8月20日:急速に進展するゲノム構造化に関する研究(8月13日号Cell掲載論文)
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8月20日:急速に進展するゲノム構造化に関する研究(8月13日号Cell掲載論文)

2015年8月20日
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ゲノムはただの遺伝子の集まりではなく、構造化していることで働きが維持されている。このことを最もよく理解できるのが前後軸や指の数や形を決めるのに関わるHox遺伝子だろう。例えばHoxA1からHoxA13の発現を調べると、人間では頭からお尻までゲノム上に並んでいる順番に従って順序正しい発現が見られる。この順番は左右相称動物が現れて以来ほとんどの動物で維持されていることから、構造自体が重要であることがわかる(これについては現在生命誌研究館のホームページに書いてあるので参照してほしい:http://www.brh.co.jp/communication/shinka/2015/post_000012.html)。一方最近Natureに発表されたタコのゲノムを見ると、Hox遺伝子は構造化されておらず、納得する。面白いことに同じ論文では、プロトカドヘリンと呼ばれる神経細胞のアイデンティティーを決めている分子をコードするゲノム領域がヒトやマウスと同じように構造化されて保存されていることを示しているが、この領域の解析を行った研究が上海交通大学から8月10日号のCellに発表された。タイトルは「CRISPR inversion of CTCF sites alters genome topology and enhancer/promoter function (クリスパーを使ってCTCF結合部位を反転させるとゲノムのトポロジーが変化し、エンハンサーとプロモーターの機能が変化する)」だ。遺伝子の並び方も構造化の重要な方法だが、遺伝子の発現を調節するエンハンサーとプロモーターの関係を決めるための大規模な構造化について現在急速に研究が進んでおり、このホームページでも6月3日に珍しく図入りで紹介した(http://aasj.jp/date/2015/06/03)。この構造化を決める分子の主役がCTCFとコヒーシンという二つの分子だが、この研究は、この分子が方向性を持って結合することでDNAの折りたたみの方向性を指示してエンハンサーとプロモーターの距離を決めることで転写を調節していることを明らかにした。この研究の責任著者のWuさんはManiatis研究室でこの遺伝子を研究してきた研究者のようだが、これまでの研究で、200近く存在するプロトカドヘリンのプロモーターの上流にあるCTCF結合部位と、それを調節するエンハンサーの近くに存在するCTCF結合部位の配列が逆さまに向き合っていることがわかっていた。プロトカドヘリンにはα、β,γの3種類が存在するが、エンハンサーとプロモーターのCTCF結合部位が逆向きに向き合っている場合だけ、プロモーターとエンハンサーが位置的に近くに引き寄せられることを示している。そこで、αカドヘリンを支配しているエンハンサー近くのCTCF結合部位を逆さまにしたところ、エンハンサーとプロモーターのトポロジカルな距離が遠くなり、転写の効率が低下する。同じルールがプロトカドヘリンだけでなく他の遺伝子にも当てはまるか調べるため、ゲノム全体のエンハンサーとプロモーターの関係についてデータベース解析を行うとともに、遠く離れたプロモーター、エンハンサーの関係が詳しく研究されているヘモグロビン遺伝子についてもCTCF結合部位をクリスパーで逆さまにするなど膨大な実験を行い、このCTCF+コヒーシン結合部位の方向性によりDNAの折りたたみの方向性が決まり、転写ユニットの幾何学的距離を決めていることを示している。詳細は全部省くが、膨大なデータをうまく整理しており、最終結論はシンプルで十分説得力がある。クリスパーを多用したゲノム編集、ゲノムのトポロジー解析、データベース解析など最新の技術を用いて重要な問題を解決する実力がうかがえる論文だった。現役時代にこれができただろうかと考えると、引退して良かったと思うほどだ。私にとっても、CTCFとコヒーシンの関係や意味、インシュレーターのメカニズムなど、ゲノムの構造化についての頭の整理を大きく進めることができた。Hoxもプロトカドヘリンもゲノムの構造化が最も明確な遺伝子だが、タコでHoxが構造化されず、プロトカドヘリンが構造化されている意味もよくわかった。異論はあるようだが、中国の生命科学の躍進を感じさせる論文だ。読んだ後この分野の我が国の現状について少し心配になるが、誰か知っている方がおられたら、ぜひこのページに書き込んでほしい。
カテゴリ:論文ウォッチ

8月19日:バレット食道とトランスポゾン(米国アカデミー紀要オンライン版掲載論文)

2015年8月19日
