イギリス経験論の哲学者として、教科書的には、イングランドのジョン・ロック、アイルランドのジョージ・バークリー、そしてスコットランドのデビッド・ヒュームの3人が挙げられている。残念ながらウェールズは入っていないが、うまく連合王国を形成する3つの国がバランスよく入っているのは(意味がないとは言え)妙に面白い。ただこれまで私の頭の中には、ほとんどバークリーの占める場所はなかった。と言うのも、イギリス経験論は「世界の名著」しか読んだことはなく、しかもこのシリーズではバークリーは省かれていた。
ともあれ、せっかくイングランド、アイルランド、スコットランドと3人がそろっているのにわざわざ省くこともないだろうと、系統的に読むと決めて「視覚新論」「人知原理論」「ハイラスとフィロナスの3つの対話」(下図)を読んだ。
結論から言ってしまうと、哲学の重要性としては紹介しなくても問題ないのではと思う。ただ、読んでいる間中、飛行機の中で見た映画、「マトリックス」や「Source Code」(下図)が頭に浮かんで来た。脳の中に直接インプットされる仮想現実の世界を何度も繰り返し経験するという話で、私たちの世代よりはるかに仮想現実に馴染みがある若い人と、仮想現実及び仮想体験とは何かを考えるのも、意外と面白いかもしれないと思い直し、取り上げることにした。また、バークリーの仮想現実は徹底した科学否定の立場に立っている点で、科学批判の思想的ルーツについて学べるという、反面教師的意義もある。
参照: https://www.warnerbros.com/movies/matrix
参照:https://film-vault.fandom.com/wiki/Source_Code?file=SourceCode.jpg
さて、3冊を読もうと思って、まず驚いたのは、ジョン・ロックの「人間知性研究」が新刊では全く手に入らなかったのに、上に写真を示したバークリーの3冊は、何の問題もなくネットで新刊を買うことが出来たことだ。なぜよりポピュラーなロックの翻訳は絶版で、バークリーは現在も販売されているのか?バークリーの方が我が国ではより多くの人に読まれているとは思えないので不思議だ。
ともあれ、バークリーの哲学もロックからスタートしている。「人知原理論」の最初にバークリーは、
「人間的知識の対象を吟味しようとする誰にとっても明らかなように、これらの対象は感官に実際に刻印される観念であるか、それとも精神の受動と能動に注意することによって知覚されるような観念であるか、あるいは最後に、記憶や想像力の助けによって形成される観念、つまり、元々今述べた仕方で知覚された観念を複合したり分割したりすることによって、あるいは単にそれらを再現することによって形成される観念であるかのいずれかである」(ちくま学芸文庫 宮武昭訳 認知原理論)
と述べて、経験を通して形成された観念とその処理以外に、私たちの観念は存在せず、生まれついて持っているとされる生得概念は存在しないと述べて、ロックの考えを100%認めるところから始めている。
これは感覚として経験できないことは、観念として持ち得ないことを意味し、例えば「神」の観念が生得的に存在しているとするキリスト教や、「形相」や「目的」のアプリオリの存在を認めるロック以前の哲学を真っ向から否定する。世俗のロックやヒュームと異なり、アイルランド国教会の司教にとっては禁断の思想ではないかと思うが、バークリーがこれをどう解決したかは追々述べる。
前回ロックを脳科学の始まりと位置づけたように、経験論は近代的な思想だ。最近の脳研究に触れたことがある人なら、私たちの観念が全て感覚器を通して形成される「表象」と、それを統合していく記憶や連合により形成されていることについては、ほぼ異論はないはずだ。さらに、脳内に様々な表象が形成されるプロセスを現代的に考えて見ると、生得観念も即座に否定する必要もないかも知れない。私たちの脳ネットワーク形成は遺伝的に支配されており、これが生まれついての傾向として、特定の観念形成へと導くこともあり得る。網膜の像を最初からうまく地球上の事情に適合させられるのも、視覚優位の感覚系を形成できるのも、まさに我々のゲノム進化の結果だ。いずれにしても、感覚なしに経験はない。
