2016年1月9日
木を見て森を見ずというが、おそらくこれは一本一本の木について注意を払わなくてもいいという意味ではなく、個別にとらわれると全体を見失う心配があることを諭す警句だろう。しかし、この問題は医学にとって永遠の問題になっている。即ち、個別の症例や経験を大事にすることと、多くの対象を統計的に扱う疫学研究はともすると反目し合う。例を挙げると、一部の患者さんに高い効果を示す薬も、統計学的に生存期間を比べると効果がほとんど見られない場合も多い。
今日紹介するOregon Health and Science UniversityとIcahn School of Medicine at Mt Sinaiの医師とジャーナリストが共同で出した意見論文は、少し異なる個別と全体の問題を問うた論文で、1月6日号のBritish Medical Journalに掲載された。タイトルは「Why cancer screening has never been shown to “save lives” – and what we can do about it(どうしてガン集団検診は未だかって生命を救ったという証拠がないのか、これに対して私たちは何ができるか)」だ。
しかし挑発的なタイトルだ。Wakefield論文の告発やタミルフ治験研究の告発からわかるようにBritish Medical Journalは反骨精神旺盛の雑誌で、常識と思われることに挑戦する論文や意見を大事にする編集方針を持っているようだ。私自身が集団検診についての論文を読むとき、肺ガンの集団検診だと、肺ガンの死亡率がどれだけ減ったのかに注目しても、他の原因で死亡したケースは頭の中から除外して考えるのが普通だ。しかしこの論文は、ガン検診でそのガンの死亡率が減少しても、その減少が全体の死亡率に影響しないと意味がないのと考えた。そこで、これまで発表されたガン集団検診の効果を調べた論文を、ガンの発見率や、ガンによる死亡率だけでなく、それ以外の病気も含めた死亡率全体を減少させる効果の観点から再検討している。
結果はタイトルにあるとおりで、確かにガンの集団検診は、対象となるガンの死亡率を下げる効果があるが、参加者全体の死亡率には全く影響ないか、逆に増えている場合がある。なぜ対象となったガンの死亡率は減っているのに、全体の死亡率は減らないのか?これはガンの死亡率が減った分だけ、他の病気の死亡率が増えていることを意味している。即ち、検診を受けることが、健康に逆効果になっているのではと疑問を投げかけている。
具体的には、検診で陽性と出ても偽陽性で、実際にはガンは発見できないことは多いが、このときの精密検査による事故、あるいは心配することでストレスが高まり他の疾患を併発してしまうこと、最悪の場合は自殺に至る場合もあると指摘している。
もし本当に全体の死亡率がガン検診で減少していないなら、確かに真剣に考える必要がある警告だ。この問題を決着させるために、著者らは400万人規模の研究を国が行い、方針をはっきり定めるべきだとしている。同じ研究を検診大国日本で行えるかどうかわからない。ただ、これまでの検診についての論文を再検討してみることはできるだろう。是非調べて欲しいと思う。
さて、この論文を知った上で、自分はどう判断するかだが、ガンの発見率が確実に高いなら、やはり来年も人間ドックに行こうと思う。
2016年1月8日
2004年の京都賞。思想・芸術部門はドイツのユルゲン・ハーバーマスが受賞した。京都賞では授賞式に合せて講演会やワークショップが行われる。このワークショップにハーバーマスから生命科学者も参加させて欲しいという要望があったらしく、選考委員長だった三島憲一さんから参加を依頼された。学生時代読んだ「イデオロギーとしての技術と科学」には感銘を受けていたので握手できるだけでも十分とお承けした。この本が印象深かったので、最初科学技術についてのテーマかなと思っていたが、後にハーバーマスが選んだタイトルが「自由と決定論—自由意思は幻想か?」で、その中でリベットの実験についても議論したいということで科学者の参加を希望したことがわかった。だとすると、脳科学者の出番で、自分の出る幕ではないと思ったが、もう後の祭り。「イデオロギーとしての生命科学」というタイトルでなんとか話をしたが、冷や汗をかいた。しかし、「自分の意思で行動しようと決心する前から脳の中では準備が始まっている」とするリベットの実験が、哲学の人にもこれほど真剣に捉えられていることは新鮮な驚きだった。今日紹介するドイツシャリテ医大からの論文はやはりリベットの実験を下敷きにした研究で、ドイツでこのテーマが重視されていることがわかる。タイトルは「The point of no return in vetoing self-initiated movements (自由意志で始めた行動を中断できる分岐点)」だ。