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この歳になると体のあちこちに異常が出てきて、経過観察のためお盆明けに内視鏡検査を含む健康診断を受けるのが恒例になっている。特に気になるのが、数年前から食道にあるバレット食道だ。バレット食道とは、食道の扁平上皮が一層の円柱上皮に変化する異常で、前癌状態と言われている。ただ、食道なので、これがあるから手術で予防的にとってしまうというわけにはいかない。もともと欧米人の一割がバレット食道にかかっていると言われる頻度の高い状態であまり気にしていなかったが、昨年6月に紹介したようにバレット食道細胞にはp53,SMAD以外のほぼ全ての遺伝子変異が存在しているという論文(http://aasj.jp/news/navigator/navi-news/1748)を読んでからはだいぶ気になる。今年も変わりなしと言われてホッとしたところだ。さて、今日紹介するジョンズホプキンス大学からの論文は食道で正常の細胞では動かないトランスポゾンが動き出し、ゲノムの他の場所に飛び込んでいることを示す論文で、米国アカデミー紀要オンライン版に掲載された。タイトルは「LINE-1 expression and retrotransposition in Barrett’s esophagus and esophageal carcinoma (バレット症候群と食道癌ではLINE-1トランスポゾンが発現し転移する)」だ。LINE-1は私たちのゲノムにもっとも多く存在するトランスポゾンで、実にゲノム全体の2割超を占める。普通の細胞では染色体の構造を変えて飛び込んだLINE-1の動きを押さえ込んでいるが、多くのガンで再活性化することが知られている。この研究では、バレット食道5例と、バレットと食道癌が並存している5例のバイオプシー組織の遺伝子を調べ、正常組織と比べることでLINE-1の活性が起こっていないか調べている。結果は5例のバレット食道のうち4例で20箇所の新しいLINE-1の転移が発見され、そのうちの半分はほとんどの細胞で見られる変異であることが分かった。このことから、バレット食道になってトランスポゾンが動いたと考えるより、正常細胞で突然LINE-1が活性化され、原因かどうかは不明だがバレット食道で選択的に増大していることがわかる。次に食道癌へ発展した患者5例で、正常部分、バレット食道部分、そしてガン部分を別々に取り出しLINE-1の変化を調べると、バレット食道からガンが発生したのがわかるグループ、両者の関係がはっきりしないグループ、そして正常細胞でLINE-1が動き始めたグループを特定できるが、症例数が少なくはっきりした結論が出ない。そこで、食道癌のサンプルの数を増やして調べ、食道癌のほとんどでLINE-1が活性化され、その中からガンが発生していることを確認している。LINE-1が動くためにはLINE-1がコードする遺伝子の発現が必要だが、確かにガンやバレット食道ではLINE-1にコードされたタンパクの発現が見られている。また、正常部分でも弱いながらも発現が見られ、異常が起こる前から食道では弱いながらもLINE-1が活性化されている可能性を示唆している。最後に、LINE-1が新たに組み込まれた場所に発ガン遺伝子が存在するか調べたところ、イントロンに新しく組み込まれた48個のLINE-1のうち半数がガンに関連している遺伝子のイントロンで、LINE-1の転移が発ガンに寄与している可能性を示唆している。少し結果がゴタゴタしすぎた印象があるが、結論として正常細胞でLINE-1が弱いながらも活性化され、転移が起こると、その細胞が選択的に拡大し、バレット食道に発展する。バレット状態ではLINE-1の活動がさらに活発になり、場合によりガンになることもあるという結果だ。重要なことは、LINE-1以外にも私たちは多くのトランスポゾンを持っており、これらはLINE-1の活性を使って転移する。したがって、これ以外にも多くのトランスポゾンがバレットから食道癌への過程で動いている心配がある。もちろんトランスポゾンの変異だけでガンになるわけではないし、飛び込んだトランスポゾンを抑え込むメカニズムもある。しかし、数を増やして全ゲノム解析を進め、他のトランスポゾンが便乗していないか、トランスポゾンを抑え込む機構が正常に働いているのか調べる必要があるだろう。せっかく今年もほっとしたところなのに、心配になる論文を読んでしまった。
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8月18日:発ガン遺伝子の作用を逆手に取る(8月10日号Cancer Cell掲載論文)

2015年8月18日
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細胞が必要とする時にmRNAを転写するのに関わる遺伝子を転写因子と呼ぶが、直接DNAに結合して転写部位を支持する分子に加えて、転写のための分子間相互作用を増強するための多くの分子が参加する。これらを転写のコアクティベーターと呼ぶが、多くのガンでこのコアクティベーターが上昇しているのがわかっている。ただ、コアクティベーターは正常細胞でも重要な働きをしており、その機能を抑制すると正常細胞の活動も阻害されることが予想される。今日紹介するテキサス・ベーラーカレッジからの論文はコアクティベーターの一つSRCを抑制するのではなく活性化してガンを殺せないか調べた研究で、8月10日号のCancer Cellに掲載された。タイトルは「Characterization of a steroid receptor coactivator small molecule stimulator that overstimulates cancer cells and leads to cell stresss and death (ガンを過刺激して細胞ストレスと細胞死を誘導するステロイド受容体コアクティベーター分子の刺激化合物の研究)」だ。この論文は、レチノイン酸受容体など核内受容体に結合する分子として単離されたSRC(ステロイド受容体コアクティベーター)の活性を刺激する化合物MCB-613の作用機序の研究と言える。