8月5日最近の膵臓癌研究:II ゲノム解析
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8月5日最近の膵臓癌研究:II ゲノム解析

2016年8月5日
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   一部の例外を除いて、ガンはゲノムで起こった様々なタイプの変異が積み重なって発生する。また、一つの遺伝子の変異で起こるものではなく、増殖や転移に関わるいくつもの分子の活性化や不活化が積み重なって発生する。
   最初は動物実験モデルで確認されてきた発がんの多段解説は、次世代シークエンサーが導入され、何万人もの人から得られたガンのゲノムの解読を通して、実際のガンで確認されるようになった。膵臓癌でもすでに数百という数のガンのゲノムが解読され、数多くの論文が発表されている。ゲノムを知らずして膵臓癌の理解はない。
次世代シークエンサーが身近になってから、数多くのガンについて、エクソーム(タンパク質に翻訳される全ゲノム部分)、あるいは全ゲノムを解読して、発がんに関わる遺伝子変異を特定しようとした論文が発表された。全ゲノムの核酸配列を何百ものガンで調べるとはなんと大変な実験だと思われることも多いだろう。しかし、次世代シークエンサーは驚くべき威力を発揮し、ガンゲノムの塩基配列を解読するだけなら、正確に安価に出来るようになっている。
   しかし、特定した変異が本当に発がんに関わるのか、あるいは細胞の増殖にはなんの影響もない変異なのか、これを決めるのは簡単ではない。コンピュータで予測するには、まだまだデータが足りないのだ。
   実際ガンによっては、アミノ酸配列の変化につながる突然変異を1万近く持つものもある。その中のどの変異がガンの増殖に関わるのかを特定するのは簡単ではない。せっかくゲノム解析をしたのに、発がん過程について全く想像もつかないという結果に終わることは多い。
   そんな中で膵臓癌は、ほぼ100%のケースで、KRASの突然変異がガンの増殖のアクセルになっている(ガンのドライバー変異と呼ぶ) (Waddell et al, Nature 518:496, 2015, Witkiewica et al, Nat Com, DOI: 10.1038) 。
   ドライバーだけではない。ブレーキ役の遺伝子の変異も膵臓癌では多様性に乏しい。ほぼ50−80%の頻度で、p53、CDKN2A、SMAD4分子の機能喪失変異が認められる。
   例えば同じようにK-RASにドライバー変異が見られる肺腺癌でも、RASの変異は30%程度にとどまっており、CDKN2Aの機能喪失に至っては4%にしかめ認められない。
       ほとんどの膵臓ガンで共通の遺伝子変異は、発がんの最初の段階に必須の変異だろうと考えられる。例えば直腸癌ではAPC遺伝子の欠損が必ず見られる。このことから、正常の膵管細胞からガンができるための最初の段階でKRASの変異が必須の条件であることがわかる。なぜKRAS変異が最初に必要かを明らかにすることは、まだ解明されていない膵臓癌を理解する重要な課題だと思う。
   正常の細胞でKRAS変異が起こると、暴走を止める一種の防御反応として細胞死が起こる。このため、この防御反応をコントロールしているp53とCDKN2Aの欠損がほとんどの膵臓癌で見られるのは理にかなっている。すなわち、KRASの力を引き出せないと膵臓癌にはなれない。こうしてみてくると、膵臓癌が発がんの多段解説のお手本のようなガンであることがわかる。
   逆にもしRASに対する薬剤の開発ができれば、ほとんどの膵臓癌の増殖を止めることが可能であることを示しているが、これがなかなか難しい。薬剤開発については次回に考える。
       ではKRASがドライバーになり、その暴走を止めるための最も信頼できるブレーキ役p53,CDKN2Aが壊れることが膵臓癌をこれほど悪性にしているのだろうか?
