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8月5日 授乳期の母の愛を食欲から見直してみる(7月30日 Nature オンライン掲載論文)

2025年8月5日
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多くの動物ドキュメントでは子育て中の母の行動が最もド感動的なドラマになる。そして我々もそのドラマに、崇高な愛をかぶせてみてしまう。もちろん多くの動物行動学者も同じように崇高なものを感じているのだろうと思うが、脳のレベルにまで落ちてくると、感動の行動も神経領域の活動の有無で終わってしまう。

今日紹介する米国国立衛生学研究所からの論文は、授乳期の母親の子育てへの指向を、それを抑制する食欲中枢から見直した研究で、母の愛情をを拮抗する回路バランスに帰してしまうと言う寂しさはあるが、面白い研究で、7月30日の Nature にオンライン出版された。タイトルは「A hypothalamic circuit that modulates feeding and parenting behaviours(摂食行動と子育て行動を調節する視床下部回路)」だ。

これまでも視床下部に存在する摂食中枢や、あるいは子育て中枢についての研究は読んできたが、この研究の特徴は、食欲からこ子育て行動を見直そうと、まず授乳期に母マウスに見られる食欲増進から調べ始めているのがユニークだ。驚くなかれ、マウスでは授乳中に摂食量が4倍近くに上昇するようだ。確かに、時には10匹を超える子供に授乳させるためには食べることが重要だ。そこで、愛より先に、まず授乳が始まると急速に高まる食欲を調節する細胞について、授乳期と処女マウスを比較する実験で、視床下部弓状核 (ARC) にある最も食欲に関わることが知られている agouti related protein (Agrp) を発現する神経を細胞が食欲増進に関わることを明らかにしている (ARCagrp)

しかし、食べ物がなくなった場合子育てはどうなるのか?食べることと子育てが対立するような実験系を作り、処女マウスと授乳マウスを行動学的に調べている。食べ物の心配が無い場合、どちらも子育てと食べることを両立させる。しかし、食べ物がなくなると、処女マウスはすぐに子育てをやめ、場合によっては子供を傷害する。ところが、授乳期のマウスでは食べ物にありつけない場合もまず子育てを優先し、実際の摂食量が減る。マウスの場合、空腹がより高まると、子育てへの時間は減ってくる。即ち、食欲と子育ては実際には反発し合っている。

この行動の神経背景には、食欲に関わる ARCagrp と子育て神経活動に関わる細胞の関係があるはずで、次に子育てに関わると知られている内側視索前野 (MPOA) へ ARCagrp は神経回路を形成し、ARCagrp 刺激は子育て活動を抑制することを明らかにする。

子育て時に興奮する神経は複雑であることがわかっているので、子育て時に興奮した神経をマークし操作する TRAP と呼ばれる方法を用いて調べ、ARCagrp と回路を形成しているのが bombesin 受容体を発現している神経で (MPOAbr) 、この刺激を抑制すると、食欲への反応性が高まるという関係にあることを明らかにする。即ち、子育てでは MPOAbr が活動し食欲と拮抗することで、子育て優先へと行動を調節しているのがわかる。また、子育て行動を示さない処女マウスの MPOAbr を刺激すると、食べ物がなくなったときに示す子供に対する攻撃行動が抑えられることも示している。

最後に、神経回路の特性について光遺伝学的に詳細に調べ、飢餓状態で子育て行動を抑える ARCagrp から MPOAbr への抑制回路が基本で、まさに母体保護優先回路が基本であることがわかる。そして、両方の領域は授乳期のホルモン環境によりともに高まることが明らかになった。

ただ、子育て回路の方は愛情を感じさせるほど複雑な回路を形成しているため、今後母親の自己犠牲愛にまで進む感動の回路は見つかる可能性は十分ある。脳回路研究は残酷だが、面白い。

カテゴリ:論文ウォッチ

8月4日 Notch 刺激を誘導できる可溶性リガンド:血液研究の大御所にも浸透が始まった LLM(8月1日 Cell オンライン掲載論文)

2025年8月4日
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今日はハーバード大学 George Daley 研究室から8月1日 Cell にオンライン掲載された論文を紹介することにした。というのも、個人的にも付き合いの深かったこの論文の筆頭著者 George Daley が、なんと David Baker さんと組んで LLM を利用した研究を行っているのを知ったからだ。もちろん研究の世界で誰がどう組もうとなんの不思議はない。しかし、大御所と言っていい山中さんと同じ世代の Daley が LLM を使って論文を出しているのを見ると、生命科学分野での LLM の浸透を強く感じる。他にもエピジェネティックスの大御所 Richard Young も、分子の細胞局在を予測する LLM モデルについて論文を発表しており、このブログでも紹介した(https://aasj.jp/news/watch/26318 )。彼らは幹細胞研究を通して個人的交流を持った大御所の話で、他の分野でもおそらく大御所に LLM は浸透し始めているのだろう。