リベットの実験は、客観的記録として脳電位を測定する間に、被験者に手をあげさせ、手を動かそうと思いついた時にボタンを押してもらい、主観的行動の開始時点を決めるというプロトコルで行われる。行動を起こす決心をしてボタンを押した0.3秒前から脳で準備電位が記録できるという結果から、自由意志より先に脳が動くと大騒ぎになった。その後も、この実験自体は追試されてきたようで、実験自体は正しいと考えられている。
この研究では自分の意思に先行しておこる準備電位が発生すると、もう行動まで後戻りできないのか、あるいは準備電位が発生した後も自分の意志でその行動を止められるかという実験を行っている。実験では、開始のシグナルの後、2−3秒待ってから好きな時にボタンを押してもらう。この時脳波を記録すると、ボタンを押すより0.5秒前から準備電位を記録することができる。次に、この時赤のランプを見るとボタンを押すのをやめるよう訓練する。そして、この赤のランプを、準備電位の記録とシンクロさせて点灯させるようにして、準備電位が始まって彼でもボタンを押す行動を止められるか調べている。準備電位を記録するということは、行動が決断されたことを示しており、もし準備電位が行動を完全に決めるなら赤ランプを見ても行動は止められないはずだ。一方、準備電位とシンクロした赤ランプを見てボタンを押すのを止めることができれば、準備電位は行動を完全に決めてはいないと結論できる。詳細は全て省くが、結果は準備電位が記録されてすぐに赤ランプが点灯すれば行動を止めることができるようだ。
リベットの実験と同じで、様々な解釈ができる結果で、最初の実験から30年以上たった今もドイツでは喧々諤々議論されているのかもしれない。ただ、主観と客観の2元論の克服が21世紀の課題の一つだとすると、この実験系も捨てたものではない。
2016年1月7日
「親戚にガンにかかった人が多いので、私にはガン体質がある」という話をしばしば聞く。個人ゲノムの解読が進むことで、このガン体質の本体が徐々に明らかになっているが、実際に各個人のゲノムが発がんにどの程度寄与しているのかを調べるためには、ガンの発生率を近親者間で比べる必要がある。このような研究の究極が双子研究で、ゲノムがほぼ一致している一卵性双生児から、2卵性同性、2卵性異性と順番に遺伝的違いが大きくなる。さらに都合のいいことに、双生児の多くは同じ環境で育てられ、環境要因を揃えて計算することができる。ただ難点は、十分な母数を得ることで、多くの国が大規模な双生児のコホート集団を設定している。
今日紹介するハーバード大学からの論文は北欧4カ国の双生児コホート集団を用いてガンの発生率を調べた研究で、1月5日発行のアメリカ医師会雑誌に掲載された。タイトルは「Familial risk and heritability of cancer among twins in Nordic countries (北欧諸国の双生児のガン発生の遺伝的リスクと遺伝性)」だ。世界各国で双生児コホート研究は続けられており、同じような研究はこれまでも行われてきたはずだ。ただ、今回の研究の驚くべき点は、なんと1870年から双生児の正確な登録が存在し追跡できることだ。この研究で使われた記録は、デンマーク1870年、フィンランド1875年、スウェーデンで1886年、そしてノルウェーでは1915年から記載が始まっている。1868年が明治元年だから、明治時代から正確な出生記録が残っていることになる。更に重要なのは、この4カ国で正確なガン登録が行われてきたことで、この2種類のデータがセットになって初めて、この研究が可能になっている。ようやく全国的ガン登録が始まった我が国を考えると、ヨーロッパと我が国の近代に対する考えの大きなギャップを知ることができる。いずれにせよこの整備された登録のおかげで、北欧4カ国で一卵性双生児8万組、2卵生双生児(同性)12万組を追跡することが可能になっている。
結果はこれまでと同じで、ガン体質は確かにあるという結論だ。生涯をとおしてガンにかかる率は北欧で32%だが、片方がガンにかかった双生児の場合は2卵生で37%、一卵性で46%と高くなる。同じガンにかかる率は、ガンによってまちまちで、双生児間で一致率がはっきり高い、頻度の高いガンは前立腺がん、乳がんで、肺がん、皮膚ガン、直腸癌などは遺伝性は認めるが弱いという結果になっている。頻度の低いガンの中で睾丸腫瘍と悪性黒色腫は特に双生児の一致率が高い。一方、同じ環境で育った双生児については環境要因を計算することが可能で、予想通り肺ガンでの環境の寄与は大きいという結果だ。
