2016年6月19日
シリア・イラクでのイスラム国は往時の勢いにも陰りが見えてきたが、パリ、ブリュッセルと立て続けにテロ攻撃を繰り返し、存在感を示している。イスラム国の特徴の一つが、SNSや動画投稿サイトを戦闘員のリクルートやプロパガンダに最大限に利用していることで、2013年発足の組織の急速な成長の要因の一つとなっている。しかしSNSを多用することは活動や支持者の情報を公にすることで、SNS全体の中からイスラム国関連の情報の流れを抽出してイスラム国活動を分析できる可能性がある。
この可能性に気づいてSNSの分析を行っているのは当局だけではない。驚くべきことにネットからイスラム国やテロ集団の活動を分析する論文は数多く発表されている。これによると、階層性がしっかりしたテロ組織や、逆に一匹狼の活動をネットから把握することは難しいという結論になっていた。
今日紹介するマイアミ大学からの論文は、ネット本来の自由なつながりが維持されている間に、自然発生的に結合が急成長し、それが現実の活動へとエスカレートする過程が、イスラム国の行動を知る手がかりになる可能性を調べた研究で6月17日号のScienceに掲載された。タイトルは「New online ecology of adversaryial aggregates: ISIS and beyond (敵対的集団の新しいオンライン上の生態学:イスラム国、そしてその先に)」だ。
この研究では2014年以降、ロシアの会社が提供しているVKontakteのコミュニケーション全記録にアクセスして、イスラム国を支持する書き込みと、それにつながる個人を追跡している。私たちになじみのフェースブックは、イスラム国支持の書き込みが即座に遮断されるため使っていない。逆に、ロシアのVKontakteでは運営者による遮断は行われないようだ。また、このサイトは戦闘員を多く供給するチェチェン出身の利用者が多く、イスラム国がプロパガンダに最も利用しているサイトらしい。
この膨大な記録の中から、イスラム国支持の書き込みを様々な言語について検索し、書き込みを行ったユーザー同士のつながりを再構築して、個人の書き込みが増幅しあって大きな集団になり、実際の行動へ発展する過程を分析している。
例えば2015年1月から8月までに、196の集団が存在し、その集団をフォローしている約10万人の個人を特定できる。この集団の数は刻々変化し、またフォロアーも刻々変化する。図に示されているが、半年ほど続く集団もあれば、1ヶ月も続かない集団もある。
この変化は自然発生的で、決して階層的な組織構成をとるわけではない。しかし重要なのは、自然発生的変化が実際の出来事につながっていく点だ。この例として、2014年イスラム国がトルコ国境のクルド族の村Kobaneを急襲した事件を分析しているが、襲撃の半年前から急速にネット上の支持集団の数が増え、事件をピークに再び沈静化する様子が観察できる。
さらに書き込みを分析すると、襲撃ルートなどの作戦の詳細まで記載されていることがわかり、秘密裏に階層的な組織により現実の襲撃が行われるのではなく、かなり自然発生的に戦闘員が組織化されるのがわかる。
比較のために、ブラジルで2013年に自然発生した反政府デモについても分析すると、やはり半年前からネット上の集団が増加を始め、事件前に急速に増加するのが見て取れる。
これらのデータに基づき、この論文ではネット上で支持集団が形成され、現実のデモや作戦へと昇華する数理モデルを作成し、これを防ぐための手立てまで示唆している。
読んですぐは、ネット上のビッグデータの分析はすごいと感心してしまうが、よく考えると、この数理モデルが予測できるのは、バーチャルなネット上の活動が、多くの人間が参加する行動へと移行する過程で、おそらくパリのバタクラン劇場襲撃やブリュッセル空港爆破テロの分析には利用できないことに気づく。
とすると、この数理モデルが一番役に立つのは、自然発生的な一般市民の抗議行動を抑えたいと思う当局ということになる。中国ではネットでの情報を当局が調節して、自然発生的デモの勃発をコントロールしていると聞くが、同じような分析とモデリングが行われているのではと懸念する。そして、我が国を始め民主主義国ですら、為政者はこのような技術を使いたいという誘惑を感じるはずだ。
