アメリカで盛り上がっているプレシジョンメディシンは、個人個人の病気を正確に把握して、各個人に最も合った治療を行うことだ。この推進をオバマ大統領が一般教書演説で表明した時、しかし彼の頭の中にあったプレシジョンメディシンは、ゲノムや生活習慣を正確に把握し、個人に最も適合した治療を選択することにとどまっていたと思う。しかし考えてみると、一人の個人は様々な病気を同時に持つことが多いし、そんな病気と一生という長い時間の中で付き合っていく必要がある。したがって、プレシジョンメディシンにも、一生という長い時間で個人とその病気を把握することが重要になってくる。今日紹介するコロラド大学を中心とした米国チームからの論文は、一見プレシジョンメディシンとは無関係の研究だが、私にとっては将来のプレシジョンメディシンを考えるために極めて重要な論文に思えた。タイトルは「Safety and benefit of discontinuing statin therapy in the setting of advanced, life-limiting illnesss. A randomized clinical trial (進行した疾患の末期にスタチン治療をやめることの安全性と利点、無作為化治験)」で、3月23日発行のJAMA Internal Medicineに掲載された。この治験は薬剤の効果を調べる治験ではなく、薬剤を使わないことの危険性や利点を調べるための治験だ。実際には様々な疾患(その多くはガン)の末期に入って、余命が確実に1年以内と診断されたスタチンを服用中の患者さんのスタチン投与を中止した時どのような問題が起こるかを調べている。プライマリーエンドポイントと呼ぶが、この研究の第一目的は投与中止後60日目の死亡率の算定だ。その上で、1年間追跡して自覚的な生活の質などを調べている。結果だが、60日目の死亡率はスタチンをやめても全く変化がなかった。また1年間の追跡で約2割の人がまだ生存していたが、中止群と継続群で有意の差はなかった。半分以上の患者さんが循環器病を持っていることでスタチンを投与されていたわけだが、ほとんどの末期の患者さんにとってはスタチンが命に関わる薬でないことがはっきりした。さらに、自覚的な生活の質向上ではスタチンをやめた患者さんの方が身体的にも、精神的にも状態がよくなったと感じており、やめたことに対する満足度も高いという結果だ。このように、本当のプレシジョンメディシンでは、一生の各ステージでそれぞれ個人に適合した治療を行うことが必要だ。その意味で、病気があるからただ薬剤を投与し続けていいのかも問われるべきだと実感した。しかし思いついたらこのような治験を行うこの研究グループには頭がさがる。
3月27日:薬を中止する治験(3月23日発行JAMA Internal Medicine掲載論文)
3月26日:サルからヒトへのスイッチ(3月16日号Current Biology掲載論文)
昨日私が勤務する生命誌研究館を訪問中の某放送局の方から、サルからヒトへの進化を後押ししたスイッチのような遺伝子がないか聞かれた。サルとヒトのゲノムがほとんど同じと考えれば、一つの遺伝子で話が決まる可能性がないわけではないが、やはり「そう簡単な話ではない」と、答えるしかなかった。事実、700万年前に我々の先祖・原人がサルと別れてからも徐々に変化が積み重なってきていることが化石からわかるし、転写・翻訳される遺伝子の差から考えても、新しい遺伝子が全てのスイッチを入れるとは考えにくい。とはいえ、ヒトとサルの差は間違いなくゲノムの差としてそこに存在している。従って、それぞれの遺伝子の発現を調節している領域の差による遺伝子発現の小さな差が積み重なってヒトとサルの差が生まれたのではと多くの研究者は考えており、また地道な努力が重ねられている。今日紹介するデューク大学からの論文はサルとヒトの脳の大きさの差を決めている領域についての研究で3月16日号のCurrent Biologyに掲載された。タイトルは「Human-Chimpanzee differences in a FZD8 enhancer alter cell-cycle dynamics in the developing neocortex (FZD8エンハンサー領域のヒトとチンパンジーの差が新皮質発生過程での細胞周期の動態を変化させる)」だ。この研究ではFZD8と呼ばれるWnt増殖シグナルを受ける受容体遺伝子の上流にある領域の活性の差をチンパンジーとヒトで比べている。