Daley は造血系研究の大御所で、リンパ球も含む血液系細胞操作には Notch 刺激が必須であることを示してきた。Notch はほとんどの組織で何らかの機能を持っているが、血液系でも様々な系列、様々な分化段階で重要な働きをしている。ただこの過程を試験管内に移すときの問題は、Notch 刺激を誘導できる可溶性の分子が開発ができていないことで、Notch を刺激するためには、そのリガンド DLL を細胞に発現させたり、あるいは固相に結合させる必要があった。この問題を最新のタンパクデザイン法を用いて克服し、可溶性の Notch 活性化剤を開発したのがこの研究で、論文のタイトルはズバリ「Design of soluble Notch agonists that drive T cell development and boost immunity(T細胞の発生と誘導し、免疫を増強する可溶性Notchアゴニスト)」だ。

この研究では、最近開発された生理的条件での特異的ペプチド間の共有結合を簡単に実現する SpyCatcher と呼ばれる方法を DLL の重合分子デザインに用いて、Notch の活性化を可能にする分子デザインを探索し、最終的に3つの DLL が結合した構造が、細胞表面上での Notch の重合、そして刺激されたあと Notch の細胞内ドメインの核移行を誘導することを示している。即ち、Notch アゴニスト活性のある完全可溶性の DLL デザイン重合体の開発に成功している。

これだけなら Baker さんの出番はないのだが、Baker さんの成果を取り入れようとする努力が随所に見られ、デザイン重合体の設計に当たっては、3次元構造を AlphaFold などを用いて示している。とはいえ、デザインリガンドと Notch との関係については、機能面以外の構造解析はほとんど行われていない。

一度可溶性アゴニストが開発できれば、あとは Daley のお手の物で、1)これまで細胞上に DLL を発現させて行われてきたプロT細胞からCD4、CD8T細胞への分化を、可溶性アゴニストで完全に再現できること、2)ヒト iPS細胞から造血能のある血管内皮を誘導したあと、デザインアゴニストを用いて CD8、CD4 分化細胞を誘導できること、3)T細胞機能誘導でT細胞の炎症性サイトカイン分泌を誘導できること、更には 4)マウスを免疫するとき同時にデザインアゴニストを投与すると、非投与群より何倍も多い抗原特異的T細胞を誘導できることを示している。

ただこれらの実験過程で、ヒト iPS細胞から CD4 や CD8 T細胞を誘導するとき、他の系では活性が低い2つの DLL が結合したデザインアゴニストの方が高い分化誘導能力を示すことに気づき、Notch シグナル誘導様式が SpyCatcher・DLL 構造で決まるほど単純ではないことを確認し、ここで Baker さんとの密接な関係での研究が進め、以前紹介したペプチドによる様々な形のスキャフォールドに DLL を5個結合させたアゴニストが、ほぼ全ての過程で高い活性を維持するアゴニストとして使えることを明らかにしている。

このように Baker さんの関与は最後の実験になってしまっているが、LLM をタンパクデザインに使うという方法の急速な浸透が感じられた論文だった。

お察しの通りコスタリカ最後の日も長い一日で、ようやく論文紹介もこちらの夜10時を越えた。また証拠写真として、コスタリカで有名なアカメアマガエルの写真を添付しておく。

カテゴリ:論文ウォッチ

8月3日 キリフィッシュの老化機構(7月31日号 Science 掲載論文)

2025年8月3日
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魚の寿命は多様だ。このブログでも200歳を超す寿命を持つメバルのゲノムを調べたカリフォルニア大学バークレイ校からの論文を紹介したが(https://aasj.jp/news/watch/18305)、長生きの秘密を知りたいとメバルに頼る気持ちはよくわかる。一方で、脊髄動物の中で最も短い寿命を持っているのも魚類 Killifish (キリフィッシュ)で、アフリカの雨期に水たまりの中で孵化し、乾期が来るまでに繁殖し、卵を残したあと乾期になると水たまりが干上がるので死んでしまう。長くてもふ化後数ヶ月の寿命しか持たない。

キリフィッシュが面白いのは、結局干上がって死んでしまうのだからわざわざ老化する必要が無いのに、なんとこの短い期間で老化が進むことだ。実際実験室で飼育する場合、野生型のキリフィッシュは5-7ヶ月の寿命しか持たず、乾期がなくても死んでしまう。すなわち、短い期間に老化が進む。この理由については多くの研究があり、エピジェネティッククロックの進行、mT0R の強い活性化、高い炎症性サイトカイン、ミトコンドリアによる活性酸素蓄積など、文字通り老化の指標のオンパレードであることがわかる。ただ、この全体の老化の引き金になるメカニズムまでは明らかになっていない。

今日紹介するドイツ・イエナにあるフリッツリップマン老化研究所と米国スタンフォード大学からの論文は、脳について老化の引き金を遺伝子発現とプロテオームから探索した研究で、7月31日号の Science に掲載された。タイトルは「Altered translation elongation contributes to key hallmarks of aging in the killifish brain(翻訳時の伸長反応の変化がキリフィッシュの脳の老化を誘導する)」だ。

