ラマルクと言うと「獲得形質の遺伝」仮説と結びつけられているが、彼の主張の最も重要な部分は、集団が環境にフィットすると言う性向を持っていると言う考えだ。勿論この考えも、選択されたクローンが拡大すると言う一般的自然選択説とは根本的に異なる。とは言え、集団が全体として環境にフィットする事はないのか聞かれると、可能性はあると思わざるを得ない現象は多い。例えば発生は一個の受精卵から始まるクローナルな過程だが、複雑な個体ほど発生過程で可塑性を示す。このように進化にとって、対象の可塑性をどう扱うかはなかなか難しい問題だ。今日紹介するピッツバーグ大学からの論文は、社会生活を営むクモの社会構造全体が環境とフィットする集団適応を扱った研究で、Natureオンライン版に掲載された。タイトルは「Site-specific group selection drives locally adapted group composition(グループ全体の選択がグループ内の構成の適応に関わる)」だ。この研究はAnelosimus studiosusと呼ばれるヒメグモ集団を対象としている。このクモはゴルフボール大から、大きい場合は軽自動車位の大きさの巣を共同で作る。アリと違って、同じ巣には複数の親から生まれた個体が共同生活を行ない、また明確な役割分担はない。代わりに雌が攻撃性の高い雌と、おとなしい雌に分かれている。この研究では先ず、食料の多い条件のいい環境と、悪い環境の巣の中のクモの個体数と攻撃的雌と穏やかな雌の比率を調べている。その結果、条件のいい環境では大きい巣になるほど攻撃的雌が多くなる。一方悪い環境の巣では大きい巣になるほど穏やかな雌の比率が多くなる事を見いだしている。次に同じ場所から採取して来た集団の、攻撃雌対優しい雌の比率を様々に変化させ、異なる環境に置いて集団構成の変化を調べている。最初の世代が完全に死滅して新しい世代に変わった2世代目で調べると、最初の比率とは無関係に環境に合致した雌の比率と集団の大きさが決まる傾向がある。まさに、環境に集団がフィットすると言う結果だ。ただ、それぞれの集団にはすでに一定の遺伝傾向が存在している事も確かで、環境が悪い方から良い方、あるいは逆と大きく違っている場所に移した集団は、どうしても新しい環境より、古い環境での構成をとりたがる傾向があると言う結果だ。示されているこの2つの結果は、一見矛盾するように見えるが、結論として、1)環境が集団の成分構成を決める事、2)決められた性向は集団として受け継がれると言う結果だ。ラマルクはダーウィンと異なり、無脊椎動物を研究していた。ひょっとすると、同じ様な観察に基づいて彼の理論が生まれたのかもしれない。一方この論文について言うと、このクモの習性についての説明が少なく、生物学として重要な現象を扱っている割には議論が浅い。まあ、面白い現象ですよと言う程度の論文だろう。しかし最終的な比率はどうして決まるのか?集団が集団として選択されるメカニズム何か?興味は尽きないが、完全にメカニズムが解明されると、期待はずれで終わるのではと思うのは、私がひねくれているからだろうか。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」
10月4日:進化と可塑性(Natureオンライン版掲載論文)
10月3日:マクロファージ肺内移植:素朴に考える(Natureオンライン版論文)
呼吸の度に肺胞がスムースに膨らんだり縮んだりするために、サーファクタントと呼ばれる一種の界面活性剤により肺胞は守られている。この物質が肺胞にたまってしまうのが肺胞蛋白症で、まれな病気だ。私が医師をしていた40年程前には、なぜサーファクタントがたまってくるのか原因は全く不明だった。ただ、そのまま放置すると呼吸困難に陥るので、肺胞洗浄、即ち気管支鏡を肺の各セグメントに挿入して大量の生理食塩で肺胞を洗浄し、貯まったサーファクタントを洗い流す治療が行なわれる。その後1990年に入ってGM-CSFやその受容体遺伝子が欠損したマウスが肺胞蛋白症になる事がわかってこの病気の理解は大きく進展する。現在では、この病気の原因は。GM-CSFに対する自己抗体が出来てしまって肺胞マクロファージによるサーファクタント処理能力が落ちるためと考えられるようになった。今日紹介するシンシナティ小児病院からの論文は、残念ながら自己抗体による肺胞蛋白症治療ではなくまれな遺伝性肺胞蛋白症の治療についての研究だが、肺への細胞移植と言う点から見るとなるほどと膝を打つ研究だ。