イスラム国と聞くとテロ防止の決め手と納得してしまうが、ネットは知らず知らずのうちに、私たちをビッグブラザーによる支配へ導いているのかもしれない。考えさせる論文だった。
2016年6月18日
今日紹介するハーバード大学からの論文は現役で研究している生命科学の専門家にとってもなかなか馴染めない話ではないかと思う。当然、私自身の理解も現役時代からスッキリしない。というより、スッキリしたと思っていても、新しい論文が出るとまた理解が曖昧になる。そんな今も概念形成途上にある分野がBivalentヒストン修飾だろう。
遺伝子発現のエピジェネティック調節を担う2大柱は、DNA自体のメチル化と、DNAが巻きついているヒストンのメチル化、アセチル化による修飾だ。私が現役の頃ゲノム全体に渡ってこの修飾状態を調べる方法が開発され、特にES細胞を用いて研究が進んだ。
最初のころの単純な理解は、PRC2によりヒストン3の27番目リジン(H3K27)がメチル化されると遺伝子の発現はオフ、COMPAS複合体がH3K4をメチル化するとオンでよかった。ところが、この両方がメチル化されている遺伝子プロモーターがES細胞で多く見つかることが報告され、頭は混乱し始める。
まあES細胞のように様々な方向へ分化する必要があるとき、多くのオンにしたい遺伝子をとりあえずオフに止めておく場合の調節として私も理解してきたが、ES細胞を2iと呼ばれる無血清培地で飼うとbivalentプロモーターのほとんどのH3K27メチル化が消失するという論文が出ると、またbivalencyについての理解が混乱してしまう。
Bivalencyとは何か。この論文では、ES細胞ではなく、実際の組織から分離してきた細胞のbivalent修飾を調べ、またH3K27メチル化を行うPRC2コンプレックスの機能を組織特異的にノックアウトしてbivalent修飾の変化と遺伝子発現を調べ、この機能に迫ろうとしている。タイトルは「Acquired tissue-specific promoter bivalency is a basis for PRC2 necessity in adult cells(分化課程で新たに獲得されるプロモーターのbivalencyは大人の細胞でPRC2が必要になる基盤)」で、6月2日号のCellに掲載された。
この研究ではChip-seqと呼ばれる方法を用いて、主に腸管の幹細胞と分化した絨毛上皮細胞のbivalentプロモーターを網羅的に解析し、それぞれの組織でbivalentプロモーターの分布は異なっており、半分以上のbivalentプロモーターは重複しないことを示している。
さらに、未分化なES細胞や、腸管上皮細胞の分化課程での比較から、H3K27メチル化は分化の課程で新たに獲得され、これにより遺伝子発現が抑えられることを明らかにした。
次に、H3K27のメチル化に必須のPRC2の成分Eed遺伝子が幹細胞から増殖期細胞へ分化したときにノックアウトされるマウスを用いて、PRC2の機能がなくなると細胞の増殖が低下、また細胞分化の遅れが出ることを示している。すなわち、分化課程でH3K27メチル化が必要であることを示している。
最後に、PRC2ノックアウトでどの遺伝子の発現が影響を受けるか調べ、多くの遺伝子でH3K27のメチル化が外れただけでは遺伝子の発現は誘導されないが、H3K4がメチル化されたプロモーターだけでポリメラーゼがプロモーターに結合し、遺伝子発現が上昇することを示している。
以上の結果をもとに、再度頭を整理すると、bivalencyは分化過程でこれまで発現していた遺伝子にポリメラーゼが結合するのを防いで遺伝子発現を迅速に低下させた状態を見ていることになる。もちろんデータを仔細に見ると、この話に合わない遺伝子も結構存在しているようで、これらがどう調節されているのかがわかると、また異なる整理が必要になるかもしれない。
若い人たちと話していると、このような複雑な話は避けて通っている気がする。しかし、自分の研究に幅を持たす意味でも、整理が難しい研究分野をしっかりフォローしていってほしいと思う。
