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12月3日 長期記憶のsingle cell mRNA解析(11月26日 Nature オンライン掲載論文)

2025年12月3日
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この歳になると記憶力が低下していることをつくづく思い知らされるが、それでもずいぶん昔の記憶を鮮明に思い出すことができる。最近はパソコンのスリープ画面にこれまで撮影した様々な写真を写して楽しんでいるが、このおかげで旅行先の記憶やコンサートの記憶は比較的思い出しやすくなった。これは、学習を繰り返すことで記憶を安定化している結果だと思う。このような長期記憶は、細胞の分化と同じでエピジェネティックメカニズムによる遺伝子変化と、その結果としてのシナプスの細胞学的変化の結果である事がわかっている。

今日紹介するロックフェラー大学からの論文は、学習回数が多いほど記憶が安定化される際に重要な働きをしている転写メカニズムを明らかにした研究で11月26日Natureにオンライン掲載された。タイトルは「Thalamocortical transcriptional gates coordinate memory stabilization(視床-皮質回路での転写ゲートが記憶の安定化を調節する)」だ。

この研究ではマウスが移動するときに視覚、聴覚、嗅覚全てが変化する仮想経験を行わせ、それを1ヶ月の間記憶できるかという課題を設計している。記憶自体を空間的移動にリンクさせることで、海馬の場所細胞の記憶につなげるよう工夫している。同じマウスに2種類の学習を行わせ、一つは学習回数が多いが、もう一方は学習回数が少なくすることで、1ヶ月後の記憶に差が生まれるようにしている。即ち学習回数が多いと、一ヶ月後でも記憶がよみがえる。

通常長期記憶の研究は海馬で調べられることが多いが、この研究ではこの海馬での記憶を調節する視床―皮質回路に着目し、様々な経路を阻害したとき長期記憶が傷害される回路として視床前核と前帯状回の回路を特定している。

その上で、これらの領域に存在する神経細胞のsingle cell RNA sequencingを行い、学習回数の違いを反映する遺伝子発現の違いを特定しようとしている。記憶と言っても一部の脳細胞が動くだけだと思うので、こんな実験は不可能ではないかと思ってしまうが、解析できた細胞を転写パターンから選択していくことで、視床前核と前帯状回の細胞で見られる転写変化を、学習中、学習後、学習後2週間、さらに学習後4週間それぞれの期間で特定することに成功している。基本的には長期記憶での差を見ているのだが、転写レベルでは早い時期から学習頻度の差ができているのがわかる。

さらに記憶に応じて変化する細胞を分化の流れを調べるPseudotime法で特定し、分化を誘導する重要な因子としていくつかの転写因子をリストし、それらのエピジェネティックな状態をAtac-seqを用いて確認し、最後にリストされたそれぞれの転写因子を領域特異的にCRISPRを用いてノックアウトすることで、最終的に3種類の転写に関わる遺伝子が長期記憶の鍵を握っていることを明らかにしている。この過程の実験が圧巻でこのチャレンジを自分で読んでほしいと思うが、ここでは割愛する。

その結果得られたシナリオは説得力がある。これまで知られているように海馬での記憶にはシナプスの可塑性を調節するCreb1が重要だが、視床前核ではカルシウム応答性のCAMTA1がTcf4転写因子の活性化を通して、接着やシナプス構造変化を誘導することで短期から長期の記憶を支え、これを前帯状回のAsh1がヒストンのメチル化を介して神経細胞の分化を固定化することで、何週間、何ヶ月も続く記憶を維持しているというシナリオだ。

記憶を神経細胞の分化として捉える重要性はノーベル賞を受賞したエリック・カンデルにより始めて指摘され、記憶研究の新しい領域が始まった。とは言え、膨大な経験の数が脳で支えられていることを考えると、個別の記憶の安定化の研究はほとんど不可能ではと考えていたが、この論文を読んで本当に驚いた。

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