2024年5月25日
動物が数を数えることができることは様々な実験から確認されており、人為的にトレーニングした犬だけでなく、自然に数を学習する動物も知られている。例えば鳥の中には天敵の大きさを音を何回出すかで表現して周りに知らせる種も存在する。従って、賢いカラスが我々の数字を見たり聞いたりして、鳴き声の数で表現すること自体は特に驚くことではない。
今日紹介するドイツチュービンゲン大学からの論文は、カラスが示された数を理解し、それを鳴き声で表現するとき、実際には頭の中で何が起こっているのか、脳の活動を全く調べることなく、明らかにした研究で、5月24日 Science に掲載された。タイトルは「Crows “count” the number of self-generated vocalizations(カラスは自分が出す声の数を数えている)」だ。
人間の子供でも、最初は数を一つ二つと順番に数えるが、徐々に抽象的な数字が理解できるようになって、イチ、二と数えなくとも数字の意味がわかるようになる。この幼児の数の数え方はは、カラスにも教えることができ、この研究ではアラビア文字の1、2、3とともに、異なる音を聞かせ、それぞれの数を見たとき、カーという声の数で見た数を表現させることができる。すなわち、2という文字、あるいは2に対応する音を聞いたとき、「カー、カー」と2回答えるように訓練できる。
普通ならカラスは賢いとおしまいにしてしまうのだが、このグループは、訓練しても一定の頻度で間違うことに興味を持った。間違いのほとんどは、「見た or 聞いた」数より少なく、あるいは多く発生してしまうためだ。また、表現する数が多いほど、間違いが多い。これは、この数え方の特徴で、3を数のシンボルとして理解するのではなく、イチ、二、サンと頭の中でカウントする刺激として理解しているからだ。
とすると、大きい数を見たときほど、頭の中でカウントするので、発声までに時間がかかると予想できるが、その通りで、発声前に数を頭の中でカウントしているのがわかる。
この研究のハイライトは、このカウントした結果を発声につなげるときに、「カー」という音自体と発声までの時間が、数字の大きさに対応するのではないかと着想し、数を「見た or 聞いた」ときの発声を記録し、最初の音のトーンでカラスが理解した数を予測できるか調べ、第一声までの時間とトーンで鳴き声の数を予測できることを見事に示している。
もし最初に頭の中でカウントして数を理解しておれば、なぜ間違うのか。これを解くため、間違った時の、第一声までの時間とトーンを調べると、頭の中では理解できていることが明らかになった。とすると、最初は3回鳴こうと決めたのに、途中で4回になってしまうことになる。このときの、身体の動き、声のトーン、数など様々なパラメータを記録して、答えを発声しているときの反応を3次元空間に投射すると、間違う場合、例えば2回目の鳴き声と3回目の鳴き声がこの空間上で極めて近接してしまい、通常の3回目と認識できないため、3回発声しても2回と勘違いして答えていることがわかる。この間違いの原因には、例えば首が動くなど他の要因が発声に影響したと考えられる。
以上が結果で、極めて単純だがカラスの反応を、人工知能にインプットすることで、カラスの頭の中で起こっていることを解析するという、まさに AI 時代の脳研究を代表する研究のように思う。以前、言語の発声を子供の経験をニューラルネットにインプットすることで調べる画期的研究を紹介したが、おそらく数の認識、空間の認識、そして時間の認識なども、脳と AI を一対一で対応させることで、明らかにされる時代が来たように思える。
2024年5月24日
米国の医療用合成麻薬中毒に関する深刻な問題については Beth Macy さんの Dope Sick という本に詳しく書かれており、Video News を主催している神保哲生さんによって邦訳もされているので是非読んでほしいが、米国が合成麻薬中毒にむしばまれている姿が本当によくわかる。
とはいえ、鎮痛剤としての麻薬は他の薬剤に代えがたい効果がある。問題は、痛みがなくなってからの離脱症状が複雑で、離脱をスムースに促進できる医療手段が限られている。今日紹介するジュネーブ大学からの論文は、強力な合成麻薬フェンタニルの離脱症状に関わる脳回路を明らかにした研究で、5月22日 Nature にオンライン掲載された。タイトルは「Distinct µ-opioid ensembles trigger positive and negative fentanyl reinforcement(異なる μ オピオイド反応神経群がフェンタニルに対する正と負の効果を誘導する)」だ。