   おそらく答えはyes and noだろう。例えば直腸癌や肺がんでも、KRASとp53の組み合わせが見られるケースは多い。ただ、先にも述べたがCDKN2Aも組み合わさるケースは稀で、この教科書的組み合わせが実現していることが膵臓癌の恐ろしさの一つの要因であることは間違いない。しかし、同じようにKRASがドライバーになっている他のガンと比べた時、膵管細胞という特殊な環境とKRASの組み合わせが悪性度に果たす貢献も無視できない。RASは細胞の増殖だけではなく、代謝や、外界からの制御に対する抵抗性など多くの変化に関わっている。RASが膵管細胞で何をするのか、より詳しい研究が膵臓癌の恐ろしさを理解し、新しい治療開発の鍵になるように思う。
  膵臓ガンになるための入り口は狭いが、一旦そこを抜けると様々な突然変異が積み重なり始まる。その結果、個々のガンを比べると変異の組み合わせは多様だ。また突然変異だけでなく、欠損や挿入のような大きな変化も見つかり、これらの2次的(?)な変異の組み合わせがガンの個性を作っている。
  このような2次的な変異を考える時、DNA修復に関わる遺伝子、例えばBRCAやRPA1に変異が入ってゲノムの安定性が損なわれると、突然変異の数は急速に増大する。ただ、これは悪いことだけではない。先にあげたWaddell ( Nature 518:496, 2015)らの論文によると、修復メカニズムの異常がおこってゲノムが不安定になった膵臓癌は、シスプラチンを中心にしたプラチナ製剤よる治療によく反応する。ガンのゲノムを知って治療を計画することの重要性がここでも明らかになっている。
       他にも、SMAD4, KDM6A, ARID1A,SMARCA遺伝子の変異も比較的頻度が高い。この中の、染色体構造の調節に関わるKDM6A,ARID1A,SMARCA遺伝子の変異は他のガンでも重要な役割をしているので、今回は省略する。 一方、SMAD4は膵臓癌の間質を考える時に欠かせない変異なので、次回以降にこの変異の意義を考えてみたい。
  少し長くなったが以上を私なりにまとめると、「膵臓癌ゲノムは、KRAS変異がドライバーになり、それを抑えるブレーキであるp53,CDKN2Aの両方が欠損しているという、まさに教科書的な組み合わせが特徴になっている。従って、KRASの抑制こそが治療開発のカギとなる。 またゲノムが不安定になっているガンは、現在使われている薬剤に反応を示すことがわかってきた。従って、発がんの張本人がわかっていても、ゲノムを調べて膵臓癌の治療方針を立てることは重要だ。」となる。   最後に医学会への要望だが、ガンのゲノム検査が我が国でも簡単に受けられる体制を早く整備して欲しいと思う。
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8月4日:最近の膵臓ガン研究:I 体質、予防、早期発見

2016年8月4日
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    九重親方が膵臓ガンで亡くなったというニュースを聞いて、膵臓ガンを我が事として心配し始めた人も多いのではないだろうか。
   私の歳になると、膵臓ガンで失った友人や知人は数多い。最近も、知人が過酷な運命と闘うことになり、相談を受けた。
  この敗北感から、引退後も出来る限り膵臓ガンの研究には関わりたいと思い、若い人たちと月1回膵臓ガンの勉強会をしている。また、このホームページでも他の病気よりは頻回に膵臓ガンの論文を紹介してきた。
  ただ、個々の論文を別々に読んでいるだけではまとまった知識として整理できないので、これまで読んだり紹介したりしてきた膵臓ガンの研究をこの機会にまとめることにした。
   通常の論文紹介とは異なり、今回は私自身の意見も積極的に述べようと思っているが、これは検証されていない個人的意見であることを断っておく。また一般の人には難しい表現も多いかもしれない。
     さて、膵臓ガンは恐ろしく、また世界各国で増え続けていると言っても、我が国の全罹患者は4万人程度、全死亡者数が3万人強程度で、ガンによる全死亡者の10%程度と思われる。従って、いくら膵臓癌が恐ろしいからといって、一般の人が膵臓ガンだけにとらわれるのは問題だ。しかし、例えば体質や生活習慣から膵臓ガンのリスクが高いと判定される人が、膵臓ガンを意識した健康管理を行うことは意義がある。
   そこで膵臓がんの1回目は、膵臓ガン体質はあるか?早期診断は可能か?予防法は存在するのか? についての最新の研究をまとめてみる。
体質
北欧で行われた一卵性、二卵性双生児に関するコホート調査からみると(JAMA 315, 71, 2016)、膵臓ガンの遺伝性は以外と低く、一卵性双生児の片方がかかった時、もう片方がかかる一致率は直腸ガンより低い。即ち、環境因子や生活習慣が関与する余地の多いガンであることがわかる。
  一方で、膵臓ガンが多発する家系の存在を示す研究も進んでおり、例えば父母、兄弟姉妹に膵臓ガン患者がいる場合、オッズ比が3.2に達することが示されている。
   体質に関わる遺伝子多型についての研究も進んでおり、乳がんリスクに関わるBRCA2, PALB2、BRCA1や、他にもMSH遺伝子など、DNA合成時の修復に関わる遺伝子の突然変異、あるいはp16などの細胞増殖に関わる遺伝子が、膵臓ガンリスクになることがわかっていた。さらに全ゲノムレベルでの多型解析についての論文も多い(例 Wolpin et al, Nat Gent,46:994, 2014, Childs et al, Nat Gent 47:911, 2015)。
