11月19日このコーナーで、小胞体ストレスを防ぐ薬剤が1型糖尿病モデルマウスに高い効果を示す事を紹介した。ただこの実験で利用された薬剤がヒトで使える様になるには時間がかかる。今日紹介するのは、既にヒトで利用が進む、しかも経口で服用できる薬剤が、同じI型糖尿病マウスに有効である事を示したコペンハーゲン大学を中心とする研究で「Lysine deacetylase inhibition prevents diabetes by chromatin-independent immunoregulation and beta cell protection (リジンのアセチル化阻害はクロマチンとは関係のないメカニズムにより免疫反応を変化させ、β細胞を守る事で糖尿病発症を抑制する)」がタイトルだ。この研究で使われた薬剤はgivinostatとvorinostatで、ともに染色体上のヒストン脱アセチル化を阻害してがんの増殖を抑制する目的で開発された。ただ、これら薬剤が阻害するのはヒストンだけではない。多くの蛋白質でアセチル化・脱アセチル化が起こっている。このため、薬剤の標的は脱アセチル化酵素に特異的でも、その下流で影響を受ける分子は多く、効果のメカニズムも複雑にならざるを得ない。従って、薬剤の標的はわかっていても効果や副作用については使いながら手探りするしかない。とは言え、マウス1型糖尿病モデルについてはこれら薬剤は「良いとこずくめ」であると言うのがこの研究の結果だ。まず、効果に必要な量はがん治療に使う量の1/100で副作用の心配は大きく減る。実際マウスに100日前後投与している。そして何よりも、膵島周囲の炎症がほぼ抑制され、糖尿病発生は著明に抑制される。患者さんに取ってはこれで十分かもしれないが、なぜ炎症が抑制できるのか、β細胞の元気が続くのか細胞レベルで調べている。免疫制御について明らかになって来たのは、調節性T細胞が活性化や抗炎症性サイトカインの分泌を促進して炎症を抑える事だ。この調節性T細胞は免疫調節の切り札と考えられている細胞で、現在阪大教授の坂口さんが発見した細胞だ。坂口さんはこの発見で、山中さんに次いで世界に知られる日本の医学者になっている。他にもヒトβ細胞の試験管内での細胞死を遅らせるなど、論文から見る限り悪い点が全くないようにさえ思える。もちろん炎症が進む前に早期診断をして治療を始めるなど、治験をどのように進めるか議論が必要だ。脱アセチル化酵素阻害剤は日本でも抗がん剤として開発されて来た。日本製の薬剤も含めて、是非真剣に治験について早期に検討を始めてもいい様な気がする。(これについては1月18日4時からのニコニコ動画で取り上げます。)
I型糖尿病に対する新しい薬剤(アメリカアカデミー紀要オンライン版掲載論文)
血液・脳関門を破る(1月8日Neuron誌掲載論文)
炎症やがんの特異的抗体による治療が急速に拡がっている。しかし、この方法を脳内の病変の治療に利用する事は困難だった。何故なら、脳の血管が特殊な構造を持つため、投与した抗体が脳内に移行しないからで、この現象は血液・脳関門と呼ばれていた。今日紹介する論文はスイスの製薬会社Rocheの研究所からの研究で、この関門を突破する方法の開発についての報告だ。今月号のNeuron誌に掲載され、「Increased brain penetration and potency of a therapeutic antibody using monovalent molecular shuttle (一量体分子シャトルを利用した治療用抗体の脳内への移行と治療応用への可能性)」がタイトルだ。