「Pulmonary macrophage transplantation therapy (肺胞マクロファージ移植治療)」と言う極めてシンプルなタイトルのついた論文でNatureオンライン版に掲載された。論文ではGM-CSF受容体が欠損したマウスモデルが使われている。このマウスに、正常骨髄から試験管内で調整したマクロファージを移植するのだが、なんと口腔の後方に細胞の浮遊液を置いて、後は呼吸を通して肺の末梢に散布すると言う驚きの方法をとっている。こんな素朴な方法で細胞が肺胞へ到達できるのかと驚いてしまうが、効果はテキメンで、ほぼ完全に肺胞は正常化する。更に、レンチビールスベクターを用いてGM−CSF受容体遺伝子を正常化させたマクロファージを使う実験も行ない、同様に治療に成功している。これらの結果は、1)肺胞に直接細胞を注入する事はそう困難ではない、2)細胞の移植に放射線や薬剤の処理は全く必要ない、3)これまで考えられていたのとは異なり、移植した成熟マクロファージは1年以上正常に働き続ける、事を示している。遺伝性のない肺胞蛋白症の患者さんにはこの方法が役に立たないのは残念だが、マクロファージ以外の細胞移植にも使えるようになれば、肺も細胞移植治療の対象として定着するかもしれない。勿論もっと効率の良い直接移植法も考えられるだろう。いずれにせよ、これまでの先入観にとらわれず、素朴な発想で研究を行う事の重要性を示す論文だ。極めてまれとは言え、GM−CSF受容体の欠損した肺胞蛋白症患者さんには朗報である事間違いない。遺伝子治療は難しくても、MHCのマッチしたドナーの方の骨髄をほんの少しもらえれば治療が可能だ。ヒトでの臨床研究が始まる事を期待したい。
10月2日:DNAは利己的になりうる(Natureオンライン版掲載論文)
最近の若い研究者はRichard Dawkinsの提唱した利己的DNAの概念の事は知っているのだろうか。少なくとも常に話題になる程ではなさそうだ。基本的には、情報としてのDNAが細胞や個体とは全く独立しているとする仮定の上で進化を考える立場だ。元々変異の発生に目的などないと考えるダーウィニズムを少し極端に表現しただけとも考えられるが、情報が参照する実体がなくても存在すると言う錯覚を与える心配がある。情報がそれ自体で存在し得ないと考えている私自身は批判的だ。ただ20世紀科学の最大の成果、情報科学を考える点では重要な指摘だと思っている。今日紹介するカリフォルニア大学サンタクルズ校からの論文は、私たちのゲノムに存在する動く遺伝子トランスポゾンとその動きを押さえようとする分子の競合についての研究で、久しぶりにドーキンスを思い出した。タイトルは「An evolutionary arms race between KRAB zinc-finger genes ZNF91/93 and SVA/LI retrotransposons(KRABチンクフィンガー蛋白ZNF91/93とSVA/LIレトロトランスポゾンの進化での軍拡競争)」だ。私たちのゲノムのほとんどはジャンクと呼ばれる使う目的のない良くわからないDNAが占めている。その中には、ゲノムの中で増殖するメカニズムを備えている断片が存在し、トランスポゾンと呼ばれている。勿論そんな遺伝子がどんどん増えると困るため、トランスポゾンが増殖するのを押さえる仕組みを細胞は備えている。このトランスポゾンを押さえる仕組みに関わるKZNF分子の進化を研究したのが今日紹介する論文だ。KZNF分子はゲノム中のレトロトランスポゾンに結合し、この遺伝子を動かなくするKAP1分子をトランスポゾンの侵入場所に連れてくる役目をしている。この標的の一つL1の構造には種差があり、その結果マウスの細胞の中ではヒトのL1は抑制出来ない。これはL1の進化に合わせてそれに結合するLZNFがヒトトランスポゾン用に新たに進化して来たためで、マウスには新しい防御システムは出来ていない。このマウス細胞内ではヒトL1が抑制できない事を利用して、ヒトの染色体を導入したマウス細胞を作成し、170種類もあるヒトのKZNF分子の内どの分子がL1抑制に関わるかを特定できる。この実験の結果、ヒトKZNF91分子を導入するとヒトL1を抑制する事が出来る事がわかった。次に、KZNF91分子の進化を調べて行くと、類人猿が進化した後大きく構造が変化した事がわかり、事実ゴリラやチンパンジーの分子はヒトL1を抑制するが、オラウーンタンの同じ分子にはその力はない。一方、L1の進化の方を見てみると、最初はKZNF93が結合できる構造をしていたが、1千万年前にこの結合部位を欠損させている事がわかる。このことから、L1の方が抑制を逃れようと先に変化し、今度は新しいL1を抑制するためKZNFが変化して来たと考えられる。