2016年6月17日
科学ニュースと科学論文を掲載しているアメリカ科学振興協会の雑誌サイエンスは、20世紀が解決できなかった地球規模の様々な問題への挑戦を強く後押ししている印象がある。例えばこのホームページでも紹介したが、1昨年5月23日号では格差問題を特集し、「21世紀の資本論」で有名なPikettyと、昨年ノーベル経済学賞を受けたDeatonに貧困問題解決の総説を依頼している。例えば消費を抑え、富を分配するといったイデオロギーを人間が共有できない限り、格差問題といった社会・経済学的問題でも、サイエンスしか頼るところがないという強い意志の表れだろう。
今日紹介する英国、米国、フランス、アイスランド、オーストラリア、デンマークからの共同論文もこの典型で、格差と並ぶ21世紀の課題、「炭酸ガス排出問題の解決法」に挑戦した研究だ。タイトルは「Rapid carbon mineralization for permanent disposal of anthropogenic carbon dioxide emission (人類が排出する炭酸ガスは迅速な鉱物化により永久に処理できる)」で、6月10日号のScienceに掲載された。
もちろん私にとって全く分野外の研究だが、理解しやすい論文だった。研究の目的は、炭酸ガスを地中で炭酸カルシウムとして沈殿させ、大気中への排出を減らす可能性を検証することだ。
研究では、アイスランドの地下400−800mに存在する玄武岩質の溶岩地層に排出炭酸ガスを溶かした水をゆっくり注入、地下水として周りへ拡散させ、500mほど離れた検出用の井戸で注入した炭酸ガスや水をモニターして、溶かした炭酸ガスの運命を調べている。
注入した炭酸ガスに炭素14同位元素からなる炭酸ガスを混入し、自然の炭酸ガスと、注入した炭酸ガスを区別している。また、炭酸ガスを溶かせた水は混入させた6フッ化硫黄でモニターしている。
詳細は省くが、結果は期待をはるかに超える結果で、注入した水は50日ぐらいをかけて検出井戸に到達するが、最初からほとんど気体状の炭酸ガスは残っておらず、無機物として沈殿したという結果だ。すなわち、玄武岩質からとけ出すカルシウム、マグネシウム、鉄の作用が、アルカリ性の地下水と助け合って炭酸ガスと反応し、重炭酸イオンを経て、最終的に炭酸カルシウム結晶に転換するという結果だ。
研究を始めた時、これほど早い速度でほとんどの炭酸ガスが鉱物化するとは予想していなかったようだ。途中でサンプリングポンプが炭酸カルシウムで詰まるという問題はあったようだが、研究としては大成功だと言える。
我が国は火山国で、玄武岩質の地層を探すのは簡単なことだ。だとすると、この結果は炭酸ガス排出を抑える切り札になるように思える。
とはい、話は簡単でないだろう。このパイロットプラントでは全部で約250トンの炭酸ガスが処理されている。一方、我が国が排出する炭酸ガスは14億トンで、全部処理するとなると500万倍の規模が必要だ。
他にも大量の水の問題、地下水流への介入、炭酸ガスの回収、輸送などまだまだ多くの問題がある。
しかし、この研究は地球自身が私たちの予想を超える炭酸ガス処理能力を持つことを示してくれた。この力を活用する可能性がどこまで実現できるのか、期待してみていきたい。
2016年6月16日
2014年のノーベル賞が授与されたオキーフ及びモザー夫妻が発見した脳内空間認知システムを担う細胞は、ネズミが特定の迷路を移動する際、ネズミの位置と、海馬の多くの細胞の興奮を脳内埋め込み型電極を使って個別に記録することで特定される。
もちろん同じ実験をヒトで行うことは原理的には不可能ではない。また、複数の場所の神経細胞興奮を記録するために埋め込み電極を使うことは、てんかん発作の起源を見つける目的で行われることもある。しかし、海馬だけに電極を留置するといった実験は、倫理的に許されない。このため、モザー夫妻が発見した脳内GPS細胞の存在をヒトで確かめることは難しかった。
今日紹介するスタンフォード大学からの論文はMRIを用いて脳内のGPS細胞の特定に挑戦した研究で6月10日号のScienceに掲載された。タイトルは「Prospective representation of navigational goals in the human hippocampus (ヒト海馬で移動の際のゴールを前もって予想する時に起こる活動)」だ。