これまで血液・脳関門の突破のために、トランスフェリン分子を細胞の表から裏へと運ぶシャトルとしてのトランスフェリン受容体が使えるのではと予想されていた。このこのシャトルに抗体を乗せることが出来れば、関門は突破できる。しかし、残念ながらこれまで開発された方法ではうまく行かなかった。トランスフェリン受容体シャトルに抗体を乗せるための方法を改良したのがこの研究のポイントだ。受容体に乗せる目的で使う受容体結合抗体の部分をこれまでの2価から1価にして運びたい抗体に結合させると抗体が脳内に移行する事を発見した。細胞レベルの実験から、あららしい方法でシャトルに乗せた抗体は一度リソゾームに取り込まれ、その後細胞外へと放出される事で細胞外へ移行する事も示された。理由はわからないが、懸念されていたリソゾーム内での抗体の分解も最小限にとどまるようだ。これまで不可能とされて来た技術がついに開発された。この方法を、βアミロイド物質が蓄積するマウスアルツハイマー病モデルで試すと、トランスフェリン受容体に結合出来る構造を与えた抗体だけが脳内に移行し、アミロイドの蓄積により形成されるアミロイド斑の成長を抑える事を示している。もしこの方法がヒトでも使えるようになれば、脳内病変を抗体により治療できるだけでなく、脳内病変の状態をPETなどで診断する事も可能になる。勿論脳内の炎症抑制や、がんの抑制にも応用できる期待の大きい画期的技術へと発展する。ロッシュ社は抗体薬の草分けだが、またあたらしい抗体の可能性を開発したようだ。
19世紀のコレラ菌(1月8日号The New England Journal of Medicine掲載論文)
ネアンデルタールやデニソーバ人の骨や歯から得られるDNAのゲノム解析が可能になる事で、これまで考古学的にほとんど研究が出来なかった多くの事が明らかになって来た事をこのホームページで紹介した。同じ事は人間と深い関わりを持って来た様々な細菌についても言える。人類が歴史上経験した選択圧という観点から見た時、疫病の影響は自然災害に匹敵する。ペストによってイングランドの人口が1/3に減少した事は有名な話だ。従って疫病のインパクトを科学的に評価して歴史を深く理解するためには、当時のペスト菌についての情報が必要だ。ではどこに行けば当時の疫病を起こした菌が残っているのか。この問いに答えたのが今日紹介する研究でカナダマクマスター大学からの研究で「Second-Pandemic strain of vivrio cholerae from the philadelphia cholera outbreak of 1849 (1849年フィラデルフィアを襲ったこれら大流行の原因コレラ菌)」と言うタイトルだ。たまたま1849年のコレラ大流行で亡くなった患者さんの腸が固定液につけて保管され、ミュター博物館に展示されていた。これに目を付けた研究者には脱帽だ。期待通り十分なDNAが標本から得られ、現在のコレラ菌と比べる事が出来たと言う結果だ。勿論標本として保存されている間に多くの科学的変化が加わっている。このため配列決定にはネアンデルタール人ゲノム解析に使われたのと同じ方法が必要だ。コレラ菌は現在もなお小規模の流行が見られ、2012年だけでも10万人の死者が出ていると言う。ただ単発の発生は別として最近の流行は、2系統のコレラ菌のうちEl Torと名付けられた系統だけで、どうしてもう一方の系統が流行を引き起こさないのか謎だった。今回調べられた1849年のコレラ菌はもう一方の古典型系統に分類できるが、その中でもEl Torに近く、毒性に関わる部分が増強している事がわかった。詳細は省くが、このゲノムと、現在菌として保存されている多くのコレラ菌系統の配列と比べる事で、この菌が最初のコレラ流行が記録された1817年頃に生まれた事など、コレラ菌の進化の歴史も明らかになる。どんなに医学が進もうと、将来も私たちはこのような疫病にさらされるだろう。その時、菌の進化の情報は役に立つ。そして何よりも、人間の歴史の理解に疫病の流行は欠かせない。考古学や歴史研究と分子生物学が近くなっている事を実感する。しかし、日本で生命科学者と歴史学者の合同会議がもたれるのはいつになるだろう?