もともとステロイドホルモン受容体のコアクティベーターであることから、SRCと乳ガンの関係はよく研究されており、半分以上の患者で発現が高く、また発現が高い場合予後がよくないことが知られている。さらに、乳腺でこの分子を発現させると乳ガンが発生することもわかっていた。このグループはこの分子の阻害剤も開発しているが、今回は刺激剤MCB-613がガンの増殖を抑制できるかどうか検討することから始めている。この分子がSRC特異的に作用することを確かめた後、様々なガン細胞株を処理すると、細胞内に小さな空胞が集まる特徴的な死に方をすることを確かめた。例えばアポトーシスやネクローシスといった一般的なガン細胞の死に方とは違って、核酸の切断などは見られない。この特徴からパラプトーシスと呼ばれる細胞内ストレスと呼ばれる細胞死がMCB-613で誘導されているのではないかと、詳しく調べて、確かにパラプトーシスが起こっていることを証明している。あとは、MCB-613により確かにSRCの活性が亢進して多くの遺伝子の転写が亢進するとともに、この分子がパラプトーシスを誘導していること、またSRCにより酸化ストレスが細胞に誘導され、これが更にSRCの活性を上げることで、正のサイクルが止められずに細胞が死ぬことなどを明らかにしている。これにはSRCのリン酸化が関与することなど詳しく調べられているが、詳細はいいだろう。コアクチベーターの発現が亢進しているガン細胞では、この活性を更に亢進させると酸化ストレスが上昇するとともに、多くのタンパクが翻訳されるERストレスも亢進して、細胞内に空胞ができ、パラプトーシスで死んでしまうというシナリオだ。分かりやすく言うと、ガンは自分の必要性に合わせて転写を亢進させているが、そこに油を注いで、制御不可能にしてやろうという戦略だ。その上で、マウスに注射したガン細胞の増殖をMCB-613が抑制することを示している。転写因子やコアクティベーターに対する薬剤の開発はもともと難しいが、ガンに特異的な転写因子にだけ焦点を当てず、ちょっと変わった視点からガン制圧の挑戦を続けている人たちがいることを知ることができる、面白い論文だと思う。まだまだガンにも弱みはある。
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8月17日:乳ガン発生過程でのリプログラミング(Natureオンライン版掲載論文)

2015年8月17日
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8月8日と昨日、肝臓の幹細胞研究について紹介したが、どちらの研究でも幹細胞だけで発現する遺伝子に望む時にスウィッチオンできる標識遺伝子を組み込んだモデル動物を使って、特定の時期に標識された幹細胞がどの細胞へと分化するかを調べる方法を用いている。私たちもこの方法を用いて研究を行ったが、動物の開発に時間とコストがかかる。しかしうまくいくと成果は大きく、特に思いもかけなかった新しい発見につながる可能性が高い。今日紹介するブリュッセル自由大学からの論文もそんな例で、乳ガンの発生起源について全く新しい可能性を示しNatureオンライン版に掲載された。タイトル「Reactivation of multipotency by oncogenic PIK3CA induces breast tumor heterogeneity (発ガン遺伝子PIK3CAは多能性を誘導して乳ガンを多様化させる)」だ。この研究はベルギーを代表する若手幹細胞研究者Cedric Blanpainのグループにより行われた。ケンブリッジの幹細胞研究所のアドバイザーを共に勤めたが、研究だけでなく、研究所の運営にも意見を述べることができる、これからのヨーロッパの幹細胞分野を牽引する人材だ。もともと皮膚の幹細胞を研究していたが、彼らが使っていた標識が乳腺の幹細胞の追跡に使えることを発見し、乳腺の幹細胞に関する重要な貢献をNatureに発表した。乳腺は内腔側の管腔細胞とその外側にある基底細胞からできている。乳腺は比較的単純な臓器の割には、ガンになると多様な組織像を示し、一般的に管腔細胞ガンはエストロジェン受容体や、Her2の発現が維持されている予後のいいガンだが、基底細胞ガンはいわゆるトリプルネガティブと呼ばれる予後の悪いガンであることが多い。Cedricらは2011年、管腔細胞と基底細胞を別々に標識する方法を開発しているが、この研究ではこの標識法を用いて、乳ガンに多く見られる変異型PIK3Ca分子を管腔細胞、基底細胞に導入し、ガンの発生を調べている。おそらく最初は管腔細胞にガン遺伝子を導入するとおとなしい管腔細胞ガンが、基底細胞にガン遺伝子を導入すると悪性の基底細胞ガンができると予想して実験を行ったのだろう。ところが全く予想に反し、基底細胞にPIK3Caを導入するとほぼ100%おとなしい管腔細胞ガンになり、管腔細胞に同じガン遺伝子を導入すると基底細胞ガンと呼んでいい多様なガンが発生してしまった。これにp53変異が加わっても、この傾向は変わらないが、基底細胞からも多様なガンが生じる確率が高まる。なぜこの逆転が起こるのかを追求した結果、変異型PIK3Ca導入により管腔細胞も基底細胞も多分化能を獲得することを発見した。次にPIK3Ca遺伝子導入により誘導される遺伝子発現を比べ、この差が生まれる原因を探っている。結果はまだ解釈の段階でしかないと思うが、同じ遺伝子が発現して、同じように多能性が獲得されても、誘導される遺伝子の多くは異なっており、最初の細胞の状態により、リプログラムのされ方が違っているため、最終的にガンの性質の差になっていると結論している。もちろん、両方で共通に発現している遺伝子もあるため、これが多能性獲得に関わるのだろうと示唆している。メカニズムについてはこの研究で全てが明らかになったわけではないとおもう。しかし、乳がんを考える上で極めて大きな貢献であることは間違いない。なぜ乳ガンでPIK3Ca遺伝子変異が多いのか、乳ガンの多様性はどうして起こるのかなど、私の頭の整理もだいぶついた。今後この発見を核に、乳ガン研究は違った展開を見せる気がする。
