的化する。無作為化臨床治験)」がタイトルだ。結果は明確で、神経症状にとどまらず、生活の質まで向上する期待以上の結果が得られ、有効と判断できると言う結果だ。ファイザーの新薬と比べると、既にジェネリック製剤として使われており、サリチル酸剤としての副作用はあるものの極めて安価である点が大きい。従って、まずジフルニサルから治療を始めてもよいと言う結果だ。折しも12月25日号と言う事で患者さんにはすばらしいクリスマスプレゼントになった。
この論文は1987年から約7年を熊大で過ごした私にも感慨が深い。当時熊本大学はこの病気の研究の中心だった。この疾患の世界の第一人者であった荒木淑郎先生や、この病気のマウスモデルを作成した山村研一先生とは教授会でご一緒した。今回も熊本大学は、我が国のセンターとしてこの治験に参加し、この結果に大きな貢献をした事を知って、伝統が生きている事を実感した。
がんゲノム解読ラッシュ:子宮頸癌(12月26日:Natureオンライン版掲載)
毎週がんのゲノム配列解読の論文が続く。今日紹介するのは子宮頸癌についての研究で、「Landscape of genomic alterations in cervical cancer (子宮頸癌のゲノム変異の全像)」とタイトルのついた、ハーバード大学、ダナファーバーがん研究所などからの論文だ。研究自体はこれまで紹介した他のがんについての論文と同じで、多くの患者さん(この研究の場合は115名のがんのゲノム配列(主に全翻訳部位の配列(エクソーム)が調べられている)を調べて、発がんに関わる遺伝子突然変異を特定している。勿論これまでの研究でも子宮頸癌でいくつかの突然変異が既に報告されており、同じ遺伝子の変異が今回確認された。ただ、エクソーム配列を調べる今度の研究では、それ以外に5種類の新たな遺伝子の突然変異が見つかっており、全遺伝子の配列決定が強力な方法である事がまた証明された。新しく見つかった遺伝子の中には、発がんのシグナルとして基礎的には良く研究されて来たMAPK1遺伝子や、肺がん等で既に分子標的として治療が行われているERBB2遺伝子等も含まれており、治療計画にとっても重要なヒントになる。ここまではこれまでのがんゲノム研究と同じだが、子宮頸癌にはもう一つ調べるべき項目がある。即ち、パピローマビールスのゲノムへの組み込みだ。子宮頸癌の発症にはパピローマビールスの関わりがドイツのツルハウゼンらの研究で明らかになっており、ワクチンによりガン発症を押さえられるという医学上の貢献にノーベル賞が与えられている。ただ、エクソーム解析は翻訳される遺伝子について調べているため、ビールスの組み込みについてはわからない。そのため、この研究では一部のガンではエクソームだけでなくそれ以外のゲノム領域も調べてビールスの組み込みがないかを調べるとともに、がんが発現しているRNAも調べてビールスの組み込みが特定の遺伝子の発現量を変化させていないかを調べている。結論は予想通りで、調べた全てのガンでパピローマビールスの組み込みが認められ、その付近の遺伝子の発現が上昇していることを確認している。専門的になるので詳しくは述べないが、パピローマビールスのゲノム組み込みによる発がん性のある遺伝子の発現上昇、特定された遺伝子の突然変異、更に免疫反応の修飾に関わる突然変異等の蓄積が子宮頸癌の発症に必要である事が理解出来て来た実感がある。最初の引き金を断つワクチンの重要性を認識するとともに、今後、がんのエクソーム解析がルーチンの検査になって行く事を予想させる。
ミトコンドリアが原因の老化は元に戻る?(Cell誌12月19日号掲載論文)