この領域に注目した理由についてはあまり明確ではないが、情報処理手法だけで出てきたというより、おそらく長年の経験から、FDZ8を脳細胞の増殖に関わる重要分子として狙いを定め、その遺伝子調節領域に注目したのではと想像する。このHARE5と名付けられた領域は他の領域と比べてもチンパンジーとヒトの差が大きい。この遺伝子配列の差を機能の差として見るため、ヒト、チンパンジーそれぞれからHARE5領域を調整して標識遺伝子とつなぎ、マウス胎児発生でその活性を調べたところ、予想通りこの領域は、どちらも発生中の脳新皮質で発現する。ただ驚くべきことに、ヒトの領域を用いると発生の早くから、しかも30倍も高い発現が誘導される。この発現の量の差が実際の脳の形態変化をもたらすのか、今度は同じ領域をFZD8遺伝子自体とつないで、マウス胎児脳で発現するFDZ8分子の量を変化させると、ヒト調節領域を用いてFDZ8を発現させたマウスでは脳細胞がよく増殖するようになり、脳の大きさが少し増大したという結果だ。話はこれだけだが、現在行われている地道な努力を代表するなかなかの力作で、このような積み重ねから少しづつサルとヒトの違いが明らかになるのだろうと思う。もちろん、全ゲノムが解読されているネアンデルタール人やデニソーバ人のゲノムデータも重要だ。個人的には、もしこのマウスが生きているのなら、次はそれぞれのマウスの行動解析の結果を知りたいものだと思う。
3月25日:CRISPRの倫理問題(Scienceオンライン版報告他)
CRISPR/Casシステムが遺伝子編集に用いられるようになってまだ何年も経っていないが、いつノーベル賞が出てもおかしくないほどこの世界を変える技術へと発展した。このホームページでもなんども紹介したが、その度にこんな利用法もあったのかと、奥の深さに感心する。要するに、技術が多くの研究者の新たなアイデアを生み出して増殖している。ただ拡大が続く素晴らしいテクノロジーだからこそ、今アメリカでは大きな懸念の的になり、今月に入ってNature, Science, そしてMIT technology reviewなどにこの技術の生む倫理問題について様々な意見が掲載されている。発端は、CRISPRを使ってヒト受精卵の遺伝子編集を行った中国からの論文が審査に回っているという噂だ(Regalado, A., MIT Tech. Rev. Äi0http://go.nature.com/2n2nfl (2015).。実際には論文が回ってきた審査員が匿名でこの問題を指摘した。これを受けて、1月この問題を話し合うべく、このテクノロジー生みの親の一人Jennifer Doudnaが呼びかけNapaで会議が持たれた。NAPA会議の参加者は、今回の会議が、遺伝子組み換え技術の倫理や社会的インパクトについて話し合われた1975年のアシロマ会議に続く第二のアシロマ会議と言える重要な問題を扱うという強い認識でこの問題を話し合ったようだ。この会議の経緯や様子について3月20日号のScienceはレポートを掲載、またオンライン版ではこの会議参加者の連名でコメントが発表された。同じ時NatureでもCRISPRと並ぶ遺伝子編集法を開発し、ベンチャー企業でその応用を目指すEdward Lanphierの「Don’t edit human germ line (ヒト生殖系遺伝子を編集してはならない)」というコメントを掲載している。これらすべての結論は、アシロマ会議の結論と同じように、ヒト胚や生殖細胞の遺伝子編集を当分行わないようモラトリアムを呼びかけるものだった。サイエンスオンライン版に掲載された会議参加者からのコメントでは、1)CRISPRといえども確実な技術ではなく、猿を用いた実験でも100%効率が得られていない、2)他の遺伝子への影響については議論がある、3)社会に受け入れられる適応についてまだ議論がされていない、などの議論に基づき、以下の提言がなされている。1)法的規制がない国といえども、遺伝子編集を胚や生殖細胞に使う研究は議論が進むまで中止する、2)国際的フォーラムを大至急形成し、新しいテクノロジーについて正確な情報を提供する、3)CRISPRテクノロジーを、生殖細胞以外のヒト細胞や動物細胞を用いた透明性の高い研究でさらに深化させる、4)世界的な会議を組織化し議論する。