この研究では脳の記録をMRIで行っているが、問題はMRI検査では実際に被験者が動くことができないこと、また埋め込み電極と比べると、MRIで細胞の興奮を記録するときの空間・時間的分解能が足りないことだ。
最初の問題は、決められた環状のコースを移り変わる景色を見ながら歩いた気になるバーチャルリアリティーを用いて解決している。実際には、コースに5箇所のゴールが設定されており、1日目に様々な場所からスタートしてゴールに向かうトライアルを行い、ゴールを記憶する(ゴールに到達すると印が出るようになっている)。次の日MRI測定を行いながら、スタート地点と行くべきゴールを示され、その道順を考えている時、当然コースにある5つのゴールの場所を思い浮かべながら、指示されたゴールへの道順を決める。その時ネズミと同じなら道順に合わせて当然異なるGPS細胞が興奮するはずだ。
ただMRIで測定しているのは神経細胞興奮ではなく、それを反映すると考えられる血液の動きなのでどこまでこれが可能かが2番目の問題だ。残念ながら私には分解能の良い3テスラーMRIを使っていること、また特定の脳領域に焦点を絞って測定結果の多変数解析を行っている以外、最終的にどうデータを処理したかは理解できていない。結局、示される結果を信じるだけだ。棒グラフで示された結果を見ると、神経細胞興奮を直接測る方法と比べると、場所による差も小さく、分解度は悪いが、確かに道順の選択や途中で通る地点に対応する特定の海馬の反応パターンを引き出すことに成功しているのは理解できる。さらに脳内の結合を調べる方法で、またこの海馬の場所細胞興奮が大脳皮質とのネットワークで支えられていることも示されている。なんとか、人間もネズミと同じかなと思うことができた。
モデル動物は人間の代わりとして利用されることが普通だが、モデル動物で得られた結果を人間で確認することがこれほど大変かがよくわかるとともに、それでも様々な困難を乗り越え人間との比較を進める研究者の執念を感じることができた論文だった。
2016年6月15日
今日は発作性心房細動でアブレーション療法を勧められた知り合いと話していた時、私が思い出して詳しく読んでおくと約束した、ヨーロッパからの治験論文を紹介することにした。
発作性心房細動は本来心臓を刺激する洞結節以外の場所、特に左心房に直結する肺静脈の細胞が電気刺激を始めることにより誘発される。この刺激だけでは心房の拍動が上昇するだけだが、刺激伝達系も老化により変化すると、刺激がぐるぐる旋回して細動が起こってしまう。
これを根本的に治療するため開発されたのがアブレーションで、刺激発生部位を焼ききったり、あるいは肺静脈と心房の境をリング状に焼ききって刺激伝達を切り離したりする方法が用いられる。現在この切り離しに、高周波で焼き切る方法と、逆に凍結により死滅させる方法の2種類あるが、この研究はどちらの方法が安全で効果が高いのか比べた多施設共同治験で、まさに知り合いから相談された内容に近い。
タイトルは「Cryoballoon or radiofrequency ablation for paroxysmal atrial fibrillation (発作性心房細動のアブレーションには凍結バルーンか高周波かどちらがいいのか?)」で、The New England Journal of Medicine 6月9日号に掲載された。
この治験はドイツ、英国、スペイン、イタリア4カ国の病院で、2012年から2015年までにアブレーション治療が必要になった762例の患者さんを、冷凍バルーン法と、高周波法に無作為に割り振り、入院時点で許可されていた最も進んだアブレーション機器を用いて治療、90日を経過してから再発があるかどうか1年間経過観察を行い治療効果を評価している。
同じような研究はこれまでも繰り返されており、概ね同等か、あるいは凍結バルーン法が安全で効果が高いという結果が出ていたようだ。しかし一方、横隔膜神経を傷つける副作用も指摘されている。この結果だと、患者さんもどちらがいいか判断しづらいだろう。