報道に急性ストレス患者が拡がる(アメリカアカデミー紀要1月7日号掲載論文)
アメリカアカデミー紀要に目を通していると、医学や生物学だけでなく様々な分野で行われている研究の見出しが目に飛び込んでくる。たまには、ちょっと読んでみようかなと思う専門外の論文にも出会う。その例が今日紹介する論文で、「Media’s role in broadcasting acute stress following the Boston Marathon bombings (ボストンマラソン爆弾テロ後の急性ストレスの拡がりにマスメディアが果たした役割)」というカリフォルニア大学アーバイン校からの研究だ。1月7日号のアカデミー紀要に掲載されている。確かに普通学術雑誌では出会わない見出しだ。日本でも大きく報道されたボストンマラソンを標的にした爆弾テロ事件の2週間後からメールを使って質問を行い、爆弾テロによる市民ストレス反応にマスメディアがどれほど関わっているのかを調べている。対象は、爆弾事件を直接体験した可能性のあるボストン市民、対照として9.11の体験を持つNY市民、そしてそれ以外の地域のアメリカ人だ。勿論全ての対象者は事件後かなりの時間テレビ報道を見ている。この結果起こったと思われるストレス反応を調べてみると、事件後1週間続いた報道が明らかに視聴者の急性ストレスを誘導したと言う結果だ。面白いのは、ボストンでもNYでもストレスを起こした人の割合に差がない事から、直接の経験よりマスメディア報道の方がストレス反応に貢献しているようだ。さらに、9.11貿易センタービル事件やSandy Hook小学校の銃乱射事件を何らかの形で直接経験した人達は有意に急性ストレスを起こしやすかったが、巨大ハリケーンに出会った人が急性ストレスになる確率は経験のない人と変わりはなかった。即ち、テロ攻撃を受けたと言う特異的な経験が、その後テレビによる他のテロ事件報道に対するストレス反応を高める事がわかったと言う結果だ。私はここで使われた統計的手法が心理学的に正しいかどうかは判断できない。しかし、大きな事件が起こるとすぐに反応して、事件の人間への影響を様々な角度から調べ、科学論文にしていくバイタリティーは強く感じる。12月23日前ニューヨーク市長Bloombergが市の衛生局の人に査読を受ける雑誌への論文掲載を目指すようにと促した事を紹介したが、同じ精神がこの論文に現れていると思った。9.11やボストンマラソン爆弾テロは何度も起こってはならない大事件だ。しかし、それを報道するだけでなく、機会を逃さず報道そのものの役割まで検証する心理学者魂には脱帽だ。そしてこの様な積み重ねが思いつきではない政策へとつながる。
我が国では先の東日本大震災により多くの人が影響を受けた。不幸を嘆くだけでなく、その影響を科学的に調べ、論文としてまとめて行く事は科学者の使命だ。幸いウェッブで調べてみるとこの大災害の心理的影響についても査読を受けた学術論文が出されている。今後この様な論文も紹介して行こうと思った。
AASJに関する西川代表のインタビューが日本経済新聞に掲載されました
平成26年1月7日付日本経済新聞夕刊の9面「フォーカス」欄で、昨年暮れに来られた同社編集委員 安藤淳氏のインタビューを受け、西川伸一代表がAASJの現状などをお話したものです。
1月8日:進むガンの突然変異カタログ作り(Natureオンライン版掲載論文)
これまで何回か、がん細胞の突然変異を網羅的に調べている論文を紹介して来た。ただ、乳がんや白血病のように、多くのがんで共通に見られる突然変異もあるが、がん関連遺伝子の多くは高々20%以下の頻度でしか見つからない。本当にがんに関わっているのか、がん治療に役に立つのかなどまだまだ調べる事は多い。このため世界中で発がんに関わると考えられる遺伝子変異のカタログ作りが進んでいる。今日紹介するのはそれを代表する研究でハーバード大とマサチューセッツ工科大からの論文だ。タイトルは、『Discovery and saturation analysis of cancer genes across 21 tumor types (がん遺伝子を全て見つけて記載する目的で行った21種類の腫瘍についての解析)』。この研究では得られる4742にも上るがんのエクソーム解析データを調べ、いつになれば完全な突然変異のカタログが出来るのかを調べている。5000近いエクソームを調べるともう十分な気もするが、まだまだ完全なカタログには数が足りないと言うのが結論だ。それでもこれだけの数調べると、乳がんや子宮内膜がんなどでは多くの遺伝子が突然変異を起こしてくる事がわかる。また神経芽腫や横紋筋種などの小児がんでは突然変異の見つかる遺伝子が極端に少ない事がわかる。(突然変異より遺伝以外の要因が考えられる)。当然これまで重要だとされて来た遺伝子は今回のカタログに全て含まれている。加えて33の新しい遺伝子の突然変異も発見された。ただ、理論的に計算すると一つのがんで1000から2000の異なる腫瘍を調べないと完全なカタログは完成しないようだ。世界中が協力すれば可能なはずで、是非進めて欲しいと思う。