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8月16日:再生のための肝臓の幹細胞(8月13日号Cell掲載論文)

2015年8月16日
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肝臓の幹細胞についての研究がホットなようだ。つい1週間前8月8日、定常状態の肝臓細胞の再生は中心静脈の周りに存在するAxin2分子を発現している細胞が担っていることを示す論文を紹介した(http://aasj.jp/news/watch/3894)。今日紹介するカリフォルニア州立大学サンディエゴ校からの論文は、肝臓が様々な理由で障害された時の肝臓再生に関わる幹細胞についての研究で8月13日号のCellに掲載された。タイトルは「Hybrid periportal hepatocytes regenerate the injured liver without giving rise to cancer (門脈周囲のハイブリッド幹細胞は障害された肝臓をガンを誘発することなく再生する)」だ。この論文を読むと、頭のいい実力派の米国研究者(この場合Karin)が、これまでの研究をうまく拝借して、面白いストーリーを仕上げる論文の典型であるのがわかる。肝臓は障害を受けたとき強い再生能力をもっている。だからこそ生体肝移植のドナーは大きい方肝臓を提供しても、残りを再生させて正常な肝機能を回復できる。前回紹介したAxin2幹細胞は定常状態の自己再生に関わり、障害を受けた時の再生には関与しない。ではどの細胞が関与するのか、これまで多くの研究が行われてきた。我が国からも高いレベルの研究が生まれている。Karinがこの分野を研究しているとは思わなかったが、この仕事はまず以前紹介した京大の川口さんたちと同じSox9を使ってこの幹細胞を標識できることを示している。ただ、この系が標識の特異性に問題があることをよく考慮した上で、最終的にSox9の発現が低い肝細胞が再生に関わる可能性に到達した。実際、同じ標識による追跡実験だけではそれほど説得力はない。このことは百も承知で、肝臓細胞にだけ感染するアデノウイルスやアデノ随伴ウイルスを使った2重標識でこれまでとは違う細胞であることを示し、最後は高濃度のタモキシフェン投与だけでラベルできる細胞が多くあることを利用して、細胞を精製し、これが肝細胞と胆管細胞の両方の性質を持った新しいポピュレーションであることを示している。確かに肝臓幹細胞が両方の性格を持つことは示唆されていたが、細胞を培養せずに直接精製して遺伝子発現を調べることで説得力が上がっている。そして、この細胞を数万個脾臓に移植するだけで、細胞移植がないとほとんどが死ぬ障害モデルで、移植によって100%生存できることを示している。その上で、この細胞による再生は肝臓の組織構築をそのまま再構築することまで示している。たしかにここまでくると説得力が急速に上がる。そして最後に、この細胞からはガンにならないことを3つのモデル実験系を用いて示して、うまく論文の価値を高めている。確かに、この論文が正しければ、肝臓がんを考える時、今までのように障害、再生のサイクルモデルは間違っていることになる。この魅力的声明によって、ハイブリッド肝細胞という新しい名前とともに、この分野でこの考に沿った検証を進める研究者が増えるだろう。この分野の研究者は、何かトンピに油揚げをさらわれた感じで、やりきれない気持ちになっているのではと思う。しかし油揚げをさらえるのも、アメリカの層の厚さだろう。研究としてはテクノロジーの問題をよく認識して、総合力で新しい考えを出したいい研究に思える。当分この分野は熱そうだ。
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8月15日:新生児糖尿病の遺伝子検査の重要性(7月29日号The Lancet掲載論文)

2015年8月15日
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生後6ヶ月までに糖尿病と診断される場合、1型糖尿病と区別して新生児糖尿病と呼ばれている。診断基準も明確で診断を間違うことはない。ただ、明確な遺伝的原因があることが多く、また原因遺伝子により多様な病態を示すため、症状に基づいて診断をつけるだけでなく、原因遺伝子まで特定することが重要になる。我が国で遺伝子検査がどれだけ普及しているのか現状について把握していないが、今日紹介する英国エクセター大学医学部からの論文は、この病気は診断がついた後できるだけ早く遺伝子検査を行うことの重要性を明確に示した論文で、7月29日号のThe Lancetに掲載された。タイトルは「The effect of early, comprehensive genomic testing on clinical care in neonatal diabetes: international cohort study (新生児糖尿病の診療には早期で徹底的ゲノム検査が必要だ:国際コホート研究)」だ。