12月15日、埼玉県永井クリニックで行われた、卵子若返りのための核交換技術についての毎日新聞の記事を紹介した。この話の背景には、ミトコンドリア異常が老化の一つの原因だと言う考えがある。この考えは広く受け入れられているにも関わらず、老化に伴うミトコンドリア異常の本態については明らかではなかった。今日紹介する論文は、この異常の一端を明らかにしたハーバード大学の研究で、12月19日号のCell誌に掲載されている。タイトルは「Declining NAD+ induces a pseudohypoxic state disrupting nuclear mitochondrial communication during aging (老化に伴うNAD+の低下により擬似的低酸素状態が引き起こされ核とミトコンドリア間の連絡が途絶える)」。ミトコンドリアは細胞から独立して増殖出来る細胞寄生体としてよく知られている。とはいっても、細胞内に寄生してから進化の長い時間の間に、ほとんどの遺伝子はホストの核に移り、現在では13種類の遺伝子がミトコンドリアゲノムに残るだけになっている。このグループは元々老化に伴って、ミトコンドリア遺伝子にコードされている酸化的リン酸化システムの選択的低下が起こることを発見していた。今回の仕事では、この異常に関わるミトコンドリア側の遺伝子と、ホスト側の遺伝子にコードされた分子の相互ネットワークの詳細を明らかにしている。それぞれの分子の詳しい説明は専門的すぎるので省くが、老化によって、酸素消費型の呼吸に必須の電子伝達体NAD+が低下することがそもそもの異常の始まりであることを明らかにしている。この結果、酸素消費型の呼吸が低下するが、この異常を細胞は酸素がないと間違った解釈をし、酸素はあるにもかかわらずHIF-1aという低酸素に反応する分子を上昇させて、低酸素に対する防御反応を起こしてしまう。この結果細胞の核とミトコンドリアの連絡が絶たれてしまって、細胞の様々な異常が引き起こされるという結論だ。重要なのは、メカニズムがわかると老化防止も可能になることだ。カロリー制限が老化防止に役立つことは知られていたが、老化マウスのカロリーを6週間制限することで、低酸素状態と錯覚する反応が止まり、ミトコンドリア機能が正常化することが今回示された。さらに、引き金になるNAD+を補ってやっても同じようにミトコンドリア異常が元に戻ることもわかった。残念ながら筋肉の機能低下までは正常化しなかったようだが、今後、より長期の実験がヒトでも行われると、若返りのための科学的方法として定着するかもしれない。また、冒頭で引き合いに出した卵子若返り術も、核交換等しなくとも卵子にNAD+を補給するだけで解決する可能性は十分ある。一つ重要な問題が解決した。
開発中医薬品の進捗「2013年ヘッドライン」 (Nature Medicine 12月号)
話題の医薬品候補化合物について、今年の開発の進捗概要を青、黄、赤の三色シグナルに分類して紹介されていますので、分かる範囲で国内や稀少難病関連の情報を補って、概略を転載いたします。
青信号
・免疫治療剤としての対PD-1 (Programmed Death-1)受容体抗体に関して、BMS社のnivolumab単独およびipilimumabとの併用により、進行性悪性黒色腫のフェーズI試験で著効を示し、また同効であるMerck社のlambrolizumab(MK-3475)は、FDAから画期的治療剤の指定を受けました。
・FDAは、転移性非小胞肺がんの治療剤として臨床開発中の、何れもALK蛋白に対する分子標的薬であるNovartis社のLDK378およびRoche社のalectinib(RG7853)に対して、共に画期的治療剤に指定しました。
・B.Ingelheim社のアンジオキナーゼ阻害剤「GILOTRIF」(afatinib)が、肺がん治療剤として米国および欧州の双方で承認を受けました。
・Isis製薬からライセンスを受けたGenzyme社のアンチセンス剤「KINAMRO」(mipomersen)が、家族性高コレステロール血症(FH)治療剤として米国で承認され、世界初の市販されたアンチセンスDNA医薬となりました。
・GSK社の1日1回服用のHIV治療剤「TIVICAY」(dolutegravir)がFDAの承認を受けました。本剤は、レトロウイルスDNAの宿主ゲノムに取り込みに必須の酵素integraseを標的とします。