全ての北欧諸国が同じかどうかわからないが、スウェーデンでは拒否を前もって表明しない限り、死後の組織を医療や研究に利用できるようになっている。とすると、今後ゲノムも含めさらに詳しい検討が行われるだろう。21世紀、様々なレベルの人間についての情報を統合する試みが進むと考えられ、その意味でコホート研究はゲノム研究とセットになると思っている。この時、人間を記録するコホート研究についてのヨーロッパの長い伝統は大きな財産になるだろう。事実、医療統計学の母はナイチンゲール、父はケトレー(ケトレー指数:BMIの提唱)だと私は思っているが、ナイチンゲールが統計学を駆使したクリミア戦争は1854年、ケトレーの有名な著作が1835年の話だ。コホート研究を目にすると、この伝統を思い起こさざるをえない。
2016年1月6日
昨年のノーベル賞はCRISPR/Cas9を用いた遺伝子編集法の開発に与えられるのではと予言し外れたが、今年も同じ予言を続ける。それほどこのテクノロジーは生命科学全領域に広がっている。最も期待されている分野が遺伝子治療分野への応用で、この方法のおかげで患者さん自身の遺伝子の機能を回復させる治療がより現実に近くなった。これを裏付けるように、今年最初にScienceにアップデートされてきた論文の中に、筋ジストロフィーモデルマウスを、CRISPR/Cas9を用いて治療することが可能であることを示す論文が2編見つかった。一編はデューク大学、もう一編はハーバード大学からの論文だ。両方共ほぼ同じ内容なので、ここではデユーク大学からの論文だけを紹介しておく。タイトルは「In vivo genome editing improves muscle function in a mouse model of Duchenne muscular dystrophy (デュシャンヌ型筋ジストロフィー・モデルマウスの筋肉機能を遺伝子編集を用いて改善する)」だ。筋ジストロフィーはX染色体にあるディストロフィン遺伝子の突然変異で、正常なたんぱく質が形成されないために、筋肉細胞が進行的に変性する。ディストロフィンは巨大な分子で79個のエクソンからなる遺伝子によってコードされている。ほとんどの患者さんは男性で(伴性遺伝)、新生児期から遺伝子診断が可能で、突然変異を持つX染色体が1本しかないため、遺伝子編集技術を使う格好の対象だ。さらに多くの突然変異でたんぱく質の翻訳が途中で止まって機能のない分子ができるが、変異のあるエクソン自体を完全に取り除いた遺伝子からできるディストロフィンも機能を持っていることがわかっている。すなわち、分子の場所によっては少々欠損しても問題ない。この論文では、マウスディストロフィンの23番目のエクソンに突然変異を持つモデルマウスを用いて、この23番目のエクソンを全て切り出してしまって治療が可能かが検討している。研究では、CRISPR/Cas9と22、23番目のイントロン配列に対応する2種類のガイドRNAを別々のアデノウイルスベクターに組み込んで、この混合物を局所、腹腔、静脈ルートに注射し、どのぐらいの効率で機能的遺伝子を復活させられるかを調べている。結果は明快で、うまくいくと60%以上の筋肉細胞の遺伝子の機能を回復させられる。特に、新生児期に腹腔注射することで、生命に関わる横隔膜筋のジストロフィン機能を回復させられるし、静脈注射で心臓のディストロフィンも回復できる。さらにハーバード大学からの論文では、筋肉の自己再生に関わる筋肉幹細胞もこの方法でディストロフィンの機能を回復させることができ、長期にわたって筋肉機能回復が期待できることも示されている。予想されていたとはいえ画期的な結果だと思う。
エクソンを除くという今回の方法で治療可能な筋ジストロフィーは50%以上に達すると考えられ、臨床応用が加速すること間違いない。次は、突然変異を完全に元に戻す方法の開発が進むだろう。生殖細胞改変については議論の多いこの技術だが、多くの患者さんを救う技術であることも明らかだ。期待して見守ろう。
2016年1月5日
昨日は細胞のアイデンティティーを決めるゲノム、エピゲノム、染色体構造という異なるレベルの情報を相関させる研究を紹介した。このように、生命を支える異なるレベルの情報を統合する試みが生命科学研究の一つのトレンドになっている。しかし、ヒトの高次脳機能となると、さらに刻々入ってくる刺激により連続的に変化する脳回路の活動状態という情報を重ねる必要がある。昨日の論文はワクワクして読んだと言ったが、脳回路まで重ねる研究となると、まだハラハラ心配しながら読まざるをえない。それでも、急速に整備が進む脳の遺伝子発現やエピゲノムデータベース、正常から異常まで横断的に集めた膨大なゲノムデータベースを駆使して、この難題にチャレンジする研究が増えてきている。
今日紹介するロンドンのインペリアルカレッジとデユーク大学シンガポール分校からの論文はこのトレンドの典型と言える。タイトルは「Systems genetics identifies a convergent gene network for cognition and neurodevelopmental disease (システム遺伝学によって認知と神経発生異常の遺伝子ネットワークを特定する)」だ。この研究でも、既存の多くのデータベースを利用している。この時、データベースを横断的に利用するための新しいアイデアやソフトがない場合は、「場代」として自分のデータを足す必要がある。このグループは、癲癇の外科的治療の際に切除した122人の海馬の遺伝子発現データを自らの「場代」として提供し、この新しいデータと、これまでのデータベースの比較を重ねて、認知機能や脳発生に関わる重要な遺伝子を発見しようとしている。