研究ではキリフィッシュを飼育し、5週、12週、39週で脳を取り出し、脳全体を RNA から翻訳結果としてのプロテオームと、転写活性としての mRNA を調べている。転写が一定の場合、プロテオームを用いて調べるタンパク量の mRNA 量と12週の脳までは概ね比例しているが、39週になるとタンパク質の方が強く抑制され、mRNA の翻訳が多くの遺伝子で滞っていることがわかった。

ただ翻訳全体が低下したり、あるいはタンパク分解が促進しているというわけではなく、強く抑制されているのは塩基性のアミノ酸を含むタンパク質の翻訳で、これらの分子は主に DNA や RNA と結合するタンパク質で、DNA修復やリボゾーム形成と翻訳などに関わる分子の翻訳が軒並み低下する。

リボゾームを分離して結合している RNA の種類を調べる Ribo-seq を行うと、老化に伴いリボゾームの衝突が増え、リボゾーム上での翻訳が中断してしまっていることがわかる。この中断はリジンやアルギニン部位で起こっており、結果塩基性で核酸と結合して機能する分子の合成が選択的に低下する。

このように、核酸に結合して機能するタンパク質の翻訳が滞ると、DNA 修復や転写、スプライシングなど様々な異常が誘導されいずれも老化の指標を高める。ただ最も深刻なのは、リボゾーム結合タンパク質の量が減ることで、リボゾーム機能が低下し、その結果翻訳の中断する症状が悪化する悪循環に入ることだ。最初の引き金が何かは示されていないが、この悪循環が、キリフィッシュが短い期間で老化を加速させる原因になっているのかもしれない。そして翻訳の中断がおこると、伸張の止まったペプチドが内部で沈殿を起こし、細胞老化は加速する。

結果は以上で、キリフィッシュではリボゾームでの翻訳、特に塩基性アミノ酸を持つタンパク質で起こり始めることで、リボゾーム機能が坂を転がるように低下するメカニズムがスイッチオンすることが、様々な老化過程のスイッチを入れ、短期間に老化が進むと結論している。

今後はこの悪循環にスイッチを入れるメカニズムと、それを入れるタイミングが重要な課題になる。

カテゴリ:論文ウォッチ

8月2日 アルツハイマー病で重要なミクログリア活性化の新しい誘導分子(7月30日号 Science Translational Medicine 掲載論文)

2025年8月2日
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アルツハイマー病 (AD) 発症やその予防にミクログリアが重要な働きをしていることは疑えない事実として確立している。例えばAβプラークを減らすのにミクログリアの活性化が使えることはわかっていても、明確な活性化方法が確立しているわけではない。

今日紹介するワシントン大学からの論文は、ミクログリアの活性化に関わる分子セットとして、ミクログリア側の TREM2 と神経細胞側の Semaphorin6D (Sema6D) を、既存のデータベースとインフォマティックスを駆使して突き止めた研究で、7月30日 Science Translational Medicine に掲載された。タイトルは「Systematic analysis of cellular cross-talk reveals a role for SEMA6D-TREM2 regulating microglial function in Alzheimer’s disease(系統的に脳内での細胞間相互作用を解析することで Semaphorin6D と TERM2 がアルツハイマー病でのミクログリアの機能での役割を明らかにした)」だ。

この研究は、single cell レベルの遺伝子発現データの中には細胞間相互作用による変化が含まれており、増殖シグナルでも特に結果としての細胞数などが明確にわかっていなくても、発現分子の変化から特定できるという革新に基づいている。さらに、この細胞間相互作用の解析を正常と AD とで比べ、その中に遺伝子多型などの研究から明らかになった AD リスク遺伝子を位置づけてて行くことで、インフォーマティックスだけで重要な細胞間相互作用とそれに関わる分子を特定できると考えて、現在利用できる single nucleus RNA sequencing のデータを CellPhone と呼ばれるアプリで解析し、脳内組織中での各細胞間の相互作用を特定した上で、AD で最も変化する細胞間相互作用をリストし、この中で最も AD で変化が大きい相互作用としてミクログリアと興奮神経がリストされてくること、こうして単一細胞レベルの RNA sequencing から明らかになった相互作用ネットワークの中に多くの AD リスク遺伝子が含まれることを突き止める。

そこで研究はミクログリアと神経間の相互作用に絞り、Cyto Talk と呼ばれる分子間相互作用の機能を推定できるアプリケーションを用いて、この過程に関わる分子間相互作用を解析する中で最も高いスコアをつけたのが Sema6D と TREM2 だった。

いずれの分子も神経発生やミクログリアの活性化に重要であることがすでに明らかになっている分子だが、両方が直接相互作用をする可能性については示されていない。そこで、この関係のADでの重要性をさらに裏付けるために、AD のステージングがはっきりしているデータベースを用いて、TREM2、Sema6Dと繋がる分子ネットワークの変化をステージごとに調べると、両方ともステージが進むにつれネットワークが破壊されていく。

もちろんインフォーマティックスだけでは論文を通すのは難しいので、ここからはこのデータを元に実験的研究へと移っている。まず、患者さんの悩を組織学的に調べ、Aβ プラークの周りに Sema6D分子と TREM2分子がとくに AD 初期段階で集合していること、またその部位には元々 Sema6D のリガンドとして知られる Plexin が存在しないことを発見する。すなわち、直接 Sema6D と TREM2 が相互作用する可能性が示唆された。

