7月13日:指しゃぶりとアトピー(Pediatrics8月号掲載予定論文)
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7月13日:指しゃぶりとアトピー(Pediatrics8月号掲載予定論文)

2016年7月13日
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   今日から3回、医学雑誌にはこんな調査まで掲載されているのかと驚いた論文を3編紹介しようと思っている。1日目はニュージーランドとカナダのグループが行った、幼児期の指しゃぶり、爪噛み習慣と、成長後のアトピーの頻度を調べた研究でPediatrics8月号に掲載予定だ。タイトルは、「Thumb-sucking, nail-biting, and atopic sensitization, asthma, and hay fever(指しゃぶり、爪噛み、アトピー感作、喘息、そして枯草熱)」だ。
   「指しゃぶりとアトピーの関係」と初めて聞いた読者は「なんと馬鹿な調査が行われているのか」という印象を持つはずだ。しかし、アトピーの原因があまりにも清潔な環境を求める我々の気持ちにあることを知っている私には、特に違和感はない。
    戦後ほとんどの先進国でアトピーの数は増加の一途をたどってきたが、この増加は石鹸の使用量と正比例すると言われている。すなわち、皮膚の防御機構をゴシゴシと洗い流して様々な抗原を体内にわざわざ侵入させているということになる。この考えが間違っていないことは、国立成育医療センターのグループが新生児に保湿オイルを塗り続けることで皮膚の防御層を守り、アトピーを防げることを示した論文でも示されている。
  もう一つアトピー増加の要因になっていると考えられているのが、腸内細菌叢の変化で、寄生虫の感染がアトピーを予防していることは科学的に証明されている。
   このように、清潔な生活を求めれば求めるほど、アトピーが増えているなら、不潔な習慣「指しゃぶりや爪噛み」は、子供をより不潔な環境に慣らしてアトピーを防いでいるのではと考えてもおかしくはない。
   研究ではニュージーランドDunedinで生まれたヨーロッパ系の乳児1037人を38歳まで追跡し続けた長期コホート調査で、5歳から11歳まで4回親に聞き取り調査を行い、指しゃぶりや爪噛みなどの習慣についての情報を集めている。アレルギーについては、様々な抗原に対する皮膚反応を13、32歳で調べると同時に、観察期間中に喘息や枯草熱を発症したかどうかを調べている。
  さて結果だが、13歳で皮膚反応テストが実施できた724人についてみると、指しゃぶりなどの「悪癖」のない子供の皮膚反応陽性率は49%に達した一方、「悪癖」を持つ子供は38%にとどまったという結果だ。内訳をみると、指しゃぶりか爪噛みかどちらか片方を持つ場合は40%、両方持つ場合は31%で、「悪癖」を持てば持つほどアトピーにならないという結果だ。同じ傾向は32歳時にも見られるが、有意差は境界領域で、結論としては少年期のアトピー防止に指しゃぶりは効果があるということになる。
   並行して調べられた喘息と枯草熱の発症頻度では、指しゃぶりと爪噛み両方の悪癖を持つ場合のみ、枯草熱の発症が低下しているが、これもアトピーテストほど明確な有意差がない。
   結論としては、期待通り、アトピーの発症に限れば「不潔」と思われる習慣も役に立つという結果だ。
   最近一緒に仕事をしている仲間から、親子のキスは歯周病菌を移植することになるから避けるようになっているという話を聞いた。逆に、スウェーデンの調査では、子供が落としたおしゃぶりをお母さんが舐めてから子供に渡すと、腸内細菌叢の多様性が上がるらしい。歯周病は歯磨きを真面目にやれば防げる。清潔を求めるあまり親子の絆まで不潔と排除してしまうと、とんでもないしっぺ返しがくるように思える。    清潔・不潔をもう一度科学的に見直すべきときがきたように感じている。
カテゴリ:論文ウォッチ

7月12日:T細胞とミトコンドリア(6月30日号Cell掲載論文)