海馬の遺伝子発現データを処理する手法は新しいというわけではなく、相互に関連しあう遺伝子モジュールを特定するソフトを用いている。これにより、24のモジュールを特定した後、死後脳の海馬の遺伝子発現、マウス海馬の遺伝子発現とも共通する2種類のモジュールを海馬を代表するとして選んでいる。このモジュールに含まれる個々の遺伝子の機能分類をした後、ヒトの脳発生での遺伝子発現データベースと照らし合わせて、このモジュールが海馬ではなく、大脳皮質全体を代表するモジュールで、発生過程で発現が上昇することを確かめている。次に、様々な認知異常についてのゲノムデータベースと照合して、抽出した二つのモジュールが確かに認知異常と関連する遺伝子と相関することを示し、最後に統合失調症、自閉症スペクトラム、脳発生異常、精神遅滞などと明確に関わることがわかっている親子ゲノム解析に基づく一塩基突然変異データベースと照合して、一つのモジュールが、このデータベースで特定された遺伝子を多く含むことを示している。その上で、新しく集めたデータが、脳機能の理解に重要であると結論している。このように大きなデータを扱う時は、注意しないと自分の仮説にあったデータだけを抽出して示してしまう心配がある。実際読んでいて、彼らが特定したモジュールの正当性を示そうと努力しているだけに思え、では認知に関わる回路とは、遺伝子とは何か、について新しい理解が得られるような気がしない。それでも苦しい挑戦をなんとか続けるうちに、問題が見えてくることもある。今述べたような批判を物ともせず、我が国からも、膨大な脳発生や機能に関するデータベースを駆使して、自説を検証する大胆な若者がもっと出てきてほしいと思っている。
2016年1月4日
お正月に入って、新しい論文がアップデートされるスピードが落ちている。したがって、昨年暮れにためておいた論文を一編づつ紹介している。この中でもっともワクワクして読んだのが今日紹介するアメリカジャクソン研究所を中心とした中国、ポーランド、ベルギー、フランスの共同論文で、昨年暮にCellに掲載された。共同研究と言っても、実際にはジャクソン研究所と武漢にある華中科技大学を兼任している中国人研究者Ruanさんのグループがゲノムの立体構造を解明しようと地道な努力を重ねた研究で、タイトルは「CTCF-mediated human 3D genome architecture reveals chromatin topology for transcription (CTCFにより媒介されるヒトゲノムの3次元構築から、転写に関わる染色体のトポロジーが明らかになる)」だ。
私たちのゲノムは48本の長いDNA鎖からできており、総延長は2mに及ぶ。これが核の中でたたまれているのだが、やみくもにたたまれるのではなく、必要な遺伝子だけが転写され、必要のない遺伝子は転写マシナリーから隔離するようたたまれる。例えれば飾り紐のようにたたまれており、さらにたたまれ方は細胞ごとに異なっている。このたたみ方を決めるのがCTCFとコヒーシンであることがこれまで明らかになっている。たたまれ方を調べる方法の一つが、隣接しているゲノム領域を調べるHi-Cと呼ばれる方法で、この方法を用いてゲノムの立体的区域化(TAD:topology associating domain)を決めることができ、多くの細胞種でTADが決められつつある。
さて現在ポストゲノムの最重要課題として進んでいるのがENCODEプロジェクトで、細胞ごとの遺伝子発現、エピゲノム、そしてTADなどをゲノムの上に重ね合わせてるプロジェクトだ。このプロジェクトによりゲノム情報が初めて細胞特異的なエピジェネティック状態と統合できると期待されている。この研究では、これに加えてCTCF結合部位に集められた遺伝子領域と、転写開始標識としてのRNAポリメラーゼと結合している遺伝子領域を高い精度で (ChiA-PET: Pair-end tag sequencingという方法を用いる)調べることで、ENCODE情報全体を構造という観点から再統合できることを示した研究だ。
詳細を全て省いてイメージを伝えるとすると、DNAという糸に付いたCTCFはコヒーシンの作用でヘアピンとコイルの2種類の基本構造が組み合わさった立体構造をとっているが、この論文に示されたデータにより、一つの細胞株についてではあるが、この折りたたみを何千箇所について具体的に描くことができるようになったと考えてもらえればいい。この折りたたみの要(かなめ)にCTCFとコヒーシンが存在するが、そこで転写が活性化されている場合はRNAポリメラーゼも存在する。