そこで iPS細胞由来ミクログリア細胞を用いて Sema6D を培養に転嫁する実験を行い、Sema6D 添加でミクログリアの貪食活性が上昇すること、またこの上昇は TERM2 をノックアウトすると見られなくなる。他にも、TREM 刺激で起こる Syc などのリン酸化も調べ、Sema6D がリン酸化カスケードを誘導し、TREM2 ノックアウトでこれが消失することを示して、両方の分子が直接相互作用している可能性を示している。

結果は以上で、分子間シグナルの研究としてはよく論文が通ったなという感じだが、インフォーマティックスから生まれた可能性を確認した合わせ技一本と言っても良い気がする。いずれにせよ、これが正しければ、AD 初期の新しい治療が可能になるかもしれない。

カテゴリ:論文ウォッチ

8月1日 マスト細胞は脳脊髄液の流れを調節する(7月24日 Cell オンライン掲載論文)

2025年8月1日
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昨日に続き今日紹介するワシントン大学からの論文も脳にあるマスト細胞に注目してその機能を調べ、ヒスタミンなどの分泌を介してクモ膜下腔から硬膜へと続く脳脊髄液の流れをネガティブに調節することを示した研究で、昨日紹介した研究とサイドバイサイドで7月24日 Cell にオンライン掲載されている。タイトルは「Mast cells regulate the brain-dura interface and CSF dynamics(マスト細胞は脳と硬膜のインターフェースを調節して脳脊髄液のダイナミックスに影響する)」だ。

この研究では昨日頭蓋骨髄からのカナル構造がクモ膜を突き抜けることで、クモ膜下腔から脳脊髄液 (CSF) を硬膜へと流す流路にもなっており、マスト細胞は頭蓋からの細胞移動だけでなくCSF の流れも調節するのではと考えた。

そこで、まず昨日紹介したマスト細胞特異的に発現している Mrgprb2 に作用があることが知られている 48/80 と呼ばれる化合物を頭部皮下に注射し、脳のマスト細胞を刺激すると、期待通りマスト細胞は活性化し脱顆粒する。そのとき、脳の大槽に直接蛍光タンパク質を注射しその動きを追跡すると、クモ膜下腔から硬膜への CSF の流れが強く抑制されることを発見する。この抑制は48/80でなく、同じく Mrgprb2 を刺激できる内因物質 substance P でも起こるし、また IgE による刺激でも起こるので、マクロファージ活性化に伴う脱顆粒で分泌される分子が直接 CSF の流れを抑えていることがわかる。

当然最も重要なマスト細胞由来分子はヒスタミンなので、ヒスタミンを頭蓋皮下に注射すると、期待通り CSF の流れが抑制される。これは頭蓋からのカナルを形成する静脈をヒスタミンが拡張させ、その結果クモ膜下腔と硬膜をつなぐ隙間が減少することで起こることを示している。

昨日の論文と合わせると、マスト細胞の活性化はカナルを通る好中球を高めるとともに、CSFの流れは抑えられることになる。

昨日の論文では卒中によるマスト細胞の活性化に焦点を当て、結果マスト細胞の活性化を抑えることが卒中後の神経壊死を抑えることを示していた。即ち、マスト細胞はネガティブな作用を持つことになる。

一方この研究では、細菌やウイルス感染によるマスト細胞の活性化モデルを取り上げ、細菌によるマスト細胞の活性化が CSF が流れる隙間を閉じることでカナルから出てきた細菌やウイルスが脳内への侵入を防ぐポジティブな役割があることを示している。また、この研究でもマスト細胞の活性化により好中球が頭蓋骨髄から脳内への浸潤が高まることも示している。即ち、細菌感染という枠組みで考えると、マスト細胞がこの特殊な組織構造を調節して脳を感染から守るポジティブな役割を演じていることもわかる。

以上2日間、まだまだマスト細胞の謎はつきないようだ。

カテゴリ:論文ウォッチ

7月31日 マスト細胞は頭蓋骨からの白血球の移動を調節している(7月24日 Cell オンライン掲載論文)

2025年7月31日
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今日と明日、 7月24日 Cell にオンライン掲載されたマスト細胞の脳での新しい機能の発見に関する論文を続けて紹介する。

まず最初のジョンホプキンス大学からの論文は、マスト細胞が頭蓋骨髄からの白血球の移動を調節する鍵となる細胞で、この機能を抑えることで脳卒中後の慢性炎症を防ぎ、症状を軽くすることを明らかにした論文で、タイトルは「A mast cell receptor mediates post-stroke brain inflammation via a dural-brain axis(マスト細胞受容体は卒中後の脳炎症を硬膜-脳経路を介して調節する)」だ。

このグループはマスト細胞特異的に発現している Mrgprb2 と名付けられた、リガンドがはっきりしないG共役型の受容体に着目して研究をしてきており、この遺伝子をノックアウトしたマウスを調べる中で、中脳動脈を閉塞させて虚血を誘導する卒中モデルで Mrgprb2 がノックアウトされると神経細胞壊死を抑制できることを発見した。このメカニズムについて解析したのがこの研究になる。