ただ、論文自体は調べましたと言う報告でストーリーはなく、一般の方にはあまり面白くない論文だ。ただ敢えて取り上げたのは、エクソーム検査が今日では当たり前の臨床検査になりつつある事が感じられるからだ。これまではがんの候補遺伝子を決めてPCRを使って診断しており、検査法の開発もそのコストをさげ速度を上げることが主眼だった。しかしエクソーム解析は発現している遺伝子全てを調べる点で、これまでの検査とは全く違う。これまではその遺伝子配列決定にかかるコストの高さから候補遺伝子を決めて行う方法にはかなわなかったが、コストは低下しており、普及すれば候補遺伝子に絞った検査を逆転し、がんの発生や経過を考える点では2−3年のうちに間違いなくコストパーフォーマンスの高いはるかに有用な検査になると思う。日本の大きな一般病院でいつからこのような検査が利用できるようになるのか心配する?折しも今日の読売新聞の記事で、経産省が個人ゲノム研究の規制問題を話し合う委員会を立ち上げた事が出ていた。これも重要だが、先ず医療現場にどれだけ最新の遺伝子検査を利用できるようにするかが先決だと思う。アメリカは2004年1000ドルゲノム計画をスタートさせ、ゲノム検査は決して研究所で行う事ではなく、一般病院や個人が気軽に調べられるようにすべきだと言うメッセージを発した。そして10年、予言通りこの方向に時代が進んでいる。日本がこの点で空白地帯になろうとしているなら、逆に民間にとっては大きなチャンスが来たのかもしれない。
1月7日:当たり前だが頑張れば痩せられる(American Journal of Preventive Medicine1月号掲載論文)
昨日(1月6日)肥満の薬剤治療について紹介した。しかし、本当に薬を飲んでまで減量する必要性があるのかには疑問を持った。かくいう私も、15年前に85Kgを超える肥満になり、その後カロリー制限(アルコールは含まず)と運動などで77Kgまで減量に成功した。神戸に来て10年ほど80Kgを切る体重を維持して来たが、最近少し気が緩み、特に退職後は80Kg−81Kgを行ったり来たりするようになってしまった。それでも、最も太ったときよりは5%は減っているだろう。このように、減量を目指して一度は頑張る人は多いはずだ。ではどこまで摂生が必要なのだろう。そんな疑問を抱きながら文献を見ていたらうってつけの論文を見つけた。ブラウン大学の研究でAmerican Journal of Preventive Medicineという予防医学の雑誌の今月号に掲載されていた。「Weight-loss maintenance for 10 years in the national weight control registry (全国減量登録参加者は10年間減量を維持できている)」がタイトルだ。先ず感心するのは、全国減量登録がブラウン大学により1994年から行われている事だ。このサイトには現在約1万人が登録している。研究はこの登録の中から最初の努力で30ポンド(13.6Kg)減量できた人をピックアップし(2000人を超えている)その人達を10年間追跡した研究だ。これまで何度も繰り返して来たが、多くの人を登録し記録を蓄積する事は科学的な健康維持に必須の要件だ。はっきり言って、この研究では減量しようと頑張った人だけが対象になっており、その頑張る気持ちが維持できたかどうかを体重の変化として調べている。結果は90%近い参加者が調査開始時よりは太ってしまうものの、まだ10%程度の体重減を維持できていると言う結果だ。参加者のほとんどは、日に1回以上体重測定をし、運動を欠かさず、脂肪の少ない食事を10年にわたって続けることが出来ている。昨日紹介した最も強い食欲抑制剤でも1年で10%の減量と考えると、やはり頑張って痩せる方が良さそうだ。痩せようと先ず頑張ってみる事の重要性を実感した。また各自治体でも是非減量登録などを始めたらどうだろうか思った。
肥満の薬剤による治療(アメリカ医師会雑誌1月1日号掲載)