今回の研究から、1)多施設で行われていても、両者で治療効果に差がないこと、2)どちらの方法も、新しい世代のカテーテルはより治療効果が高まっていることが明らかになり、結局どちらでもいいという結果だ。副作用でいうと、カテーテルを挿入する部位の出血などの頻度は凍結バルーン法が2倍異常高く、他の副作用も、有意差はないが少しバルーン法が高めと言える。一方、手術時間や心房にカテーテルが止まる時間は10−20分高周波法が長い。知り合いが気にしていた放射線照射時間は逆に5分ほどバルーン法が長いという結果だ。
私も素人であることを断った上で、自分の身になればどちらを選ぶかといえば、まずその施設で最も経験の多い方法を選び、できれば最も新しい世代のカテーテルを使ってもらうだろう。一方、照射時間などは私の年齢になるとほとんど考える意味はないだろう。いずれにせよ、この治療法を開発した人には脱帽だ。
2016年6月14日
多発性硬化症(MS)は、引き金になる原因は不明だが、自己反応性のリンパ球により神経軸索を囲む髄鞘が攻撃され、ミエリンが剥がれていく病気で、神経伝達の伝達障害に起因する様々な症状がでる。現在は免疫抑制剤、抗炎症剤などリンパ球を標的にした治療が行われ、また活発に新薬が開発されている疾患だが、完治の決め手は残念ながらない。このため、患者の免疫システム全体を移植によりリセットできないかという試みが、特に治療抵抗性で進行性のMSに対して行われてきた。
今日紹介するカナダオタワ病院からの論文は自己幹細胞移植によりなんと7割の患者で病気の進行が止まったことについての報告でThe Lancetオンライン版に6月9日掲載された。タイトルは「Immunoablation and autologous haemopoietic stem cell transplantation for aggressive multiple scleraosis: a multicentre single-group phase 2 trial (進行性の多発性硬化症に対する免疫除去と自己幹細胞移植治療:他施設単一群第2相治験)」だ。
実は同じような試みは繰り返し行われてきた。著者らはこれまでの方法の効果が一時的で終わったのは、病気の原因となっている免疫系を完全に叩けていないと考え、徹底的な免疫細胞除去プロトコルを採用している。すなわち、ブスルファンを6時間ごと16回、サイクロフォスファマイドを4日間、それに加えてウサギを免疫して作成した抗ヒト胸腺抗体を投与して免疫系を徹底的に叩いた後、前もって凍結していた患者さんの血液幹細胞を投与するプロトコルを採用している。
ブスルファン、サイクロフォスファマイドは抗がん剤で当然強い副作用が出ることから、患者さんの選択は厳しい基準で行い、これまでの治療に抵抗し、万策尽きたケースを選んでいる。最終的に治療にこぎつけたのは24人で、そのうち21人が3年間の治験を終え、また13人はその後の経過をフォローしている。
もちろん、幹細胞調整時や、徹底的な免疫抑制による強い副作用が出るものの、全員末梢血から調整した自己幹細胞移植により免疫系は回復している。
この徹底した治療は、予想を上回る結果につながっている。実に70%の患者さんで3年間MSの症状が再発することなく経過している。また、MRI検査でもMSによる障害像が全く消失しており、ミエリンの修復が進んでいることがわかった。
一部の患者さんでは、運動失調、眼振の消失が見られ、16人の患者さんは職場や学校に復帰し、なんと5人は結婚に至ったと誇らしげに報告している。他にも様々な検査をもとに、この治療法は進行性のMS患者さんの最後の治療法になりうると結論している。
7割の方が3年間全く再発なしに生活を送るというのは確かに画期的だ。最後に苦しい治療ではあっても治る方法があることを知れば、患者さんたちも安心して今の治療を続けられる。是非より大規模な治験が行われることを望む。もちろん治験としては単一群で問題があるとする向きもあると思うが、これまでのMS治療について積み上がった経験があれば、私はこの治験はずっと単一群でいいような気がする。
2016年6月13日