2016年7月12日
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   学生時代から代謝の勉強には熱が入らなかった方だが、最近は生命誕生を考えたり、ミトコンドリア病について理解する必要から、少しずつこの分野にもアレルギーはなくなってきた。こうして得てきた知識の中でも最も驚くのは、細胞内での独立器官ミトコンドリアのダイナミズムだ。2014年10月19日にこのホームページで紹介したが、卵子発生時にミトコンドリアの数はなんと40個以下にまで低下し、そこから増殖し直すことで機能が低下したミトコンドリアをふるいにかけている(http://aasj.jp/news/watch/2311)。
   今日紹介するドイツフライブルグ・マックスプランク免疫・エピジェネティック研究所からの論文は、ミトコンドリアの形態がエフェクターT細胞 (Te)と記憶T細胞(Tm)状態を決めているという研究で6月30日号Cellに掲載されている。タイトルは「Mitochondorial dynamics controls T cell fate through metabolic programming (ミトコンドリアのダイナミズムが代謝プログラムを通してT細胞の運命を決定する)」だ。
   T細胞は抗原刺激後、刺激されるサイトカインに応じてTe,Tmへと分化する。Teは抗原に反応して様々な免疫反応に関わり役目を終えると死ぬが、Tmは次の抗原刺激に備える一種の記憶反応に関わる。この状態変化に、ミトコンドリアを中心にした代謝状態の変化が重要な働きをしていることはこれまでもわかっていた。これは100m競争と長距離走でミトコンドリアの機能が変化するのと同じことで、Teには100m走と同じ状態が求められる。
  この細胞のエネルギー代謝の変化が、ミトコンドリアの形態変化と対応しているという発見がこの研究の発端だ。即ち、Teではミトコンドリアが分裂により小型の形態を維持している。一方、Tmではミトコンドリアが融合して細長い形態を維持している。これはそれなりに面白い発見だが、著者らはさらに進んで、ではこの形態変化自体を刺激にしてTeとTmの状態変化を誘導できないかと考えた。
   実際、ミトコンドリアの融合に必須の分子Opa1遺伝子をノックアウトした細胞ではTmが欠損するが、Teは正常のままだ。次に、ミトコンドリアの分裂を阻害する方法、あるいはOpa1などのミトコンドリア融合を促進する分子を強制発現させる方法を用いてT細胞内のミトコンドリアを融合させると、Te誘導条件でもTmが出現することを明らかにしている。普通ミトコンドリアの変化や代謝は刺激による2次的変化と考えてしまうが、ミトコンドリア代謝自体がT細胞分化を決めることを示したのがこの研究のハイライトだ。
   もちろん詳細な実験により、代謝、ミトコンドリアの形態、T細胞の機能が対応付けられているが、詳細を省いて提案されたシナリオを紹介すると次のようになるだろう。
   ミトコンドリアの分裂が抑制され、融合が進むと、ミトコンドリア膜がタイトになり、電子伝達系が互いに近接することで酸化的リン酸化が高まり、脂肪酸化が高い状態が維持される。この代謝状態が記憶T細胞の状態を誘導するのに十分な条件になる。一方、細胞が活性化されると、ミトコンドリアの分裂が進み、この結果膜が緩むことで、電子伝達系の活性が低下する。これにより、酸化的ブドウ糖分解が進み、速やかなT細胞反応が可能になる。
   おそらくT細胞にとどまらず、幹細胞など様々な系に研究が広がることを予感させる論文だった。   
カテゴリ:論文ウォッチ

7月11日:神経芽腫とlet7(7月6日号Nature掲載論文)