ではこのデータから何がわかるのか。まず構造と転写活性の相関がわかる。例えば、どの細胞でも発現している生命に関わる遺伝子をハウスキーピング遺伝子と呼ぶが、これらの遺伝子は要に近いところに集められている。一方、発生に必要な遺伝子のプロモーターやエンハンサーは要から離れたループの中に存在するといった具合だ。私は細胞分化を研究していたが、3年前の現役時代には全く想像もつかなかったことが明らかになっている。新しい転写研究時代が押し寄せていることを感じ、はっきり言ってこの流れについていくのは大変だったろうと思う。
もちろん発生だけではない。この研究ではCTCF結合部位が一塩基変化するだけで、転写活性が大きく変化すること、そして病気と相関する一塩基多型の中には、喘息の一塩基多型を例に、この構造と相関させて初めて明らかになるものがあることを示している。全ゲノムにわたる研究はデータは膨大で、読むのがしんどいことが多いが、この論文は読んでいくと自分の分野が思い出され、様々な想像がかきたてられた。一般の方には難しいと思うが、若い研究者はこのような時代がきていることをしっかりかみしめてほしいと思う。
ゲノム研究で遅れをとった日本は、エピゲノム研究(エピジェネティックメカニズムの研究ではなく、エピゲノムの研究)でさらに遅れをとり、ゲノムの構造の研究になるともう取り返しのきかないところに来てしまっているような気がする。実際、昨年1年論文を読んで、ゲノム構造化に関する我が国からの面白い論文に出会った記憶がない。幸い、外国の研究でもデータベースとして残されている。物を考えるとき、ゲノム構造も念頭に置いて考えることは誰でもできる。ぜひこのギャップを埋める若手が台頭してほしいと思う。
2016年1月3日
キメラT細胞受容体を導入した自己T細胞や、抗PD-1, CTLA4抗体を用いたチェックポイント治療の導入で、私たちに備わった免疫機能がガンの根治を期待できる力強い味方であることが分かっている。ただ現在行われている免疫治療は根治に向けた第一世代で、幾つかの大きな課題を抱えている。キメラT細胞受容体療法に関しては、何と言っても正常細胞に対する反応をどこまで抑えて、ガン特異的な治療法に発展させられるかが鍵になるだろう。一方、チェックポイント治療は、ガンに対する免疫が成立していないと無力であるため、ガンに対する免疫を成立させる方法の開発が最重要課題として研究されている。事実、従来の化学療法がガン免疫の成立に寄与できるか?といった課題についての総説が出るなど、免疫治療を中心として全治療を再構成し直そうという動きもあるぐらいだ(Cancer Cell 28, 690)。今後免疫を成立させるための様々な方法が開発されると期待できる。今日紹介するDartmouth大学とCase Western大学からの論文は、「え!本当!」と虚を突かれるほどの方法で、Nature Nanotechnologyオンライン版に掲載された。タイトルは「In situ vaccination with cowpea mosaic virus nanoparticles supprsses metastatic cancer(ササゲモザイクウイルスのナノ粒子によるワクチン局所投与は転移性の腫瘍を抑える)」だ。この研究でワクチンと呼んでいるのはガン抗原ではなく、免疫活性化剤のことを指している。実際使われたのはCowpea mosaic virus (ササゲモザイクウイルス)に感染するウイルスの殻だけを再構成させたナノ粒子で、植物なので大量に調整できる。もちろん核酸は含んでいない。ただ、この粒子を骨髄細胞と培養すると、白血球に取り込まれ炎症性のサイトカインが刺激される。すなわち、アジュバントと言われる免疫活性化作用がある。このナノ粒子を黒色腫が肺に転移したマウスに吸入させると、転移巣の増殖が防げる。組織学的に調べると、この粒子は局所の白血球に取り込まれ、多様な免疫担当細胞の浸潤を誘導することが確認されている。メカニズムは今後の研究に任せるとして、気になるのはこのナノ粒子の他のガンへの効果だが、乳がんの肺転移、皮下移植された直腸癌、卵巣癌の腹水など調べたほとんどのガンに効果がある。さらに、一旦免疫が成立すると、再注射された同じガンは完全に拒絶される。同じようなアジュバント治療はこれまでも開発されているが、それらと比べると圧倒的な効果だ。何か嘘があるのではと疑いたくなるが、抗原も、薬も、遺伝子も必要ない免疫活性化剤がこれほど効果があるなら、これを基盤に様々な新しいテクノロジーを開発できるかもしれない。また、このナノ粒子を調整するのは難しくないだろうから、薬として治験が始まるのも遠いことではないだろう。この頃はガン免疫の論文にそれほど驚かなくなったが、なぜこの粒子に思い至ったのか、こんな簡単な方法で免疫が活性化できるのか、などこの論文には驚かさることが多く、いいお年玉になるように思える。