この研究では進化途上の遺伝子配列を推定しその機能を調べたり、KZNF分子のL1への結合や、L1の増殖など細かく調べているのだが、全て割愛して結論をまとめると以下のようになる。元々、L1とKZNF分子はいたちごっこの進化競争を繰り返していた。類人猿が進化して来た頃はL1にはKZNF93が結合してトランスポゾンの増殖を抑えていた。ところがL1の方がこの結合部位を欠損させ、KZNFの作用から逃れて増殖できるようになる。すると今度はKZNF91を進化させる事で、新しいL1の増殖をようやく抑制出来るようになったのが現状だと言うのがシナリオだ。要するに、レトロトランスポゾンと宿主は軍拡競争を繰り広げていると言う事だが、事実KZNF分子の数は進化過程で急速に増大しており、同じ様な軍拡競争が他のトランスポゾンにも存在する可能性が高い。読んで新しい事を学んだと思える論文だった。情報はそれが参照する実体がないと情報たり得ない。しかし、参照する実体を持つ情報の海の中では、参照する実体がないのに情報のように振る舞う断片が存在できる。利己的DNAもその一つなのだろう。勿論コンピュータウィルスも同じ事だ。生物学だけでなく、いろんな事を考えさせてくれる論文だった。
10月1日 ROS1陽性肺ガンにはクリソチニブが良く効く(9月29日発刊The New England Journal of Medicine掲載論文)
当時自治医大にいた間野さん(現東大)たちが、肺ガンの原因遺伝子を機能的にスクリーニングして、非小細胞性腺癌の中にALK融合遺伝子が原因になっている事を突き止めた発見をきっかけに、ALKの機能抑制剤の臨床研究へと進み、現在ではALK融合遺伝子陽性の肺ガンの標準治療になっていると言う話はいつ聞いてもエキサイティングな話だ。事実非小細胞性肺ガンではこの遺伝子の転座があるかどうか検査が行なわれるようになっているのではないだろうか。ただ、この様な候補遺伝子の検査は、薬の効果のない人を見つけて治療から除外すると言う一面がある。おそらく今日紹介するROS1融合遺伝子を持っている患者さんは現在も除外対象になっているだろう。と言うより、初めから検査に引っかかってこない。しかし、ROS1融合遺伝子は非小細胞性肺がんの1%程度、他にも胆管癌、胃がん、卵巣がん、そしてグリオブラストーマなどで見られ、分子機能としてもALKに近い事がわかっている。実際、細胞株を使った研究からクリソチニブがALKと同じように、いやそれ以上にROS1の機能を抑制する事がわかっていた。今日紹介するマサチューセッツ総合病院からの研究はクリソチニブがROS1融合遺伝子を発現する肺ガンに効くかどうか確かめた最初の臨床研究で、9月29日号のThe New England Journal of Medicineに発表された。タイトルは、「Crizotinib in ROS1-rearranged non-small-cell lung cancer(クリソチニブはROS1遺伝子が再構成した非小細胞性肺ガンに効果がある)」だ。この研究は、一種の第一相の臨床研究で、対照群はなく、ROS1融合遺伝子のある全ての末期ガンを対象にクリソチニブ投与を行なっている。結果は予想通りと言うか、予想以上と言うか、72%の患者さんが反応し、33例中3例は完全寛解に至っている。クリソチニブで病気をコントロールできる期間は、18ヶ月近くに及ぶ。半分以上の患者さんは薬を服用して現在も経過観察中と言う。末期の患者さんに対して行なわれた治療である事を考えると素晴らしい結果だ。ROS1融合遺伝子がある場合は、クリソチニブがALK融合遺伝子の患者さんより良く効く可能性があり、この治療法を最初の選択肢とすべきと結論していいだろう。ただこの論文はもっと多くの問題を提起しているように思える。先ず、この様な結果がわかった時、通常の第3相試験まで進めないとクリソチニブをROS1陽性患者に使えないのかと言う疑問だ。既にALK融合遺伝子で安全性などのデータは十分あり、基礎的にはこの薬剤がROS1の方により強い効果があるとわかっている場合、治験プロトコル自体を工夫する必要がある。次の問題は、ALK融合遺伝子を診断項目とする事で、ROS1融合遺伝子が除外されると言う問題を今後どう解決するかだろう。今後遺伝子診断が普及する事を考えると、薬剤の作用機序がわかっている場合、それぞれの薬剤の対象となる標的分子のパネルが公開され、常にアップデートされている様な仕組みが必要な気がする。基礎と臨床のギャップを埋めると言うのは研究だけの問題ではない。