2016年7月11日
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   21世紀に入って、生命科学領域では様々なデータベースが整備され、自分で実験をしなくても、自分の疑問を念頭にデータベースと向き合うだけで様々なことがわかる様になった。これは私の様な年寄りには本当に驚きで、なによりも研究費が不足している時も、データベースを活用するとなんとか研究を続けられる可能性を示している。これを実感したのが、神経堤細胞が増殖する時に発現している分子arid3Bが神経芽腫で強く発現していることをガンのデータベースから見つけた時だ。これには教室の仲間のJaktさんと小林さんの貢献が大きい。現役の最後に病気の発症に関わる分子をほとんど費用をかけず一つ発見できたのは嬉しかった。
   とはいえ、引退後arid3Bとガンを結びつける話はあまり着目されず進展していなかった。ところが論文を読んでいると、最近台湾のグループがlet7-miRNAによりarid3Bが調節され、この経路の異常が発がんに関わる可能性を示す研究を発表して、個人的に注目していた。
   今日紹介するハーバード大学からの論文はlet7とneuroblastomaの関わりを調べた研究で、arid3Bとlet7が結びついたかもしれないと個人的興味で読んだ。タイトルは「Multiple mechanisms disrupt the let-7 microRNA family in neuroblastoma(神経芽腫では複数のメカニズムでlet7マイクロRNAが破壊されている)」だ。
   この研究は様々なタイプの神経芽腫で腫瘍化に関わることがわかっているMYCNを抑制するmiRNA、let7の発現を調べた仕事だ。はっきり言って、研究そのものはそれほど高いレベルでなく、これまである程度知られている現象について、力仕事を展開した印象で、スマートな感覚は全く感じない。
   Let7がMYCNを抑制することはわかっているので、おそらく発端は神経芽腫でも調べてみようか程度で始めたのだろう。
   重要なメッセージがあるとしたら、神経芽腫とlet7の関係は、let7の機能が低下してMYCNが上昇してガンになるという単純な話ではないことを示したのだろう。即ち、let7を抑制するLin28を抑制しても神経芽腫にはなんの影響もない。そこでlet7がなぜMYCN遺伝子が増幅している神経芽腫でうまく働かないのかを調べ、今度はMYCNmRNAそのものがlet7の働きを抑制していることを示している。この結果、let7が抑制している標的mRNAが抑制できなくなり、他のガン遺伝子が上昇するというシナリオだ。嬉しいことにこの標的にarid3Bがリストされており、私の頭の中では話がつながったという実感を得た。
   一方、MYCN遺伝子増幅のない神経芽腫でのlet7の関わりも調べられ、この場合let7をMYCNの転写物が抑制することはない代わりに、遺伝子欠損が高い確率で起こっていることを示している。
   まとめると、let7を様々な方法で抑制することがMYCNをドライバーとする神経芽腫の発生にとって必須であるという結論になり、これだけではちょっと物足りない印象を受けるだろう。
  ただ個人的には、arid3B+MYCNによる神経芽腫と多能性幹細胞の増殖調節というシナリオがlet7を介してより明確になったのではと喜んでいる。
カテゴリ:論文ウォッチ

7月10日:抗がん治療のゲノミックスとインフォーマティックス(7月28日号Cell掲載予定論文)

2016年7月10日
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    まずガン治療の将来を思い描いてみよう。ガンは遺伝すると思っている人も多いが、双生児についてのコホート研究から、遺伝性の高いガンと、環境や生活習慣の影響が多いガンに別れることがわかっている(http://aasj.jp/news/watch/4688)。例えば我が国で罹患率の多い肺がんや直腸癌では遺伝性の貢献は低いため、様々な予防手段を講じることがまず大事だ。
   それでも1/3の人はガンにかかる。そしてガンの背景にはまずゲノムの様々な変化が伴っている。しかも、同じ種類のガンでもゲノムの変化が大きく違うケースも多い。従って、不幸にもガンにかかった場合、そのガンの様々な性質をできるだけ詳しく調べ、その個性に合わせた治療を行うことが望ましい。原理的には、これは可能になってきたが、しかし一人の診断に膨大なコストがかかることになり、一般人の治療としては現実的でない。その代わり、多くのガン細胞について、できるだけ網羅的に性質を調べ、ガンに関わる分子の関わりをパターン化し、このパターンと、抗がん剤の効果を確かめやすいがん細胞株のパターンを対応させて、細胞株の薬剤の反応性から対応するガンの薬剤反応性を予測、ガン治療戦略を立てるための研究が進んでいる。
  今日紹介する英国サンガー研究所を中心にした英・米・蘭・独・西・仏・中の7カ国共同論文はガンの個別医療を実現するための基盤作りを行った研究だ。タイトルは「A landscape of pharmacyogenomic interactions in cancer(ガンの薬剤・ゲノム相互作用の全体像)」で、7月28日発行予定のCellに掲載されている。
   研究では、これまでガンやガンの大規模国際データベースTCGA, ICGCに蓄積されてきたガン細胞のゲノム・遺伝子発現・エピゲノムの結果と、1000種類に及ぶガンの細胞株のゲノミックスデータを比較して、実際のガンとがん細胞株とを対応させた後、ガン細胞株を用いた様々な抗がん剤の効果から、実際のガンに効果のある薬剤を予測できるデータベースを構築している。
   この研究の結果はウェッブサイト(http://www.cancerrxgene.org)に収められているので、最終的には医師が治療戦略を立てるときにこのサイトを参照する様になるのが目的だろう。
   膨大なデータを簡単にまとめると次の様になる。
1) ほとんどのガンは、1000種類のがん細胞株パネルのどれかと対応させられる。
2) 一般的な抗がん剤の効果は、ゲノムより遺伝子発現パターンと相関することが多い。例えばp53欠損とゲムシタビン。
3) いわゆる標的薬は、ドライバー突然変異の特定、遺伝子コピー数の変異、そしてメチレーションの順番で選択の確率と相関する、
4) ドライバー突然変異と薬剤の標的は必ずしも対応せず、例えばスプライシングに関わるU2AFの突然変異はFLT3阻害剤に感受性が高い場合が多い、
などが示されている。
   さらに、実際の臨床でこのデータベースを利用するための示唆について図を用いて示して、臨床応用がこの研究の目的であることを明言している。今後さらにこのデータベースを洗練させ、多くの医師が使える様にして欲しいと思う。
   世界レベルのプレシジョンメディシンの進展の様を見るにつけ、我が国の遅れが目につく。
   小手先の対応ではなく、一般病院で、ガンの患者さんがプレシジョンメディシンを受けられるためにはどうするか、明確な戦略をたて、これを実現しようとする強い意志を持った研究者を集めるところから始める必要がある。急がば回れ。
カテゴリ:論文ウォッチ