あらゆる公職を退いたので、本当のところはわからないが、我が国ではアカデミア、マスメディア、政府もこの問題の重要性を認識していないのではないだろうか。今回強調したいのは、アシロマ、ヒトクローン、そしてCRISPRと科学者の方から情報が提供され、自発的に研究のモラトリアムが呼びかけられている点だ。これを起点として倫理議論が始まる。私は世界の科学者社会は自ら問題を指摘し、社会に積極的に呼びかけるだけの成熟さがあると自信を持っている。その上で、体細胞操作についてはiPSと同じで、リスクを取りながらヒトで研究を進める事の重要性を堂々と社会に要求している。現役時代、10年以上国の倫理委員会での議論に関わり、並行してISCFという国際フォーラムで議論を行った。この議論を通して、我が国の科学者、科学メディア、政府の3者全員がまだこの成熟度に達していないのではという感触を常に抱いてきた。すなわち、参加者全員が私が正義だと思って議論に参加している。この感触は、昨年始まった小保方問題に端的に表れた。科学者、科学メディア、政府が一体となってあの騒動につながったと思うが、これは科学と社会の関係について3者全てが未熟なままであり続けたことが原因の一つだと思う。その意味で、韓国の黄さん事件を分析した李成柱さんの「国家を騙した科学者」を読むと、成熟するということがよくわかる。李さんは新聞記者であるにもかかわらず、この問題に対するアカデミア、マスメディア、政府の3者の責任を冷静に分析している。我が国のエネルギーは失せてきたようだが、今もマスメディアを通して読者が一番興味のある科学記事が捏造問題で、この1年だけでも小保方事件に始まり、多くの論文に見つかったデータ使いまわし、そして最近の熊本大学医学部、岐阜大医学部、大阪市大の研究者が関わる捏造まで綿々と続いている。その間に、世界では社会と一体になって考える必要のある何が起こっていたのか、冷静に分析し対応し社会に発信できる科学者、政府、科学メディアが新たに生まれないと、成熟した科学と社会の関係など生まれようがない。
3月24日:RNAのメチル化(Natureオンライン版掲載論文)
2013年11月10日、このホームページで京大の岡村さんたちが細胞時計に関わるRNAメチル化の役割についての明らかにした論文を紹介するまで、私も酵母からヒトまで、真核生物にRNAをメチル化したり、脱メチル化したりする機構があることは考えたこともなかった。しかし最近論文を見ていると、この分野は結構賑やかになってきているようだ。例えば2月27日号のScienceではイスラエルのHannaがRNAメチル化酵素を欠損したES細胞は多能性状態からの抜け出しが遅くなって、正常な分化が進まないことを示している。ただ、これまでの研究ではRNAのメチル化は、核からの移行や、RNA自体の安定性など一般的な性質の調節に関わるとされてきた。これに対し、今日紹介するロックフェラー大学からの論文は、メチル化がマイクロRNAの調整に重要な役割を持つことを示した研究で、Natureオンライン版に掲載された。タイトルは「N6-methyladenosine marks primary microRNA for processing (N6メチル化アデノシンはプライマリーマイクロRNA処理の標識)」だ。マイクロRNAは20−25塩基の短いRNAで、たんぱく質をコードするのではなく、様々な形で遺伝子調節に関わることが知られている。このRNAは先ずプライマリーマイクロRNAとして転写され、その後DGRC8、DROSHA,Dicerなどの分子の作用による処理を受けて短いマイクロRNAが作られる。このグループの本来の研究目的は、マイクロRNA調整過程の解明だったのだろう。マイクロRNAに高頻度に存在している核酸配列を探索していたところ、プライマリーマイクロRNAにRNAメチル化の標識配列が特に選択的に分布していることを発見した。また、100種類の脊椎動物のプライマリーマイクロRNAを比較すると、ほぼ全ての動物でこの標識配列が保存されていた。この結果から、プライマリーマイクロRNAからマイクロRNAへの処理過程にメチル化が関わるのではないかと狙いをつけ、次にRNAメチル化酵素Mettle3をノックアウトして見ると、期待通り様々なマイクロRNAの発現が低下する一方、プライマリーマイクロRNAが増える。即ちプライマリーマイクロRNAの処理が停止することが確認された。詳細は省くが、様々な生化学的研究から、プライマリーマイクロRNAがメチル化されることで、処理に関わるDGCR8が結合するヘアピン構造形成が促進され、DROSHAによって切断される量が上昇するというシナリオを提案している。これまでのメチル化RNAの研究から一歩進み、この機構がRNAの特異的処理にも関わることが明らかになった。メチル化がマイクロRNA処理だけに関わることはないだろうが、おそらく、この結果をもとに岡村さんやHannaの研究も再検討されるだろう。しかしますます生命維持機構は複雑になっていく。