研究では79カ国の新生児糖尿病と診断された1020人の乳児の細胞をエクスター大学に送付し、原因として特定されている21種類の遺伝子と、6番染色体の特定領域のメチル化解析を行っている。この1次検査で診断がつかなかった場合は、おそらくゲノムキャプチャー法を用いていると思うが、原因としての可能性が示唆されている全ての遺伝子の配列決定を行っている。結果だが、この方法で実に82%の患者さんの原因遺伝子を特定できている。将来エクソームや全ゲノムシークエンスが用いられるようになればさらに診断率は上がるだろう。重要なのは、親族関係のある夫婦の子供と、親族関係のない夫婦の子供を比べると、原因遺伝子が大きく違っていることだ。例えばこの病気でもっとも頻度の高いK-ATPチャンネルの変異は、親族婚では比率が大きく落ち、逆に非親族婚では極めて稀な翻訳開始因子ELF2AKのホモ変異が大きく増加している。遺伝子がわかったところで結局は同じと思われるかもしれないが、遺伝子が特定できると、適切な治療方針を決めることができる。メチル化異常やK-ATPチャンネル異常の一部のように治癒できる場合もある。あるいはインシュリンから経口糖尿剤へ移行する可能性の予測もできる。さらに重要なことは、原因遺伝子によっては他の症状が発生することも多く、例えばEIF2AK遺伝子変異では糖尿発症後数年して筋肉症状などが現れWolcott-Rallison症候群と診断されるが、これを前もって予測することができる。示されたデータを見ると、かなり詳細な経過予測が可能になっていることがわかる。施設の能力の関係で、2000年にこの研究がスタートした時は診断までに平均4年かかっていたが、現在では3ヶ月以内で診断がつくようになっている。その上で、早期遺伝子診断を行うことの重要性を論文では強調している。現在なら同じ検査は多くの国で可能になっているはずで、原因遺伝子特定までの時間はもっと短縮されているだろう。新生児から乳幼児期は発達にとって極めて重要な時期だ。この病気については、症状により診断がつけば良いと済ますのではなく、原因遺伝子特定を診断の原則とするよう我が国でも体制を整えて欲しいと切に願う。
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8月14日:お盆休みの話題作り

2015年8月14日
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昨日は科学雑誌が掲載した研究論文以外のコメンタリーや声明を紹介したが、今日はお盆休みの話題作りに、最近2週間に私が目にして「エ!こんなことも論文になるの?」と思った研究論文を一挙紹介しよう。最後はまたまたシマウマの縞の話だ。ただ断っておくが、あまり真面目には読んでいないのでそのつもりで。 1)A qualitative investingation of the perceptions of female dog bite victims and implications for the prevention of dog bites (犬に噛まれた女性被害者の定性的調査と噛まれないための示唆):Journal of Veterinary Behavior オンライン版掲載。リバプール大学からの論文で、犬に噛まれるのは犬を理解していないからだという通説について、8人の犬に噛まれた女性のインタビューにより検証している。検証といっても、インタビューの主観的印象を述べているだけで、もちろん統計的数字といったものは一切示されない。結局、噛まれないためのはっきりした方法はないという結論が出てくると、論文といっていいのか不安になる。一番面白かったのは研究者の所属で、「不確実性研究部門」というのは論文の結論を先取りしている。 2)Consumption of spicy foods and total and cause specific mortality: population based cohort study (スパイスの効いた食事と死亡率:集団cohort調査):British Journal of Medicineオンライン版掲載論文:食の国中国のバイオバンクからの論文で、30歳から79歳までの集団45万人近くを約7年追跡し、死亡率とその原因を調べ、スパイシーな食事との関連を調べている。四川料理の国ならでの研究だが、スパイシーな食事をほぼ毎日とっている人の死亡率は低く、この傾向はアルコールを飲まないでスパイシーな食事をしている人ほど顕著だという結果だ。また、ガン、心血管障害、呼吸器疾患と死因別に見てもスパイシーな食事は良さそうだ。ただ、民族差の影響も見て欲しい気もある。中国は広い。 3)Weight perceptions in a population sample of English adolescents: cause for celebration or concern? (英国少年・少女の体重についての意識:喜ぶべきか心配すべきか?)International journal of Obesityオンライン版掲載論文。約5000人の12−15歳の英国少年・少女の体重やBMIを測定するとともに、太り過ぎと思っているか聞いた調査で、太り過ぎと思っているのが正常体重のグループで7%、太っているグループで60%と予想通りだったという結果だ。過度なダイエットに走っているようではないのでいいのだが、太っている40%が正常体重と思っているのは少し心配している。