情報のギャップをどう埋めて、早期に可能性を試せるか、創薬プロジェクトの重要な課題だ。また、診断側ではエクソーム検査を普及させるなど、候補遺伝子に焦点を当てる診断から、全体を見て判断する診断に変えて行く必要がある。この研究でも、実際製薬会社が勧めるFISH法では診断できていなかったケースが示されている。結局ほとんどの患者さんは次世代シークエンサーの検査に回っているが、配列決定のためにもガンの標本が遺伝子検査用に適切に保存される必要があり、正しい保存を徹底させる取り組みも必要だ。先日この様な状況を認識して、新しい肺ガンの治験プロトコルを作成する動きを紹介した。この様な動きをしっかり理解して、医師の側からももっと正しい診断に基づく、良く効く治療を行ないたいと言う希望に基づく運動が盛り上がる事を期待したい。
9月30日:主観的概念を記録する神経細胞(10月号Neuron誌掲載論文)
私自身は認知科学の研究を行なった事はないが、この分野の本や論文はいつも面白く読んでいる。私たちが日常何気なく行なっている行動が、脳の領域や、時には一個の神経細胞の反応レベルに落とし込んで示されると、これほど複雑な仕事を毎日こなしている自分の脳が本当にいとおしくなる(と言う気持ちも自分の脳の活動だが)。人間の認知科学の論文を読むもう一つの楽しみは、研究者達が様々な工夫を凝らした実験システムを使っている点で、実験結果より疑問に答えようと設計される様々な課題の創造性にいつも感銘を受ける。今日紹介する英国Leicester大学からの論文もそんな一つで、人間の顔認識過程に関わる神経細胞の研究で、10月号のNeuron誌に掲載された。タイトルは「Single-cell responses to face adaptation in the human medial temporal lobe(脚色された顔に対する人間の側頭内側葉の単一細胞の反応だ)」。研究の課題は、人間の顔識別だ。ほとんどの人は顔を名前と結びつけて脳内に記憶している。知っている人の顔なら、少々顔が不明瞭でも誰の写真か言い当てる事が出来る。この過程はこれまでも研究されており、「face adaptation」と言う課題が既に考案されている。この課題では、例えばクリントンとブッシュ大統領の写真とともに、コンピュータで両方を合成した写真を用意する。そのまま合成写真を見せて名前を言わすと結果は五分五分だが、先にクリントンの写真を見せてから合成写真を見せると、ほとんどがブッシュと答える。逆にブッシュの写真を見せてから合成写真を見せるとクリントンと答える事が既に知られていた。実際論文の写真で自分で確かめるとたしかにそうだ。おそらく先に見た標準からの違いを主観的に判断して名前を呼び起こしているのだろう。いずれにせよ視覚認識だけで決めているわけではなく、ブッシュやクリントンの概念に対応する領域が形成され、判断の基準になっているようだ。この研究では、この課題を行なっている時、個々の神経細胞の中に、ブッシュ、あるいはクリントンと名前を決める時にだけ関わる神経細胞がないかどうかを調べている。勿論正常な人の脳に電極を刺す事は出来ない。しかしここでも一度紹介したが、多数の電極を備えたネットを脳内に留置して癲癇の原因となっている領域を特定する検査法がある。このネットが留置された患者さんにボランティアになってもらい、この課題を行なっている際、名前の決定過程にだけ関わる単一神経細胞があるか調べたのがこの研究だ。結論的に言うと、ブッシュの写真を見てブッシュと決断する時反応する細胞の中には、クリントンの写真を見てクリントンと判断する時に反応しない細胞がある。この細胞のほとんどは、クリントンを見てから合成写真を見てブッシュと判断する時に反応する。しかし全く同じ合成写真をブッシュの写真を見てから見ても反応しない。何故なら同じ合成写真をていても、先にブッシュを見ているため判断がクリントンになるからだ。即ち、視覚的に顔を認識している過程とは全く別に、ブッシュと言う概念にだけ反応する神経細胞群があり、認識された視覚パターンを判断する時にだけ興奮すると言う結果だ。事実この様な神経が見つかった側頭内側葉は高次視覚領域が投射する場所だ。おそらく著者等は、クオリアなど主観的認識の謎に迫る手がかりと言いたいようだが先は長い。しかし21世紀、これまで科学が解明できていない主観と客観の問題も全く新しい手法で明らかにされて行く様な予感がする。
9月29日:ガン治療薬の治験のあり方を根本的に見直す(10月号Journal of Thoracic Oncology掲載意見)