  このことは、総合的遺伝子リスクを算定するためのデータがそろってきたことを意味する。今後家族歴、特定の遺伝子突然変異、ゲノム検査、を統合した膵臓ガンのリスク計算方法が開発され、リスクの高い人に向けた健康診断プログラムが提供されることを期待したい。
早期診断
  遺伝子検査によりリスクが計算できたとしても、早期発見のための特別な検査方法がないと不安を抱えて右往左往するだけだ。治験登録サイトClinicaltrial.govを、膵臓ガン早期診断のキーワードで検索すると、早期診断法の治験が32登録されており、期待は持てるが殆どが未だ進行中の治験だ。
  私自身が読んだ論文の中で、早期診断を実現できるのではと最も期待を抱かせたのが、スウェーデンで行われたコホート研究についての論文だ(Del Chiaro et al, JAMA Surg 150:512, 2015)。この研究が追跡したのは、遺伝的に膵臓ガンのリスクが正常と比べて10倍高いと思われる40人の人たちで、膵がんが発生するまで1年ごとに健康診断を行って、経過を見た論文だ。この中には、既に述べたBRCA1/2やp16遺伝子の突然変異を持つ人たちが含まれている。
  この時毎年の検査に使われたのがMRCPと呼ばれる検査法で、MRIを用いて膵液や胆汁を特に強調して可視化する検査だ。患者さんへの負担はMRI検査だけでそう大きくないが費用はかかる
  驚くことに、この方法で最初の検査時に40人中12人が陽性と判断され、そのうち9例は膵嚢胞性腫瘍と診断されている。膿疱性腫瘍が検出された場合は内視鏡下超音波診断法とbiopsyで、手術と経過観察に振り分け、経過観察の場合は6ヶ月に1回の頻度で行っている。残りはMRCP検査を1年に一回のペースで受けている。
  このスケジュールで経過観察を三年続け、その間に2例に膵ガンが発見されたが、全てリンパ節転移はなかった(N0:リンパ節転移の程度)。本体の大きさはT1とT3(腫瘍自体の大きさの指標)だった。さらにもう1例膵ガンが発見されたが、このケースの場合は定期診断を休んでいる間に運悪く腹痛で受診し、膵ガンが発見されている。この患者さんは既にT4でリンパ節転移もN1と診断されている。
   未だ症例数は少ないが、遺伝的リスクが高い場合は、MRCPによるスクリーニングで早期発見が可能であることを示した重要な研究だと思う。この40人については現在も経過観察中のはずで、次の論文が待たれる。
  このように、遺伝的リスクの高い人を選んでMRCPを用いた定期検査を行うサービスは、人間ドックなどで今でも可能だと思う。
予防  膵臓ガンの恐ろしいところは、上に述べたような早期発見が出来たとしても、確実に治ることが保証できない点だ。
   よく引用される2010年HidalgoによりThe New England Journal of Medicine(362:1605, 2010)に発表された膵臓ガンに関する総説 によると、T1N0で発見されても平均余命が2年というのは、検出限界以下の転移が存在する可能性が高いことを意味している。
  従って予防が重要になるが、今のところ禁煙、肥満防止、糖尿病予防のような一般的生活習慣改善以外にはっきりした予防法はない。
   こんな中で一つだけ面白い論文があった。アメリカでは心臓疾患やガンの予防のために低容量アスピリンを飲む人が多いが、膵臓ガンにかかった症例を対象に、アスピリンの服用を調べた症例対照研究だ(Streicher et al, Cancer Epidemiology Biomarkers & Prevention, 23:1254, 2014)。この研究によると6年以上低用量アスピリンを続けている人では、膵臓ガンにかかる率が著明に改善している。アスピリンは消化管出血を誘発する心配があるが、副作用がなければ、試してみる価値はありそうだ。
以上、「総合的な遺伝リスク判定サービスが必要。高いリスクを持つと判定されれば、MRCPを中心とした定期検査を受け、当然メタボにならないよう努力すると同時に、禁煙を励行する。また、低容量アスピリンも予防の選択肢の一つ」が私なりの今回のまとめだ。 次回は膵臓ガンの様々な特徴とゲノムの問題を考えてみる。
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8月3日:CDK5とPD-L1(7月22日号Science掲載論文)

2016年8月3日
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   細胞周期に応じて遺伝子の転写を調節するcdk5は神経や筋肉の発生に必須の分子であるのに加えて、血管新生など様々な過程に関わることが知られているリン酸化酵素で、この分子の発現の高い脳腫瘍は予後が悪いことが知られている。このため、何とか薬の標的として使えないか研究が行われてきたが、本当に特異的な阻害剤の開発は困難なようだ。
   今日紹介するケースウェスタンリザーブ大学からの論文は今注目のPD1のリガンドPDL1がcdk5依存的であることを示した論文で7月22日号のScienceに掲載されている。
  注目のトピックスかと思って読んでみたが、正直言って拍子抜けの論文だった。
   おそらくこのグループはこれまでcdk5について研究してきたのだろう。その一環として、この遺伝子を脳腫瘍(meduloblastoma)細胞株から欠損させて移植する実験を行ったところ、ガンの増殖が強く抑制されることに気づいている。組織学的に、ガンの周りのT細胞の浸潤が少ないことから、cdk5が免疫のチェックポイント機能に関わるのではと考え、腫瘍のPDL1の発現とcdk5の相関を調べ、cdk5が欠損するとPDL1の発現が低下し、主にCD4陽性細胞による炎症が高まり、結果として腫瘍増殖が抑えられることを発見した。