ぜひ我が国のデータも見てみたい。 4)The role of stripe orientation in target capture successs(縞の方向性が捕捉されやすさに及ぼす影響): Frontiers in Zoology オンライン版掲載論文。ケンブリッジ大学からの論文で、このホームページでも恒例のシマウマの縞の機能についての研究だ。昨年4月(http://aasj.jp/news/watch/1345)、及び今年の2月(http://aasj.jp/news/watch/2841)にシマウマの縞が保護色ではなく、最初の論文では虫に刺されて血液を失うのを守るため、2番目の論文は皮膚の温度差による換気のためという結論を示していることを紹介した。ただ、誰もが考える保護色論は完全に否定されたわけではない。縞は保護色としての作用が全くないのか調べた研究がこの論文で、横縞、縦縞、斜め縞の物体が画面上を動くとき捕捉のしやすさを人間で確かめている。ライオンでやれないのが残念だが、結果は一つの物体だけが動くときには横縞が最も目立つ。ただ、縦縞、斜め縞は模様なしとあまり変わらない。一方、6種類のパターンが同時に動いている画面で、特定のパターンを捕捉する実験では、差はなかったというのが結果だ。いずれにせよ、縞は保護色として大きな役割はしていないというのが結論のようだ。ただ、このグループはケンブリッジ大学の生理学の研究者で、動物学はそれほど知らないと思う。実際シマウマは、胴体前方は縦縞、後方は斜め縞、首と足は横縞だ。まあ、ちょっと思いついたことも結果を出して論文にするのは見上げた心意気だ。 5)ただ、シマウマの縞が保護色かどうか、私たちの感覚だけで決められないことを明確に示すカリフォルニア州立大学バークレイ校からの論文を見つけた。Science Advanceオンライン版に掲載された「Why do animal eyes have pupils of different shapes?(なぜ動物の瞳は違った形をしているのか?)」がタイトルだ。この研究は、夜行性肉食獣のほとんどの瞳が縦型(猫型)なのに対し、餌になる昼行性の草食動物の瞳は横長なのかを光学的に調べている。結論は、縦型の瞳は、縦に焦点深度が深く、また立体視がしやすいので、標的との距離を測利やすい。一方、横型は焦点は犠牲にして横の動きを感知しやすくしていると結論している。私自身、これまでシマウマの縞を考えるとき、ライオンや豹の瞳までは考えなかった。シマウマの複雑な縞模様はその意味でやはり保護色かもしれない。   以上、人間の疑問に限りはない。本当に多様な研究が行われているのに感心する。
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8月13日:立ち止まって考えてみる(Science, The New England Journal of Medicine, Cell Stem Cell掲載記事から)

2015年8月13日
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現役時代はいわゆる橋渡し研究の旗振り役を務めていたが、同時に文科省のヒト胚安全部会や他の機会を通じて、先端医療に対して懸念を持たれる人たちと、できる限り真面目に対話しようと心がけたつもりだ。ともすると「科学研究だけが未来を保障し、研究は完全に自由であるべきだ」と思ってしまう。ただ、様々な国の事情を知ると、科学研究は間違いなく文化や政治の制限下にあり、そんなに単純な話でないことがわかる。まず同じ社会に異なる様々な意見があることを理解することが科学者にとっての倫理の第一歩だろう。トップジャーナルのエディターはこのことをよく知っており、様々なコメンタリーを掲載している。今日はこの1−2週間に私が目にしたコメンタリーを紹介する。  コロンビア大学公衆衛生学からの「Public health in the precision-medicine era(プレシジョンメディシン時代の公衆衛生学)」というコメンタリーが8月6日号The New England Journal of Medicineに掲載された。いうまでもなく、オバマ政権は今年の一般教書演説でプレシジョンメディシンを推進して、各個人に合わせた安心の医療推進のための研究を加速すると約束した。もちろんこの背景には、ゲノムをはじめとする様々な個人の情報が解読できるようになったことが大きい。ただこの方針により、疫学や公衆衛生学など、病気を予防するための予算が削減されること、及びプレシジョンメディシン推進の結果が、医療上の格差をうむのではないかと著者は懸念を表明している。実際、アメリカの現状を見ると健康に関するほとんどの統計データは最悪で、まともなのは75歳以上の人たちの健康状態だけだ。この状況は決してプレシジョンメディシン推進では解決できないことは明らかだ。さらに、プレシジョンメディシンから生まれる先端医療のほとんどはまずお金持ちの医療として独占される。この結果、医療の進歩が社会格差を悪化させるという結果を生む。このコメントは最後に、プレシジョンメディシン推進者をそのまま信用してこれにだけ焦点を当てるのは間違いで、社会全体が健康になる方策を講じるべきだという強い主張で締めくくっている。私はもちろんプレシジョンメディシンの推進派だが、それが格差だけを生み出して終わる可能性も感じている。重要な課題としてコメントを読んだ。   次のコメントはカーネギー大学の倫理政策研究所からの「Patient-funded trials: Opportunity or liability ?