3月23日:ヒト化マウスをガン治療に使う(Nature Biotechnologyオンライン版掲載論文)
発生や組織の維持に必要な遺伝子をヒトの遺伝子で置き換え、動物の体の中で人の細胞や組織を作らせ、それを移植治療に用いようとするヒト化動物プロジェクトが世界中で進んでいる。中でも、抗体遺伝子やT細胞受容体遺伝子をヒト遺伝子で置き換えたマウスは、実用化に近いところまできた。特に、人型の抗体を作るマウスから得られた抗体は第2相治験まで進んでいるのではないだろうか。一方遅れていたT細胞の方も、抗原特異性を操作したT細胞移植によりガンを根治する可能性が示されてから、がぜん研究がスパートしているようだ。今日紹介するドイツ ベルリン マックスデルブリュックセンターからの論文はこの流れの研究を代表すると思う。タイトルは「Identification of human T-cell receptors with optimal affinity to cancer antigens using antigen-negative humanized mice (ガン抗原を持たないヒト化マウスを用いて、ガン抗原に対するT細胞受容体を同定する)」で、Nature Biotechnologyオンライン版に掲載された。指摘される前に明かしておくと、このグループを率いるThomas Blankensteinは私の留学時代からの友人だ。その意味で、「Thomas、よくやっている」という印象だ。さて、2010年このグループはヒトのクラス1抗原とT細胞受容体遺伝子が全てヒトの遺伝子に置き換わったマウスを作成し、Nature Mecdicineに報告している(Nature Medicine, 16:1029,2010)。このマウスでのT細胞反応は全てこのクラス1抗原をコンテクストし、導入してあるヒトT細胞受容体レパーートリーから選ばれる。
さて、ガン抗原に対してキラーT細胞がうまく成立するとガンが根治できることはわかってきた。ただこれまでのワクチン療法は、最終効果が予想できない試行錯誤の側面が強かった。また免疫を高めるPD1やCTLA4療法も免疫反応が成立していないと役に立たない。これを解決するため、ガン抗原に対して最適の結合活性を持つT細胞受容体を見つけてその受容体を持つT細胞でガンを殺せないかと考えるのは当然だ。ただ、言うは易く行うは難しで、最適T細胞を取り出すのはうまくいっていなかった。この研究の目的は、T細胞反応がヒト化したマウスを用いて、メラノーマで最初発現が発見された胎児性の分子MAGEA-1に最適の反応を示すT細胞受容体を見つけることだ。MAGEA-1は精巣以外の正常組織では全く発現がないが、多くのガンで発現が見られる。したがって、これを抗原として用いることで、多くのガンに対するキラーT細胞治療が可能になる可能性がある。ただ、胎児組織や精巣で発現していると免疫寛容が成立しているため、多くの胎児性ガン抗原に対するT細胞反応は弱い。ところがマウスMAGEA-1はヒトの分子とアミノ酸配列が異なるため、寛容は成立していない。したがって、人型のペプチドでこのヒト化したマウスを免疫すると、もっとも反応性の強いヒトT細胞受容体レパートリーを単離できるはずだ。詳しくは述べないが、この論文は予想通りこのマウスを用いると最適T細胞受容体を単離することが可能で、このT細胞受容体を導入したヒトT細胞は、この抗原を発現しているガンにだけ反応し、マウスモデルでほぼ根治が可能であることを示している。さらに、従来の方法で単離されたT細胞受容体と比べた時、ヒト化マウスから単離したT細胞受容体ははるかに優れていることも示し、このシステムの有用性を強調している。もちろんまだ概念が証明されたという段階で、実際の応用には、様々なクラス1抗原を持つマウス(少なくとも200種類は必要だろう)、MAGEA-1以外の他のガン抗原の特定などがさらに必要だろう。ただ、ひいき目なしに方向性は見えたと思う。もし根治が可能なら、余命を延ばすだけの治療と比べると優位性は高い。Thomasならクラス1抗原の組み合わせを変え、着々使えるT細胞受容体遺伝子セットを準備していることだろう。私と同じクラス1抗原を持ったマウスも早く作ってと今度頼んでおこう。