これまで何回もこのホームページで紹介して来たように、ガンゲノム研究が大きく進展し、またエクソーム解析などが安価に提供される日がすぐそこまで来ている。また慢性骨髄性白血病、GIST、非小細胞性肺ガンなどの例で示されたように、治療可能な標的分子が見つかるガンでは低い副作用で高い効果が期待できる。他にも乳がんでは、3種類の分子の発現を調べて治療計画を立てるのが普通になっている。しかし標的分子に対する薬剤と言っても必ず高い効果があるわけではなく、効果を統計的に確かめる必要がある。これまでの治験では、例えば扁平上皮肺癌なら全ての患者さんを同じ病気とみなし、一定数の患者さんを対象に統計学的に確立した方法で治験を行なえば良かった。しかし、ガンゲノム解析など、ガンが発現しているバイオマーカーに基づく標的薬治療になると、個々の患者さんを対象とする個別医療と、人間を集団として扱う統計学を統合した複雑なプロトコルが必要になる。これが実現すればこれまでより多くの患者さんが救われる事は間違いないが、個別の創薬企業や医療施設だけで取り組める事ではない。近い将来ガン治療が大きく変わる事を確信して、政府、医学研究者、製薬、そして患者さんが一体となって治験に取り組まなければならない。このための会議が2012年にアメリカ国立がん研究所の主催で持たれた。この会議をきっかけに続けられた様々な議論についてまとめ、新しい治験プロトコルのアウトラインを紹介したのが今日紹介する論文で、10月号のJournal of Thoracic Oncologyに発表された。創薬促進には新しい方法を積極的に取り入れるのが当たり前とは言え、この様な会議を組織したアメリカの規制当局の構想力に感心した。論文のタイトルは「Consensus report of a joint NCI thoracic malignancies steering committee: FDA workshop on strategies for integrating biomarkers into clinical development of new therapies for lung cancer leading to the inception of “Master Protocols” in lung cancer」と長いので、短く「将来の肺がん治療のマスタープロトコルを確立するためにバイオマーカーをどう治験に統合するか考えるFDAワークショップのレポート」とでも紹介しておこう。これまで私はガンを知って戦うという一面だけを強調して来たが、実際に治験を行なうとなるとそう簡単ではない。腫瘍の生物学的性質を治験に取り入れるほどプロトコルは複雑化する。また、がん組織をどう採取するのか、どう保存しどう調べるのか、薬剤効果の判定基準にバイオマーカーは使えるかなど議論する点は多い。またゲノムを調べても適切な標的が見つからなかった患者さんたちを排除する事になってはならない。乳がんで行なわれている様な限られた遺伝子だけを調べるのではなく、全エクソーム解析を普及させ、他の可能性が見つかる検査が必要かもしれない。おそらく会議でも大変な議論が行なわれたのだろう。こんな会議があれば是非傍聴してみたい。何が問題かを認識した上で、会議参加者全員がガン治療が大きく変わる事を確認し、それに合わせた治験法の開発の必要性について合意した。最初からゲノムなどバイオマーカー検査で選んだ患者さんを対象にした、この議論の結果を反映した治験プロトコルも既に実施段階にあるようだ。最後にこの会議の集大成とも言うべき国立ガン研究所が提案しているLung-Map trialと名付けられたプロトコルが紹介されていた。先ず患者さんのゲノムや遺伝子発現を次世代シークエンサーや免疫抗体法で調べ、結果に応じて4種類の異なる標的分子に対する薬剤に振り分け、ガンの進行が止まるかどうかを判定基準として治験を行なう。この方法だと、標的分子が新たに見つかっても同じ枠組みで治験を進められる。また、同じ分子に対する異なる会社の薬剤も治験が可能だ。是非計画が速やかに実施される事を期待する。しかしよく考えるとこの大きな変革により、治験は創薬会社が独自で行なう研究と言う考えは変える必要がある。この様な治験の枠組みが可能になるには、行政、創薬企業、医師、研究者、そして患者さんが、ガンを治療すると言う一点に向けて密接に協力する必要がある。また、費用も創薬企業が全て負うと言うのもおかしくなる。即ち、創薬の最終段階である臨床治験が従来とは大きく変わる事を意味している。しかしこの大きな変革を我が国の行政、製薬、医師達が主導できるのか心配だ。例えば日本版NIHがこの新しい時代を主導できないなら存在価値はない。助成金を配るだけの行政から、新しい時代を組織化する行政に変革できるか、先見性と企画力が求められている。