最近急速に進む腸内細菌叢の研究から、細菌叢はその中に存在する一部の菌の合成する単鎖脂肪酸を介して私たちの体の細胞に多様な影響を及ぼすことがわかってきた。例えば9月6日号のNatureにはエール大学のグループが、細菌叢が合成する酢酸塩が副交感神経細胞刺激を介してインシュリン分泌など体の代謝を肥満の方向へ変化させるという研究が発表されていた(Perry et al, Nature 534:213, 2016)。一般的に細菌叢の合成する単鎖脂肪酸は体に良い働きをすると思われているが、酢酸塩合成細菌も実際食べ物が少ない時代には、しっかりと栄養を身につけるための重要な刺激として私たちと共進化してきたのだろう。しかし、同じ機能は飽食の時代には肥満の原因になる。
酪酸も細菌叢が合成する単鎖脂肪酸で抑制性T細胞の分化を促してアレルギーや炎症を抑える効果が注目されている。今日紹介するワシントン大学からの論文は、同じ酪酸が腸管の幹細胞の増殖を抑制し、高濃度では細胞死を誘導することを示し、そのメカニズムを明らかにした研究で6月16日号のCellに掲載された。タイトルは「The colonic crypt protects stem cells from microbiota derived metabolites (大腸のクリプトは細菌叢由来の代謝物から幹細胞を守る)」だ。
この研究は最初から細菌叢が分泌する探査脂肪酸の大腸の幹細胞への影響に絞って実験を行っている。まず試験管内で幹細胞から形成させたオルガノイドに様々な単鎖脂肪酸を作用させ、酪酸のみ幹細胞の増殖を阻害することを明らかにした。ただ、これは試験管内での話で、マウスに酪酸を投与しても、幹細胞に強い影響は見られない。したがって、体の中では幹細胞は細菌叢の合成する酪酸から守られている。著者らは、大腸のクリプトと呼ばれる大腸組織の奥深くに入り込んだ上皮構造が、クリプトの底辺にある幹細胞を守っているのではと考え、クリプトの存在しないゼブラフィッシュに酪酸を投与する実験、あるいは組織を障害して幹細胞が露出するような実験系を用いて、クリプトが幹細胞を酪酸の作用から守っていることを明らかにしている。
次にクリプトによる酪酸解毒作用のメカニズムを調べ、アシルCoAデヒドロゲナーゼがクリプト細胞内で酪酸を分解し、エネルギーとして使ってしまうことを示した。
最後に、酪酸が幹細胞の増殖を抑制するメカニズムを調べ、Foxo3転写因子の標的遺伝子への結合を直接的に高めることが細胞増殖の抑制のメカニズムであることを示している。Foxo3は幹細胞を静止期に止める分子であることから、納得できる結果だ。
以上、酪酸は直接Foxo3に働いてFoxo3のDNA 結合活性を高めて、幹細胞の増殖を抑えるが、この作用はクリプトの上皮細胞が酪酸を代赭分解することで、防がれているという結果だ。
しかし、解毒できるにしても幹細胞の増殖という重要な機能を抑制する酪酸を合成する細菌叢がどうして維持されるのか不思議だ。これに対し、著者らは組織障害時に幹細胞が完全に消失するのを防ぐため、酪酸が増殖を抑え組織を守るとする考えを提案している。このような複雑な関係の成立は、今後腸内細菌叢と私たちの体が共に作用しあって進化する共進化過程の重要な課題になることを示唆している。
2016年6月12日
以前述べたが、京都大学に移ってから雇った最初の秘書が神経性食思不全だった。秘書をしてもらいながらなんとか立ち直ってもらいたいなどと、甘い考えで雇うことにしたが、励ましたり、暖かく接することで治るような簡単な病気ではなく、結局体重の低下が止まらず、仕事を続けることができなかった。その時から、この病気の患者さんの食事に対する思考回路には興味がある。
今日紹介するパリ聖アン病院からの論文はこの病気の患者さんが痩せることについてどう考えるのかを調べた研究でTranslational Psychiatryに掲載予定だ。タイトルは「Higher reward value of starvation imagery in anorexia nervosa and association with Val66Met BDNF polymorphism(神経性食思不全症で見られる飢餓状態に高い価値を求める気持ちとBDNF Val66Met多型との連関)」だ。