Mrgprb2 はマスト細胞だけで発現しており、まず調べる必要があるのはマスト細胞が脳のどこに存在するかだ。組織学的に調べた結果、髄膜に存在するマスト細胞で発現しており、卒中後急性期が過ぎると、脱顆粒することがわかった。即ち、虚血が続くとマスト細胞が活性化される。一方、Mrgprb2がノックアウトされている場合はこのような活性化は起こらない。

では活性化の結果何が起こるのか。細胞学的には卒中後に好中球の脳内の浸潤が起こり持続するが、Mrgprb2 がノックアウトされると中期以降の好中球浸潤は抑えられる。好中球の浸潤はミクログリアを活性化し脳内の炎症を誘導するが、この過程に Mrgprb2 が必須であることを示している。また、マスト細胞がこの過程を調節していることについては、Mrgprb2ノックアウトマウスの卒中を誘導したあと、正常マスト細胞を脳に投与する実験でマスト細胞が脳内への好中球の移動を調節していることを示唆している。

これで思い出されるのが2018年にこのブログで紹介した驚くべき結果、即ち脳内への好中球浸潤は頭蓋骨髄から続いているカナルを通って起こり、決して循環細胞からリクルートされているわけではないとするハーバード大学からの論文だ(https://aasj.jp/news/watch/8894)。ただこの論文ではマスト細胞の役割については全く言及していなかった。

この研究もこの論文着目し、マスト細胞が頭蓋から脳への白血球の移動を調節しているのではと考えた。そこで GFP でラベルされた頭蓋を移植し卒中を誘導すると、ハーバードの論文で示されたように、好中球は全て頭蓋骨髄から硬膜を通って脳内に移動することがわかった。そして Mrgprb2ノックアウトマウスでは特に硬膜から脳内への移動が阻害されており、これが好中球浸潤とその後の炎症を防いでいることがわかった。

このルートでは semaphorin3a が白血球の移動を抑えていることがわかっているが、マスト細胞は semaphorin3a を分解するプロテアーゼを分泌し、移動の抑制を抑えている。すなわち、Mrgprb2 がないと、マスト細胞が活性化されず、semaphrin3a はそのまま硬膜からのルートを通る白血球の移動が抑えられたままになる。

以上がマウスモデルでのメカニズムだが、最後に人の卒中で Mrgprb2 に対応する Mrgprx2陽性のマスト細胞が活性化され、卒中の患者さんでは semaphorin3a が低下していることを明らかにし、人間でも同じ事が起こっている可能性を示唆している。

ではメカニズムがわかって治療可能性はあるのか。マウスモデルだが Mrgprb2阻害剤として知られる植物由来化合物Osthole を投与すると、Mrgprb2ノックアウトマウスと同じで卒中後の炎症が抑えられ、壊死領域が抑制されることを示している。

以上、マスト細胞が脳でも機能しており、脳卒中の回復を促進するための標的になり得るという面白い研究だ。

カテゴリ:論文ウォッチ

7月30日 動物の行動学も脳を調べ始めると単純化されてしまう(7月23日 Nature オンライン掲載論文)

2025年7月30日
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少しアップロードが遅れて心配していただいたかもしれない。ただ、朝6時半から夜9時まで鳥や動物を追いかける強行軍で、ホテルに帰って論文紹介を完成させたのが今になってしまった。夜になってから撮影したのが、コスタリカ固有のコスズメフクロウだったので証拠に写真を示す。しかし、ご安心あれ。明日もアップロードは遅れるかもしれないが、毎日一報は旅行中でも守っていこうと決心している。

さて、動物行動学者には想像力の豊かな、理系文系を超えた研究者が多い。我が国では我々の一つ上の世代の日高先生が最も印象に残るが、この人たちの想像力は我々が行っている仮説形成やデータの解釈とは全くことなる様に思う。すなわち地道な観察による行動記録を支えるパッションとしての想像力が感じられる。ところが、動物行動学の背景には当然脳の進化が存在しており、それに踏み込み出すと想像力が制限されはじまる。そんなことを感じさせる論文がハーバード大学から7月23日、Nature にオンライン発表された。タイトルは「The neural basis of species-specific defensive behaviour in Peromyscus mice(シロアシネズミの種特異的防御行動の違いの神経的基盤)」だ。

この研究が対象とする行動は、危険を察知したときの防御行動だ。2種類のアメリカに多く住むシロアシネズミのうち P.maniculatus (以後PM) は深い茂みの中に生息しており、危険を察知すると巣へ走って逃げる。一方、開けた草原に住む P.popilonotus (以後PP) は危険を察知するともっぱらフリーズして動かない。実験により PM と同じ生息域と行動を持つ P.leucotus (以後PL) も用いている。

常識的には一目散で巣に逃げた方が生存確率は高いと思ってしまうが、その場所に多い捕食者の視覚システムの差などでこのような行動の差が生まれたようで、行動学者はここから様々な可能性を想像できる。