3月22日:トクソドンとマクラウケニアの古代化石に残るコラーゲンのアミノ酸配列(Natureオンライン版掲載論文)
タイトルにあるトクソドンとマクラウケニアは共にビーグル号探検の際ダーウィンが化石を発見した有蹄類で、南米が北米と繋がり侵入した肉食猛獣により絶滅するまで南米で栄えていたことが知られている。この発見の経過などは彼のノートに詳しく、公開されているDarwin Onlineで (http://darwin-online.org.uk/content/frameset?pageseq=1&itemID=CUL-DAR33.249-278&viewtype=text)読むことができる。いずれも他の大陸にないユニークな形態をしていたと想像され、ダーウィンを驚かせたことだろう。これまで南米でしか化石が見つからない5目の有蹄類は、南米大陸が孤立していた時に生まれた固有種ではないかと考えられていた。ただ大陸移動過程などが明らかにされることで、アフリカの有蹄類と同一起源ではないかという説も出されていた。ただ、やはり形態学からだけで系統を判断するのは限界がある。これを解決する古代DNA解析も、この時代の化石にはまだ利用できないことがわかっていた。今日紹介する英国・ヨーク大学からの論文は、この問題を化石に残されたコラーゲンのアミノ酸配列を解読することで解決しようとした研究で、Natureオンライン版に掲載された。タイトルは、「Ancient proteins resolve the evolutionary history of Darwin’s South American ungulates (ダーウィンが発見した南米有蹄類の進化起源を古代蛋白から明らかにする)」だ。コラーゲンは構造上極めて安定な蛋白質で、骨に大量に含まれている。このグループは古代DNA解読を狙っていたようだが、技術の改良で解決できるレベルではないことを認識し、同じ骨に残るコラーゲンのアミノ酸配列決定に挑戦した。方法に詳しく書いてあるが、なんと90%以上のアミノ酸配列を決定できる方法の開発に成功している。もちろん、それをコードするDNAがもう存在しないため、完全に正しいかどうかについては今後も調べていく必要がある。ただ、こうして明らかになったコラーゲンの配列を元に、トクソドンとマクラウケニアの系統を決めると、馬やバクなどの奇蹄目に分類され、アフリカ有蹄類との関係は否定されたという結果だ。DNAと異なり、コラーゲンだと他の動物からの混入の心配は少ない。博物館に残る化石調査を変えることまちがいない。コラーゲンだけで系統を決めるのは問題だと批判もあるだろう。しかし、この論文は化石動物の解析を大きく前進させたことは確かだ。化石にだけ残る哺乳動物の系統樹は言うに及ばず、恐竜の骨にまで解析が進むかもしれない。この将来性が夢を生む。
3月21日:忘れないと覚えられない(Nature Neuroscienceオンライン版掲載論文)
2年近く脳関係の論文を読んでみると、脳活動の記録や解析手法が確立したことで、研究の勝負は問題の設定とその問題を解くための課題の設計にかかっているような気がする。このため、論文を読んでいて一番面白いのは脳活動の記録や解析、あるいは結論そのものより課題設計の想像力になる。実際、論文でもこの課題設計部分について詳しく記述が行われるのが普通だ。今日紹介する英国認知脳科学研究所からの論文は、「忘れ去る」という「積極的な忘却」過程という困難な問題にチャレンジした研究でNature Neuroscienceオンライン版に掲載された。タイトルは「Retrieval induces adaptive forgetting of competing memories via cortical pattern suppression (記憶の取り出しは、皮質パターンの抑制を介する競合する記憶の適応的忘却を誘導する)」だ。訳してみるとずいぶん難しいタイトルになったが、要するに記憶を呼び起こす時、その記憶に連合した他の記憶は積極的に忘れ去るよう脳が働いているという話だ。問題がこんな複雑な過程なので当然対象はヒトだ。