2016年1月2日
昨日は年頭に当たって考える科学技術倫理問題を紹介した。1日遅れの申年最初の論文紹介のために、サルに関わる目出度い話を探していたら、ジョンホプキンス大学のグループが米国アカデミー紀要オンライン版に発表していた論文を見つけた。タイトルは「Complex pitch perception mechanisms are shared by humans and a new world monkey (ピッチの複雑な知覚メカニズムは人間も新世界猿=マーモセットも同じ)」で、申年念頭を飾るにふさわしい論文だ。しかも、タイトルから推察するとサルも音楽がわかるという話のようだ。
読み始めて気がつくのは、なぜ人間が音楽を理解できるのか、科学的に調べるのは大変だということだ。この研究では、音楽のピッチのズレを感じる能力に焦点を当てて研究している。合奏中に音の外れた楽器や声を聞き分けられる能力といっていい。かくいう私も、このズレはよくわかる方だが、この体験を波形と言葉で表現している科学論文になると、どこまで理解できたか少しおぼつかない。
ただこのピッチに関して、私たち人間が持つ感覚の特徴は次の3つにまとめられるようだ。
1) 低い音ほどピッチの変化を感じやすい、
2) ハーモニーが乱れている方がピッチの変化を感じやすい、
3) 高い音でピッチがわかりにくい時、音のリズムがはっきりしている方が変化を感じやすい。
これは論文を読んでの私の理解で、正しいかどうか自信がないが、自分の体験を振り返って考えてみると、確かにそうかなと思う。
さて、この感覚をマーモセットで確かめるのは大変だ。実際にはピッチのズレを感じたらレバーを押すように訓練したマーモセットで、特定の変化に様々な音をかぶせてテストしている。結果は予想通り、マーモセットもこの3つの特徴を持っているという結論だ。サルも音楽がわかる。めでたしめでたしの結論だ。
ついでなら音痴の人とサルの比較成績も知りたい気がする。
音楽を科学にするのは難しい。しかし、関係性の認識を研究するのに音楽ほど面白い対象はない。実際、初めて聞いた音楽でも、作曲家がわざと挿入した不協和な音を認識できる。逆に作曲家は、最初のフレーズを聞いただけで私たちの頭に生まれる幻想に挑戦しているのだ。このやりとりが何を基礎に行われているのか、興味は尽きない。
申年も、時間が許す限り多くの音楽を聞いて暮らそうと、年頭に当たって決意を新たにした。(横でカミさんが遊びたいだけと笑っている)。
2016年1月1日
J Reillyセンターは、米国のカソリック系大学の一つノートルダム大学にJohn J Reillyの遺志により寄付された研究センターで、科学技術の倫理問題を含む社会への影響について研究することで、科学に市民の目を向け、科学技術政策に提言を行うため活動している。 昨年暮れホームページに、2016年に議論されると考える科学技術の倫理問題をリストし、どの問題が重要と思うのかをウェッブ上で調査を行っている。元旦ということで、論文紹介ではなく、ここでリストされた倫理問題について紹介することにした。ウェッブサイト(http://reillytop10.com/2015/12/06/161/)に入ってリストされた問題にクリックを入れることで、皆さんも投票に参加できる。このリストの順にそれぞれの問題を解説しておこう。
1) Hello Barbie : 昨年11月にマテル社から発売されたアメリカ版キティーちゃん人形だが、ウェッブに接続可能で、持ち主の声を記録してパターン解析を行い、相手に合わせた会話が楽しめるように発達する能力を備えている。即ち人工知能(AI)の応用だ。ただ、話しかけた時に適切に応えるようになるためにはAI機能をオンにする必要があり、それによって子供の声が全てマテル社のコンピュータに記録されることになる。このプライバシー問題以外にも、最も自分を理解してくれる人工知能ロボットが生まれると、子供が人間を回避するようになるのではないかという懸念もある。昨年ロボットや人工知能に湧いた我が国でも真剣に議論すべき問題だ。
2) Exoskeltons for the elderly: 身体に装着して歩行や作業の支援を行うロボットが実用化されている。我が国ではサイバーダイン社のHALがその代表で、この調査でも名前が挙げられている。これによって、筋肉の低下した高齢者が若者と同じように働けると思うと、一億総活躍のためには欠かせないように思える。しかしこの調査では、引退年齢が伸びることは良いことだろうかと疑問を投げかけている。例えば、このような引退年齢を伸ばすための技術開発が、ますます若者の就職難を招き、その結果さらに少子化を進めないだろうか。
