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7月27日:アレクサンドル・リトビネンコ暗殺事件の医学(7月22日号The Lancet掲載論文)

2016年7月27日
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   アレキサンドル・リトビネンコ暗殺事件を覚えているだろうか。   リトビネンコはロシアKGBのエージェントで、命じられた実業家ベルゾフスキー暗殺を拒否したため、弾圧を受け2001年に英国に亡命した。英国では自らが関わったロシアの様々な陰謀を暴露し、プーチン政権批判の先頭に立っていた。ところが、2006年、ポロニウム210と思われる放射毒により暗殺され、当時大きく報道された。
   なんとリトビネンコが運び込まれた病院で治療や検査に関わった医師によるリトビネンコの症例報告が7月22日号のThe Lancetに掲載された。タイトルは「Polonium-210 poisoning: a first-hand account(ポロニウム210中毒:現場からの報告)」だ。
   高濃度のポロニウム210中毒など、世界中探しても経験できる症例ではない。「1度起これば必ずまた起こる」と考えるのが医学の世界で、貴重な経験を論文にまとめるのは何の不思議もない。しかし、2006年の事件が10年経ってようやく症例報告として現れたのは、やはり重大な政治問題が背景にあることを実感する。
   論文の内容は、診察に訪れてから23日目に亡くなるまでの臨床データと、その時医師達が何を考えたかの記録、そして死亡後調べられたボロニウム210の体内分布のデータだ。
  後の方から紹介すると、なんと44億ベクレルのポロニウム210を摂取し、死亡までの累積被曝は、腎臓で140Gy、肝臓で92Gy,骨髄で17Gyに達している。直接被曝で4Gy照射を受けると、骨髄死に至ることを考えると、この数字の恐ろしさがわかる。
   一般の方なら、なぜそんな大量の放射能を運んだり、飲み物に混ぜたりできたのかと訝しがられると思うが、ポロニウム210から出る放射線はα線のみで、紙一枚あれば遮ることができる。従って、暗殺者側が被爆する危険はない。しかし、いったん体内、そして細胞内に取り込まれると、DNAを切断し、生体高分子にも直接影響する。
   ではリトビネンコの治療に当たった医師はどう考えたのかだが、正直ポロニウムとは想像もできなかったというのが結論だ。
   最初和食のレストランで食事の後、胃腸の異常を訴え、強い下痢で病院に入院する。その時、中毒と感染が疑われるが、まず感染として治療が始まる。しか難治性のクロストリジウムが便から発見されたため、抗生物質の治療が続けられる。
   ところが入院1週間でレトビネンコが自分の経歴を明かし、自ら暗殺の対象になった可能性があることを医師に告げ、タリウム中毒なども疑われるが、尿中にも検出できず、原因の決め手は得られないまま、急速に貧血、脱毛、など放射線障害によるとみられる症状が進行する。2週間目以降は白血球数は0。ただ、ガイガーカウンターで調べても何も検出されず、死ぬ前の日に、血液をスライドグラスに塗布してレントゲンフィルムで露光させることで初めて、α線を照射している放射性物質が大量に体内に存在することがわかったという経過報告だ。
   この高い放射能のため、未だ組織の顕微鏡検査は行われていない。
  結論としては、最初の下痢症状はタリウムと同じで、ポロニウム自体の毒性の反映で、その後は放射線障害と考えられる。従って、教科書的には下痢を伴う胃腸症状を訴え、1週間以降急速に放射線障害を発症する患者で、ガイガーカウンターで放射線が検出できない場合はポロニウム中毒を疑えということになるのだろう。
   国家が行う犯罪が私たちの想像を超えることがこの論文からわかる。どの民主国家でも、権力を持つということは、市民に隠された力とアクセスできるようになることだ。これを乱用するかどうかは、決して政治家の良心の問題ではない。基本法や憲法で、権力を制限できる契約を交わすことでしか防げないことが、この論文を読んだ私の印象だ。10年という月日を経た後でも、この事件が一般医学雑誌に掲載されたことは正しい選択だと思う。
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