カテゴリ:論文ウォッチ
9月2日:科学の危機に対する大人の対応(8月28日号Science掲載論文)
2015年9月2日
我が国の科学政策に関わる研究者や官僚なら読んだ人がいると思うが、今年4月27日に米国科学アカデミーの年次総会で会長のRalf J Cieroneが行ったスピーチは、私達が当たり前のこととして軽く口にしていた「科学研究の再現性」の問題について、科学界の危機としてとらえた優れた演説だった。特にこの中で、彼が紹介していた2つのプロジェクトが興味を引いた。2013年のエコノミストの記事の中で重要なガン研究論文の実験をアムジェンやBayerなどの製薬会社が再現しようとした時、53論文のうち6編の結果しか再現が取れなかったということが指摘された。この再現性の危機問題に対し、科学界がReproducibility project: Cancer Biology, とReproducibility project Psychology、すなわちガン研究と心理学研究の再現性を確かめる研究を組織し、多くの研究者の参加を得て、再現性の検証を大規模にはじめたという画期的活動だ。いつ結果が発表されるかと待っていたところ、心理学分野の再現実験の結果が8月28日号のScienceに掲載された。136人、125施設が参加した研究でタイトルは「Estimating the reproducibility of psychological science(心理学の再現性を評価する)」だ。この研究では2011年から、心理学のトップジャーナル3誌の中に掲載された論文をなるべく先見を排して検討し、最終的に100論文については計画通り再現実験を行い、論文の結果と比べている。基本的には論文の結論を得るための実験のバラツキや分散など、統計的指標を比べているのだが、詳細はいいだろう。これだけ大規模に、しかも実験自体が大変な心理学実験の再現性を科学的に評価すること自体に、危機意識がしっかりと共有され、自分の時間をそれに費してもいいという研究者の連帯と熱意が感じられる。しかも、この研究に対して私的な財団が助成している点にも頭がさがる。結果はこれまで指摘されている通り、論文の結論を支持する結果がえられる率は全体で36%、特に社会心理学の実験になると23−29%と、再現できる可能性の方が低いという結果だ。特に論文に掲載されたオリジナルな結果ではデータのバラツキが少なく有意性が高い一方、再現実験ではバラツキや分散が大きく広がることが特徴として示されている。もちろん由々しき結果だが、では再現性がないからこれらの論文は間違っているのかと問いかけている。そして、短絡的な思考を排して、科学自体の本質をしっかり理解し直し、論文掲載という科学研究にとって中核になる客観性の獲得過程を位置付けなおしていけばいいと結論している。この深い内容を短い文章で紹介することは難しく、現在捏造の構造について分析するため準備中のブログで順次紹介する予定だ。しかし、小保方事件を含む様々な捏造問題に対して、我が国の学術会議や学会も多くの声明を出したが、Cierone演説と比べて読み返してみると、捏造問題を構造と捉えず、事件とだけ捉え、倫理と研究機関のコンプライアンスだけに頼って、調査や検証だけを要求する薄っぺらい意見でしかなかったように思える。声明を出すという科学者自身の見識が問われる重要な行為が、分析も思想性もない意見表明では困る。大阪大学の蛋白研の篠原さんが分子生物学会として出した声明では、確かに問題を構造問題として捉えるという視点が表明されているが、学術会議を始め日本の学会がその後、構造問題として取り組んでいるようには到底思えない。それと比べると、Cieroneの演説や今日紹介したScience論文は、アメリカの科学界が大人として成熟していることを示している。論文数やノーベル賞の数だけで一国の科学の成熟度は測れない。やはり我が国の科学界は子供の国でしかないのか問い直す時がきた。次に発表されるガン研究の再現実験の結果を心待ちにしている。
9月1日:ホヤから脊椎動物への進化(8月27日号Nature掲載論文)
2015年9月1日
進化の過程で体の体制が変わるためには、様々な新しい構造が生まれることが必要だ。もちろんその背景には、先行するゲノムの配列や構造の変化がなければならない。例えばこのホームページでも、魚のヒレが足に変わっていく過程についてのポリプテルス(http://aasj.jp/news/watch/2107)を用いた研究を紹介した。ヒレから四肢への進化からわかるのは、全く新しい構造にもその元となる構造や細胞集団が存在し、発生過程で関わる分子の多くも共通なことだ。このような起源構造の発生過程を新しい構造の発生過程と比べ、その背景にあるゲノム変化を調べる順序で進化発生学の研究は進められる。さて、脊椎動物にもっとも近い動物はホヤなどが属する脊索動物だ。ゲノムについて言うと、脊索動物から脊椎動物で2回の全ゲノムレベルの重複が起こっている。一方、構造レベルでは、例えば閉鎖血管系が進化なども挙げられるが、ほとんどの進化発生学者が興味を持っているのは神経管から発生する神経堤細胞と、感覚器官の原基になるプラコードの発生だ。今日紹介する米国・フランス・日本の研究所が共同で発表した論文は脊索動物にも脊椎動物と分化過程が類似したプラコードに相同する構造が存在することを丹念に示した研究で8月27日号のNatureに掲載されている。タイトルは「The pre-vertebrate origins of neurogenic placodes(脊椎動物以前の神経原性プラコード)」だ。元々我が国は脊索動物の研究をリードしており、脊索動物にプラコードが存在する可能性については京大の佐藤さんたちも論文を発表していた。基本的にこの論文は、これまでの研究の延長と言えるが、最終的にプラコードの細胞に由来する神経細胞の運命を最後まで追跡したという点でNatureに掲載されることになったと思う。後は極めてオーソドックスな発生学の研究なので詳細は全部省くが、脊索動物にもプラコード相同の構造が発生し、発現遺伝子や、誘導に必要なシグナルも共通することをまず示している。その上で、このプラコードを形成する前駆細胞が、性ホルモンを分泌し、化学物質を感知する両方の性質を持った繊毛を持つ神経細胞へと分化することを新しく発見した。脊椎動物では、プラコードから分化する神経細胞は、ホルモン分泌性の脳下垂体神経と、匂いを感知する嗅細胞へと分かれていることから、今回新しく脊索動物で定義されたホルモン分泌・感覚細胞は、機能が分化する以前の起源細胞に当たると結論している。すなわち、元々一つの細胞に統一されていたホルモン分泌と感覚機能が脊椎動物では機能が分離した回路へと進化することで、より複雑な機能を獲得したのではないかと考察している。わかりやすい面白い論文だが、この結果をゲノム変化と対応させるというもっとも重要な研究が残っている。論文を見ると、鍵になる遺伝子や、その調節領域がわかっていると思うので、この研究を手掛かりに、大きな挑戦に挑んで欲しいと思う。ホヤゲノムでも日本はリーダーシップを発揮してきた。この蓄積を味わいつくせる若手はもっとも幸運な世代といえるだろう。頑張って欲しい。
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