   あとはこの機構について、ガンに対する免疫が高まりインターフェロンが分泌されるとIRF2を介してcdk5が誘導され、これがPDL1を誘導して腫瘍を免疫反応から守ることを示している。
   最後にcdk5を欠損させた脳腫瘍を植えたマウスの組織を観察して、リンパ球の浸潤が脳内でも観察できることを示している。一つ面白いのは、ガンのPDL1を抑制すると、周りの細胞でPDL1の発現が上昇していることで、結局PD1自体をブロックしないとチェックポイントブロックは難しいことを示している。
   話はこれだけで、よくScienceにアクセプトされたなという印象が強い。ただ、ガンのPDL1と樹状細胞などのPDL1の役割を区別して研究するためには使えるかもしれない点、またPDL1やPD1の転写調節について研究が進めば、安価な治療法の開発も可能になるかもしれないことはこの研究からもわかる。残念ながらこの研究では全ての細胞でのPDL1発現にcdk5が関わることを示せてないので、特異的阻害剤が開発されても一石二鳥の効果を期待するにはデータが弱いと思う。
   今日は拍子ぬけた論文を紹介してしまったが、明日から膵臓ガンについてまとめてみようと思っている。現役をやめてからも多くの友人を膵臓ガンで亡くしている。また、現在も知り合いが膵臓ガンと向き合っている。また千代の富士の死により世間でも注目されている。この3年間様々な論文を断片的に紹介したので、この機会にこれまで紹介した論文をまとめ直すと、どんなシナリオが見えてくるのか、考えてみたい。
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8月2日;開業医をやる気にさせる患者さんのタイプ(Patient Education and Counseling オンライン版掲載論文;http://dx.doi.org/10.1016/j.pec.2016.06.023)

2016年8月2日
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   医師として働いた期間は七年弱で長くないが、正直に告白すると、気楽に付き合える患者さんと、苦手な患者さんといったような、患者さんに対するえこひいきの感情はあった。ただ、医師をやめてから2年間、患者さんに文句を言われている夢を見ることがあったことを考えると、このえこひいきが罪悪感として心のどこかに引っかかっていたことは確かだ。
   今日紹介するジョンホプキンス医科大学からの論文は医師にとってfavorite patientとはどんな人たちかについて25人の開業医さんにインタビューした論文でPatient Education and Counselingオンライン版に掲載されている。タイトルは「A qualitative exploration of favorite patients in primary care(一般臨床でやる気にさせる患者さんについての定性的研究)」だ。
      Favorite patientをどう訳すかはなかなか難しい。論文を読んでみると単純な好き嫌いではなく、えこひいきに近い。そこで、やる気にさせると訳しておいた。
   まず「患者教育と相談」という雑誌が存在するのには驚いたが、患者さんとの関係が医師の仕事の重要な部分であることを認識し、この問題をカバーする論文を集めることは重要だと納得する。
  調査内容が内容だけに、統計結果などは一切示されず、インタビューで得た医師の生の声から著者らが考えた結論が淡々と書いてある。したがって、明確な結論があるわけでもないので内容をまとめることは難しく、詳細については読んでもらうしかないが、そこをあえてまとめると次のようになるだろう。
1) まずインタビューの対象になった医師は、大病院と契約している開業医さん25人で、ゆっくり時間をかけて本音を聞き出している。
2) 何をfavoriteと考えるかは医師によって違う。最初はほとんどが患者さんをほぼ平等に扱っていることを強調するが、話しているうちに確かにやる気の出る患者さんとそうでない患者さんがいることを認める。
3) やる気にさせる患者さんを表現するキーワードとして、「何かピンとくるものがある」「楽しい」「賢い」「愛らしい」「記憶に残る」などが挙げられる。(これは私も納得する。)
4) とは言え、一番やる気になるのは、病気のため長年の付き合いが確立している患者さんで、たまに風邪でやってくるような健康な人たちはあまりやる気にならない。(私も若いときは、難しい病気の患者さんほどやる気になった)
5) 一方、やる気にならないというか、苦手な患者さんは、医者の限界を理解せずに、要求の多い患者さんということになる。
6) 医師の方でもやる気になる患者さんにはやはり時間をかけおり、また亡くなると喪失感が大きい。(私も納得だ。)
ということができる。
   これを簡単にまとめると、慢性的病気を持っていて、医師と長く付き合っており、性格的には医師としっくりくるような患者さんが、やる気にさせる患者さん像になる。また、医師も人間なので、どうしても選り好みがあることも結論といえるだろう。
   最後に、医師は、「多くの患者さんが医師に好かれようと努力をしていること、しかし自分がどうしても患者さんの選り好みをしてしまう」という自覚を持つことが重要だとアドバイスをしている。