オピオイドというとモルヒネを思い浮かべると思うが、最近ではフェンタニルやオキシコドンなどの合成麻薬も医療で使えるようになっている。合成麻薬は即効性で、モルヒネの何十倍も効果が高いので医療には最適の鎮痛剤だが、痛みの原因が消失しても、離脱できずに過剰摂取に陥り、多くの死亡事故の原因になっている。
離脱時の症状には2種類あり、一つは正の強化と呼ばれる、フェンタニルによる快感が忘れられないために使用を続ける症状と、負の強化と呼ばれる離脱によって起こる強い不快感や震えなどで、この症状を恐れてフェンタニルを続けることになる。
研究では、正の強化と、負の強化に対応する行動を特定した上で、離脱時にこれらの反応が起こる脳回路を調べている。実際には μ オピオイド受容体に反応する神経細胞は様々で回路は極めて複雑なので、様々な可能性を除外する実験が行われているが、そこはすっ飛ばして最終的に著者らが重要な回路として提示した結果を照会する。
まず正の回路だが、要するに快感を求めて離脱できないということは、当然ドーパミンによる報酬回路との関係になる。この研究では、腹側被蓋野の GABA 作動性抑制神経の一部が μ オピオイド受容体を発現しており、刺激によりドーパミン神経の抑制が外れることで、快感が増す回路が成立していることを、光遺伝学も含めて示している。すなわち、この回路が離脱により働かなくなると、当然、快感が減じるため、快感を求めてフェンタニルから離脱できない。すなわちその場その場の快感を求める禁断症状といえる。
一方負の強化はもう少し複雑だ。これまでの研究で、長期間の使用により神経自体の刺激性の変化が生じそれが負の強化の原因と考えられてきた。この研究では、離脱時に最も反応性が高まる μ オピオイド受容体を発現している神経が扁桃体中心部に存在することを発見する。そしてこの細胞の投射や機能を光遺伝学的に調べ、この神経細胞が興奮すると不快感と運動異常が起こることを発見する。すなわち、扁桃体 μ オピオイド受容体陽性細胞は、離脱時に興奮が高まり、これが不快感や運動を誘導することが示された。
残念ながら、負の強化で μ オピオイド阻害で神経が興奮するメカニズムや、症状につながる回路については不明だが、オピオイドの効果の複雑性が今や米国最大の問題、合成麻薬蔓延を生んでいることはよくわかる。いずれにせよ、この両方の禁断症状に対応する方法の開発が望まれる。
2024年5月23日
SWI/SNF は ATPase を中心に多くの分子が集まった複合体で、ヒストンと DNA が形成するヌクレオソーム構造を ATP 依存的に調節している。ガンゲノム研究が進んだことで、SWI/SNF 複合体を形成する遺伝子変異が20−25%のガンに見つかり、転写と複製のミスマッチの解消、DNA 修復促進機能などが傷害されることで、発ガンが促進されることが明らかになってきた。ただ面白いことに、SWI/SNF 変異が発ガンを促進効果を持つ一方、最近ガン免疫を高めることがわかってきて、ガン治療の標的として注目を集めている。
今日紹介するソーク研究所からの論文は、SWI/SNF の機能ユニットの一つ ARID1a の変異がガン免疫を誘導するメカニズムについての研究で、5月15日 Cell にオンライン掲載された。タイトルは「ARID1A suppresses R-loop-mediated STING-type I interferon pathway activation of anti-tumor immunity(ARID1A は R-loop による STING-1 型インターフェロン経路活性化によるガン免疫を抑える)」だ。
ARID1A と結合した SWI/SNF 複合体は、ゲノム安定性を維持し、DNA修復を促進するガン抑制効果を持つことがわかっている。従って ARID1A の変異はゲノム不安定性を誘導して発ガン過程を促進するが、逆にガンのネオ抗原を増やしてガン免疫を誘導する。これが、ARID1A の変異がチェックポイント治療に反応する理由だと考えてきた。この研究の結論の全ては、タイトルに込められており、このタイトルを見るだけで ARID1A 変異=ネオ抗原増加という考えが砕かれ、全く異なるメカニズムの存在に気づかされて驚くことになる。