・Bayer社の「ADEMPAS」(riociguat)が、何れも稀少難病である慢性血栓塞栓性肺高血圧症(CTEPH)および肺動脈性肺高血圧症(PAH)=公費負担対象の難病で、バイエル社は我が国でも承認申請済み=の治療剤としての承認について、FDAの優先審査の結果「青信号」が点りました。本剤は、可溶性guanylate cyclase (sGC)の刺激薬です。
・Novaltis社の卵巣ホルモンの一種で、ストレス緩和ホルモンとして知られるrelaxinの合成ペプチドserelaxinは、急性心不全についてフェーズIII試験中ですが、FDAから画期的治療剤の指定を受けました。
・J&J社の、ナトリウム−グルコース共輸送体タンパク(SGL-2)阻害作用を持つ「INVOKANA」(canaglifloin)は、FDAが未だに腎毒性の懸念を持ちながらも、2型糖尿病治療剤として承認しました。
・Pharmacyclics社とJ&J社は「IMBRUVICA」(ibrutinib)について 、マントル細胞リンパ腫(MCL)および慢性リンパ球性白血病(CLL)に対してのFDAから画期的治療剤の指定を受けて共同開発中ですが、11月に承認が得られました。
・Gilead社の「SOVALDI」(sofosbuvir)は、FDAでC型肝炎治療剤として優先審査中ですが、その承認への推薦がなされました。
・Roche社の、B細胞表面たんぱくCD20を標的とする「GAZYVA」(obinutuzumab)について、慢性リンパ球性白血病(CLL)の治療剤としてFDAの承認を得ました。
黄信号
・DPP4阻害剤: グルカゴンの分泌抑制作用を持つ、2型糖尿病治療剤としてBMS社の「ONGZYLA」(sexagliptin)とAstraZeneca社と武田薬品の「NESINA」(alogliptin)が発売されました。
・BRISDELLE(paroxetine): 最初の非ホルモン更年期障害治療剤として、FDAはNoven Therapeutics社の選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)である本抗うつ剤の低用量剤形を承認しました。
・DUAVEE(estrogenとbazedoxifeneの配合物):もうひとつの更年期障害治療剤としてRoche社の一過性熱治療薬の本剤が、FDAにより承認されました。
・Suvorexant: Merck社が不眠症治療剤として申請した、二重オレキシン受容体拮抗剤の本剤について、安全性に疑問ありと拒絶されました。本剤の低用量製剤については審査継続中で、覚醒神経伝達物質orexinを標的とする最初の承認取得治療剤になるのでしょうか。
・Ramucirumab: Lilly社による、転移性乳がんの腫瘍進行阻止と延命効果の試験は失敗しましたが、FDAは胃がんの化学療法剤として本剤を優先審査に付しました。
・Alirocumab: Sanofi社は、PSCK9酵素を標的とする本剤の、高コレステロール症に関するフェーズ3試験で良好な結果を得たと発表しましたが、副作用も多発しました。Pfizer社とAmgen社もそれぞれ同効薬を開発中です。
・Vercirnon: クローン病の治療薬としてフェーズIII試験中であるGSK社は、結果が思わしくないとして、全ての権利をChemoCentryx社に返却すると発表しました。同社は、化学シグナル受容体たんぱくCR9を阻害することにより腸の炎症細胞を消す本剤の、改めての開発計画を発表しました。
赤信号
・Dexpramipexole:Biogen Idec社が、FDAと欧州EMAの稀少難病の指定を受け、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の治療剤として規模拡大フェーズIIIの試験を行っていましたが、関節機能と生存の改善効果が得られず、開発を中止しました。
