引退後も講義を通して若い学生さんに呼びかける機会を与えていただいている幾つかの大学には本当に感謝している。21世紀の世界は彼らにかかっており、彼らがはっきりとアジェンダを見つけるよう励ましている。医学部学生さんの場合は、ゲノム、IT、コホート、そしてコレクティブインテリジェンスが21世紀の医学を構想する鍵になることを説明した後、この4分野を統合した、患者さんが中心になる医療システムへの転換の重要性について講義をしている。特に、血液サンプルが定期的に採取され保存されているコホート研究が、ゲノム研究と統合されると、思いもかけないことがわかることがある。その一つの例が、昨年5月、Y染色体が失われた血液が多くなると、ガンや他の病気での死亡率が上昇することを報告したスウェーデンからの論文だ(Nature Genetics, 46:624)。今日紹介するのも同じスウェーデンのグループからの論文で、今度はタバコとY染色体喪失との関係を調べた論文でScienceの新年号に掲載されている。タイトルは「Smokingis associated with mosaic loss of chromosome Y(喫煙はY染色体が欠損した細胞がモザイク状に血液に維持される原因になる)」だ。以前紹介した研究はウプサラでの長期コホートを使っているが、今回はさらに対象人数を増やすため、TwinGene, 及びウプサラ高齢者血管研究コホートも合わせることで、総勢6000人近くの血液サンプルを調べている。まず採血時点で喫煙を続けていると、Y染色体喪失の血液の頻度が上昇している。3コホート別々に喫煙についてもう少し詳しく見てみると、採血時に喫煙していた場合にのみY染色体喪失が検出され、パーティーなどでたまに吸う人や、前は吸っていたがタバコをやめた場合には異常は見られない。また現在吸っているタバコの本数が多いほど、Y染色体喪失細胞の比率が高い。示された結果はこれだけだが、タバコの影響についてこれまでとは異なる側面を教えてくれる面白い研究だ。まず、タバコは肺だけでなく、血液に直接働きかけて染色体異常を起こすようだ。タバコをやめると元に戻るようなので、寿命がそれほど長くない前駆細胞に働いて異常を誘導している可能性が高い。ただ、タバコでこれほどの影響があると、昨年紹介した論文で見られたY染色体喪失と死亡率との相関はただのタバコの影響かもしれないと心配になる。この論文ではあくまでも、タバコがY染色体喪失を誘導し、この結果おこるガンに対する免疫反応の低下の結果、ガンや他の病気のリスクが上昇するシナリオを主張している。それを示すために、Y染色体喪失が最初に診断された後、20年にわたって生存している91歳の高齢者3人を選んで91歳時点で新鮮血を採血、T細胞、B細胞、顆粒球に分離して、それぞれのY染色体喪失頻度を調べ、異常の頻度は決して一様でなく、顆粒球で異常細胞頻度が高いことを示している。すなわち、障害はランダムに起こっているのではなく、おそらく抵抗力低下につながる特定の異常細胞が選択され増えてくるという仮説にこだわっている。しかし、この結果からだけでは著者らの仮説が証明されたとは言えないと思う。いずれにせよ、30年以上もサンプルが蓄積されたコホート研究がゲノム研究と協力することで発揮するパワーをよく理解することができる。講義にも積極的に使いたいと思っている。
1月3日:タバコによるY染色体喪失(1月2日発行Science誌掲載論文)
1月2日:男はなぜ争いを好むのか?(アメリカアカデミー紀要オンライン版掲載論文)
年末年始ということで「始まり」に関する、少し毛色の変わった論文を探していると、なぜかアメリカアカデミー紀要が続いてしまった。実際分野を限定しないアメリカアカデミー紀要やプロスワンには、毛色の変わった論文が多い。年末年始だけですでに、酒好きの起源、核酸塩基の起源、そして今日紹介する争いを好む心の起源についての論文を見つけることができることから、本当に多様な研究が行われていることがよくわかる。
さて私自身は「悲しき熱帯」以外読んだことはないが、レビ・シュトロースに代表される私たち自身の心のルーツを未開の部族の風習や行動に探ろうとする文化人類学は、若者を引きつけるロマン溢れた学問分野だ。ただ、本として読むのは面白いが、科学として見始めると、研究者の仮説や憶測がどうしても表に出てしまっている印象を受ける。今日紹介するハーバード大学Peabody博物館からの論文は、アフリカのある部族で、なぜ命が懸かっていても男は戦いを続けるのかについて調べた研究で、アメリカアカデミー紀要オンライン版に掲載されている。タイトルは「Warfare and reproductive success in a tribal population(ある部族に見られた戦いと生殖上の成功)」だ。研究では、今も周りの部族と大小様々な戦いを続けているアフリカのNyangatom部族の男120人の戦歴と家族構成を調べ、私たちが持っている戦いの本能の起源を探ろうとしている。ただはっきり言って、慣れない分野で読みにくいし、素人から見ても憶測の多い論文という印象を持った。さてこの部族だが、主に家畜を盗むために今も周りの集落や部族と戦いを続けている。普通は数人で夜忍び込んで家畜泥棒を行う形態をとるが、時によっては100人単位の数が参加する戦争を行うようだ。こう聞くと普通はのどかな弓矢の儀式的戦いを思い起こすが、1980年以降はなんと自動小銃が導入されているようで、完全な命のやりとりになる。この部族の財産はもちろん家畜で、結婚するためには30頭ほどの家畜を男が相手の親に送る必要がある。すなわち結婚は財産が必要であるため遅く、女性は初経後数年でほとんど結婚するのに対し、男は20代後半から30代まで待つ必要がある。