   一方患者さんに対しては、「医師と患者の関係は相互的で、患者さんの側からもうまく働きかけることで関係を良好に保つことの重要性」をアドバイスしている。
   このようにあえて結論をまとめてみたが、はっきり言って明確な回答が示された論文ではない。ただ、多くの生の声が記載されているので、医学部や看護学の学生さんに読んでもらって、討論させるためのいい材料になるかなと思った。
   我が国では、今でも医師に対する個人的謝礼を送る悪弊が残っており、私も医師を紹介した友人から「いくらぐらい包めばいいのか」などと質問を受けて暗い気持ちになる。このような悪弊を一掃する意味でも、医師をやる気にさせる患者さんについてもっと深掘りすることは重要だと思う。
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8月1日:ゲノムからたどる農耕の起源(Natureオンライン版掲載論文)

2016年8月1日
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    考古学的研究から農耕は1万年ほど前、中近東で始まり、五千年ほどの間に急速にユーラシア大陸に広がったことが知られている。農耕とともに、野生動物の家畜化、ペット化も進んだ。農耕を始めた先祖が急速に広い範囲に移動し、農耕を広めたと考えられるが、これを証明するためには、発掘された様々な年代の農耕人の骨を様々な地域から集めて、その移動を遺伝子レベルの混合として確かめる必要がある。
   今日紹介するハーバード大学を中心に41の研究機関が共同で発表した論文は12000年から1400年までの狩猟採集民から農耕民までのゲノム解析を行った研究でNatureに掲載予定だ。タイトルは「Genomic insight into the origin of farming in the ancient Near East(ゲノム解析から考える古代の近東の農耕の起源)」だ。    この研究ではDNAの回収率の高い内耳の錐体骨に絞ってDNAを回収し、調べたい120万のSNPに対応する遺伝子部分を、溶液中でハイブリダイゼーションで集める方法を採用している。これにより、全ゲノムレベルのSNPのデータを読むことができた45体のDNAを、現在の農耕民約1000人のデータと比べている。
   この研究で問われた問題を一言であらわすと、「農耕は人が動いて広まったのか、あるいは考えが広まって各地で採用されたのか?」と言える。
  研究ではまず旧石器時代後期アフリカから移動してユーラシアに到達した現在のユーラシア民族のルーツを代表するUst’-Ishimを基準に45体のDNAを比較し、これが近東の農耕民族に近いことを示している。
   次に様々な地域で起こった狩猟から農耕への移行期のゲノムを調べると、それぞれの地域での狩猟民族のゲノムを強く反映している。また、イスラエル、イランなどの農耕民族は、3−4種類の民族が交雑して成立していることも分かった。このことから、農耕民族に狩猟民族が駆逐されたのではないことがわかる。
   いずれにせよデータは膨大で、この結果から今回検討した狩猟、農耕民族それぞれのゲノム相関図が最後に示されており、自分の仮説がないと、この相関図の数字を見ていても、本当はピンとこない。    結局大きなデータベースが作られたことが重要で、今後考古学者が様々な遺物の調査研究から導き出した仮説を検証するときの大きな助けになることは間違いない。
   詳細を省いて結論だけをまとめると、農耕は、それを開発した民族が他の民族を駆逐して広がったのではなく、まず農耕の可能性というアイデアが、人(ゲノム)の移動より速い速度で広がったことになる。 
   1万年前だともう既に言語は存在していただろう。先史時代の歴史がどんどん具体的な面白い話になってきた。
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7月31日:レーザー光で血小板を増やす(7月27日号Science Translational Medicine掲載論文)

2016年7月31日
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   20世紀後半に進んだ造血因子遺伝子クローニングのおかげで、赤血球が少ない患者さんにはエリスロポイエチン、白血球が少ない患者さんにはG-CSFを臨床に使うことができる。ところが、当時最後にクローニングされた血小板を作る巨核球の数を増やすトロンボポイエチンは現在も臨床利用ができていない。
  この原因は、この因子が末梢血の血小板数とは無関係に、巨核球へ分化する前駆細胞を増殖させるためで、血小板が増えすぎて血栓ができる危険性を完全に解決できなかった。このため、せっかく開発されても臨床に使われないで終わっている。
   当時のクローニング競争を知る世代から見ると、今日紹介するハーバード大学からの論文は「え!こんな方法で血小板が増えるの?」と驚く論文で7月27日号のScience Translational Medicineに掲載された。タイトルは「Noninvasive low-level laser therapy for thrombocytopenia (侵襲性のない低レベルレーザーによる血小板減少症の治療)」だ。
   侵襲性のない近赤外レーザー(LLL)は傷の治りを早めたり、鎮痛の目的で現在使われている。細胞を用いた研究から、近赤外光が細胞の代謝や生存に影響を及ぼすことがわかっている。この研究では、近赤外光照射によりATP量が上昇する点に注目して、ATPに強く依存する巨核球からの血小板分化を亢進できるかを確かめるところから始めている。
