カテゴリ:論文ウォッチ
11月3日:神経堤細胞の進化(Natureオンライン版掲載論文)
2015年11月3日
進化の過程ではそれまでに全く存在しなかった新しい細胞や器官が生まれる。例えば四足類という名前からわかるように、手足は魚類には存在しない。一方、全く新しい器官や細胞を一から創造するのは難しい。実際にはすでに存在するシステムを土台に新しいシステムができる。四肢の場合ヒレがそれにあたる。すなわち、全く新しいように見える器官や細胞には必ずルーツがある。様々な動物のゲノムが解読されてからは特に、新しいシステムとそのルーツを特定し、共通性と相違を明らかにし、その背景にあるゲノム変化を対応させる研究が進化発生学の重要な分野になっている。
脊椎動物はホヤなどの属する尾索類から分離してきたと考えられているが、この過程で新しく生まれる細胞の一つが神経堤細胞だ。脊椎動物の神経堤細胞は上皮が落ち込んで神経管ができた時、背中側の細胞が神経管から剥がれ落ちたあと目的の場所に移動して、感覚神経、色素細胞を始め頭の骨や筋肉、さらには心臓弁の一部にまで分化する細胞だ。今日紹介するニューヨーク大学からの論文は脊椎動物に近いユウレイボヤで神経堤細胞に相当する細胞を探した研究でNatureオンライン版に掲載された。タイトルは「Migratory neuronal progenitors arise from neural plate borders in tunicate(尾索類では移動性の神経前駆細胞は神経板の境界から発生する)」だ。丁寧とは言え、かなり古典的進化発生学の研究で、脊椎動物神経堤細胞から分化する後根神経節細胞に焦点を当て、発生過程で発現する遺伝子の共通性を手がかりにホヤの幼虫を検索し、ホヤの神経板の境界に接する細胞から由来するBTN系列が、脊椎動物の後根神経節細胞のルーツ細胞として特定している。この細胞は神経堤細胞と同様に体内を移動し、感覚受容体を発現する感覚細胞と結合する。残念ながら脊椎動物神経堤細胞のように明確な接着分子の変化を特定できていないが、関係のないカドヘリンを強制的に発現させるとBTN細胞は上皮から分離できないことから、この点でも接着性を変化させることで神経管から剥がれ落ちる神経堤細胞と似ていると結論している。この過程の鍵になる最も重要な分子が環境からのシグナル(MAPKを介する)により発現するneurogeninである点も似ている。ただ、大きな違いはBTNが神経板由来ではなく、中胚葉とともに神経板の境界へと移ってきた細胞である点だ。著者らは、ホヤのBTNは色素細胞と発生初期に共通の細胞から分かれるが、この分化タイミングがずらされ神経板細胞と統合されることで、神経堤細胞が神経板、そして神経管から生まれる様式が誕生したのではと結論している。
期待して読んだのだが、実際には少し失望した。はっきり言って、しっかりとした発生研究だが、進化発生学としてはあまり面白いとは思えなかった。古典的なレベルに留まって視野も狭い。例えば、タイミングをずらすヘテロクロニー進化は閉鎖血管系が生まれる際の血管内皮と血液の間にも見られる。何よりも、共通性と相違を定義する時に利用した遺伝子上に起こった変化との対応が全く取れていない。この過程は故大野博士が提唱した全ゲノム重複が起こった過程だ。これと形質変化を対応させて初めて面白い研究になる。しかもこの過程を代表する多くの種のゲノムも解読されている。この話が全くないのは興ざめだ。おそらく日本の若手が同じ研究の論文を送っても採択されないのではないだろうか。頑張っていると思えても、読んでがっかりする論文はトップジャーナルにも多い。この点はブランドワインと同じだ。
11月2日:抗原受容体遺伝子再構成研究の進展(Cellオンライン版掲載論文)
2015年11月2日
今日紹介するハーバード大学からの論文の内容はかなりプロ向きであると最初から断っておく。ただこの論文で研究しているRAG分子は私自身にとって思い出の深い分子で、久しぶりにこの論文の責任著者Fred Altの論文を読んで、改めてここまで研究が進んでいるのかと感心した。医者をやめてドイツで基礎研究を始めた時選んだテーマがBリンパ球の発生だった。私のテーマは未熟B細胞増殖調節だったが、同じ過程で何百万種類の抗体遺伝子の組み合わせが選ばれ、一個のBリンパ球が1種類の抗体を発現する遺伝子再構成が起こることから、遺伝子再構成のメカニズムについての研究が利根川,Baltimore,本庶など当時のスター研究室で進んでいた。同じ細胞を扱っていたことから、私自身もこの分野の研究者と交流が深かった。