さて、この問題を解くため設計された課題だが、次のようになる。まずあらかじめ一つの言葉に二つのイメージが対応したセットを何セットも用意しておき、それを覚えてもらう。例えば、「砂」という言葉にマリリンモンロー(顔)と帽子(物品)を連合させて覚えてもらう。同じように「骨董」という言葉にアインシュタイン(顔)とゴーグル(物品)が連合するよう被験者をあらかじめ訓練する。そのあと、被験者に「砂」と問いかけて、それに連合したマリリンモンローの顔か帽子のどちらかを思い浮かべてもらって、どちらを思い出したか「顔」「物品」というカテゴリーで答えてもらう。そのあとすぐ、今度は覚えてもらっている様々な写真を示して、マリリンモンローが出て来れば「砂」と答えてもらう。もちろん帽子が出てきても答えは「砂」だ。ただその前の課題で行った、「砂」からマリリンモンローを思い出すという記憶の呼び起しが帽子のイメージを抑制しているとすると、帽子を見たとき「砂」という正しい答えを出す確率が低下することになる。この時、最初に呼び起こしとは関係ない連合イメージを見せて正解率を調べ、コントロールにしている。実際にはこのセッションを4回繰り返す。ほとんどの人は2回目以降はまず1回目と同じ記憶(例えば帽子ではなくマリリンモンローの顔)を呼び起こす。一度思い起こすことで記憶は鮮明になるから、当然だろう。一方、呼び起こさなかった方のイメージは抑制されているのかを帽子を見たとき「砂」と答える正解率で調べると、予想通りセッションが繰り返されマリリンの記憶が確かになるほど、帽子を見たとき「砂」と答える正解率は下がる。もちろん最初の呼び起しに使わなかったコントロールの連合セットでは、間違う率は一定している。この結果から、私たちは複数のイメージが連合した記憶セットから一つのイメージを呼び起こすとき、他のイメージを積極的に抑制していることがわかる。自らの経験に当てはめると、誰だったか思い出そうとして間違った名前が先に頭に浮かんでしまうと、本当の名前が「あの人、あの人」と思い出せないのと同じだろう。納得の課題設計だ。あとは、このセッションの過程を機能的MRIで調べ、イメージを想起すること、もう一つのイメージを抑制することに関わる脳部位の活動を対応させるだけだ(本当はこれも大変な分析だと思うが)。結果は、セッションを繰り返すほど腹側視覚野の一部の活動が記憶の抑制と関連していることがわかる。さらにこの抑制は前頭前皮質の興奮と関連することも明らかになった。すなわち、記憶を呼び起こすプロセスが興奮すると、そのイメージと連合しているイメージを探し当てるため前頭前皮質が興奮し、連合している他のイメージだけを抑制するという回路が明らかになった。脳研究の醍醐味は課題設計にあることがよくわかる。今後、この機構がうまく働かないためすぐ気が散る性格などの解明と、治療手段がわかってくれば、自分のこととしてこの結果を祝いたい。
3月20日:英国人(3月19日号Nature掲載論文)
このホームページで当たり前のように使っている言葉ゲノムにはどんな意味が含まれているのかをよくよく考えると、定義するのはそう簡単でない。物質として考えると、私たちの細胞核の中にある核酸の集団30億塩基対と簡単だが、情報として考えると様々な意味を持つ。もちろん細胞や個体が未来に向かって生きていくためには必須の情報だが、トランスクリプトームや他のオミックスとは全く違う意味がある。即ち、現在のゲノムが生まれるまでの過去の歴史が書かれている。これに気づいて、今や新しい歴史学、地理学が誕生しようとしているが、今日紹介するオーストラリア・英国の合同チームからの論文は一つの例だ。英国人が成立する過程をゲノムから解明しようとした研究で、3月19日号Natureに掲載された。タイトルは「The fine-scale genetic structure of the British population(英国人の微細レベルの遺伝子構造)」だ。この研究では、英国人をゲノム上の違いとして特定できる集団に分け、その集団の地理学的分布を調べようとしている。英国各地域を代表する人を集めるために、それぞれの祖母・祖父4人全員が80km以内で生まれた人を2039人選び、その遺伝子型をSNPアレーで調べている。このような研究はこれまでも行われてきたが、これまでの解析ソフトは、一つの国の中の集団の小さな違いを指標にグループ分けするのは苦手だったようだ。