9月28日実験膵ガン II(9月25日号Cell Reports掲載論文)
昨日、今日と膵ガンの実験モデルについて紹介している。普通実験研究の方が臨床研究より容易だと思えるが、動物モデルの方がずっと難しい場合も多くある。中でも、マウスの抹消血中の細胞を利用する研究は大変だ。どんな熟練した研究者でも一匹のマウスからとれる血液量は0.5−1mlにすぎない。 今日紹介するハーバード大学からの研究は抹消血中に流れているガン細胞をマウス膵がんモデルで調べた研究で、おそらく血液を採取するのに苦労したと思う。ただ、今最も注目を集めている血中のガン細胞(CTC)を動物実験モデルと対比させる意味では重要な研究だ。論文のタイトルは「Matrix gene expression by pancreatic circulating tumor cells(血中の膵がん細胞は細胞外マトリックス遺伝子を発現している)」で、9月25日号のCell Reportsに掲載されている。
この研究では昨日紹介したのと同じマウス膵がんモデルを使っている。また抹消血からのガン細胞の分離にはマサチューセッツ総合病院が開発したCTC-iChipと言う機器を用いている。これを使うと、赤血球、白血球、ガン細胞を別々に調整する事が出来る。マウスに発生した膵臓がん細胞が抹消血で検出できる事を確かめてから、細胞を集めている。抹消血を流れている細胞は勿論多いはずはない。この研究では168個のガン細胞をようやく集め、それぞれの単一ガン細胞の遺伝子発現を別々に次世代シークエンサーを用いて調べ分類している。この結果導入された同じ遺伝子異常で誘導されるガン由来のCTCも幾つかのタイプがありそうだが、この研究では最も多いタイプに焦点を当てて調べ次の事を明らかにした。1)先ずCTCには分裂中の細胞は少ないが、元のガン細胞と遺伝子発現が大きく変化し、上皮の最も重要なマーカーEカドヘリンの発現は消失している、2)幹細胞に共通に発現する遺伝子が強く発現している、3)上皮細胞に発現する遺伝子と間質細胞に発現する遺伝子の両方がともに発現する中間的な細胞に変わっている、4)上皮と間質が相互作用する時に必要な遺伝子を強く発現している(これは転移する時に重要)、5)そして何よりも多くの細胞外マトリックス分子が発現している。マウスで明らかになったこれらの特徴はヒト膵ガン由来CTCでも同様に見られる。この結果を受けて、細胞外マトリックスを調達する能力がガンが血中に流れ転移するCTCの性質に関わるかを実験的に調べ、マトリックス遺伝子のうちSPARC遺伝子を抑制したガンを注射すると転移が押さえられる事を示している。勿論効果は完全ではないし、この研究だけで新しい創薬標的が明らかになったわけではない。しかし、しっかりした動物実験モデルと、ヒトのガンが対応できるようになると、創薬可能性が促進される事は間違いない。結局この対応はガンゲノムが明らかになったおかげで可能になっている事も強調したい。膵ガンは最も厄介なガンで、私も多くの友人や、同僚を失った。失った友人達はゲノムやCTCといった新しい方法の恩恵を受ける事はなかったと思う。これからの患者さんたちにこの様な技術が一刻も早く利用できるようになり、自分のガンを知って戦える日が来るのを望んでいる。
9月27日:実験膵ガンI (9月25日発行Cell誌掲載論文)
ガンの研究には優れた動物実験モデルが必要だ。特に膵臓ガンのように、進行、転移が早いガンは初期段階についての研究が遅れる。このギャップを埋めるために動物モデルを使う。今週膵ガンの動物モデルを使った面白い論文が2報発表されたので、今日、明日と紹介する。ともに膵ガンの特徴とも言える強い間質の反応を扱っている。今日紹介するソーク研究所からの論文は、この間質反応にビタミンD受容体が関わる可能性を示す研究で、9月25日号のCell誌に掲載された。タイトルは「Vitamin D receptor-mediated stromal reprogramming suppress pancreatitis and enhances pancreatic cancer therapy(ビタミンD受容体により膵臓の間質細胞がリプログラムされると膵臓炎を押さえ、ガン治療を増強する)」だ。この研究も、明日紹介する研究もともにras遺伝子の活性型突然変異とp53癌抑制遺伝子欠損を膵管細胞で誘導して、人間の膵臓ガンに近いガンを発生させるモデルを使っている。