7月9日:膵臓癌に対するFAK阻害剤の効果(7月4日Nature Medicineオンライン版掲載論文)

2016年7月9日
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   ガンの治療成績は着実に進歩しているが、膵臓癌だけは何十年もほとんど治療成績の変化が見られず、医学研究をあざ笑っている。しかし論文を読んでいると、医学界も膵臓癌を重要な標的として研究を集中させているように思える。まだまだ前臨床段階なため、治療成績改善につながるところまでには至っていないが、将来は期待できそうだ。
   今日紹介するワシントン大学からの論文はマウス膵臓癌モデルを使った研究ではあるが、現在ある治療法の組み合わせを調べた研究で、比較的臨床に近いところにある研究だと思う。タイトルは「Targeting focal adhesion kinase renders pancreatic cancer responsive to checkpoint immuneotherapy(接着斑キナーゼは膵臓癌のチェックポイント免疫療法の効果をあげる)」だ。
   膵臓癌の特徴の一つはほとんどがras遺伝子の変異をドライバーとしていることで、多様性の面からみれば単純なガンだ。しかしrasに対する標的薬がないため、標的治療の対象にはなって来なかった。6月30日号のNatureには肺がんを対象としてras変異を、MEK阻害剤とFGF阻害剤の組み合わせで抑えられる可能性が報告されており(Manchado et al, Nature 534, 647, 2016)、ひょっとしたら膵臓癌や肺がんの治療を変えるかもしれない。
  もう一つの特徴は、ガンの周りの間質反応が強いことだ。ただ、この反応が膵臓癌を助けているのか、あるいは膵臓癌を抑えているのか、相反する意見がある。ただはっきりしているのは、このような間質反応が強いガンほど予後が悪い。
   この研究の発端は、間質反応の強い膵臓癌で細胞がマトリックスと相互作用するときに活性化される接着斑キナーゼ(FAK)が強く発現しているという発見だ。幸い、FAKに対しては阻害剤が存在し、さらに最近の第1相治験でも膵臓癌に対して効果があることが明らかになっている。そこで、マウス膵臓癌モデルを用いて、他の薬剤とFAK阻害剤の組み合わせを試したのがこの研究だ。
   様々な検討を行っている。FAK単独でも、あるいは膵臓癌に最も使われるゲムシタビンと組み合わせても、抗腫瘍効果を高める。ただ最終的にこの研究が標的にしているのは、膵臓癌で間質反応が誘導されコラーゲンの沈着が増えると、膵臓癌のFAKが活性化され、その結果分泌される主にCXCL12などのケモカインを介して、ガンの周りの炎症を誘導するが、この炎症ではガンに対する免疫を抑える細胞の浸潤が強く、ガンに対する免疫反応が起こらないという経路だ。要するに、FAKを抑制すれば、ガンに対する免疫を高めることが期待できる。
   結果は期待通りで、FAK抑制剤は間質反応を低下させ、ガンの周りにキラー細胞の浸潤を助ける。また、人工的な抗原を発現したガンを用いた実験で、ガンに対する免疫が高まっていることも観察している。
  最後に、低濃度のゲムシタビン+抗PD1抗体にFAK阻害剤を加える組み合わせでガンが強く抑制できること、またゲムシタビンを使わず、FAK阻害剤と抗PD1抗体+抗CTLA4抗体という最強免疫組み合わせでも、効果が上昇することを示している。ただ、どちらの治療も完全に治る割合はまだ低い。これは免疫療法の宿命で、ガン抗原ワクチンなどによる免疫を成立させることが今後の課題になる。
  これは動物を用いた前臨床研究でヒトに応用するにはまだ時間がかかるだろう。しかしやる気になれば明日からでも治験を始められる治療の組み合わせだ。ただ、これほど高価な、しかも異なる会社から提供されている薬剤を組み合わせる治験をどの体制でやればいいのか、難しい問題が残ってしまった。国の支援が必要な分野だと思う。
カテゴリ:論文ウォッチ