この論文では、2012年に新たに開発されたFineSTRUCTUREという解析ソフトを使って分析している。このソフトの原理については完全に理解できているわけではないが、それぞれのゲノムが様々なゲノム同士の交雑を通して形成されてきたことをモデル化して、一人の人間のゲノムが生まれる過程を、個々のSNP部分から連鎖するクラスター、そして最後に各クラスターを配置した染色体へと再構成するボトムアップの手法で解析しているようだ。この研究では、まずこのソフトを用いて、対象者を住んでいる場所とは無関係に分類し、結果をそれぞれの居住地区にプロットすることが行われている。はっきり言って、アイデアとこの解析ソフトがこの研究のすべてだが、結果は予想通りというか、英国人なら全員納得の結果だ。おそらく英国中で話題になっているだろう。今回調べた対象者は、17のクラスターに分類できる。各対象者がどのクラスターに属するかを色分けし、それを英国の地図にプロットすると、英国各地域が異なる集団で構成されていることが一目瞭然でわかる。わかりやすく言えば、スコットランド人、イングランド人、ウェールズ人は遺伝的に違う。さらに、オークニーのような小さな北の島の住人はもっと違う。一方、北アイルランド人とスコットランド人はよく似ているという具合だ。この成り立ちを探るため、周りの国々の住民と比較すると、北欧、ドイツ、フランス、スペイン、イタリア人との関係、即ち侵略や移住の結果による交雑が反映されている。この交雑史はさらに歴史書の記す交雑史と一致し、それぞれの地域住民の成立過程を新しく描き直せるという結論だ。地図を見るだけで本当に感心するし、楽しめる論文だった。例えば、現在各地域に住む人を無作為に選択して同じ調査を行い今回の結果と比べると、おそらく英国でどのような人の流れが生まれているのかわかるだろう。地方創生を掛け声にする我が国も、経済だけでなく、このような実態調査の上に計画を練るのも重要ではないかと思う。21世紀、ゲノムが文明を変えていることを実感する論文だった。
3月19日:頑張れば効果はすぐ出る(3月12日号アメリカ医師会雑誌掲載論文)
これまで田舎から都会までフィンランドには全部で4回ぐらい行ったと思うが、真面目な人が多い印象を持った。事実学童の学力国際比較で常にトップの座にあるのは、教育システムだけでなく、フィンランド国民の真面目な性格も寄与しているのではないだろうか、今日紹介するフィンランド・スウェーデン合同チームからの論文はこれまで言われて来た認知症対策を全て真面目にこなせば、認知症が予防できるか確かめた研究で、3月12日号のアメリカ医師会雑誌に掲載された。タイトルは「A 2 year multidomain intervention of diet, exercise, cognitive training, and vascular risk monitoring versus control to prevent cognitive decline in at-risk elderly people(FINGER) (食事、運動、認知トレーニング、血管リスク検査を組み合わせた複数の要因を介入することで高齢者の認知機能低下を防げるか(FINGERプロジェクト))だ。研究では2009年から2011までの2年間、すでに行われていたフィンランドの調査研究に参加して認知症の指標が少し高いと診断された60歳から77歳までの1260人が集められ、生活改善プログラムを指導に基づいて2年続けるグループと、看護師さんから様々な情報をもらうが、後は自宅で自由に努力するだけのグループについて、様々な認知機能テストの成績を比べている。どこにでもあるような研究だが、このプログラムに基づく指導が半端ではない。まず介入群に選ばれると、グループセッションで生活習慣を変えることの重要性の講義を受け、国の定めた詳細な食事指導要領に基づき体重の5−10%低下を目標とする食生活を続けることになる。次に運動だが、1−3回/週のジムによるトレーナーの指導、個人、及びグループのエアロビックスセッションが提供される。実際、副作用の記述で目を引いたのが筋肉痛で、半端なプログラムではないことがわかる。そして家に帰ると、コンピュータによる脳トレーニングが待っている。さらに、定期的にグループセッションが行われ、社会との接触を高めるよう促している。最後に、年に3回、BMIや血管系の検査受け、健康指導を続けている。驚くのは、このプログラムに参加した631人のうち、544人が対象として残ったことだ。