この研究では先ずがん組織から膵臓の間質反応に重要な細胞として知られている膵臓星状細胞を分離し遺伝子発現を比べ、ビタミンD受容体が、マウスでもヒトでも星状細胞に強く発現している事を発見する。この研究を行ったロン・エバンスさんはホルモン受容体では世界の第一人者で、当然研究はこの分子のガンや炎症での機能へと進む。元々この受容体は間質細胞で発現しており、炎症を組織化していると考えられている。従って星状細胞での発現の意味を調べるべく、ビタミンD受容体をcalcipotriolという薬剤で刺激すると、細胞の活性化状態が収まり、元々の脂肪を貯めた細胞の形に戻る。さらに、マウスの膵臓炎症も同じ薬剤で押さえられる事がわかった。即ち、ビタミンD受容体は膵臓星状細胞の活性化を押さえ、炎症を抑える働きがある。同じようにガンで起こってくる膵臓の炎症性変化に対するビタミンD受容体刺激の効果を調べると、炎症や線維化が強く押さえられる事がわかった。最後に、膵臓ガンをジェムシタビンで治療するモデル実験系でビタミンD受容体刺激を行なうと生存期間が約50%伸びたと言う結果だ。まとめると、膵臓の星状細胞が活性化されると、様々な炎症性の因子を分泌し周りの間質を刺激する。これにより炎症が起こり、ガンが進行するが、これをビタミンD受容体刺激で押さえる事が出来るといううれしい結果だ。この研究でビタミンD受容体刺激に利用されたcalcipotriolは80もの治験がこれまで行なわれている。まだ膵臓がんや膵臓の炎症に対して治験は行なわれていないようだが、おそらく治験の行ない易い薬剤だと思う。研究自体の質としては普通の論文だが、膵臓ガンの緊急性から考えると重要な仕事であり、是非早期に臨床で効果が確かめられる事を期待する。
9月26日:RB1、最初に発見された癌抑制遺伝子(Nature オンライン版掲載論文)
私たちの細胞は強い増殖シグナルが入っても自動的に増殖を止めるメカニズムを何重にも備えている。このおかげで、ガン遺伝子が活性化しても細胞は増殖を維持できず死んでしまう。逆にガンが発生するためにはこのメカニズムが壊れる事が必須で、事実ほぼ全てのガンでこの様なメカニズムが破壊されている。このメカニズムに関わる遺伝子は癌抑制遺伝子と呼ばれ、ガンゲノムの解析の結果、様々な癌抑制遺伝子の機能がほぼ全てのガンで破壊されている事が確認されている。中でもRB1は代表的癌抑制遺伝子の一つで、おそらく最初に発見された癌抑制遺伝子だ。これを発見したKnudsonさんは2004年第20回京都賞を受賞した。私は選考の際、専門委員会の委員長を務めたが、家族性の網膜芽細胞腫についての臨床データを元に論理を積み重ね、癌抑制遺伝子の概念へ至る創意に満ちた論文に感銘を受けた。今日紹介するスローンケッタリングガン研究所からの論文は、なんとこのKnudsonさんの結果を実験的に確かめた研究で、Natureオンライン版に紹介されている。タイトルは「RB suppresses human cone-precursor-derived retinoblastoma tumors(Rbはヒトの錐体細胞由来網膜芽細胞腫の発生を抑える)」だ。Knudsonさんの選考に関わったと言っても元々専門外で、網膜芽細胞腫研究についてはほとんどフォローしていなかった。あれから10年経って今この論文を読んでみると、Rb遺伝子の欠損が網膜芽細胞腫発生につながるのかと言うKnudson予測は実験的には証明されていなかったようだ。その理由の一つは、遺伝子改変が簡単な動物モデルでRb遺伝子を欠損させても網膜芽細胞腫は発生しないらしく、研究はそこで途絶えていたようだ。勿論Rb分子が様々なガンに関わっている事は多くの実験事実から皆が認める所だ。しかし1973年の最初の論文の予測が実際には確かめられていなかったことを知って驚愕した。このエピソードは、ヒトの組織でしか行なえない研究になると急に研究の進展が遅れる事を語っている。この様な逆境にも関わらず、おそらくこのグループはKnudosonさんの予測を実験的に検証する事に執念を燃やして来たのだろう。この研究ではヒト胎児の網膜組織を手に入れ、遺伝子変異の代わりにRbを抑制するshRNAをレトロビールスで導入する手法を用いて、Rb機能が抑制される事で本当に細胞増殖が上昇するか確かめている。幸い結果はKnudson予測を裏付けており、抑制した場合だけ、しかも未熟錐体細胞(色を感じる視細胞)だけで増殖上昇が見られることを突き止めた。この系を利用して、なぜ動物モデルでRbのガン抑制作用がはっきりしなかったのか、作用メカニズムはどうかについて明らかにしているが、詳細は割愛する。最後に、こうして得られるRb機能が欠損した細胞を数ヶ月観察し続け、ついに異常増殖がはじまり、網膜芽細胞腫に極めて類似した腫瘍が発生する事を示している。ついに執念が実り、40年を経てKnudsonさん達の予測が確認された。更に、Rb遺伝子抑制が効果があるのが錐体細胞発生時だけである事も新たに突き止められた。今後はiPSなども利用した発ガンのメカニズム解析が加速するはずだ。しかし当時Knudsonさんを選んだ専門委員会委員長としてはとてもうれしい論文だった。