   期待通り、試験管内で分化が進んだ巨核球にLLLを照射するとATPの量が上昇し、細胞学的に巨核球が巨大化して、多くの血小板を作るようになる。そしてLLLがミトコンドリアの細胞内増殖を促進することが、血小板産生の上昇につながることを明らかにしている。
   実際にLLLでミトコンドリア増殖が促進される細胞学的メカニズムは大変面白い点だが、今日はこの詳細は省いて、実際にこの方法が血小板減少症の治療に使えるかどうか調べた実験のみを紹介する。
   全て体の小さいマウスモデルの話だが、まずLLLの全身照射により骨髄の巨核球のATP合成が上がることを確認した上で、γ線照射により血小板減少症を誘導した後、LLLの全身照射を行い、血小板がほぼ正常に回復することを確認している。    他にも巨核球が発現するCD41に対する抗体による細胞障害や、あるいは抗がん剤による血小板減少についてもこの方法で血小板数を正常化できることを示している。一方、正常マウスにLLL照射をしても血小板数のオーバーシュートはなく、トロンボポイエチンで見られるような副作用がないことがわかる。
   最後に、試験官内ではあるが、ヒトの巨核球もマウスと同じようにLLLに反応してATPが上昇し、血小板への分化が促進することを示している。ただ、ヒトの場合、骨髄内にLLLを到達させることは簡単でなく、残念ながらこの方法をすぐにヒトに応用するのは難しいようだ。     しかし、こんな簡単な方法で血小板だけを増やすことができる可能性は捨てがたい。なんとかこの光で骨髄内が照らされることを期待したい。他にも、 iPSなどから試験官内で血小板を作ろうとする試みが進んでいるが、この方法は使えるかもしれない。
カテゴリ:論文ウォッチ

7月30日:光ピンセットの見事な利用(Natureオンライン版掲載論文)

2016年7月30日
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    物理が苦手で原理を完全に理解しているわけではないが、光ピンセットを使うと細胞から分子に至るまで捕捉して移動させることが可能であることは知っている。しかし、現役時代も含めて、光ピンセットを利用した論文を読んだという記憶はない。
   ところが今日紹介するオランダ・アムステルダム大学からの論文を読んで、「なるほど光ピンセットもこんなふうに使えるのか」とそのパワーに驚かされた。タイトルは「Sliding sleeves of XRCC4-XLF bridge DNA and connect fragments of broken DNA(XRCC4-XLF複合体が形成する移動する鞘がDNAを架橋し破断したDNAを結合する)」で、Natureオンライン版に掲載された。
   研究では2つ、あるいは4つの物体を同時に捕捉できる電子ピンセット、微量な流れを再現できるマイクロフルイディックス、そして蛍光顕微鏡を組み合わせて、一本の切断されたDNAをXRCC4-XLF複合体が修復するダイナミックスを分子レベルで観察している。
   これまで切断されたDNAに関わる修復複合体についてはかなり詳しく研究され、ほぼ正確な像が教科書にも示されるようになっている。しかし、この研究のように実際にXRCC4-XLFがどう切断されたDNAをつかんで修復するのかについてリアルタイムで観察することなどできなかった。この意味で、この研究は極めてエキサイティングで、例えば切断された2本のDNAがゆらゆらと流れの中で伸びているのをキャッチして結びつける、あるいは2本のDNAを捕まえた後、DNAを一方向に滑っていく様子、さらには捕まったDNAを引っ張った時、どの程度の強さで2本のDNAをホールドするかなど、光ピンセットならではの実験がこれでもか、これでもかと示されている。この技術のポテンシャルを実感する。
   この研究から明らかになった修復のシナリオを最後にまとめておこう。
    まず切断されたDNAにXRCC4のDNAへの結合はXLF分子がガイドし、そこでかなり強い結合を起こす。実際、引っ張ってみるとホールドされている部分ではずれず、DNAが切れる方が早い。こうしてできた2本のDNAを束ねるXRCC4-XLF複合体はDNA上を滑り、断端に集まりおそらく修復につながるという結果だ。
   今回はDNAを捕まえて動くという過程の可視化が中心だが、今後断端での過程や、あるいは断端で起こっているリン酸化反応など様々な過程を見ることができるだろう。将来さらに多くのビデオが見られ、DNA修復の全像を映画で見ることができるのではと期待させす論文だった。
   しかし、オランダと並んで我が国もDNA修復では世界をリードしていたと思うが、最近は論文を目にすることは多くない。どうなっているのか少し心配だ。
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7月29日:すぐに使えるスポーツ医学(8月9日号Cell Metabolism掲載論文)

2016年7月29日
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   リオオリンピックは始まる前からドーピング問題で揺れている。しかし、ほとんどのドーピングに用いられる介入はスポーツ医学、内分泌学、代謝医学から生まれた。ただ、極限状態とも言えるスポーツ選手への介入は常に危険と隣り合わせだ。このため、どの介入が危険で、どの介入が危険でないかを常にチェックする必要があるが、医学の常でグレーゾーンが必ず存在し、線引きが難しい。結果、考え方の相違が政治的対立にまで発展することさえある。