本当にフィンランドの人たちは真面目だと思う。ここまでして、効果がなかったとは言えるはずはない。結果は期待通りで、実行力や問題を処理するスピードの低下は確実に防げている。ただ、記憶については大きな差はなく、ある程度年のせいと諦めたほうがいいかもしれない。私の経験で言えば、記憶自体はモバイルやパソコンでいくらでも埋め合わせが聞く。全般的には、上出来の結果と言っていいだろう。ただ読み終わって考えると、このプログラムだと、それを毎日こなすこと自体が大変な仕事になるように思える。健康になることを仕事としてこなす発想の転換が重要であることを示した結果だと思う。これも真面目なフィンランドの人だからこそできるのかもしれない。さらに、年金や福祉がしっかりしていないとこんなことは不可能だ。実際我が国でも可能か調べてみたいところだ。いずれにせよ、健康な生活を心がければ、認知症も防げる可能性があることは確かだ。
3月18日:古谷さんとビュフォン (Nature オンライン掲載論文)
今日は個人的話で終わる。さて自分の研究室メンバーではなくても、学会などで出会ったりするうち長年の付き合いが生まれる人たちが何人かいる。古谷さんもそんな一人で、彼が多田富雄先生の大学院に在籍していた時代から付き合いがある。彼のキャリアの節目節目にも不思議と立ち会った。中でも彼がNüsslein Vollhardtの研究室に行くと決めるきっかけになったケルンの会議でいろんな話をしたことをよく覚えている。その後もいろんな話をしに来てくれた。最後に会ったのは、彼が英国バースに行くことを決めた時だったと思う。今日紹介する論文はバースの古谷さんからの論文で、彼がドイツに渡ってから一貫して進めてきた仕事が凝縮している感慨を覚えた。タイトルは「YAP is essential for tissue tension to ensure vertebrate 3D body shape (YAPは脊椎動物の3次元形態を維持するための組織張力に必須)」で、Natureオンライン版に掲載された。ドイツに渡ってからの古谷さんは、一貫して無作為に突然変異体を誘導し、変異が起こった遺伝子を特定する研究スタイルを保持している。今でも覚えているが、「変異体を選ぶ時PhDの人たちは「美しい」突然変異を選びがちだが、自分はMDなので「醜い」突然変異を研究したい」と言っていた。今回選んだメダカの変異体は上下にひしゃげた醜い魚で、hirameと名付けている。この形態の原因を調べていくうち、ひしゃげるのは必ず重力方向で、魚の胚を横に寝かせて維持すると今度はひしゃげ方が変化することを発見している。重力が形態形成に影響し、私たちの細胞はそれに対処していることの証明だ。あとは常法に基づいて、変異した遺伝子を探索し、YAPと呼ばれる、今ガンや発生研究でもっとも流行っている転写因子を特定している。論文では様々な解析が示されているが、まとめてしまうとこのYAPは、下流で働く複数のRhoGTPase活性化分子を介して細胞骨格のアクトミオシン系の緊張を維持するのに必須の分子で、この分子の機能異常はこの緊張を低下させるため、細胞外マトリックスの形成異常や、マトリックスと細胞の接着異常がおこり細胞の重層構造がうまく作れず、結果重力に対して形態を維持することができなくなるという結果だ。ガン研究の分野では、YAPは細胞増殖や細胞死抑制に重要な分子として研究が進んでいるが、古谷さんたちは少なくともメダカに関してはこの細胞増殖に関わるのはYAPではなく、親戚の転写因子TAZで、YAPは細胞骨格調節を調節していることを示している。もちろん細胞骨格はガン研究にとっても重要で、おそらく今回の研究結果はガンについても再検討されるだろう。論文はわかりやすく書けており読んで面白い。彼自身も、オーソドックスな遺伝学からシナリオを書きあげるという点では満足できる仕事ができて喜んでいるだろうと推察する。もし隠居老人の私が何か加えるとしたら、18世紀、フランスを中心にニュートンの引力を形態形成原理として使おうとした人たちがいたという歴史の話だろう。その中心は有名なジョルジュ・ビュフォンだが、21世紀古谷さんたちは確かに引力も形態形成に関わる力であることを証明したと持ち上げたい(この辺りは今私が訳しているJeniffer Menschさんの「Kant’s Organicism」に詳しい)。いずれにせよ、古谷さんの顔が浮かんでくる論文だった。