また、財産が多いということは複数の妻を持つことにつながる。では、家畜をめぐる命のやり取りは結婚のためかと調べると、盗みや戦いで勝ち取った家畜のほとんどが家長の財産になり、それを自分で結婚の貢物として使うことはない。実際、若者で戦いに参加して成功しても、ほとんど配偶者や子供の数につながっていない。一方若者の戦利品も自分の財産になるため、年長者や家長はまず戦いに参加しない。いろいろ調べたあげく、配偶者や子供の数と相関が認められたのが、年長者の過去の戦いの成功だけという結果になってしまった。これを説明する様々な可能性を考察した後、常識な結論を提案して終わっている。すなわち、若い時の戦いで戦利品を家長に贈ることで、後で権利を主張できる。また、家長の財産が増えると、女兄弟が増え、結婚の際の貢物も増え、将来相続できる財産が増えるという結論だ。しかし論文には戦いで命を落とすリスク確率、高い戦績をあげている年長者の体力、あるいは村に存在する銃の数などは全く示されていない。論文としてはかなり不完全な印象が拭えないし、読み物としてもレビ・シュトロースや、我が国で言えば宮本常一の面白さはない。現在ゲノム解読により歴史学が変わろうとしているように、おそらく文化人類学もゲノムにより大きく変わると思う。とすると、行動の記述がもっと精緻にならないと、新しい科学として生まれ変わることは難しいだろう。ただ、一つだけこの論文を読んでホッとしたのは、100人規模の戦争が起こる場合も、参加は自由で、村のために全員が動員されることがないことだ。実際、国家のために命を差し出させる徴兵制は近代以降はともかく、人類にとっては決して当たり前ではない。戦いを強制しない社会が私たち本来の本能であってほしいと思う。とはいえ、自由参加でも命のやり取りに出かけるとは、やはり男のゲノムに戦いの遺伝子がありそうだ。
1月1日:諸々の力(アメリカアカデミー紀要オンライン版掲載論文)
「もともと生命は、諸々の力が、一握りの、ひょっとしたらたった一つの原型に吹き込まれて始まり、この惑星が永遠に変わる事のない重力法則による回転を繰り返している間に、これほど単純な始まりから、最も美しくすばらしい果てしない形態が進化し、また進化し続けている。とするこの見解には、壮大さがある。」これはダーウィンの種の起源の後書きのそれも最後の文章だ。英語の本文はとても美しい文章で、到底私の訳ではこれを伝えることはできないと諦めている。これはダーウィンの勝利宣言でもあり、敗北宣言でもある。悔しいことに、生命が初めて地球上に生まれる過程については「諸々の力が・・・」としか語れなかった。しかしダーウィンの敗北宣言から150年以上たった今も、私たちは勝利宣言のための糸口さえつかめていない。1年を始めるにあたって、生命が誕生するまでの諸々の力についての研究が紹介したいと思っていたら、チェコ科学アカデミーからの論文がアメリカアカデミー紀要オンライン版に掲載されているのを見つけた。タイトルは「High-energy chemistry of formamide: a unified mechanism of nucleobase formation(フォルムアミドの高エネルギー化学:核酸塩基形成の統一モデル)」だ。生命の出現には生命の成分であるアミノ酸、核酸、脂肪、糖など有機化合物が必要だ。これらを組み合わせて生を「吹き込む」過程は、物理化学を超えた組織化についての科学が必要だが、有機成分の生成過程は物理化学に完全に支配されており、再現可能なはずだと、様々な試みが行われてきた。中でも有名なのが、ミラーの実験で、水素、水、アンモニア、メタンが混じった蒸気に落雷を模した放電を行うと、多くのアミノ酸ができることを報告した(Science,117:528,1953)。驚くことに、2007年、彼の死後当時の実験のサンプルが見つかり、2008年、彼の弟子たちにより新しい機器を使った再調査が行われた。そして最初報告されたより多くのアミノ酸が含まれていたことが発見されたが(Science, 322:404, 2008)、50年後にも使えるよく保存された資料を残している科学者魂については、科学を志すもの全ての範となるだろう。現在ではこの時使われた条件が本当に太古の大気を反映しているか疑問が持たれているが、ほとんどのアミノ酸が生命誕生以前に地球に誕生できたことは間違いがない。前置きが長くなったが、今日紹介するのは40億年前の地球でRNAの構成成分の塩基、すなわちアデニン、グアニン、ウラシル、シトシンを同時合成することが可能か調べた研究だ。実験は大がかりだが、結果は簡単だ。約40億年前には地球はまだ不安定だった宇宙から流星が雨のように降り注いでいたと考えられている。この流星衝突の凄まじいインパクトによって形成されるプラズマが「諸々の力」として全ての核酸塩基を同時に合成できることを示す研究だ。このインパクトを再現するために、プラハにある大規模レーザー光照射施設の高エネルギーレーザーを用いて、2200度のプラズマを発生させている。これまでの研究で、フォルムアミドが存在すれば核酸塩基が作れることは示されてきた。今回の研究でもフォルムアミドを原料として用い、粘土存在下にレーザー照射を行うと全ての核酸塩基が47mg/Lの高収量で得られるという結果だ。作られる中間体なども質量分析で検出され、詳しい化学反応プロセスが示されているが、わざわざ紹介する必要はないだろう。このように「諸々の力」により有機物が生まれる過程は徐々に明らかになっている。次はこの有機物が生物として組織化される有機体論を展開することが必要になる。是非21世紀の若い頭脳がこれに挑戦してくれることを望みたい。この有機体論が完成しないと、惑星探査で有機物を検出したとしても生物の存在を示すかどうかわからないことは心すべきだ。