9月25日:眠りを誘導するサーキット(Nature Neuroscience9月号掲載論文)
私たちは普通、起きているか、寝ている。また寝ているときも、脳の活動状態がずいぶん違うノンレム睡眠とレム睡眠を繰り返す。レムとは、rapid eye movementの頭文字をとったもので、文字通り寝ているのに目がキョロキョロ動いている。もう一つの眠りは、脳波で見た時脳全体がゆっくりした活動の波に同期している様に見える状態で、slow wave sleep(SWS)と呼ばれている。ただ、このSWSは覚醒時に得た記憶を新たに整理し直すのに重要とされている。各状態は共存するわけではなく、それぞれ排他的だ。従って、各状態を決めるための異なる中枢領域があり、相互に抑制しあう構造になっていると考えられていた。今日紹介するハーバード大学からの論文はSWS状態が脳幹のparafacial zone(PZ)と呼ばれている場所に支配されている事を機能的に確かめた仕事で、9月号のNature Neuroscienceに掲載された。タイトルは「The GABAergic parafacial zone is a medullary slow wave sleep-promoting center(PZにあるGABA性神経は延髄のSWSを促進するセンター)」だ。論文を読むと以前からPZにSWSを誘導する眠り中枢が存在し、覚醒を維持する中枢と結合している事が知られていたようだ。この研究では、PZがSWSを誘導する中枢かどうかを機能的に確かめるために、GABA性ニューロンでだけ発現できる様に細工した興奮性のムスカリン受容体をウィルスベクターに入れて、PZに注入している。この方法を用いると、CNOと呼ばれる薬物を腹腔内に投与する事でPZのGABA性ニューロンを特異的に興奮させる事が出来る。結果は期待通りで、昼夜を問わず、いつCNOを注射しても、すぐにSWSに入る。脳波でみると、完全に覚醒状態が抑制されるだけでなく、REM睡眠も抑制する。即ち、PZが興奮すると覚醒やREMに関わる中枢を抑制して、SWSが誘導される。まさに、SWS睡眠センターとしてPZにあるGABAニューロンが機能している事が明らかになった。ではPZが興奮するとどうして他の状態を押さえる事が出来るのか?この研究では、PZのGABA性ニューロンが、覚醒に関わるとされている傍小脳核(PB)にあるグルタミン酸性ニューロンを直接抑制しているかどうかを次ぎに調べている。ここで登場するのはこれまでも紹介した光遺伝学で、光を当てると興奮する遺伝子を同じようにPZのGABA性ニューロンに発現させ、今度は光刺激により覚醒神経が抑制されるか調べている。結果、PZ神経はPB神経と直接シナプス結合しており、光を当て興奮させるとPZのGABA性ニューロンがGABAを分泌、これがPBニューロンに抑制性電流を誘導する事が明らかになった。さらに今度はPBニューロンを光刺激で興奮するよう操作し、光刺激によりこのニューロンからグルタミン酸が分泌され、それにより大脳の前の方にあるpre-frontal 皮質にある神経を興奮させる事も明らかにしている。説明がややこしくなったが、要するにPZのGABA性ニューロンは直接PBニューロンとシナプス結合し、抑制することで覚醒シグナルを押さえる。この覚醒PBニューロンは皮質全体の覚醒状態を調節しているpre-frontal皮質と直接結合して、これを興奮させている。このサーキットにより、PZからのシグナルが大脳皮質全般にリレーされ、脳活動全体がSWS状態に入ると言うシナリオだ。私自身、睡眠を大分理解できたような気がする。しかしよく考えるとこれはほんの入り口にすぎない。REM睡眠状態も含め、3状態の周期全体を調節しているメカニズム解明にはまだまだ研究が必要だ。とは言え、遺伝子操作なしでなんとかPZニューロンを好きな時に興奮させられれば、ぐっすり眠れる事間違いない。眠りの浅い私としては大いに期待したい分野だ。