3) Digital labor right:わかり易い例が、タクシードライバーサービスだ。ウェッブサイトを通して顧客に様々な労働や便宜を提供するサービスで、働く側としては会社に縛られず働ける自由度が、顧客側では易い価格が魅力で、米国ではアマゾン、AirBnbやUberなど多くの両者をとり持つサイトが存在する。確かに働く側の自由度、安い価格など一見合理的な形に見えるが、産業革命以来蓄積されてきた会社と労働者の関係を壊し、顧客との間に生じる様々な問題の責任の所在を曖昧にする可能性がある。例えば、働く自由度は、逆に週80時間働く自由も意味する。せっかく長い年月で獲得された労働時間についての権利をないがしろにしていいのか議論が必要になる。他にも、デスクワークもインターネットを通して、賃金の安い外国へ移り始めているのは、我が国も同じだ。
4) Artificial Womb: 人工子宮が2016年の倫理問題になるかどうか、私は疑問を感じるが、男女平等の究極の形を代表する技術が人工子宮だろう。人工授精で作成した胚を、完全に成長をモニターできる人工子宮で育てることができれば、母親は妊娠期間の危険や制限から完全に解放されるし、子供の成長も安心だ。会社にとっても、産休の必要がなくなる。育児休暇は男女平等に取ることができる。何十年後かに可能になるとしたら、議論を始めてもいいという考えだろう。ただ、この問題は逆に自然の与えた女性の権利を侵害することにならないか、同性婚(男性同士)の子供をどう考えるか、など全く新しい問題を孕んでおり、確かに今から議論を進めても遅くはないかもしれない。
5) CRISPR/Cas9:このホームページの読者には説明の必要はないだろう。38億年の進化過程で変異と選択を通して形成してきた私たちのゲノムを、思い通りに変化させられる技術が開発された。現在問題が残っているにせよ、全て解決可能な問題だ。これまで何回か会議が持たれ、生殖細胞のゲノム編集はモラトリアムを設定して、当面は体細胞の遺伝子編集による遺伝子治療などに利用を限ることで合意している。しかし、心理学者・歴史家のスティーブン・ピンカーなどはこのモラトリアムが、解決可能な人間の苦悩を放置する間違った選択だと批判している。科学者に任せず、市民も今議論を始めるべきだろう。
6) Rapid whole-genome sequencing:高速ゲノム解析は今年さらに加速する。おそらく一般市民への全ゲノム配列解析サービスが今年10万円近くになるだろう。そしてこの価格はさらに低下する。一方、アカデミアではゆりかごから墓場まで個人を追跡するコホート研究が盛んに行われ、新生児の全ゲノム配列を決定するプロジェクトも多い。確かにこれまでの研究でも、全ゲノム配列決定により、これまで診断のつかなかった遺伝的疾患の2−3割が診断可能になることが示され、医学側から見ると研究が大きく進展することは間違いがない。しかし、自分の子供がいつか不治の病いにかかることを知らされた両親はどうすればいいのか。子供に告げるべきか、いつ告げるべきかなど、答を出すのが難しい問題が手付かずで残っている。また、この問題は当然遺伝子編集でゲノムを変化させた胚を作っていいのかという問題とも関わる。両方合わせて市民レベルの議論が必要なときがきた。
7) Lethal cyber weapon:昨年アメリカの企業が「致死的サイバー・ウェポン」開発プロジェクトの契約を結んだようだ。この致死的サイバーウェポンは、ウェッブに結合された社会インフラを破壊するためのソフトウェアを指す。例えば、敵国の原子力発電所に侵入してメルトダウンを起こしたり、信号システムに介入して交通を混乱させるソフトだ。おそらく映画ではもうおなじみのソフトだ。もちろん軍事利用で、敵国のみを対象とする研究のようだが、市民の無差別殺傷につながる技術として、アメリカは使っていいのかどうか議論を進めるべきだと呼びかけている。先端技術を武器に使うという意味では、毒ガス、原爆と同じだが、この武器の有効性が、私たち自身が営々と築き上げてきたサイバーネットワークの有効性にかかっているのは皮肉だ。
8) Disappearing drones:昨年は我が国のドローン元年とも言われたが、アメリカで仕事を終えると自らを破壊する回路を組み込んだドローンの開発が進んでいるようだ。これはミッションを終えたドローンの技術が敵の手に落ちることを防ぐための開発で、特に新しい倫理問題はないように思える。しかし、いったん政府がこのテクノロジーを獲得すると、国内での違法活動に利用する危険性がある。すなわち、政府だけでなくこのドローンにより、証拠を残さず違法行為を行うことが可能になる。政府批判が自壊型ドローンによる暗殺につながる世の中だけにはしたくない。