このような状況を実験室に持ち込もうとするときも想像力が必要だ。鷹を飛ばすというわけにはいかないので、まずマウスの動きをビデオ追跡できる30cm/45cmの部屋を作り、そこで自由に動いているマウスに対して、捕食者が空に現れるイメージと、空から餌を狙って降りてくるイメージを合成できるようにし、それぞれの刺激に対してどう防御行動を起こすか調べている。

おそらく結果はこれまでの行動解析から想像できていたのだと思うが、深い茂みに住む PM や PL は上に捕食者が現れると動きを止めるが、上から近づいてくるのを察知すると、一目散に巣の方に逃げる。ところがオープンフィールドに生きている PP は近づいてくるのを察知しても動きを止めたままであることがわかる。まさに、想像したのと同じで、PM と PP は捕食者に対し明確に異なる反応を示す。

これは捕食者に対する防御行動が環境に応じて進化したと考えられるが、これを追求するためには行動の差にある生理学的変化と、最終的にはそれに対応する遺伝的変化まで明らかにする必要があり、ここからはなかなか想像力が発揮できない領域に入る。

この研究は生理学的背景に焦点を当てて進めており、そのために子の行動の差が巣に逃げ込むという行動がトリガーされる閾値の問題であることを確認した上で、この閾値の差を説明できる脳活動を探索している。

実験的には可能だと思うが、より脳生理学で普通に行われる実験系、即ち頭をフィックスしたマウスの脳活動を記録しながら、逃避行動を誘導する実験を行っている。ただ、マウスでも脳は極めて複雑で、本当は全脳レベルで興奮を調べて PM と PP の差を調べる必要があるが、ここでは防御反応や攻撃行動に関わる背側中脳水道周囲灰白質 (dPAG) に絞って調べ、巣へと逃げ込む PM では興奮に応じ てdPAG の活動が高まるが、PP では運動と dPAG の興奮が全く連動していないことを見いだす。

そこで、dPAGを光遺伝学的に刺激する実験を行うと、PM では走る速度が高まる一方、PP で刺激しても走る速度が上昇することはない。一方光遺伝学的に抑制実験を行う(実際には化合物投与による dPAG 神経興奮の抑制)と、捕食者が近づく刺激を与えても逃げるのが遅れるようになる。

以上が結果で、ともかく特定の領域の神経興奮の差に、行動の差を落とし込んだという印象がある。しかし、責任神経細胞を特定するという点では不十分だと思うので、これを遺伝子情報の変化に落とし込むには大きな壁が立ちはだかっている。そして何よりも、できるだけ想像力を排して単純化する方向で研究が進むような気がする。

カテゴリ:論文ウォッチ

7月29日 2種類のらい病菌の進化(7月24日号 Science 掲載論文)

2025年7月29日
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現在ミュンヘンからコスタリカまでの長い移動の途中で、短い論文を選ぶことにした。感染症研究の長い伝統を持つパストゥール研究所からの論文で、21世紀に入ってアメリカで発見された新しいらい病菌 Mycobacteria lepromatosis のアメリカ大陸での広がりと進化についてゲノムレベルで調べた研究で、7月24日号の Science に掲載された。タイトルは「Pre-European contact leprosy in the Americas and its current persistence(ヨーロッパ人がアメリカ大陸に侵入するより前かららい病はアメリカに存在し、現在まで続いている)」だ。

治療中のらい病を見る機会があったのは我々の世代が最後だろう。私の学生時代では我が国で新たならい病の患者さんの発生はなくなっていたが、京大には皮膚科特研と呼ばれる西占先生が主宰されている臨床施設があり、東南アジアから受け入れていた患者さんかららい菌を分離する実習を行った記憶がある。それでも、一見してらい病とわかる進行した患者さんは見たことがない。

一方で人類とらい病の関係は古く、聖書をはじめとして、らい病を治すというのは最もわかりやすい奇跡として書かれてきたし、最近では変形が見られる古代人の骨かららい菌のゲノムが分離され、らい病と人間の長い歴史が明らかになりつつある。この歴史の中で、アメリカ大陸のらい病はヨーロッパ人がアメリカ大陸に侵入し始めたときに持ち込まれたとされてきた。

この論文を読むまで私も全く知らなかったが、21世紀に入ってアメリカ大陸のらい病の患者さんの中に、らい病菌として特定されている Mycobacterium leprae とは系統的に大きく離れた M.lepromatosis が存在することが明らかになり、アメリカ大陸には固有のらい菌とらい病が存在すると考えられるようになった。

この研究では、アメリカ大陸でのらい病患者さんから分離された400例以上の菌のDNA配列を見直し、M.lepromatosis の頻度を調べたところ、南米では360例の菌のうちアルゼンチンで発見された1例だけが lepromatosis だったのに対し、米国ではほとんどが、そしてメキシコでは半数近くが lepromatosis だった。もちろん米国の症例数は少ないのでこれが実情をどの程度反映しているのか判断できないが、最近まで lepromatosis が持続していたのに驚いた。