当時は現在の教科書に書かれている再構成のルールが明らかになり、焦点はどの分子がこの再構成を行っているのかに絞られていたが、最終的にBaltimoreの研究室のShatzがRAG1,RAG2遺伝子が遺伝子再構成の主役であることを発見する。その後私自身は研究を血液の発生全体に広げたため、これ以降の進展については、時折目に止まった論文を読む程度だったが、今日紹介するAltたちの論文はこのRAG1,2分子がどのように広い範囲のゲノム領域の中から再構成する相手を決めているのかを研究したものでCellオンライン版に掲載された。タイトルは「Chromosomal loop domains direct the recombination of antigen receptor genes (染色体上のループ領域が抗原受容体遺伝子の再構成を指示している)」だ。
極めてマニアックな研究で、生物学の研究のプロでもおそらく理解に時間がかかる論文だと思う。研究ではRAG1,RAG2の遺伝子への結合を決めている真性のシグナル配列(RSS)とは別の、RSSに配列が似ているため間違ってRAGが結合してしまうoff target配列を全てリストする方法を開発し、RAGによる再構成はゲノム全体に散らばるoff-target配列と真性のRSS間で起こるが、その範囲は染色体のトポロジーを決めているTADという構造内(http://aasj.jp/news/watch/3533参照)に限局されるようになっており、これが抗体遺伝子再構成が他の領域を巻き込まない理由であることを明らかにしている。さらに、再構成の相手を選ぶ時の方向性がCTCFと呼ばれる分子が結合する遺伝子配列の向きによって決められていることを明らかにしている。わかりやすく図式的に言うと、真性のRSS配列に結合したRAG1,RAG2はCTCFが決める方向性に従って遺伝子をたぐって相手方を決めるが、TADの境界を決めている場所に来ると手繰り寄せが止まり、それ以上進展されないようになっている。この時、どの部位と実際結合するかはおそらくIGCR−1領域のノンコーディングRNA存在と深く関わっており、この部位を欠損させると再構成される領域が強く抑制されるという結果を示している。この分野の研究者が他の領域に移っていく中で、Altは抗原受容体遺伝子再構成のメカニズムを極め、新しい普遍性を持った領域を開拓しつつあると実感する論文だった。 結局分野の違う人にはわかりにくい話だったと思うが、読んでみてここまでわかったのかという感慨を持つと共に、抗原遺伝子再構成というマニアックな領域が、ガンやCRISPRまで巻き込む、本当は多くの普遍的重要性を含んだ分野になってきたと私は確信した。若い人は「関係ない」と決めつけず、ぜひ一度論文を手に取ってほしいと思い紹介した。
極めてマニアックな研究で、生物学の研究のプロでもおそらく理解に時間がかかる論文だと思う。研究ではRAG1,RAG2の遺伝子への結合を決めている真性のシグナル配列(RSS)とは別の、RSSに配列が似ているため間違ってRAGが結合してしまうoff target配列を全てリストする方法を開発し、RAGによる再構成はゲノム全体に散らばるoff-target配列と真性のRSS間で起こるが、その範囲は染色体のトポロジーを決めているTADという構造内(http://aasj.jp/news/watch/3533参照)に限局されるようになっており、これが抗体遺伝子再構成が他の領域を巻き込まない理由であることを明らかにしている。さらに、再構成の相手を選ぶ時の方向性がCTCFと呼ばれる分子が結合する遺伝子配列の向きによって決められていることを明らかにしている。わかりやすく図式的に言うと、真性のRSS配列に結合したRAG1,RAG2はCTCFが決める方向性に従って遺伝子をたぐって相手方を決めるが、TADの境界を決めている場所に来ると手繰り寄せが止まり、それ以上進展されないようになっている。この時、どの部位と実際結合するかはおそらくIGCR−1領域のノンコーディングRNA存在と深く関わっており、この部位を欠損させると再構成される領域が強く抑制されるという結果を示している。この分野の研究者が他の領域に移っていく中で、Altは抗原受容体遺伝子再構成のメカニズムを極め、新しい普遍性を持った領域を開拓しつつあると実感する論文だった。 結局分野の違う人にはわかりにくい話だったと思うが、読んでみてここまでわかったのかという感慨を持つと共に、抗原遺伝子再構成というマニアックな領域が、ガンやCRISPRまで巻き込む、本当は多くの普遍的重要性を含んだ分野になってきたと私は確信した。若い人は「関係ない」と決めつけず、ぜひ一度論文を手に取ってほしいと思い紹介した。