・TREDAPTIVE(laropiprantとニコチン酸の合剤): Merck社は、善玉コレステロール産生作用を持つニコチン酸(niacin)とその顔紅潮の副作用を抑えるlaropiprantとの合剤の、心血管系に高いリスクを持つ大規模な患者を対象とした投与試験で、症状の改善効果が得られなかったとして開発もしくは販売(欧州)を中止しました。
・Preladent: Ligand社からアデノシンA2A受容体拮抗作用を持つ本剤を導入したMerck社は、フェーズIII試験でプラシーボ群に対する優位な治療効果の立証に失敗して開発を中止しました。
・LY2886721: Lilly社は、神経変性症で脳内に蓄積する蛋白質の産生に関わるβ−セクレターゼの阻害剤で、フェーズIIにあった本剤のアルツハイマー病治療薬としての開発を、肝毒性のために中止しました。
・Drisapersen: GSK社とProsensa社は、dystropin蛋白に変異を持つ、稀少難病デュシェンヌ型筋ジストロフィー(DMD)の治療薬としてフェーズIII段階にあったエクソン・スキップ作用の本剤の開発を、筋肉の消耗を低下できなかったとして、開発を中止しました。本剤は変異したdystropinのexon51遺伝子をカモフラージュして、本来の蛋白質を生産させます。別途、Serepta Therapeutics社では同様な作用を持つeteplirsenをDMD治療薬として開発中です。
・Gammagard: Baxter社では、本剤によるアルツハイマー病のフェーズIII試験において、免疫グロブリン療法による認識低下の減弱もしくは阻止ができませんでした。しかし、別の小規模試験においては、記憶消失を防止できました。同社は、現在被験者における別の側面からの有効性の試験を行っています。
・R343: Rigel製薬は、脾臓のチロシンキナーゼの阻害によって息切れを抑える本剤の、喘息患者でのフェーズII試験において、シャックリ発作が生じ、開発を止めたと報じました。
・MEGA-A3 vaccine: GSK社は、メラノーマ関連抗原を標的とする癌ワクチンである本剤が、皮膚がんの進行を抑制できなかったと公表しました。Agenus社が、腫瘍の免疫細胞を変化させるようにデザインしたもので、GSK社は、特定の遺伝子プロファイルの患者に対しての肺がんのフェーズIII試験を継続しています。 (田中邦大)
細胞の中の遺伝子を生きたまま見る(12月19日号Cell誌掲載論文)
山中iPS論文に少し遅れた2007年、CRISPRと呼ばれる、生きた細胞の遺伝子を高効率に編集するテクノロジーが報告され、今や大フィーバーになっている。サイエンス誌でも今年の十大ニュースのトップにあげており日本語版では、「大衆のための遺伝子マイクロサージェリー」と紹介されている。この技術のお陰で、どんな細胞でも遺伝子のノックアウトや入れ替えが簡単に出来るようになった。勿論山中iPS等にも利用され、遺伝子を元に戻して患者さんに移植する可能性についての論文が既に発表されている。しかしこの方法は遺伝子改変にとどまらない。詳しくは述べないが、この方法を基礎に細胞の遺伝子発現調節を中心に多くの更なるテクノロジーが生まれることが期待されている。今日紹介する論文は12月19日号のCell誌に掲載されたカリフォルニア大学サンフランシスコ校の研究で「Dynamic imaging of genomic loci in living human cells by an optimized CRISPR/Cas system (CRISPR/Casテクノロジーを至適化して生きたヒト細胞で遺伝子座のダイナミックな動きを観察する)」がタイトルだ。CRISPRの原理をここで詳しく述べることはしないが、操作したいホストゲノム部分に相補的に結合するガイドRNAに結合するCASという蛋白によって遺伝子を切断することが基礎になっている。このことはCAS蛋白が標的遺伝子部分に結合したガイドRNAに結合することを意味するので、このCASを使えば生きた細胞の標的遺伝子部分を標識できることになる。