7月8日:組織局在を反映した遺伝子ライブラリー(7月1日Science掲載論文)

2016年7月8日
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   私たちの臓器を顕微鏡で見てみると、様々な種類の細胞が見事に空間的に組織化されているのがわかる。この見事さは顕微鏡や組織染色技術が開発されて以来、医学や生物学研究者を魅惑し続けてきた。その後遺伝子解析技術が進むと、この組織化の美は全て遺伝子発現の時間的、空間的調節の違いを基盤にしていることがわかってきた。この背景には、蛍光抗体法に始まる、組織内での個々の分子の局在を調べる様々な方法が開発され、多くの遺伝子の空間的発現パターンが明らかにされてきたことがあるが、特定の組織領域で発現している全ての遺伝子を調べる方法の開発は遅れていた。
  その後、PCRが開発されると、少ない細胞から遺伝子ライブラリーを作成することが可能になり、小さな領域、あるいはそこに存在する一個の細胞が発現している全遺伝子を調べることが可能になっている。このおかげで、遺伝子発現の空間的・時間的制御のメカニズムの研究は一段と促進された。
   しかし単一細胞ライブラリーなどこれまで用いられている方法は、一旦細胞を壊してしまうと、その由来や局在を結果から判断するしかなく、一種の自己矛盾を抱えていた。
   今日紹介するスウェーデン・カロリンスカ研究所からの論文は、組織からまず細胞集団を分離するこれまでの方法とは全く異なる方法で組織局所からの遺伝子ライブラリー作成法を報告しており、感銘を受けた。タイトルは「Visualization and analysis of gene expression in tissue section by spatial transcriptomics(空間的トランスクリプトーム解析を用いて組織切片の遺伝子発現を可視化する)」で、7月1日号のScienceに掲載された。
   組織切片を貼り付けるスライドグラスにRNAをトラップするプライマーを前もって塗布しておくのがこの方法のポイントだが、一種類のプライマーをただ塗布するのではなく、RNAを補足するためのプライマーを約1000種類の配列の異なるバーコードで標識し、回収した遺伝子の場所の特定ができるようにしている。
   具体的には6x6cmの領域を100μのスポットに区分し、それぞれのスポットに異なるバーコードのついたプライマーを塗ったスライドグラスを用意し、その上に組織を貼り付ける。
   組織を貼り付けた後、細胞膜を破壊すると組織中のmRNAは近くのプライマーに補足される。そこに逆転写酵素を加えてcDNAを合成すると、その局在を反映した遺伝子ライブラリーが合成できる。
  この後、組織を全て溶解するとスライドグラス上にはプライマーと結合したライブラリーが残る。これをプライマーごと全部回収すると、普通なら空間局在がわからなくなるが、局在はプライマーについたバーコードで特定できるので、欲しい場所のライブラリーを、バーコードを手掛かりに選択的に回収できるという算段だ。
   これを聞くと大変な技術かと思われるかもしれないが、DNAマイクロアレー作成に普通に使っている技術の応用で、これを組織局在を反映するトランスクリプトーム解析に使おうとした着想が素晴らしい。
   脳を中心に実際この方法をどう利用できるかデータが示されているが、紹介する必要はないだろう。著者らが意図した通り、局在を反映する高品質のライブラリーの作成に成功している。例えば単一細胞ライブラリーと比べて、含まれる遺伝子はほぼ倍になっている。
   おそらくどこかの会社が製品化し、脳研究、ガン研究を中心に、かなり普及するのではないかと思うが、21世紀のゲノムイノベーションがますます加速していることを実感させる面白い論文だった。
カテゴリ:論文ウォッチ

7月7日(七夕) 社会問題の科学4 失われた天の川(6月10日Science Advanceオンライン掲載論文)