このように、経験論は我々の活動に即した自然な考え方だ。おそらく経験論の問題は、生得概念があるかないかではない。経験論の最大の問題は、経験論により、全ての認識は個別で主観的であるという主観主義が際立つことで、生得観念はおろか、私たちの脳内に今観念を形成しつつある物質や事象以外に、自分の感覚とは独立した世界が存在するという確証が持てないと言う点にある。
私たちは通常、私たちの観念とは独立した世界が確かに存在し、私は神戸にいても、東京での事象は実在のことだと確信しており、また東京に行けばそこにいる人達と同じ経験を通して、共通の観念を形成できると考えている。しかし、なぜそう確信できるのかと問われると、結局見たわけではないので、そう思って全く矛盾はないと言う以外の答えはない。実際には、この確信出来ないという不安を動機として、世界の事象を情報化し、現場にいない人にも仮想体験させる技術が、文字の発明以来現在まで発達し続けてきた。その結果、今経験していない事象が確かに私たちに影響できる=因果性を持つことを、ほとんどの人が実感している。例えばウクライナへのロシアの侵略については、実際に戦争を体験しているわけではないが、メディアが提示する仮想体験を介して、現実として理解し、将来を憂う。とはいえ、現代の報道のように、情報化や仮想体験手段がほとんど存在しなかった時代、経験論の立場に立つことで、「経験し考える自分」という主観論が際立ってしまい、今経験していない世界は本当に実在しているのかという問題についての議論が続いていた。
現代人から見ると、馬鹿げた問いに見えるだろう。しかし、仮想体験を提供する報道に囲まれて生きており、仮想体験を事実として実感できる現代と違い、直接経験しないことの実在性は、当時結構深刻な問題だったと思う。この問題へのアプローチの違いが、経験論の3人を分ける。
ロックは、この問題を追求することを諦めていたようだ。ロックは極めて現実的な人で、現在わからないことも、将来探求が進めばわかる様になるのだと明言し、この問題に明確な回答を出すことにこだわらなかった。おそらくロックは、現代我々が経験する時間や空間を超えた仮想体験がいつの日か可能になり、仮想体験も現実と確信できる時代が来ると思っていたと思う。ただ、18世紀に仮想体験を、しかもリアルタイムに体験するなど夢のまた夢で、当時としては考えたところでわからないという割り切りをせざるを得なかった。ロックの「人間知性論」が新しい領域を開いているにもかかわらず、首尾一貫性がないように感じてしまうのは、この曖昧さに起因する。しかし、経験主義を追求することで生まれる主観主義の議論を避けることで、ロックは人間の知性に関する実に様々な問題について考えることが出来、経験論の基礎を打ち立てることが出来た。
これに対しバークリーの答えは「世界は神により与えられる仮想現実以外の何物でもない」と明言することで、経験論という宗教にとっては禁断の思想をキリスト教と両立させているが、彼の考えに進む前に、この問題を科学者の私はどう考えるのか述べておこう。
科学では、脳に形成される主観的観念の外に、万人に共通の世界(リアリティー)が存在するという仮説から始める。仮説と書いたが、この仮説が正しいかどうかを議論することはしない。科学の手順を個別の事象に適用して、私とあなたの間にコンセンサスを積み重ねていく。また世界は個別の脳の中に表象されているとする主観主義も認める。脳科学が進んだ今では当然の話と考えて良い。繰り返すが、科学では、私が主観的に捉えている世界が、万人共通の世界として実在するのかについてはロックと同じで議論しない。代わりに、科学では一つ一つの世界の事象について、主観的観念をすりあわせてコンセンサスを形成する。すなわち科学の究極の目標は、主観的観念に対応する世界が実在しているかを議論することではなく、最終的に地球上の全ての人間が、世界の事象について同じ観念を持つと納得するまで作業を続ける。この作業とはまさに、自分の経験を同じように経験して(例えば実験)もらうことでコンセンサスをとることなのだが、あらゆることを実験で確かめる必要はない。代わりに、自分の経験を他の人にも仮想体験してもらう。例えば科学論文はその例だ。