まず、ARID1A の機能が失われたガンでは、これまで示されてきたように強い免疫反応が誘導され、CD8キラー細胞がガン局所に多く浸潤していることを確認している。そして、この原因を追及するため、single cell RNA sequencing でガン細胞及び反応するT細胞側の ARID1A による変化を調べ、ガン側ではインターフェロン(IFN)反応に関わる遺伝子の上昇、T細胞側では IFN により誘導される遺伝子の発現が高まり、この結果ガン抗原特異的T細胞が増殖していることを突き止める。すなわち、ARID1A 変異によるガン免疫増強の背景にはまずガンの IFN 分泌と反応性の亢進があることを明らかにする。
次に、ARID1A 変異が IFN 反応をガン局所で誘導するメカニズムを解析し、転写 DNA 複製が衝突する際に発生する DNAのR-loop をうまく解消できないため、一本鎖の DNA が切り出されてしまい、これがウイルス DNA を検知する STING 経路を刺激し IFNβ を誘導されること、そして IFNβ は腫瘍自体に働いてケモカイン分泌やガン抗原提示を促すとともに、T細胞にも働いてガン局所での増殖、キラー活性を促進することを明らかにしている。
結果は以上で、ひょっとしたら他のミスマッチ修復異常でのガン免疫促進にも同じようなメカニズムが存在するかもしれない。実際のガンの症例でも、ARID1A 変異があって IFN 反応遺伝子が上昇している場合は予後がよいことがわかっているので、ARID1A 変異はチェックポイント治療の最優先対象になると思う。
2024年5月22日
2022年1月に行われた10種類の遺伝子を操作したブタから摘出された心臓を人間に移植する臨床研究は、日本のメディアでも大きく取り上げられた。残念ながら移植後60日で患者さんはなくなったが、原因が特定できない心臓の毛細血管網の破壊が拒絶の原因になったことがわかり、この論文については HP でも紹介した(https://aasj.jp/news/watch/22458 )。
この論文を読むまで全く気づかなかったが、実際の臨床試験と並行して、なんと心疾患で脳死と判定された患者さんにブタの腎臓を移植して、移植に対する急性反応を調べる人体実験というのか死体実験というのか、我が国ではまず考えられない研究が、2022年の夏に2例行われ、まずその経過について2023年7月 Nature Medicine に報告されていた。結論的には、移植する心臓の大きさを正確に選ぶことが極めて重要で、小さい場合急速に機能低下を来す可能性が示された。
今日紹介するニューヨーク大学からの論文はその続報で、この60時間の間に、血液や移植心臓の徹底的なオミックス解析を行い、その解析結果の報告で、5月17日 Nature Medicine にオンライン掲載された。タイトルは「Integrative multi-omics profiling in human decedents receiving pig heart xenografts(ブタ心臓移植を受けた患者さんの統合的オミックスプロファイル)」だ。
繰り返すが、このような臨床実験が構想され、行われたことが驚きだ。移植を受けた患者さんはともに心臓病の患者さんで、基本的には移植の術式を確実にするための研究にもなっている。もちろん長期間の経過は見ることができず、66時間で心臓を取り出している。すなわち、急性の効果を調べる実験になっている。
最初の論文で、患者1、患者2で大きな違いが見られており、これが移植心臓の大きさのミスマッチであることが示されていた。この論文では、60時間採血とバイオプシーにより、移植臓器に対する反応を single cell RNA sequeicing やオミックスを用いて調べているのがポイントになる。
膨大なデータなので詳細は省くが、2人の患者さんで反応が大きく違っていることに驚く。すなわち患者1では、60時間という急性期間にT細胞の増加が見られている。おそらく急性の抗体が媒介する反応と考えられるが、T細胞も細胞障害反応に関わる可能性が示された。実際これに呼応して、患者1では、炎症性サイトカインも上昇している。