この研究では患者さんから分離したらい菌だけで無く、1300年、940年、そして860年前に埋葬され、骨格かららい病と考えられる骨のらい病菌、そしてヨーロッパには全くないはずの lepromatosis に感染が確認されている英国のリスについてもらい菌を分離し、DNA配列を決定し、それぞれの系統関係を調べている。

まず3体ではあるが、ヨーロッパ人が侵入するより前の骨格に残るらい菌は全例 lepromatosis で、アメリカ大陸でヨーロッパから持ち込まれて Leprae が広がったのは間違いは無いが、それ以前から lepromatosis 感染によるらい病が存在したことが明らかになった。

一方で、中米から北アメリカの最近の患者さんから分離された lepromatosis はよく似ており、系統関係から280年ぐらい前に分岐してきた菌の子孫であることが明らかになった。即ち、おそらくメキシコや中米で進化した lepromatosis が現在まで中米、北米で維持されてきていることがわかる。

現代に分離された lepromatosis と1300-800年前の骨から分離した lepromatosis を比べると、2500−1500年前に分岐した系統であることがわかり、アメリカ大陸では古くから lepromatosis によるらい病が持続していたことが示唆された。さらに面白いのは、英国のリスの lepromatosis を調べると、さらに古く3200年前に現代の lepromatosis 系統から分岐していることがわかり、おそらくアメリカ大陸で何千年も前からリスに維持され進化した lepromatosis が人間によりアメリカから英国に持ち込まれた菌であることもわかった。

最後に、リスも含めて現代まで続く lepromatosis 全体をカバーする先祖が発生した時期を計算すると、ほぼ1万年前になり、アメリカ大陸でへ人類が移動した早い時代かららい菌との深い関係があったことをうかがわせる。

系統樹から leprae と lepromatosis が分離した時期も計算し、これまでの推定と比べてかなり古い時期、70万年前から200万年前と推定している。この先祖がどこで現れ、最終的にユーラシアと、アメリカで独自に発展したのか、今後の面白い課題だと思う。しかし、らい病はまさに人間の歴史と言える。

カテゴリ:論文ウォッチ

7月28日 Bakerさんのタンパクデザインシステムを用いてCARTを作成する(7月24日号 Science 掲載論文)

2025年7月28日
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先日、抗体の作成が難しいタンパク質の天然変性領域に結合するタンパク質の設計を可能にした David Baker さんの研究を紹介したばかりだが(https://aasj.jp/news/watch/27138)、今回は、T細胞受容体では認識できても抗体の作成が難しい主要組織適合抗原 (MHC) に結合した抗原ペプチドに対して、全く新しい結合タンパク質を設計する研究についての論文を紹介する。この分野において、1編はBakerさんの研究室から、もう1編はコペンハーゲン大学から、いずれも7月24日号の Science 誌に掲載された。

本来であれば、システムを開発したBakerさんの論文を紹介すべきところだが、この手法がすでに広く普及して他の研究室でも使われていることを示す観点から、今回はあえてコペンハーゲン大学の論文を取り上げることにした。論文のタイトルは:

“De novo-designed pMHC binders facilitate T cell–mediated cytotoxicity toward cancer cells”
(ペプチド-MHC複合体に対して新たに設計した結合タンパク質が、T細胞によるガン細胞の細胞障害反応を媒介する)

Baker さんが開発したタンパク質設計システムでは、まず標的となるアミノ酸構造に対応した3次元構造を、RFdiffusion と呼ばれる方法で設計する。続いてその構造を ProteinMPNN によってアミノ酸配列に変換する。その後、得られた配列が本当に標的と結合できるかどうかを AlphaFold2 を用いて予測し、構造の適合性を検証する。適合が不十分であれば、再度 diffusion による部分的に設計をし直し、再び配列化し適合性を検証する。このサイクルを繰り返すことで、最適な結合タンパク質を計算的に設計する。

本研究でもこの手法をそのまま踏襲している。具体的には、結晶構造が明らかとなっている MHC 結合型腫瘍抗原ペプチドをもとに、どのアミノ酸と結合すべきかという指示に基づいて RFdiffusion で結合タンパク質を設計し、ProteinMPNNで配列化、その後さらに配列をファインチューニングしている。独自の工夫としては、AlphaFold2 による予測構造に結合スコアを表示させるようにしている点が挙げられる。

設計した結合タンパク質の遺伝子配列を、T細胞受容体の細胞外ドメインと置き換えてキメラ型T細胞受容体 (CART) を作成し、これをレンチウイルスでT細胞に導入。その後、MHC/ペプチドテトラマー複合体を用いた染色法により、標的と結合するかを評価した。その結果、多くの設計タンパク質が目的のMHC/ペプチドに結合可能であることが確認された。

その中で最も高い結合力を示した「NY1-B04」を選抜し、その結合力の構造的基盤を解析した結果、予想通りペプチドとの密接な接触が高い結合力の要因であることが示された。

次に、NY1-B04 を細胞外ドメインに持つ CART細胞を用いて、腫瘍細胞に対する細胞障害活性を評価し、ペプチド特異的なキラー活性を確認。このことから、本手法がそのままCART療法に応用可能であることが示された。