このように、共通のコンセンサスを得る作業は、わかるまで議論すると言った、話し合いや民主主義ではなく、17世紀初めにガリレオが示した、実験、測定、数理といった、共通の手段の枠内で行われる(これから外れると全てねつ造になる)のが科学だ。これによりロックが人間の理解の基盤に据えた、感覚を通してだけ形成できる主観的な観念を、個人を超えて間主観的に共通な観念の形成へと広げることが可能になる。すなわち、万人共通の理解に到達することが可能になる。だからこそ、例えば重力場のように、私たちの直感を完全に超える観念すら共有できる。
一見この作業は科学者だけの世界に見えるが、人類100億人が科学というシステムに参加する必要は全くない。科学的成果の一部は技術化され、生活世界に導入され、科学的発見を仮想体験できる。すなわち地球上で携帯電話を利用する人間の数だけ、その技術が反映する世界の理解を仮想体験していることになる。どんなに宗教的な人でも、携帯電話を神の道具とは考えないだろう。このように、あなたと私の世界理解が共通であることを確かめ合う能動的な過程を導入することで、私の頭の中の観念が脳の外に本当に存在するかというやっかいな問題に、一つの解決方法を示したのが科学で、これはガリレオ以来現在まで変わることなく続いている。
このように、主観論の問題に対する科学からの答えの鍵は、世界の仮想体験の可能性になるが、これに対しバークリーは、世界を全て神の造った「仮想現実」とすることで、この問題を解決しようとした。
繰り返すが、主観的観念にだけ立脚して世界を考えると、この世界には私以外に存在せず、他人も私の頭の中にだけ存在するゾンビでしかなくなる。しかもその私も死とともに消滅するとなると、今度は世界そのものがないことになってしまう。ロック以前、この主観論の罠を解決する唯一の方法が、例えば「世界の存在は神が保障している」と、世界の絶対的実在の保証を神に頼る方法だ。既に紹介した17世紀合理哲学はこの例だ。国教会の司教だったバークリーも、世界の実在の問題を神に頼る点では同じだ。
しかし、世界の実在の根拠を神に頼る場合、通常は神が私より先に世界を造り、それを私が経験しているという順序が普通だ。旧約聖書に限らず、多くの天地創造伝説はこれに当たる。この考えは、突き詰めていくと、私(現世)と神(来世)の二元論になり、当然経験論とは相容れない。この矛盾を、私の観念(主観)を認めつつ、現世を否定できるアイデア、すなわち「神による仮想現実」というアイデアを着想したのがバークリーになる。
彼の考える世界は融通無碍でわかりにくいが、論理をまとめると次のようになる。「心すなわち知覚するもの以外の実体は存在しない」けれども、私の心と、あなたの心に形成される世界はそれぞれ実在しており、ただあなたの観念の世界が本当にあるかは私にはわからない(屁理屈でしかないのだが)。しかし、世界について他の人と話し合ってみると、それぞれが持つ別々の世界もうまく統合がとれており、個人個人の世界が集まるカオスでは決してない。これは全ての人が知覚を通して実感している世界の全ての観念を持つ永遠の存在者がおり、世界は「この永遠の存在者の精神の中で存在してそれぞれに提供されるからだ」。物質世界が私の外にあるかどうかはどうでも良く、「永遠の存在者」が私たちに、仮想現実(バークリー的には現実になるが)をインプットして、個人個人の観念を形成させている。
これだけ聞くと、何のことやらさっぱりわからないとお叱りを受けそうだが、この辺について「人知原理論」に加えて、プラトンの著書を模して対話形式で自分の考えを説明した「ハイラスとフィロナスの3つの対話」(戸田剛文訳 岩波文庫)も参照しながら、彼の言葉をたどってみよう。
「ハイラスとフィロナスの3つの対話」は、私が知覚するもの以外に実体は存在しないと語るフィロナス(すなわちバークリー)に対し、世界が存在しないなど信じられないと一般の意見を代表するハイラスとの対話を通して、バークリーの世界が説明されている。これを読むと、バークリーとは才気煥発だが鼻持ちならないナルシストだという印象を持つ。一方、こんなペダンティックな本まで書かざるを得なかったのは、彼の仮想現実の世界を当時の人に理解して貰うことに、彼自身苦労していたことがよくわかる。
では、彼にとっての世界とは何か?