この差の一つとして、T細胞の反応が抑えられた患者さんでは移植前に通常の免疫抑制に加えてT細胞を抑制する thymoglobulin 投与が行われており、この有効性が示されている。
移植した心臓側で見ると、サイズミスマッチがあると心臓が虚血になって様々な変化が起こっていることがわかる。従って、移植する時のドナー選びの重要性がわかる。
最後に、移植心臓でサイズミスマッチの変化を除くと、両方の患者さんで血管内皮と線維芽細胞に遺伝子発現の変化が強く見られ、短い間にリモデリングをうながすシグナルが発生していることがわかる。実際の移植例でも、内皮の変化が最終的な拒絶の問題になっていたことを考えると、異種移植の今後の焦点は血管内皮の変化を起こさない方法の開発になる。
いずれにせよ、患者さんが脳死になってからの移植実験にともかく驚いた。
2024年5月21日
年齢とともに記憶力は衰えるが、それを感じるのは人の名前を思い出そうとするときだ。この現象は一般的なので、若い人が我々年寄りと話しているとき、いつも相手は名前を思い出せていないのではと疑ってかかった方がいい。「申し訳ない、名前が思い出せない」と率直に言うのは失礼に当たると思って、話を合わすことがしばしばある。とはいえ、名前は出てこなくとも、見覚えのある顔かどうかについては比較的記憶は保たれている。そのため、出会ったときに知人であることははっきりわかるのに、名前が出てこないで焦ることになる。
このなじみの顔を覚えているメカニズムは重要な脳研究分野になっており、素人でも比較的わかりやすい分野だったが、多くの電極からのデータを処理して神経回路上の反応をベクトル空間上の表象として調べるのが普通になってからは、理解が難しくなった。特に論文を直感に基づいて説明するのが難しくなった。しかし、最も興味ある分野なので、表面的な理解でもなんとかアップデートしようと、論文に目を通している。
今日紹介するカリフォルニア工科大学からの論文は、顔認識を3次元空間の平面として表象したとき、なじみの顔となじみのない顔の表象(これを Axis code とこのグループは定義している)の違いを調べた研究で、5月15日 Nature にオンライン掲載された。タイトルは「Temporal multiplexing of perception and memory codes in IT cortex (一時的な感覚と記憶の複合が下部側頭皮質をコードする)」だ。
この論文のやっかいなのは、このグループ特有の情報処理方法を使っており、読者には優しくない。しかも、顔認識の脳表象が、ベクトル空間上の平面として現れており直感的にわかりにくい。しかし課題は面白く、人間の写真をサルに見せたとき下部側頭皮質の神経活動を記録することで、極めて多様な顔を、200の神経の反応パターンで区別できること、またそのときのパターンを、3次元ベクトル空間内のフラットな平面として表現できることを、2017年 Cell に発表している。といっても何のことかわかりにくいと思うが、要するに顔を見たときの脳反応を表現する方法を開発し、結果200神経だけでも無限の顔を区別できることが示された。
このときは顔の認識だが、今回の研究はそれに記憶を複合させて、なじみのある顔と、なじみのない顔で、顔認識表象平面がどのように変化するのかを調べている。
他のグループの研究で、なじみの顔となじみのない顔の違いは、対応する神経興奮の強さだとされてきたが、提示するなじみの顔写真と、なじみのない顔写真の数の比を変える実験で、興奮の強さの違いのように見えたのは、単純に実験に使ったなじみの顔となじみのない顔の比率によるアーチファクトであることを示し、この違いは顔が表象された表象表面の違いにあると考え実験を行っている。
実験自体は、下部側頭皮質の3領域にクラスター電極を設置し、顔写真を見たときの各神経興奮を経時的に記録し、そこから顔の表象に対応する表象平面を割り出し、その傾きを Axis code として数値化している。
この表象平面をなじみのある顔となじみのない顔で比較すると、記憶の影響を受けるなじみの顔の表象表面は、それが形成されると側座に記憶からのシグナルがインプットされ、反応後期に最終的に形成される表象平面の傾きが変化させられることを示している。
すなわち、顔に反応する一個一個の神経の反応が記憶で再現されるのではなく、顔を見たとき形成される表象表面の傾きが一次元的に変化させられるだけで、なじみのある顔だと判断されることがわかる。