9) Head transplantation:昨年イタリア・トリノのCanevero医師が、2017年に頭部を脳死者の体幹部に移植する手術を行うと発表したことは我が国のマスメディアでも報道された。多くの専門家は、これが困難な手術で、患者の命の保証が全くないと中止を働きかけている。しかしもし安全な技術になったとしても、許される治療かどうか議論が必要だと呼び掛けている。私自身は、おそらく脳が私たち自身のアイデンティティーの多くを決めていると思っており、術中に体と脳を維持する技術が進歩すれば、一つの治療として許してもいいと思っている。ただ、この技術にはデカルト以来の2元論の問題、すなわち心と体の分離の問題が潜んでいる。できるなら実施は、主観と客観、心と体の2元論を克服する糸口を見つけるまで待ってもいいのではないだろうか。
10) Bone conduction for marketing:昨年「語りかける窓」と呼ばれる骨伝導を用いた宣伝手法が開発された。電車通勤中に窓ガラスに頭をつけると、窓の振動を通してその人だけに情報やコマーシャルを届ける技術だ。骨伝導を進化させ、ウエアラブルデバイスをつけている人の体の動きに合わせて特定の情報を送るシステムが開発されている。すなわち望む人だけに情報を送る仕組みだ。実際グーグルグラスを始め、多くのウェアラブルデバイスにこのようなシステムが搭載されている。このような介入をどこまで許すのか議論が必要だ。私自身、音や映像のあふれる街に生活して、これが重要な問題になるとは思えなかったが、情報手段が独占される危惧はある。
元旦の挨拶として、Reillyセンターの投票アンケートを紹介したが、是非皆さんもサイトに入って投票してみてください。しかし考えてみればどれ一つ重要でない問題はない。それほど、私たちの生活が科学技術に依存しており、その一方で科学技術の進展が一般市民とは全く別のところで進んでいる状況を反映している。しかしよく問題を見てみると、ダーウィン進化問題、デカルトの2元論問題、ガリレイの科学の独立性の問題など、これまでの科学技術が残してきた課題の再検討が求められているような気がする。この認識から、今年は講義や講演のタイトルは「21世紀の生物学:デカルトとダーウィンの残した課題」に決めている。乞うご期待。
2015年12月31日
明日から正月。どうしても食べすぎる日々が続く。
さて、満腹になった後でもデザートが出ると、甘いものは別腹とついつい食べてしまうのはなぜだろう。こんな疑問の手がかりになる論文が、デンマーク・コペンハーゲン大学とアイオワ大学のチームから発表された。タイトルは「FGF21 mediates endocrine control of simple sugar intake and sweet taste preference by the liver(FGF21は肝臓から分泌される単糖と甘いものへの好みを調節するホルモン)」だ。
現役時代は内分泌や代謝の研究論文を読むことはほとんどなかった。この論文のタイトルにあるFGF21を見ても、まさか線維芽細胞増殖因子の一つが代謝や脳のコントロールに効くとは想像もしなかった。しかし、飽食の時代だ。私たちの食欲についての研究はかなり進んでいる。
この論文の目的は、甘いもの、すなわちショ糖を中心とした単糖を私たちが取りすぎないようにしているメカニズムにFGF21が関わるのではという仮説を検証することだ。
マウスに、甘みのある餌と、甘みのない餌を自由に摂取させ、FGF21が欠損すると甘みのある餌を取りすぎることを突き止めている。この抑制は、甘みだけで、脂肪や多糖の摂取には影響がない。FGF21は肝臓で分泌されるが、マウス、ヒトともにショ糖、ブドウ糖、果糖を注射すると分泌量が上がるが、人工甘味料のサッカリンでは上昇しない。次にFGF21発現調節に、肝臓細胞が発現しているChREBPと呼ばれる単糖を認識する転写因子が関わることを明らかにしている。すなわち、甘いものを取りすぎると、肝臓のFGF21分泌が上昇して単糖の摂取を抑えるという仕組みだ。面白いのは、FGF21によって抑えられるのは甘みとして感じる食べ物で、投与してもFGF21分泌に影響のない人工甘味料も、FGF21が上昇すると摂取が落ちる。
最後に、FGF21が甘みの摂取を抑制するメカニズムを調べ、受容体であるFGFR1とβクロトー複合体を発現する視床下部室傍核にある細胞が甘いものを取らないようシグナルを出していることを明らかにしている。残念ながら、では下垂体がどのように甘み摂取行動を調節しているのかについては明らかにできていない。味覚を変化するわけではなく、甘いものに対して満腹感を感じるようになるためであることは示しているが、それを媒介する分子についてはこの論文では示されなかった。とはいえ、甘いものに対する満足感が普通の満腹感とは別の調節を受けているとは、食べ過ぎのお正月を迎えるのにふさわしい論文だった。ひょっとしたら何年後かの大晦日にはこの回路を抑える薬を手にしてお正月を迎えることになるかもしれない。
今年はガラパゴス滞在中に報道ウォッチのアップロードが遅れることはあったが、1年休みなく論文を紹介することができた。皆さん良いお年を。