「世界という巨大な構造物を構成している全ての物体は、精神の外では自存出来ず、それらが存在するというのは知覚されるあるいは知られるということであり、従って、それらが私によって実際に知覚されない限りは、あるいは私の精神の中に存在しない限りは、もしくは私以外の何らかの被造的存在者の精神の中に存在しない限りは、それらはそもそも全く存在しない」
この回答は、おそらく科学と同じ懐疑論的立場だと捉えれば良い。主観的に感覚され経験されているものは実在と言ってもいいが、今経験していないことや、知覚できていても理解できないこと(宇宙)については、実在しているかどうかはわからないという立場だ。
では、私とは独立して世界は存在するのか?外の世界が私の観念を形成しているのか?
同じ引用の後半に書かれているように、「私以外の何らかの被造的存在者の精神の中」に存在する世界があることは認めている。すなわち、世界は私だけのものではなく、他の人の精神にも存在し、普遍的に存在する何かがある。たしかに、ここで私の世界しかないと言ってしまうと、世界は私とともに消失することになり、議論は中断するので当然の答えだと思う。
では、彼の言う普遍的な世界は、神が創造した独立した世界とどう違うのか?天地創造の後、私たちが生まれてきたとする一般的な宗教的世界観ではなぜだめなのか? この問題に対し彼は、
「物体が精神の外に存在することが可能だとしても、実際に存在すると主張することは、極めて当てにならない意見でしかないに違いない。それというのも、そのように主張することは、神は全く不要なものを、つまり何の役にも立たないものを無数に創造したと何の根拠もなしに想定することだからである。」
すなわち、私の外の世界は神により創造されたものなのだが、生きている人間それぞれに合わせてわざわざ世界を実在させるのは無駄な苦労でしかないと、独断的で勝手な言い分を展開している。
では、神が示す普遍的世界とは何か? ここでついに、私たちがそれぞれ感覚を通して得る経験は、神によってそれぞれの人間の感覚に提供される仮想現実であるという結論が出てくる。
「・・・・私は私が知覚する全ての可感的な印象を、いつも私に作用して持たせる心があると結論づけるのです。その(経験の)多様性と秩序と様式から、私は、実在物の作者が、私たちの理解を超えるほど、賢明でで、力強く、善良であると結論づけるのです。その点によく注意してください。私は、神の知性的な実体で事物を表すものを知覚することによって、事物を見ると言っているのではありません。それは、私には理解できないことです。私が言っているのは、私によって知覚されているものは、無限なる精神の知性によって知られているのであり、その意志により生み出されていることです。」
これを読むと、人工知能により経験が提供されるというマトリックスの世界と同じというのもわかってもらえるだろう。まず、神により与えられる経験は、リアリティーかどうかを問う必要のない神の世界で、この真実性は疑えないという極めて宗教的議論だ。このため、バークリーにとっては、私が仮想現実と決めつけている世界も、現実になるのだが、ここでは仮想現実として続ける。
そして、仮想現実(現実?)を用意する神について、
「すなわち神とは、絶えず我々の元に運ばれてくる多種多様な観念あるいは感覚を我々の精神の中に生み出すことによって我々の精神に親密に現前する精神、そして我々が絶対的かつ全面的に依存している精神、つまりは我々がその中で生き、動きそして存在している精神だからだ」
と述べて、神がマトリックスをつくりその仮想現実の中で私たちが生きていると明確に述べている。
しかし、バークリーはれっきとしたアイルランド国教会の司教でカルトではない。私の観念が神により提供される仮想現実だとする彼の考えは、伝統的キリスト教とは相容れない。例えば、創世記に書かれている天地創造は、私とは独立した世界の創造ではないのか?