といっても、本当にわかった実感がないのが情報処理に依存する研究だ。しかし考えてみると、なじみの顔と、誰の顔であるとアイデンティティーを認識することは全く違った過程だ。個人的感想だが、アイデンティティーは全くことなるメカニズムで行われる可能性すらある。次は是非顔の個性の特定メカニズムを明らかにしてほしい。
2024年5月20日
分子標的薬の開発が進む現在でも、ガンの化学療法の主流は放射線や薬剤により DNA 障害を誘導する治療だ。これは我々の細胞が DNA 障害をうまく修復できないと細胞死に陥るようにできているからで、例えば修復酵素が欠損しているガンでは DNA ダメージを与える治療がよく効く。ただ、ガンもそのままやられっぱなしではなく、DNA ダメージでも生存し分裂を続けるための仕組みを開発する。その一つが有名な p53 で、これが欠損するとダメージに対する反応がなくなるとされてきたが、p53 欠損ガン細胞でも治療に反応するガンが多く存在することが知られている。
今日紹介するオランダガンセンターからの論文は、p53 が欠損していても DNA ダメージにより細胞死が誘導されるメカニズムを追求し、ダメージにより活性化される SLFN11 がリボゾームでの翻訳を止めることで、ストレス依存性の細胞死を誘導する鍵になる分子であることを明らかにした研究で、5月17日号の Science に掲載された。タイトルは「DNA damage induces p53-independent apoptosis through ribosome stalling(DNAダメージは p53 非依存性の細胞死をリボゾームの翻訳を止めることで誘導する)」だ。
この研究ではエポトサイドなどの DNA ダメージ誘導因子でガンを処理したとき、リボゾーム上で起こる翻訳全体が停止する細胞が現れ、カスパーゼ3活性化による細胞死が翻訳が停止した細胞だけで起こることを発見する。また、この反応が p53 欠損した細胞でも起こることを確認し、p53 非依存性の DNA ダメージによる細胞死はリボゾーム上での翻訳停止によることを明らかにする。
次にDNAダメージにより誘導されるいくつかの遺伝子のうち、翻訳に関わる可能性がある SLFN11 と GCN に注目し、研究を進めている。まず、ノックアウト実験から、SLFN11 も GCN もリボゾーム上の翻訳停止に関与しているが、DNA ダメージによる細胞死に関与するのは SLFN11 だけであることを明らかにする。
SLFN11 は UUA-tRNA を中心にいくつかの tRNA を切断して翻訳を止めることで、感染したウイルスの翻訳を止める働きを持っている。すなわち、DNA ダメージによる反応もこの分子を使い回していることがわかる。
一方、翻訳が停止している分子を調べると、特定の tRNA 切断による翻訳だけでなく、翻訳全体の抑制が認められ、これは GCN が存在しないと起こらないことから、SLFN11 が DNA ダメージを検知すると、GCN を活性化して翻訳因子をリン酸化して翻訳を停止させるとともに、特定の tRNA を切断することで、MAPキナーゼから JNK 転写を介するミトコンドリア依存性細胞死を誘導していることを明らかにしている。
この細胞死経路について、実際の直腸ガンオルガノイドを用いて再検討し、DNA ダメージにより UAAtRNA が切断され、リボゾーム上で UAA を持つ RNA が止まってしまい、その結果細胞死が誘導されること、さらに同じ経路がT細胞でも発生することを明らかにしている。
以上が結果で、この経路が働いているかどうかが DNA ダメージを誘導する抗がん剤の効果を占う一つのバイオマーカーになること、そしてガン免疫系もこの治療により強く抑制される可能性が示された。これを実際の治療にどう生かすか、重要な課題になるが、少なくとも SFLN11 が欠損したガン患者さんで、一般的抗ガン剤や放射線療法を行っても、副作用だけ高まることになるので、現ゲノムを調べるときには注目すべき分子だ。
2024年5月19日