ただ、CAS蛋白はホスト遺伝子に切れ目を入れる機能があるので、この研究ではこの活性をつぶしたCAS蛋白に蛍光蛋白が連結したキメラ遺伝子を作り、CASが結合する遺伝子座、すなわちガイドRNAが結合している部分が光って見えるようにした。一般の人にはなかなか理解してもらえないだろうが、生きた細胞の核の中のどこに調べたい遺伝子が位置しているのかがついに見えるようになったかと思うと、急速に科学が進んでいることを感じて興奮する。しかし、このCAS分子自体は日本で発見されたことを知ると、これを今あるようなテクノロジーにして行くために必要な科学者間のコミュニケーションに日本は難点があることも理解出来る。いずれにしても、次にどんなテクノロジーがCRISPRから生まれるか、当分目が話せない。
古い創薬手法の復活(Nature Chemical Biologyオンライン版掲載)
ほとんどの公職を辞した後も、実は後藤先生率いる理研創薬プログラムには積極的に関わっている。というのも、患者さんが本当に待ち望んでいるのは新しい薬の開発なのに、私自身の創薬経験は皆無だ。その意味で、藤沢薬品時代にFK506を開発し臓器移植をより安全な治療にするのに多大な貢献をされた後藤先生のチームの活動を見ることで学ぶことは大だ。こんな訳で、新しい創薬手法については大変興味がある。以前(12月8日)、なぜ骨髄腫にレナリドマイドが効くのかを明らかにした論文を紹介した時、細胞に対して効果がはっきりしている化合物があれば、異なる重さのアイソトープを用いるSILACという方法で標的分子を明らかにする方法があることを知った。今日紹介する研究は、activity based protein profiling(ABPP)というタンパク質の活性を用いることで迅速に化学化合物の標的蛋白を特定出来るという論文だ。サンディエゴにあるスクリップス研究所の研究で、「Integrated phenotypic and activity based profiling links Ces3 to obesity and diabetes(形質と活性に基づく蛋白のプロファイリングを統合することでCes3を肥満と糖尿病に関連づけることが出来た)」というタイトルがついている。
SILACとは異なり、この方法は最初どのような分子を標的にするかある程度あたりをつけておく必要がある。しかし、元々薬剤になりやすい標的の活性はある程度限られてくるので、この方法も今後十分期待出来る。この研究ではセリン加水分解酵素を標的にしている。論文では、脂肪細胞の分化培養を用いて、セリン加水分解酵素を抑制する化合物をスクリーニングし、有望な化合物をいくつか選んだ後、次にABPPを用いてどの分子が選んだ化合物の標的かを決めると言う順序で、肥満や糖尿病に有効な薬剤開発が出来ることを示している。私に取ってこの仕事の重要性は、肥満の薬剤が出来たということではない。それよりも細胞自体の活動変化を指標に化合物を見つけてしまえば、迅速に標的分子を特定し化合物が効くメカニズムを明らかに出来る時代が来たという点だ。現在分子生物学が発達して、分子の機能を指標に化学化合物を探す方法が創薬のための柱になっている。しかし、分子レベルではっきりした効果があっても、複雑な細胞で検査すると効果が出なかったり、副作用が出ることが多かった。この論文でも、1999年から2008年で創薬に成功したお薬の6割近くがまだ細胞の活性を指標にした古い手法を用いていたことを紹介している。勿論後藤さんのFK506も細胞活性を抑制する分子として見つかっている。即ち、細胞の活性でスクリーニングした方が、良い薬剤に当たる確立が高いということだ。ただ、発見出来た化合物がなぜ効くのかを明らかにするために今度は時間がかかってしまっていた。この意味で、SILACや今日紹介したABPPが利用出来ることで、古いとされて来た細胞活性を指標にする薬剤の開発がもう一度表舞台に登場し、さらに有望な化合物を発見するための時間も短縮すると期待出来る。そしてこのことは患者さんたちにとっての朗報だ。今後も新しい創薬手法を学んでここで紹介しようと思う。