   今日紹介するオックスフォード大学とケンブリッジ大学からの共同論文は、飢餓状態で起こる体の防御反応をおこしてエネルギー代謝を変化させる方法の開発で8月9日号のCell Metabolismに掲載された。おそらく、持久力を必要とする選手なら明日からでも試したいと思う研究成果で、タイトルは「Nutritional ketosis alters fuel preference and thereby endurance performance in athletes(栄養的に誘導したケトーシスは利用するエネルギー源を変えることでスポーツ選手の持久力を高める)」だ。
   重度の糖尿病や長期の炭水化物制限はケトアシドーシスと呼ばれる、血中ケトン体が上昇する状態を誘導する。医学部の学生は、この時患者さんから出るアセトンの匂いを見逃すなと習う。ただ、このケトーシスは、貴重な炭水化物が使えないことを感知した体が、脳の維持に必須のエネルギーを脂肪にシフトさせ、肝臓でケトン体(アセト酢酸、βヒドロキシ酪酸、アセトン)を合成し体に供給することで起こる防御反応だ。脂肪酸と比べるとケトン体は水によく溶け、あらゆる細胞に摂取され、ミトコンドリアでTCAサイクルを効率よく回すことができる。このため、炭水化物を制限してケトン体を誘導することで、持続力を高めダイエットに利用する方法も実際に行われている。
   もしケトン体がそれほど利用価値が高いなら、最初からケトン体を飲んだらどうかと思うが、この結果身体が酸性になったり、塩濃度の上昇をきたすため、大量の使用は困難だった。
   この問題を解決し、副作用なく血中のケトン体濃度を上昇させることが可能な新しい脂肪酸R-3-hydroxybutyl-R-3-hydoroxybutyrate keton ester(KE)を開発したというのがこの論文の味噌で、論文では実際のスポーツ選手を使った実験で、この分子がいかにエネルギー代謝を改善し、持久力を上昇させるかが示されている。
   KEはまず腸でβヒドロキシ酪酸とブタンジオールに分解され肝臓に入り、ブタンジオールは肝臓でさらにβヒドロキシ酪酸に変換される。すなわち、アシドーシスを誘導することなく、βヒドロキシ酪酸の血中濃度を上げることができる。そして、このβヒドロキシ酪酸はミトコンドリアに入りTCAサイクルを回して、大事な炭水化物の消費を少なくして活動を続けることができる。
   論文ではKEがいかに期待通りの代謝改善を行うかを、血液検査、バイオプシーで得られた筋肉細胞の代謝物検査から示しているが詳細は省く。ただ、運動中の筋肉疲労のバロメーターと言える血中乳酸値の上昇が、KE摂取して運動した場合半減するという結果は一般の人にもわかりやすいだろう。
   要するに、エネルギー代謝については期待通りの効果が安全に得られたということが詳しく示されている。
  当然一番気になるのが運動能力への影響だが、自転車で1時間にどれだけ走れるかを調べたタイムトライアルを行い、炭水化物だけ摂取した群では平均20100mに対しKEと炭水化物を摂取した群では20500mと、平均で411m、トラックにして1週の差が出たという結果だ。
   この結果が正しければ、まちがいなくこれまでの食事制限によるケトン体誘導法の代わりになるだろう。
  オックスフォードとケンブリッジが共同で進めた研究で、英国のスポーツ選手も全面的に協力した研究であることを考えると、この成果はリオオリンピックの英国のメダル獲得数で示されるかもしれない。
カテゴリ:論文ウォッチ

7月28日:地衣類についての新説(7月21日Scienceオンライン版掲載論文)

2016年7月28日
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   異なる種の見事な共生として常に例に挙げられるのが地衣類だろう。通常、カビやキノコの仲間。子嚢菌と光合成をするパートナーになる藻類からできていると考えられてきた。
   今日紹介するグラスゴー大学からの論文は、地衣類では子嚢菌一種類だけが菌類の主体となっているとするこれまでの通説を覆し、実際には2種類の菌類が光合成を行う藻類と共生していることを示した論文でScienceオンライン版に掲載された。タイトルは「Basidiomycete yeasts in the cortex of ascomycete macrolichen (Basidiomycete(担子菌)はascomycete(c)からなる大型地衣類の皮質に存在している)」だ。
  地衣類を見たことがないという子供達も今は多いかもしれない。木の幹に張り付いている葉やヒゲの形をした生物で、上に述べたように菌類と藻類が一つの個体を形成する共生生物だが、例えばハリガネキノリ属というように地衣類としての名前も持っている。
   私も知らなかったが、地衣類の研究を阻む大きな難関は実験室で地衣類を培養することができなかったことで、この原因として実際にはこれまで知られていない生物が共生のために必要ではないかと考える人が多かった。
   この研究では色の違う2種類の全く色の異なるBryoria(ハリガネキノリ属)の遺伝子発現を調べ、色の違いは子嚢菌とパートナーを組む藻類の種類の違いとして説明がつかないことに気づき、色の違いが決まる原因を探索していた。その結果、地衣類は子嚢菌だけでなくもう一つの菌類basidiomyceteから構成されており、色の違いはこのbasidiomyceteの種類の違いによることを明らかにした。すなわち、これまで2種類の生物の共生と考えられてきた地衣類には2種類の菌類と藻類からなるより複雑な種類が存在することがわかった。