言語に関わる脳領域が卒中などで傷害されると失語症と呼ばれる状態に陥る。私が学生だった頃は、発話が傷害されるブローカ失語と言語理解が傷害されるウェルニッケ失語を習うだけだったが、現在では関与する様々な領域が特定され、失語の分類も複雑になっている。いずれにせよ、脳障害とそれに続く神経死が原因なので、残っている神経回路を動員して、言語を取り戻すリハビリテーションが唯一の治療になる。さらに、我々の脳は活動しなくなると、ますます神経結合が低下するので、失語により機能が失われることで、神経障害がさらに拡大することから、これを食い止めるためにもなおさら刺激によるリハビリテーションが重要になる。
この論文を読むまでほとんど知らなかったが、失語症のリハビリテーションとして、言語野と一部オーバーラップする音楽を用いる研究が進んでおり、リズムをたどったり、歌うことを通してイントネーションや、抑揚の感覚を取り戻す様々な治療法が開発され、効果を上げている。
今日紹介するヘルシンキ大学からの論文は、すでに効果が確かめられているグループでの合唱練習を中心として、歌う努力を重ねるリハビリテーションの効果を、症状だけでなく、MRIを用いた様々な指標で神経学的に確かめて研究で、eNeuro 5月号に掲載された。タイトルは「Structural Neuroplasticity Effects of Singing in Chronic Aphasia(慢性的失語症で歌うことの構造的神経可塑性効果)」だ。
卒中で失語症が発生し、通常のリハビリを繰り返しながら5年以上が経過した慢性の患者さんを無作為的に、グループ合唱と自宅での歌うプロトコルを組み合わせた方法と、それ以外のグループに分け、失語の改善を調べると、様々な指標で歌を通したリハビリテーションを行ったグループが改善率が高い。
そこで、これらの患者さんについて、様々な段階で MRI 検査を行い、脳内の神経結合と、神経細胞の数を反映する灰白質の体積の変化を調べている。
実際には各症状との相関を調べる研究になるが、詳細を飛ばして紹介すると、脳の後部と前頭葉を結ぶ神経回路、及び Frontal aslant tract と呼ばれる前頭葉内で言語に関わることが知られている回路の活性が高まっていることが明らかになった。
さらに、言語野(ブロードマン領域44)の神経細胞が存在する灰白質の大きさを調べると、歌を通したリハビリテーションを受けたグループは、明らかに体積が増加している。重要なのは、コントロール群でこの領域が持続的に減少していることで、言語野が使えなくなることで、他の領域まで神経数が変化することを示しており、歌を通したリハビリテーションによりこの体積減少を食い止めるだけでなく、新たな神経回路を開発できていることがわかる。
以上が結果で、症状の改善だけでなく、脳実質の変化とリハビリテーションを関連付けることができたことが大きい。リハビリテーションは、未来を信じて地道な努力を繰り返す作業だが、このように明確に脳回路の変化が認められるというこの研究は、おそらく多くの患者さんの励ましになること間違いないと思う。
2024年5月18日
現役を退いてから、すでに6回以上、道東に出かけている。タンチョウヅル、オオワシ、オジロワシを中心に、様々な鳥を見ることができるからだが、霧多布岬でラッコが見られるのも楽しみだ。何度も潜っては手で貝を食ている姿は見飽きない。
さて、道具の使用が人間の歴史を作ってきたと言っていいが、人間以外にも道具を使う動物は存在する。ラッコも道具を使う仲間で、石を使って貝殻を割る個体が多く観察されている。今日紹介するワシントン大学からの論文は、カリフォルニアのラッコ196匹に追跡のための電波発信機を装着し、道具使用の必要性について調べた研究で、5月17日号の Science に掲載された。タイトルは「Tool use increases mechanical foraging success and tooth health in southern sea otters (Enhydra lutris nereis)(カリフォルニアのラッコの道具使用は力の必要な食べ物にありつき歯の健康を守るために重要だ)」だ。
今日の論文には難しい方法論はないが、ラッコについて多くのことを学べるので、気楽に読んでほしい。道具の使用を促す条件を観察を通して仔細に調べた研究で、霧多布岬で眺めた経験から考えても、観察だけで食性や歯の状態まで調べることは並大抵ではないはずだ。
まず、同じ場所のラッコでも道具使用が全体に広がっているわけではない。ラッコの歯のエナメル質は特別に堅いものをかんでも傷つかないよう頑丈にできているが、かむ力が強く、エナメルも頑丈なオスはメスより道具を使う頻度が低い。