8月30日「火に脂肪(油)を注ぐ」と言うタイトルで、6月アメリカ医師会が肥満を病気と認定した事をこのホームページで伝えた。その時、これまで患者でなかった人が患者になる事で医師会や製薬業界が潤うのではと懸念を示した。一般的に肥満の人の体重が5−10%減るだけで様々な成人病の予防に大きな効果がある事がわかっている。しかし、自己努力のダイエットはなかなか難しい。もし安全なら、せっかくだしアメリカ医師会の決定に従って医師の管理の下に痩せようかと考えるのが普通だ。こんな折、医師会にとって(?)タイムリーな論文がアメリカ医師会雑誌の1月1日号に掲載された。アメリカ国立衛生研究所からの論文で「Long-term drug treatment for obesity A systematic and clinical review (肥満の長期薬剤治療、臨床研究の包括的検討)」がタイトルだ。研究と言うより調査で、これまでに正しい統計的手法を用いて行われた抗肥満薬の臨床治験論文をリストし、それを再評価する事で薬剤が本当に効果があるかを検討している。驚くべき事に抗肥満薬の臨床研究論文が2013年までに597報もある。ただ、十分大規模で統計的にも適性に研究が行われている論文は21報になり、それを詳しく再検討している。このうち15報はオリスタット(リパーゼの阻害剤で脂肪をそのまま便に排出させる)、4報がロルカセリン(セロトニン受容体刺激で食欲抑制)、2報がフェンテルミン+トピラメート(GABA受容体刺激/AMPAグルタミン受容体抑制を合わせて食欲抑制)についての論文だ。勿論個人の努力も促しての事だが、オリスタットやロルカセリンでは3%、フェンテルミン/トピラメート合剤では9%の体重削減効果が1年の経過観察期間で得られる。また、論文によって効果を示した患者(?)の率は違うが、それぞれ37−47、35−73、67−70%と効果てきめんで、心臓やメタボのリスクファクターもはっきり低下したと言う結果だ。いずれにせよ、効かない人もいるので医師の管理下に投与して、効かないときは治療を中断すれば有効な治療(?)になるが、長期に投与する事で本当に心疾患が減るかどうかは更なる研究が必要と結んでいる。これに従うと、アメリカでは3割以上の人が病気になる。さ〜て我が国でも保険薬として認定されるのかどうか興味がある。
アメリカの医学研究助成の低下傾向への懸念 (1月2日号The New England Journal of Medicine記事)
日本にいると、圧倒的な欧米の医学研究シェアの中で日本は如何にリーダーシップをとればいいかについての議論ばかり聞こえてくる。例えば山中さんが何度も口にした「1対10」で戦うと言う言葉がその典型だ。しかし、アメリカにいると違う風景が見えるようだ。先週のThe New England Journal of Medicineの冒頭に掲載されたThomas McNerny and Partners(医療系ベンチャー)を中心の調査研究はアメリカの医学研究助成のシェアが低下している現状を嘆いている。「Asia’s ascent – Global trends in biomedical R&D expenditures (高まるアジアのシェア — 医学生物研究開発費での世界的傾向)」がタイトルだ。基本的には2008年から2012年までのアメリカ、欧州、アジアの医学研究助成の推移を調べた統計資料調査で、インフレ率相殺という手が加わっている。この結果、アメリカでは1310億ドルから、1190億ドルへと低下した一方、欧州全体では830億ドルから、818億ドルへと微減、そしてアジア全体では410億ドルから620億ドルへと激増し、アジアがリーダーシップをとる時代が来るのではと心配している。この中で我が国は280億ドルから、370億ドルへと32%の増加になっている。しかし、2007年が年末まで1ドル120円前後の円安で、2012年は80円を切る事もあった円高の年である事を考えると日本でも欧米と同様研究費は減り続けていると言った方がいいだろう。結局、中国を中心にアジア新興国の台頭がはっきりして来たと言う事だ。逆に私は、中国の研究助成が2012年でも日本の1/4にとどまっている点に驚いた。というのも2013年Nature Publishing Indexによる世界の科学勢力調査によると生命科学分野での日本と中国の差はほとんどない。人口が10倍違うとはいえ、中国は効果的な助成を行っている事になる。おそらく我が国がこの統計から学ぶべき事は、日本の助成金の効率が悪い事ではないかと思った。私見だが、優秀な人材を集める事が研究効率に関わっており、我が国はこの点で特に低落傾向が激しいのではないだろうか。英国やドイツの研究所を見れば、助成金より先に世界中から優秀な人材を集めるための競争をアメリカと行う気構えがある。