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11月1日:フォルクス・ワーゲン不正による被害推定(10月29日号Environment Research Letter掲載論文)
2015年11月1日
巷では旭化成建材の杭打ちデータ流用の拡大がメディアを賑わせているが、東芝不正経理、東洋ゴムデータ改ざん、VW排ガス不正と、大企業で続く不正を目にすると、昨年小保方問題の原因について、大学や理研は企業では当たり前のコンプライアンス対策や人事管理ができていないからだと記者会見で語っていた人たちの顔が浮かぶ。これだけ続くと、おそらく現在の大企業が作り上げた利潤追求システムを構造問題として分析する必要がありそうだ。ただ今続発している企業不正には被害者があり、司法の場に持ち込まれるケースも多いはずだ。このとき被害の全体をどう科学的に、しかも迅速に評価するかが問題になる。
この問題にアメリカのアカデミアがどう迅速に対応できるかを示すマサチューセッツ工科大学とハーバード大学からの論文が10月29日号のEnvironmental Research Letterに掲載されていたので紹介する(Environ.Res.Lett. 10(2015) 114005)。タイトルは「Impact of the Volkswagen emission control defeat device on US public health(フォルクス・ワーゲンの排ガス制御装置のdefeat deviceが米国の公衆衛生に与えるインパクト)」だ。幸いこの論文はクリエーティブコモンズに登録されており、図の引用が可能だ。
しかしアメリカ環境局(EPA)がVWの不正について発表したのは9月18日であることを思い起こすと、この論文がその後1ヶ月半で発表されたことは驚くべき速さで、社会の要求に迅速に答えることを使命の一つとして自覚しているアメリカアカデミアの底力を見る思いがする。さてタイトルからわかるように、この研究ではフォルクス・ワーゲンとアウディがアメリカで2009-2015年に発売したディーゼル車の排ガスがアメリカ市民の健康に及ぼす影響を算定したものだ。タイトルに登場するdefeat deviceとは、状況に合わせて排ガス処理をバイパスする装置で、今回の不正では排ガス検査以外の正常走行でこの装置が働くようにしたことが問題になっている。推計学的方法の詳細はすべて省くが、研究では、販売台数、これまで蓄積した一般車の走行パターンから割り出したNOxとPM2.5の排出量を、すでに環境評価で確立している幾つかの推計シミュレーションモデルに当てはめて、premature death (早死に)する確率や、様々な疾患の発生率を推定したものだ。論文に示された表をそのまま転載するが、2015年までの排出によるpremature deathを59人、社会コストを4億5千万ドルと推定している(図をクリックしてください)
そして、VWが約束した通り2016年末までにリコールを終わらせれば将来のpremature deathを130人減らし、社会コストも8億4千万ドル減らせることを強調している。他にもこれまでの排ガスにより31人の慢性気管支炎と34例の入院例が発生したはずだとする推計も示している。その上で、現在EPAなどが推定しているVWへの罰金額が4万ドルを超えている点について、今回の研究から推定される実際の被害は一台あたり高々2600ドルで、EPAの算定は高すぎるのではと指摘している。さらに、被害のほとんどはPM2.5によるもので、NOxによるオゾン層破壊の影響はほとんどないことも強調している。役に立つことを絵に描いたような研究だが、使った推計学モデルが正しいかどうかは議論が必要だ。我が国を含め、公的資金を使ってビッグデータ・シミュレーションモデルが作成されているはずだ。このようなモデルは本当は今回のような問題が勃発したときのために作られてきているはずだ。こうした蓄積が役に立つことを迅速に示して、市民社会の期待に応えた点はさすがだ。次はこの論文がどのようにEPAや司法の判断に利用されるかが見ものだ。とはいえ、今回の推計データを実際の死亡率や発病率と照らし合わせて推計モデルの正統性を示す科学側の新たな責任も生まれたと思う。繰り返すが、9月16日のEPAの発表後すぐに計算を始めて、10月2日には論文を投稿し、10日で掲載が決まるというアメリカの学界のスピード感には舌をまく。
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