そして、メスは硬い食べもの、すなわちハマグリや巻き貝、あるいは同じ貝でも殻が頑丈な大きな貝を食べるときほど道具の使用率が増える。一方、オスの場合は食べ物の堅さと道具の使用率に明確な相関はない。
おそらく一番大変だったのが、歯と道具使用の関係を調べることだと思う。双眼鏡でのぞいて決められるものではないので、観察途中で死亡が確認され、死体が回収できた個体について調べ、生存中の道具使用と比較している。繰り返すが、大変な研究だ。そして、オスもメスも、道具使用が多いほど、エナメルの障害が少ないことを確認している。
では何が道具使用を促すのか。オスで道具使用が少ないことから、当然硬い食べ物を食べる必要からなのはわかる。よく調べていくと、基本的には食べ物をめぐる競争がその背景にあるようで、大きな栄養分の多い貝を食べるために道具使用が促進されることは間違いない。
ただ、個体数が多い場所では、大きな貝をゲットするチャンスは低下する。そこで、もっと採りやすいが小さくて硬い巻貝にシフトして競争を避け、潜る回数を増やしてエネルギーを供給する個体が生まれる。このような場合道具使用は食べる回数を増やすために必須で、この結果メスでは巻貝を専門で食べる個体が生まれる。
以上が主な結果で、ラッコも生きていくために新しいニッチを探して、食性を多様化させていることがわかる。一方、霧多布岬のラッコの個体数は数個体と言われているので、おそらく競争はあまりないようで、残念ながら道具を使っているのは見たことがない。
2024年5月17日
昨年、生命科学界トップニュースとして Nature,、Science ともに挙げた一つが GLP-1 薬で、肥満治療を可能にする新しいブロックバスターとして現在も利用が拡大している。創薬系シンクタンクによると、2022年 21,876mil (218億ドル)の売り上げが、2028年には840億ドルを超すと予想されており、恐るべき勢いであることがわかる。現在この市場を巡っては、ノボノルディスクと Lilly を中心に熾烈な競争が行われており、さらに新しいタイプの薬剤の開発が進んでいる。
今日紹介するコペンハーゲン大学とノボノルディスク研究所からの論文は、GLP-1 ペプチドにグルタミン酸受容体(NMDA)阻害剤を結合させ、GLP−1 に反応する視床下部神経だけで NMDA 阻害剤が働くようにすることで、現行の GLP-1 単独よりさらによい効果を得る可能性を追求した研究で、5月15日 Nature にオンライン掲載された。タイトルは「GLP-1-directed NMDA receptor antagonism for obesity treatment(GLP-1 反応精神系特異的に NMDA 受容体阻害による肥満治療)」だ。
視床下部での NMDA 阻害は食欲を低下させることがこれまで知られており、シナプスの可塑性を変化させ長期的効果が得られる抗肥満薬になるのではと考えられているが、他の神経細胞にも広く働くため、阻害剤単独投与では低体温症など様々な副作用が出る。
そこで、GLP-1 と NMDA 阻害剤 MK-801 を結合させ、GLP-1 に反応して食欲を低下させる神経だけでNMDA阻害を行うことで、食欲を落とす神経活動をより長期に高めることができるのではと着想したのがこの研究だ。GLP−1 が受容体と反応して細胞内に取り込まれると、MK-801 が細胞質内に遊離して受容体を内側から抑制する薬剤を開発した。
肥満マウスに投与すると、予想通り GLP-1 単独よりさらに高い体重減少効果を示す。食欲抑制に関しては GLP-1 と同じだが、エネルギー消費が高まり、インシュリン感受性がより高まることで、血糖だけでなく、コレステロールやトリグリセライドなど血中脂肪の低下も見ることができる。
MK-801 の不活性型を結合させた実験で、これらの効果が GLP-1 だけでなく、結合させた MK-801 が関与していることを確認し、現在利用されている様々な GLP-1 薬と比較している。中でも重要な結果は、一回だけ直接脳内に投与する事件により、GLP-1 単独と比べると効果が長続きし、長期的なシナプス可塑性の変化を誘導した結果だとしている。
実際刺激された細胞での遺伝子発現を比べてみると MK-801 を加えることで、シナプス形成に関わる遺伝子を中心に、GLP-1 単独委より多くの遺伝子が動いて、シナプス長期変化に関わることを示している。