(患者助成による治験:良い試みか間違った試みか?)」で、8月17日号のCell Stem Cellに掲載された。幹細胞を用いた細胞治療は、山中さんのノーベル賞もあってわが国では手厚い支援が行われている。しかし、普通は患者さんの数も少なく、また薬剤のように明確な規制の方針が定まっていないため、なかなか治験が進まない。これを補うために、患者さんが治療開発や治験自体に、被験者として参加するだけでなく、お金も出してもらうという動きがアメリカで進んでいる。私も知らなかったが、脳卒中の細胞治療治験参加に3万ドルを課金する会社が出てきたり、あるいは資金はほとんど患者さんから集めた勃起障害に対する脂肪幹細胞移植の治験が始まったそうだ。これまでのように、資本を集めてリスクをとる創薬手法では、新薬や新しい治療法の価格が高騰していることを考えると、患者さんがどこかでファンディングに参加して開発費を抑えることは重要だ。しかし、現在のように野放しのままこれが進むと、間違いなく研究者の倫理性の低下と、治験の科学性喪失につながるのは間違いがない。そのため、もっと政府がコミットして患者ファンドによる医学治験をレビューし、規制する枠組みを作るべきだという提言を行っている。私も現役の頃、神戸市の人たちと患者ファンドの可能性について勉強会を持ったことがあったが、いくら私的ファンドでも、公的な機関が治験計画を科学面や倫理面でしっかり管理することがまず大事だと結論した。同じ趣旨の結論だと思う。ただ、患者さんが資金面で参加していくことは医療費抑制の鍵になることは間違いない。再生医療はこれを考えるための格好の材料で、このようなコメントをCell Stem Cellに掲載する編集者はさすがだ。   最後は昨日少し触れたショウジョウバエの研究者を中心に7月30日のScience Expressに形成された「Selfguarding gene drive experiments in the laboratory (実験室での遺伝子操作実験を自衛する)」という声明だ。クリスパーなどを使って様々な遺伝子改変が可能になることで、これまで実験室外では生存できなかった動植物に限らず、野生の多くの遺伝子改変が進むと予想される。昨日も述べたが、これは安全性の問題というより、38億年の進化の道筋への大きな介入が起こることを認めるかどうかの問題になる。もちろん、研究をやめるという選択がないなら、科学者側で新たな何重もに及ぶ封じ込めを行う必要がある。この封じ込めの具体的方法を提案した声明でだが、これを読むと遺伝子改変動物の拡散をどう防ぐかについて科学者が自ら率先して議論していることがよくわかる。科学者が成熟して初めて、真剣な倫理議論が始まる。我が国でももっと議論を進めるべきだ。  この3つの問題で、現役時代、私はいわば推進派だったし、現役を退いた後も節を曲げるつもりはない。しかし、これまで以上に様々な人と対話を進めたいといつも思っている。若い一線の研究者も、夏休みぐらい少し落ち着いて、自分と違う意見に耳を傾けてみるのも大事なことだ。
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8月12日:過去のウイルスを現在に蘇らせる(8月11日号Cell Reports掲載論文)

2015年8月12日
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最近の臨床治験論文を見ていると、長年試行錯誤を繰り返してきた遺伝子治療が、有効な治療として実現しつつあることを実感する。このホームページでも、パーキンソン病、ムコ多糖症、重症免疫不全症、血友病、黒内症などの治験を紹介した。多くの遺伝子治療には、遺伝子の運び屋としてウイルスベクターを用いるが、中でもアデノ随伴ウイルスベクターは様々な細胞に高い効率で観戦することから、最もよく利用されるベクターになっている。このベクターを用いるウイルス治療が定着すると、今度は安全・高効率なウイルスベクターの開発が重要になる。この時、進化過程を模倣してランダムに起こる変異の中からさらに優れた形質を選び出すことがウイルスでも行われる。しかし、一旦環境に合わせて進化した遺伝子から全く新しい形質が生まれる可能性は低くなっている。そこで、時間を巻き戻して、進化前のウイルスを再構成して、そこから新しい形質を選び出す方法が数年前から試みられている。今日紹介するハーバード大学からの論文はその例で、この方法でアデノウイルスベクターの改良を図った研究だ。タイトルは「In silico reconstruction of the viral evolutionary lineage yields a potent gene therapy vector (ウイルスの進化過程をコンピューター上で再構築することで有用な遺伝子治療ベクターが開発される)」だ。この研究では、1)サルに自然感染している、2)ウイルスタンパクの再構築が確認されている、3)組み換えが起こっていない、の3条件を満たすアデノ随伴ウイルスベクター・カプシドの遺伝子配列を比べて系統樹を作成し、推計学的方法を用いて現存のアデノウイルスの祖先と言えるウイルスの持つ配列を再構成している。こうして再構成した配列を元に遺伝子を再構築し、このカプシドを持ったウイルスベクターを使ってその効率や安全性を調べている。おそらく著者らもここまでうまくいくとは思っていなかったのだろう。例えば私なら、この祖先からもう一度進化させてみる方法をまず想像したと思う。