2016年7月7日
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    社会問題の科学最終日に紹介する論文は、私たちが明るい夜を過ごす結果、本当の夜空が失われていることを科学的に示した研究で、七夕の今日こそ考えてみる価値のある社会問題を扱っている。
  この研究の責任著者のFabio Falchiさんの所属する研究所はInstituto di Scienza e Tecnologia dell’Inquinamento Luminoso、すなわち「光害」科学技術研究所で、この社会問題に特化した研究所があることに驚く。
   論文のタイトルは「The new world atlas of artificial night sky brightenss(夜空の人工光輝度についての世界地図)」で、6月10日Science Advanceにオンライン出版されている(Fabio Falchi et al, Science Advance, e1600577, 2016)。
   人工光源による夜の明るさを正確に示した世界地図を作ることがこの研究の目的だ。最初掲載された写真を見て、衛星からの画像を分析しただけかと思ったが、論文を読んでみるとさすが光害科学技術研究所からの仕事だけあって、測定に大変な努力を払っている。
   もちろん衛星写真データは、地図作成にとって最も重要な位置を占めており、フィンランドの極軌道を旋回する衛星から各地点を6ヶ月にわたって測定し、雲や雪など様々な条件を補正した世界地図を作り上げている。
   この地図をさらに正確にするため、「天頂」の輝度を各地点で測定するとともに、グーグルマップ作成時のように、車両に積んだ夜空の質を図る装置「Light quality meter」を用いて全ての大陸の様々な地点で測定を行い、約10000カ所での正確なデータをはじき出している。
   最終的にどう処理したのかは専門でないのでわからないが、これらの膨大な測定をもとに、夜の明かりの世界地図が作成され、何枚かの図に分けて掲載されている。なかなか美しいロマンチックな図だ。
   さてこの結果を一言で表すのは困難だが、まず現在地球上に住む人間の80%、米国やEU、そして我が国でも99%がまったく自然の夜空を知らずに生きていることに驚く。
   この論文では、天の川を見ることができるかどうかで線を引いて、天の川を見ることができない人の割合を各国で比較している。もっとも人工光の影響が強い国がシンガポールで、ここでは夜空自体が存在しない。次いで、クェート、カタール、アラブ首長国連邦、サウジアラビアと中東産油国が続き、アジアで最初に来るのが韓国になる。
  我が国はと目を凝らしてデータを探すと、アメリカやロシアより天の川を毎日見ることができる人口は多いが、それでも70%の人は天の川を見られない場所で生活している。    他にも、例えばガザ地区や、リビア、エジプト、そしてアイスランドまでが我が国より悪い数値になっている。    誤解のないようもう一度この数値を説明すると、夜空を汚染する人工光の輝度を6段階に分け、それぞれの領域で生活する人口の割合を比較に使っている。したがって、自然の夜空が存在する面積ではない。    すなわち、人口が都市に集中すればするほど、この数値は悪くなる。したがって、エジプトやリビアまでが我が国より汚染されているということになるが、決してリビアの砂漠の夜空が失われたわけではない。   一方、天の川の見られる場所の面積も示されている。G20の国でみると、我が国の60%の場所で天の川が見られる。この数値は、ドイツやフランスよりよく、要するに少しドライブすればまだ天の川を見ることができる。    あとはこの結果をどう受け取るかだ。日本人としては、七夕の天の川がなくなるのは寂しいが、しかし1時間もドライブすれば天の川を見ることができるなら深刻な問題にならないだろう。正直な気持ちを述べると、個人的には、真っ暗な夜道の方が不安を感じる。確かに「光害」も社会問題だが、これを社会問題として受け止められるようになったら、その国は物心両面で豊かな、成熟した国と言っていいだろう。我が国にそんな日が来るのだろうか。
カテゴリ:論文ウォッチ

7月6日:社会問題の科学3 熱帯雨林環境破壊(Nature オンライン版掲載論文)