以上のように、体重を落とした効果がそのままインシュリン感受性を高める効果へとつながり、脂肪代謝にも好影響を示す点で、明らかに現在の GLP-1 薬より優れており、また MK-801 単独投与で見られる様々な副作用もほぼ完全に抑えられていることを示している。ただ、よく見ていくと、体脂肪だけでなく、筋肉などのボディーマス低下が見られることから、今後治験に進むとしたら、筋肉等の維持を組み合わせるなど、体力を維持して肥満を抑えるという工夫が必要だと思う。
いずれにせよ、現代社会で肥満抑制への欲望が満たされるまで、これからも抗肥満薬開発競争は続く。
2024年5月16日
ヒトの胚発生で最初に起こる分化決定は、将来胎児へと発生する内部細胞塊(ICM)と胎盤へと発生する栄養外胚葉(TE)への分化だ。逆に言うと、そこまでは分裂中の細胞もほぼ同じ分化能を保っているといえる。ところが最近になって、ヒト細胞のゲノムを何回も繰り返して読むことで、成人後の細胞の由来をある程度調べることができる様になり、私たちの身体の細胞の由来に不均等性が存在することがわかってきた。
今日紹介するカリフォルニア工科大学からの論文は、ヒト初期胚を2細胞期から胞胚期までの発生過程を細胞レベルでトラッキングして、最初に分化決定が起こるのが8細胞期で一部の細胞に見られる不当分裂の結果である可能性を示した研究で、5月4日 Cell にオンライン掲載された。タイトルは「The first two blastomeres contribute unequally to the human embryo(最初の分裂で形成される2個の割球の胎児への分布は不均等に起こる)」だ。
責任著者の Magdalena Goez はヒト胚培養の第一人者で、手法は特に新しいわけではないが、その経験に基づくプロの仕事で、さすがと思う研究だ。TE と ICM への分化の分子生物学的メカニズムはよくわかっているが、この差がどう発生するのかはわかっていないことが多い。
そこで、まず最初の2個の割球が ICM と TE にどう分布するかを、片方の細胞をラベルして調べている。もしカエルのように早い段階で決定されるとすると、例えば ICM の全てはラベルされるか、あるいはラベルされないことになる。
実際には ICM も TE も両方の割球から由来することがわかるので、早い段階で運命が決定されるわけではない。ただ、ICM でのラベル細胞の割合を見ると、決して 1:1で分布するのではなく、どちらかの割球に由来する細胞が 75% を中心に分布している。ところが、TE ではほぼ 50% を中心に分布している。すなわち、ICM への分化だけが不均一に起こっていることがわかる。さらに、ICM とそれに接する TE とは由来が共通であることも発見する。
この単純な結果が研究の全てで、簡単そうに見えるが、ヒト胚を用いる数の制限を考えるとよくここまでできたと感心する。そしてこの結果から、続く卵割の早い時期に一部の細胞だけが TE と ICM へと不当分裂をする結果、ICM だけでラベルが不均等に分布すると予測した。
後は、細胞分裂の停止や、ゲノムの不安定性などの要因により分布に偏りが生じる可能性を排除した上で、ラベルした細胞をビデオで追いかける実験を繰り返し、8細胞期に胚の中心部へと落ち込む過程が鍵で、中心に位置した細胞でだけ ICM への分化が決定されること、そしてこの過程がランダムだが一部の細胞だけで起こるため、中心に落ち込んだ細胞の数を反映して、ICM への分布比率が変わることを明らかにしている。例えば一個の細胞だけが不当分裂ができた場合は、ICM の100% はどちらかの割球由来になる。
ただ、このようなラベル実験は正常を反映できない可能性があるので、最後に embryoscope と呼ばれる機械で、母胎に戻して発生能が確かめられた胚を記録した画像を解析し、8細胞期で起こる分裂時の不当分布が ICM を決めること、そして最初の卵割後、早く分裂を始めた割球ほど8細胞期での不当分裂、そしてそれに続くICM への分化確率が高まることを明らかにしている。
以上が結果で、後はこの現象論を、分子レベルのモニター可能な方法と組み合わせることで、最初の運命決定の分子メカニズムへとつなげることになる。Single cell レベルのエピゲノム解析手法もあるので、次の論文は割と早く出てきそうな気がする。