どのように体型に対する思考回路を調べるのかと最も興味のあるところだ。この研究では71人の神経性食思不全(AN)の患者さんに、BMI12-16の瘦せ型から26-36の肥満の女性の裸の写真を見せて、自分がその状態にあるとしたらどう思うかを4段階に評価させるとともに、皮膚の電導性を測定している。素人にも納得できる課題だ。結果だが、AN患者さんは正常人と比べると瘦せ型に対する評価が高く、肥満型に対する嫌悪感を示す。実際平均評価でいうと、瘦せ型に対する評価がANで2.7、肥満に対する評価が1.9と瘦せ型の方が評価が高いが、正常人では逆に1,6と2.6と逆転している。予想通り、太るより痩せる方に好感を持っている。また、同じ写真に対する反応を皮膚の電導性で調べると(いわゆる嘘発見器)、やはり反応が正常人の反対で、ANでは見せられた写真の体重に反比例して高い電導性を示すが、正常人は正比例している。また、ANの方では、電導性の絶対値が高い。
この結果は、AN患者さんの客観的評価方の一つとして、皮膚電導性を使える可能性を示唆している。そこで最後に、ANと相関するとされてきたSNPの一つBDNF遺伝子の多型と皮膚電導性の相関を調べて、この多型は正常人での皮膚電導性反応と全く相関しないが、AN患者さんではMet型の場合電導性が明確に高いことを明らかにしている。
少しわかりにくいかもしれないが、これらの結果から、瘦せ型に対する好感度を持つAN状態を背景に、この遺伝子多型が身体反応を高め、症状を促進する因子として働いているという結果だ。
特に新しい方法を使っているわけではないが、地道に患者さんの評価法を開発しようとする意図がはっきり見えた論文で、ANを理解しようと苦労している様が伝わってくる。
2016年6月11日
妊娠中に何を食べていいのか、何を避けるべきなのかはお母さんたちにとって最も重大な関心事だが、通常の生活で実際何を口にしているのか全て把握するのは難しい。何れにしても、これまでの研究で害を及ぼすことが明らかな嗜好品などは絶対に避けることが必要だ。中でも、アルコールとタバコについては、これまでも胎児発生への影響が詳しく研究されている。
これまでタバコはニコチンを介して直接胎児神経細胞に急性の影響を及ぼし、発生異常を引き起こすと考えられてきた。今日紹介するエール大学からの論文は、ニコチンの害はこれだけにとどまらず、ニコチン刺激自体が染色体の構造を変化させて脳の遺伝子発現を長期にわたって変化させることを明らかにした研究でNature Neuroscienceに掲載予定だ。タイトルは「A epigenetic mechanism mediates developmental nicotine effects on neural structure and behavior(ニコチンはエピジェネティックな機構を通して脳の構造や行動に影響する)」だ。
この研究は、ニコチン摂取させた妊娠マウスから生まれた胎児に明確な脳解剖学的異常と行動異常が見られるという従来の結果が発端になっている。細胞学的に調べると、神経軸索のスパインと呼ばれる神経伝達構造が減少している。これらの異常は、従来ニコチンの急性毒性によると考えられていたが、この研究ではニコチン刺激が、エピジェネティックメカニズムを介して生後の神経細胞の遺伝子発現を変化させているのではないかと疑った。そこで妊娠時にニコチン摂取させた母親から生まれたマウスについて生後21、90日目で脳を採取、発言が変化している遺伝子を探索している。この実験により18種類の大きく発現が変化する遺伝子が見つかっている。この中で最も発現が高まっていたのが、ヒストンメチル化に関わるAsh2lで、ついに急性反応と慢性反応をつなぐ糸口が見つかった。
次にニコチンシグナルが直接Ash2l遺伝子を誘導し、その後様々な遺伝子の長期的発言異常を誘導できるか培養神経細胞を用いて検討し、ニコチン刺激で、Ash2lと神経発生のマスター遺伝子Mecf2がまず誘導され、Mecf2により様々な神経発生に関わる遺伝子が活性化されたところに、Ash2lの作用でこれら遺伝子のプロモーターがon型にヒストン修飾され、長期の脳機能の異常が維持されるというシナリオを導き出している。