またこの論文で嘆かれているアメリカは元々優秀な人材を世界から集めて研究の効率を高めており、この結果助成金をはるかに上回る成果を生んでいる。そう考えると、我が国に求められる政策の課題は助成金額に相応した優秀な人材を集めるための方法を確立する事に尽きる気がする。20世紀の終わり、フランスの経済学者ジャックアタリが「21世紀の歴史ー未来の人類が見た世界」と言う本の中で、日本は外国人への門戸を開かないままアジアの島国として孤立していくだろうと予言している。最も近い国々と連帯できない最近の内閣の外交政策とそれに喝采を送る人達の多い現状を見ていると、この予言が既ね的中しつつある事を実感する。しかし、この論文の最後が「The lack of coordinated national biomedical R&D strategy is disappointing at a time when mature economies such as those of Japan and Europe have maintained their level of investment in this area (アメリカに生命科学分野のR&D戦略がないと言う事は、日本やヨーロッパの様な成熟経済がこの分野の投資を続けている現状を考えると残念だ)」と結ばれているのは、わたしには皮肉としか聞こえない。日本に本当に戦略があるのか?この統計を真摯に眺めるときだろう。
1月3日日経記事「メダカ恋の秘訣は見合い」
新年早々日経は意欲的に基礎研究を紹介した。記名でないのでどなたの記事かわからないが、メダカが我が国発のオールジャパンの研究モデルである事を考えると、よく取り上げていただいたと思う。紹介されたのは東京大学生物学科の奥山さんの研究で、多くの日本の機関が協力して生まれた論文である。1月3日付けのサイエンス誌に掲載された。「A Neural Mechanism Underlying Mating Preferences for Familiar Individuals in Medaka Fish (なじみの個体との選択的交尾傾向に関する神経機構)」がタイトルだ。我が国のメダカ研究の裾野を示す素晴らしい研究だ。おそらくこの研究は、メダカの交尾と言う行動研究から始まっているのだろう。この中で、なじみの雄を雌が受け入れる行動に気づき、この行動の分子細胞学的基礎を丹念に調べている。行動を科学的に調べる方法が確立すると、次は行動異常を示す突然変異を探すのが常道だ。幸い長い研究を通して日本ではそのような突然変異体のストックがある。これを利用して、細胞の移動を調節するケモカイン受容体突然変異が交尾行動異常を示す事を発見した。分子の一端がわかるとこの異常に関わる細胞が性腺刺激ホルモン(ゴナドトロピン)を誘導するホルモンを造っている細胞である事がわかった。透明な魚ではこの細胞をレーザーで焼く事も出来、実際この細胞がこの行動に関わる事も確認された。そして、この細胞が失われると交尾行動全体が促進する事がわかった。即ち、この細胞は交尾行動の抑制に関わっている事になる。とすると、どうしてなじみの雄と選択的に交尾すると言う行動が生まれるのか?これを調べるべく、今度は突然変異体を分離し、この細胞の興奮状態を生理学的に調べるなど、このモデルで行える全ての技術を動員して原因に迫っている。そしてついに、この細胞が成長前は交尾行動の抑制に、成長後は視覚に反応してホルモンを分泌する事で選択的交尾行動を誘導するというモデルに到達した。さらに、このモデルの妥当性を、実際の交尾行動の結果なじみの雄からの子供が生まれる事を調べる事で確かめている。今流行りのCRISPRこそ使われていないが、考えられるほぼ全ての手法を駆使した文字通りオールジャパンを実感する研究だ。既にこのホームページで紹介したように、ハタネズミなどでは、交尾期前にオキシトシンが分泌され、その結果としてステディーのつがいが生まれる事が知られている。このように使われるホルモンは違っても、この様なスウィッチがどう起こるのかの生理的なメカニズムは参考になる事が多いかもしれない。
さて記事だが、内容は簡潔にうまく伝えている。ただ、出来る事ならメダカが我が国発のモデル動物で、この研究がまさにオールジャパンを象徴する研究である事を強調して欲しかった。現在iPS細胞研究ではオールジャパンと言う事が叫ばれ、文科省や内閣府はその実現に腐心している。ただ論文を見ても、本当にオールジャパンを実感する事はまだ出来ず、うまく行っていないからオールジャパンが叫ばれているように思える。その意味でiPS細胞研究も、メダカ研究から学ぶ事は多いのではないだろうか。