しかし、再構築した祖先型ウイルスは、1)熱安定性が高く、2)ウイルス回収率は現在ベクターに使われているウイルスに匹敵し、3)遺伝子導入効率は試験管内も、体内に投与した場合も現存のベクターより優れており、4)免疫原性も低いという、いいことづくめの性質を持っているという結論だ。今後、他の構成成分も同じように再構築して、より有用なベクターを開発できるとしているが、ベクター開発としてはそれでいいだろうが、進化での自然選択を研究する基礎的観点からも面白い結果だ。今後ウイルスについては、祖先を復活させて新たに進化させる研究方向がますます盛んになるだろう。ただ、こんな論文を読んでいると、遺伝子改変生物の封じ込めの議論をもう一度やり直したほうがいいように思う。おりしも、クリスパー技術について封じ込めの重要性を訴える基礎科学者の声明が出されている(7月30日Science Express)。わが国ではクリスパーの倫理問題はヒト生殖細胞系列の遺伝子改変の議論と人間から見た安全性に限定されているようだが、クリスパーも含めて遺伝子改変にはもっと深刻な問題がある。ダーウィン進化は生殖を通して伝わるゲノムを、個体の選別を通して選択する過程だ。このとき変異は全てランダムに起こる。従ってランダムとは言えない意図された変異と、自然選択とは異なる過程で選択した個体を自然界に持ち込むこと自体の問題についての議論が必要になる。すなわち、自然と人間という永遠の問題を議論することになる。これはクリスパーに限らず、遺伝子組み換え食物も含めて議論することが必要だ。テクニカルには、自然ではない個体をどう封じ込めるかが議論されるべきだろう。クリスパーを機会に、わが国でも議論を始める時が来たと思う。
カテゴリ:論文ウォッチ

8月11日:ストレスと自己管理(8月5日号Neuron掲載論文)

2015年8月11日
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最近旧知の眼科の教授に久しぶりに出会って食事をした時、15キロの減量に成功したと聞いて驚いた。私自身は少し太り気味だが、アルコールが進むとどうしても食べすぎる。自己管理ができて、しっかりとダイエットしている人を見ると頭がさがる。おそらく私自身は、食欲を前にして自己制御が難しい脳構造を持っているのだろう。さらに、現役を退いてからはストレスも減って、太る原因になっているのだろうと考えていると、ストレスがあると自己管理ができなくなり、太る心配があるという逆の可能性を示す研究に出会った。チューリッヒ大学からの論文で8月5日号のNeuronに掲載された。タイトルは「Acute stress impairs self-control in goal-directed choice by altering multiple functional connection with the brain’s decision circuits (急性ストレスは脳内の意思決定回路の複数の結合性を変化させ、目標のための自己管理を損なう)」だ。タイトルにあるように、この研究の目標はストレスが自己管理能に及ぼす影響を調べることだ。そのために、まず健康のために食事を管理してダイエットをしている人を50人ほど集め、身体的・精神的ストレスを与えた後、食べ物を提示して、味を選ぶか、健康を選ぶかという選択をさせる。同時に脳の機能的MRIを撮影して、活動と各部の結合性を調べている。まずストレスを与える方法だが、ビデオ監視下に氷水に手を3分間浸ける。もちろん拷問ではないので途中で耐えられずに手を上げざるを得ない。その間はビデオをじっと見つめ、手が元に戻れば手を浸けるように頼んで3分のセッションを終える。これがストレスになるかと思うが、実際に血中コルチゾルが上がるし、自覚的評価をさせてもストレス・スコアが高まっている。この状況で、味か健康かを選ばせると、味を選ぶ場合が増える。すなわち、ストレスがあると自己管理がおろそかになる。いわゆる「やけ食い」の反映か?この時fMRIで脳活動を調べると、食べ物の評価、すなわち味か健康かを判断する脳部位はストレスによってほとんど影響を受けない。すなわち正常な判断ができる。しかし、ストレスがあると味への欲望に関わる側坐核と扁桃体がより強く興奮している。さらに、前頭前皮質のなかでも意思決定に関わる部位と欲望に関わる側坐核、扁桃体との結合がストレスで亢進していることを見出している。研究では、味に負けずに健康な食べ物を選ぶというプロセスに関わる領域を特定して、この領域と前頭前皮質との結合がストレスで低下することも見出している。結論としては、ストレスは自制心に関わる領域と前頭前皮質のつながりを弱め、欲望と前頭前皮質のつながりを高めるため、自制心が欲望に負けるということになる。読んでいると、脳イメージはどうしても前もって考えたモデルを元に解釈されるため、どうしても結論先にありきの研究に思える。しかし、一般的にも「やけの大食い」ということを考えると、まあ納得の結論だろう。この論文を紹介する気になったもう一つの理由は、この研究グループが経済学部に所属しており、経済学部に社会神経システム研究部門が設けられ、こんな脳研究を行っていることだ。今わが国では大学の文系を再編するという文科省の決定を巡って議論が高まっている。しかし、私たちの文系という概念の中に、経済が人間の心に強く依存しているなら、当然脳研究を行うべきだとするチューリッヒ大学ほどの自由な発想があるかどうか反省すべきではないだろうか。将来に展望を持たずに、現状を変えようとする再編議論には一利もない。
カテゴリ:論文ウォッチ