2016年7月6日
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    社会問題の科学特集3日目は、ランカスター大学をはじめとする数カ国の国際チームがアマゾンの熱帯雨林環境破壊について行った調査研究を紹介する。タイトルは「Anthropogenic disturbance in tropical forests can double biodiversity loss from deforestation (人間による熱帯雨林の乱れは森林破壊による生物多様性の損失を倍加させる)」で、Natureオンライン版に掲載されたところだ。
   この研究は本来社会学というより、生物学の一分野である生態学研究に分類できる。しかし、最初から熱帯雨林破壊という社会問題を科学的に解決する糸口を見つけたいという明確な社会的目的を持って行われている点で、社会問題の科学と呼んでいいだろう。
  さらに一万年前と比べると熱帯雨林を始めとする原生林の8割以上が失われ、現在も失われ続けており、二酸化炭素問題を始め地球レベルの変動の原因になっている。ただ、この変動は人間の活動によってもたらされたもので、この変動についての生態学的研究は自然と人間の接点でおこる社会問題の科学になる。
   もちろん我々も熱帯雨林破壊が地球に及ぼす影響は十分認識しており、多くの政府も経済発展を犠牲にしても熱帯雨林を保護する政策を取り始めている。ただ、この政策の中心は森林を完全に破壊することの規制にだけ向けられており、ジャングルの中で行われる様々な人間の活動についての評価はほとんど行われていなかった。
   この研究の目的は、森林内で行われる選択的伐採、人為的な焼畑や火事が、アマゾンの熱帯雨林の生物多様性に及ぼす影響を調べ、エビデンスに基づいて森林内での人間の活動の規制について提言することだ。
  研究ではブラジルパラ州の熱帯雨林の様々なローケーションにある水場での、植物、甲中、鳥類の定点観察を2年にわたって行い、その周辺で行われた人為的活動が生物多様性に及ぼす影響を調査している。実際156種、150万個体の観察に基づいて生物多様性の保存の程度が評価されており、大規模な研究であるのがわかる。
   膨大な結果が示されているが、全ての詳細を省いてまとめてしまうと、
1) 森林を完全に破壊することで当然生物多様性もほぼ完全に失われる、
2) ただ、これまで規制の対象になっていた大規模破壊だけでなく、森林内で行われる一部の植物の伐採や、人為的焼却も、生物多様性喪失に大きな要因になっている。
という結論になる。
   経済目的での大規模破壊が規制され、熱帯雨林が一見保護されているように見えても、ジャングルの中で行われる人間の様々な活動も規制しないと、生物多様性が失われ、その結果森林も失われることを警告している。そして様々な熱帯雨林の状況に即した実行可能な政策を提言している。
   1ヶ月もするとブラジルはオリンピックに沸くだろう。しかしその経済状態を見ると、このような提言を実行に移す余裕はないと思う。この研究と同じような、国際的プロジェクトチームがブラジル政府と協力してこの提言を実行していくしかないだろう。いずれにせよ、社会問題の科学も、それが政策として実行されなければ、生物学で終わる。
カテゴリ:論文ウォッチ

7月5日 社会問題の科学2:科学社会学(6月30日号 Nature掲載論文)

2016年7月5日
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   社会問題の科学特集2日目は、科学自体が抱える問題、すなわち科学社会学の論文だ。
   科学の発展を左右する一つの鍵は、分野の殻に閉じこもらず、様々な領域の研究者が協力して新しい分野を切り開く力だ。これを学際協力と呼ぶが、その手本と言えるのが、ネアンデルタール人ゲノム解読で有名なペーボさんが立ち上げたドイツライプチヒ・マックスプランク進化人類学研究所だろう。研究所の部門構成をみると、進化遺伝学、言語学、人間行動学、人間進化学、サル学、比較発生生理学からなっている。特に言語学と遺伝学のように全く離れた分野の学問が、人間進化学やサル学を仲立ちに一つの研究所に同居する部門構成をみるとペーボさんの未来志向がよくわかる。
   国も学際協力の重要性をよく理解しており、 例えば我が国の新学術領域のように助成を重点的に行う姿勢を示しているが、新しい学際的研究所が生まれるまでにはまだまだ道は険しい。
   この原因の一つは、学者自身の交流が狭いことにある。実際現役の頃を振り返ると、広い領域の人と交流する余裕はほとんどなかった。
   今日紹介するオーストラリア国立大学からの論文は、学際協力を目指す助成申請書を審査する側にも、学際協力を阻む要因があることを示した研究で6月30日号のNatureに発表された。タイトルは「Interdisciplinary research has consistently lower funding success (学際研究は常に採択率が低い)」だ。
  オーストラリア政府も学際協力を推進しており、自然科学から人文科学に至る広い基礎研究を同じ枠内で助成する「The Discovery Programme」を設けている。この研究では、5年間にわたりこの助成金を申請した18476件の申請内容を分析し(採択率は15−20%)、申請の学際率を申請者が属する領域から計算している。計算方法は、進化過程でそれぞれの種がどれだけ離れているかを形態から計算するときに用いられる手法を用いている。ただ、領域の距離の算定方法はかなり恣意的に行われている印象だ。
   この方法を用いると各申請は0〜1の範囲のどこかに分類される。0に近いほどよく似た領域、1に近いほど離れた領域になる。この数値と、実際の採択率をプロットしたのがこの研究のハイライトで、学際率と採択率は見事に負の相関を示すというのが結論だ。
   これが、オーストラリア内での研究所のレベルに影響されているのか、あるいは有力研究者の参加と関係あるかなど、様々な要因の影響を調べているが、結論としては誰がどの研究所から申請しようと、学際研究は採択率が低いという結論は変わらないようだ。
   科学が仲間による審査を基盤に成立している限り、学際協力研究の発展は難しいことをこの研究は示している。事実ペーボさんの著作を読むと、研究所の部門構成は自由に構想したようだ。とすると、学際協力を推進するためにはもっと違ったメカニズムが必要だと思う。
カテゴリ:論文ウォッチ