エピジェネティックス機構の研究としては、わりと平凡な研究だが、Ash2lなどヒストンメチル化酵素がニコチン刺激で誘導されるという結果は重要だと思う。もしニコチンで誘導できるなら、他の神経刺激でも誘導できるはずだ。一方、神経刺激も記憶など長期の効果を持つとすれば、当然生後もこのようなメカニズムを使って遺伝子発現を制御していていいように思える。今後注目したいと思う。
2016年6月10日
生命科学の学生なら誰でも知っているが、アミノ酸と対応する塩基配列をコドンと呼んでいる。このコドンがどうして決まったかは、生命誕生を考える上で最も面白い問題で、幾つかの可能性は生命誌研究館のウェッブサイトに連載している「進化研究を覗く」(グーグルでこのままインプットしてもらうとトップにくるはずだ)にも書いている。ただコドンとアミノ酸は1:1の関係にあるのではなく、一つのアミノ酸に2−4種類のコドンが存在している。例えば今日話題になるグルタミン酸ではGAA,GAGの2種類のコドンが対応する。したがって、一つのアミノ酸に2種類以上のtRNAが使われ、翻訳時には何十種類ものtRNAが使われる。翻訳過程を考えるとき、通常それぞれのtRNAの量のバランスについて考えることはない。必要十分量存在していると勝手に想像している。また、気になったとしても、それぞれのtRNAの量を測るのは簡単でないため、実際バランスがどうなっているかあまり調べられたことはなかった。
今日紹介するロックフェラー大学からの論文は、各tRNAの発現量のバランスを正確に測ることで、このバランスの歪みがガンの悪性化につながることを示した論文で6月2日号のCellに掲載された。タイトルは「Modulated expression of specific tRNAs derives gene expression and cancer progression (特定のtRNAの発現変化は遺伝子発現とガンの進展を促進する)」だ。
この研究のハイライトは、tRNAの発現量を測る方法を開発したことだ。一般の方には耳慣れないことだろうが、tRNAには様々な修飾が加えられており、またヘアピン構造など複雑な2次構造を持っているため、逆転写酵素でcDNAを作ることは簡単ではなかった。この研究では、2本の長いDNAをtRNAとペアリングさせた後、残った切れ目をリガーゼで結合させることで、逆転写酵素を使わずアンチセンスcDNA鎖を合成するという凝った方法を開発し、各tRNAの発現を測定できるようにしている。この方法の開発がこの論文のほぼ全てと言っていい。
後はこの方法を用いて、様々な乳がん細胞を調べ、ガンではtRNA発現のバランスが大きく歪んでいることを発見する。なかでも、UUC-tRNA(グルタミン酸)、CCG-tRNA(アルギニン)のアンチコドンを持つtRNAの発現がガンだけで上昇していることが明らかになった。実際のガンで調べても同じ傾向がみられる。そこで、これらのtRNAの発現を上げたり下げたりしてガンの悪性度を調べると、これらのtRNAが上昇するとガンの悪性度が上昇することがわかった。
この結果は、mRNAがGAAのコドンを多く使ってグルタミン酸をコードしている場合に、タンパク質の翻訳量が上昇することが予想できる。すなわち、発現が上昇したtRNAに対応するコドンを多く持ったmRNAの翻訳が上昇することで、一部のタンパク質の発現が上昇する可能性を示唆する。そこで、これらtRNA上昇と並行して上昇するタンパク質を探索、EXOSC2,GRIPAP1分子の発現が特に強く上昇していることを見出している。最後に、それぞれの分子とガンの悪性化との関わりを調べ、EXOS2,GRIPAP1分子の発現をノックダウンすると悪性度が減少することを示している。
他にも、実際にこのタンパク質発現の変化がコドンの分布の違いであることなどを証明するために詳細な実験が行われているが、紹介は省いていいだろう。
残念ながら、なぜtRNAの発現が歪むのかについては不明のままだが、意外な可能性を学ぶことができた、面白い論文だった。