   次にこのような構成が一般的なものか、あるいは最初調べた2種類の地衣類だけに適用されるのか、モンタナ州に生息する様々な地衣類の遺伝子を調べ、調べた全ての地衣類で同じように3種類以上の共生が認められることが明らかになった。
   なぜ今までこんなことが発見されなかったかについては、PCRに用いられる鋳型のバイアスのせいではないかと想像している。
  次の問題は2種類の菌類が地衣類の体のどこに存在するかだが、in situ hybridizationを用いて、basidiomyceteが最も外側の皮質を形成し、色の違いになっていることを明らかにしている。
   話はこれだけで、最初読み始めた時、ついに実験室で地衣類の培養が可能になったかと期待したが、ここまで研究は進んでいないようだ。しかし、構成成分が明らかにならないと培養は不可能で、その意味では大きな一歩と言えるだろう。キノコのような複雑な形態が単純な菌類からどのようにできるのかは面白い問題だ。
   また、面白いだけでなく、「私たちを魅了する松茸の培養にもつながるだろう」などと、すぐ商売に結びつけるのは品のない考えかもしれない。
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7月27日:アレクサンドル・リトビネンコ暗殺事件の医学(7月22日号The Lancet掲載論文)

2016年7月27日
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   アレキサンドル・リトビネンコ暗殺事件を覚えているだろうか。   リトビネンコはロシアKGBのエージェントで、命じられた実業家ベルゾフスキー暗殺を拒否したため、弾圧を受け2001年に英国に亡命した。英国では自らが関わったロシアの様々な陰謀を暴露し、プーチン政権批判の先頭に立っていた。ところが、2006年、ポロニウム210と思われる放射毒により暗殺され、当時大きく報道された。
   なんとリトビネンコが運び込まれた病院で治療や検査に関わった医師によるリトビネンコの症例報告が7月22日号のThe Lancetに掲載された。タイトルは「Polonium-210 poisoning: a first-hand account(ポロニウム210中毒:現場からの報告)」だ。
   高濃度のポロニウム210中毒など、世界中探しても経験できる症例ではない。「1度起これば必ずまた起こる」と考えるのが医学の世界で、貴重な経験を論文にまとめるのは何の不思議もない。しかし、2006年の事件が10年経ってようやく症例報告として現れたのは、やはり重大な政治問題が背景にあることを実感する。
   論文の内容は、診察に訪れてから23日目に亡くなるまでの臨床データと、その時医師達が何を考えたかの記録、そして死亡後調べられたボロニウム210の体内分布のデータだ。
  後の方から紹介すると、なんと44億ベクレルのポロニウム210を摂取し、死亡までの累積被曝は、腎臓で140Gy、肝臓で92Gy,骨髄で17Gyに達している。直接被曝で4Gy照射を受けると、骨髄死に至ることを考えると、この数字の恐ろしさがわかる。
   一般の方なら、なぜそんな大量の放射能を運んだり、飲み物に混ぜたりできたのかと訝しがられると思うが、ポロニウム210から出る放射線はα線のみで、紙一枚あれば遮ることができる。従って、暗殺者側が被爆する危険はない。しかし、いったん体内、そして細胞内に取り込まれると、DNAを切断し、生体高分子にも直接影響する。
   ではリトビネンコの治療に当たった医師はどう考えたのかだが、正直ポロニウムとは想像もできなかったというのが結論だ。
   最初和食のレストランで食事の後、胃腸の異常を訴え、強い下痢で病院に入院する。その時、中毒と感染が疑われるが、まず感染として治療が始まる。しか難治性のクロストリジウムが便から発見されたため、抗生物質の治療が続けられる。
   ところが入院1週間でレトビネンコが自分の経歴を明かし、自ら暗殺の対象になった可能性があることを医師に告げ、タリウム中毒なども疑われるが、尿中にも検出できず、原因の決め手は得られないまま、急速に貧血、脱毛、など放射線障害によるとみられる症状が進行する。2週間目以降は白血球数は0。ただ、ガイガーカウンターで調べても何も検出されず、死ぬ前の日に、血液をスライドグラスに塗布してレントゲンフィルムで露光させることで初めて、α線を照射している放射性物質が大量に体内に存在することがわかったという経過報告だ。
   この高い放射能のため、未だ組織の顕微鏡検査は行われていない。
  結論としては、最初の下痢症状はタリウムと同じで、ポロニウム自体の毒性の反映で、その後は放射線障害と考えられる。従って、教科書的には下痢を伴う胃腸症状を訴え、1週間以降急速に放射線障害を発症する患者で、ガイガーカウンターで放射線が検出できない場合はポロニウム中毒を疑えということになるのだろう。
   国家が行う犯罪が私たちの想像を超えることがこの論文からわかる。どの民主国家でも、権力を持つということは、市民に隠された力とアクセスできるようになることだ。これを乱用するかどうかは、決して政治家の良心の問題ではない。基本法や憲法で、権力を制限できる契約を交わすことでしか防げないことが、この論文を読んだ私の印象だ。10年という月日を経た後でも、この事件が一般医学雑誌に掲載されたことは正しい選択だと思う。
カテゴリ:論文ウォッチ