7月4日:社会問題の科学1:テロ集団での女性の役割(Science Advancesオンライン版掲載論文)

2016年7月4日
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   社会学を、学者のもっともらしい見識だけに頼る学問から、科学的手続きを経た社会科学へと発展させることは21世紀の課題だ。トップジャーナルの編集者もこの使命を十分認識しており、社会問題を科学的に分析した論文を積極的に採択している印象がある。特にScienceやNatureなどの科学全般を扱う雑誌を見るとこの傾向が最もよくわかる。実際、私がサマリーに目を通して紹介してもいいなと思った論文だけでも、この2週間で4編にのぼった。そこで、今日から4回にわたって、社会問題の科学と題してこの4編の論文を紹介することにした。
   初日はネット上のテロリスト集団について精力的に研究を続けているマイアミ大学から、ネット上で特定できるテロ集団内の女性の役割を調べた論文がScienceの姉妹紙、Science Advancesに発表されているので紹介する。タイトルは「Women’s connectivity in extreme networks (テロ集団での女性の連結性)」だ。
   テロリスト集団の中心は男性が占めていると思いがちだが、テロ実行犯に限らず、女性の重要性が認識されるようになっている。この研究では、ロシアのSNSサイトVKontakte上の投稿を、「イスラム国」「シリアに対するジハード」などのキーワードで検索し、この中から個々のイスラム国支持集団を割り出し、それぞれの集団の中での女性の役割を、ネットワーク上の発信数と広がり、ネットワーク上での活動期間などから分析している。
   この研究でなぜフェースブックでなく、ロシアのVKontakteを対象にしたのかは、先月に同じグループの研究を紹介した時(http://aasj.jp/news/watch/5404)述べておいたが、 1) フェースブックと違って、テロに関わるサイトも閉鎖されないこと、 2) チェチェンなどテロリスト集団の多い地域をカバーしていること、 などの点から、VKontakteはイスラム過激集団のネット上の活動を研究する目的には欠かせないネットサイトのようだ。
   具体的には2015年2、3月の2ヶ月間の書き込みの分析から、一つの閉じたイスラム国支持グループが抽出され、それぞれのメンバーがどのような役割を演じているのか、ネット上での活動状況から解析している。
   結果は、多数のメンバーとつながり、情報や物の受け渡し、メンバーのリクルートに中核的役割を果たしているのは女性が多いことが明らかになっている。
   また同じ分析を幾つかの個別のグループで行い、女性の重要性と、組織の寿命を調べると、女性の役割が高いほど組織の寿命が長いことを示している。
   この分析結果が、ネットという新しい媒体の登場によって生まれたのか、テロ集団支持組織の一般的特徴かを調べるため、この研究では詳しい活動記録を得ることができる北アイルランドのテロリスト集団アイルランド共和国軍についても分析を行い、テロの激化に呼応して、女性の果たす役割が高まっていることを明らかにしている。
   以上、「政府機関にマークされにくい」、「実行犯として働くことが少ない」などの条件から、テロ集団の活動期間が長くなれば、自然に女性がネットワークの中核を占める傾向があるというのが結論だ。
   読んでなるほどと納得する論文だが、この研究のスポンサーになっている軍に有益でも、一般人の立場から考えると、知ってどうなるという気持が先に来る。ただテロ集団に限らず、ネット分析を通した集団分析が社会学の中心になることを示す意味で、Science Advanceに掲載されたのだろう。今後さらに技術が進んで、テロリストの心理まで分析が可能になれば、科学のトップジャーナルのこのような論文が登場する機会は増えるような気がする。    最後に我が国のテロ集団について記憶をたどって思い出してみると、赤軍派が繰り返したハイジャック事件、オウム真理教の麻原彰晃だけでなく、連合赤軍事件の永田洋子、日本赤軍の重信房子と女性が中心的役割を果たしている事件が多い。これが偶然なのか、必然なのか?学者の見識にだけ頼らない分析が重要だろう。
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