さらに、新たな抗原系として、転移性メラノーマで発現が確認されている腫瘍ネオ抗原ペプチドと MHC の組み合わせに対しても、AlphaFold2 で構造予測を行い、それをもとに同様の方法で96種類の結合タンパク質を設計した。これらを全てT細胞株に発現させ、FACS を用いて結合活性を評価。その中から高い結合を示した SILSY1-G05 を選び出すことに成功している。

本研究は、これまで抗原特異的な抗体やT細胞受容体に依存してきた CART の開発が、抗原ペプチドの情報さえあれば、in silico で個別に設計可能であるという道を開いたことを示している。今後、CART が効きにくい固形ガンを対象に、本手法を用いた実証研究が進むことが予測される。

何よりも驚くべきは、進化の過程で形成されてきた「MHC/ペプチド/T細胞受容体」の複雑な三者関係を、人為的に再構築し、しかもまったく新しい分子設計により代替可能にしたという点である。

カテゴリ:論文ウォッチ

7月27日 データベースを駆使してアルツハイマー病の治療薬を突き止める(7月21日 Cell オンライン掲載論文)

2025年7月27日
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アルツハイマー病(AD)に対する治療は、現在もなお限られている。例えば、エーザイのアリセプトは、ADで低下するコリン作動性神経の機能を補うことで症状の軽減に用いられており、アデュカヌマブは脳内に蓄積するアミロイドβ(Aβ)を除去することで病気の進行抑制を目指している。この他にも、本ブログで紹介してきたように、タウ(Tau)をはじめとするADに関連する分子を標的とした新規治療法の開発が活発に進められている。

こうした原因分子に基づくアプローチとは対照的に、今回紹介するカリフォルニア大学サンフランシスコ校からの論文(2024年7月21日付で Cell オンライン掲載)は、病因分子にはこだわらず、ADで観察される遺伝子発現の異常を正常化できる薬剤を、既存の薬剤1300種の中から探索した、非常にユニークかつ実践的な研究だ。タイトルは「Cell-type-directed network-correcting combination therapy for Alzheimer’s disease(細胞種別ネットワークを正常化するアルツハイマー病治療薬の組み合わせ)」だ。

この研究の出発点は、AβやTauの蓄積が引き金となって、脳内のさまざまな細胞において遺伝子発現の大規模な変化が生じ、それがADの病態を形成しているという前提になる。研究チームは、原因そのものを取り除くのではなく、その結果生じる遺伝子発現異常をできる限り正常に戻すことが病気の進行を抑制する可能性がある、という仮説に基づき、薬剤の探索を進めている。原因に手をつけずとも、その波及効果を制御すれば治療につながるという点で、ある意味“乱暴”ながらも非常に斬新なアプローチといえる。

まず、既存の3本の論文から、AD患者脳の single nucleus RNA sequencing データを収集し、組織に存在する多様な細胞種ごとに、ADによって変化した遺伝子発現パターンを抽出した。さらに、KEGGなどのパスウェイ解析を用いて機能的に分類し、細胞間のネットワーク構造を整理した。

次に、がん細胞株に薬剤を投与した際の遺伝子発現変化を収録したデータベースを活用し、ADで観察された遺伝子発現の異常を逆方向に修正するパターを示す薬剤を1300種類の中からスクリーニング。その結果、25種類の薬剤が、ADで見られる細胞種ごとの異常を“補正”できる可能性があることを見出した。

仮説が正しければ、これらの薬剤を日常的に使用している患者では、ADの発症率が低くなるはずです。そこで、カリフォルニア州の1000万人分の医療レコードを解析し、最終的に5種類の薬剤がADの発症リスクを有意に低下させていることを確認しました。

その中でも、神経細胞の遺伝子発現異常を改善するアロマターゼ阻害剤レトロゾール(乳がん治療薬)と、ミクログリアに作用するトポイソメラーゼ阻害剤イリノテカン(大腸がん・肺がん治療薬)の組み合わせが、最も広範に遺伝子発現パターンを正常化できると判断している。

両薬剤とも抗がん剤であり、副作用への配慮が必要なので、低用量で2日に1回、長期間投与できる条件を模索し、ADモデルマウスへの単独および併用投与を実施。予想通り、併用群ではマウスの記憶障害が有意に改善している。

加えて、病理学的解析では、海馬の神経細胞変性の抑制、Aβおよびリン酸化Tauの蓄積抑制、ミクログリアの活性化低下が観察されている。さらに、投与マウスの脳をsingle nucleus RNA sequencingで解析したところ、細胞種ごとの遺伝子発現パターンが正常に近い状態に戻っていることも確認された。

この研究は、病因ではなく病態に注目し、遺伝子発現ネットワークの正常化を図ることで病気の進行を抑えるという、ある種漢方的発想にも通じる新しい治療戦略を提示している。しかも、使用された薬剤はいずれもすでに臨床で用いられており、理論上はすぐにでも応用可能だ。しかし、副作用のリスクがある抗がん剤であるため、実際の治験に向けたデザインには慎重な検討が必要だと思う。

カテゴリ:論文ウォッチ
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