彼は従来の意味での天地創造を否定して、異端と言われても仕方がない答えを示している。
「ものが存在し始めたり、存在しなくなると(聖書により)いわれるとき、私たちは、そのことを神に関してではなく、神の被造物(人間の精神)に関して意味しているのです。全てのものは、神によって永遠に知られています。同じことですが、神の心に永遠に存在しています。でも、以前は被造物(である精神)には知覚できなかったものが、神の命令により知覚できるようになるとき、そのものは、作られた心に対して相対的に存在し始めるのです。・・・・・聖書には、期待や道具や機械因や絶対的存在について、どのような言及も考えも含まれていません。・・・・」
聖書の天地創造とは、神の心を通って、「物(世界)」が知覚可能な世界に転換されることに他ならず、必ずしも世界の創造は必要ない。もう一度聖書は新しく読み直すべきだと言っている。わかりやすく言うと、天地創造とは、マトリックスの提供する世界を人間が知覚できるようにスイッチを入れたのと同じという話になる。
ここまでバークリーと付き合うと、彼も17世紀以前の哲学にみられた、全てを頭の中で説明しきる悪弊にとらわれていたことがわかる。確かに仮想現実という着想は、経験論と主観主義の問題や、宗教的には現世と来世の矛盾を説明するためには good idea だったが、この思いつきを死守するため、17世紀、18世紀を通して発展してきた科学を完全否定せざるを得ない。最も反科学的哲学者にならざるを得なかった。例えば、
「物体的実態は思考できるのか、物質は無限に分割可能なのか、そして物質はどのように精神に作用するのかーーこうした探求やそれに類した探求はいつの時代も哲学者を困惑させてきた。しかしこれらの探求は物質の存在に依存しているから、(物質を認めない)我々の原理に立てばもはや生じようがない。」
さらに、おそらく当時英国ではスターだったニュートンの万有引力すら、
「今や大人気の機械的(力学的の間違いと思う)原因は引力である。石が地球に向かって落ちる、あるいは海が月に向かって膨らむのは、この引力によって十分説明されると思う人たちもいるかもしれない。しかし、こうしたことが引力によってなされると告げられたところで、我々はどれほど利口になるのか」
と、全く意に介さないし、さらにはユークリッド幾何学ですら、常識では考えられない無限分割概念を前提とする非常識と切って捨てる。そして、
「大変な能力と粘り強い勤勉を持ち合わせた人たち(自然科学者)がそうしたやっかいなことなど考えずに、生活の関心事にもっと密接に関わること、あるいは生き方にもっと直接に影響することの検討に思考を費やす方が、誠に望ましいことだろう。」
と述べて、科学者にもっと大事な日常に即した仕事に能力を生かせと、説教する。現実の否定は反科学以外にあり得ないことを示す例だが、彼は司教としてこの仮想現実をどう説いていたのか知りたいところだ。
以上でバークリーの紹介は終わるが、彼の不思議な仮想現実を中心にした思想については十分わかってもらえたとおもう。今回初めて3冊の著作を読んだが、何かを学んだという感覚はない。しかし、科学者として見たとき、バークリーが世界を仮想現実として説明できることを着想した、才気煥発のアイデアマンであると同時に、徹底的に反科学的だったことは、現代社会の科学や反科学、あるいはカルト宗教を考える意味で大変興味深い。
ロックを脳科学と絡めて紹介したが、私は経験論とガリレオの科学思想が合体することで初めて、主観主義の問題が克服できるようになったと考えている。しかし、バークリーを読むことで、科学的解決を拒否して仮想現実に走る解決法もあることを理解した。さらに、現代にもバークリーと同じ考えが脈々と生きており、常に反科学と一体となっていることも認識できた。
現在私たちが、世界の隅々の事象を、因果性のある現実として捉え、経験論を健全な形で受け入れることが出来る大きな要因は、時間と空間を超えて事象を経験できる、報道やSNSに代表される仮想体験の方法が確立しているからだ。しかし、この仮想体験の信頼性は、「フェイクニュース」という一言、すなわち君の頭の中の世界は現実か?を問う一言で揺らいでしまう。これは、どんなに技術が進んでも、精神内に生まれる主観的観念と客観的現実世界のギャップの問題が解決しておらず、簡単に蒸し返されることを意味する。考えれば当然の話で、仮想体験を支える技術が、同時に仮想現実をつくり、それを伝える技術にもなっている。技術が進めば進むほど、個人にとって現実か虚構かの区別がしにくくなる。これが、映画マトリックスやソースコードが伝えようとしていることだ。
仮想体験として提供される経験が、作られた仮想現実ではないことをどう保証できるのか、この問題の克服が、科学技術が進んだ現代ますます求められるのは皮肉だ。どれほど科学技術が進んでも、このギャップは残る。そんな隙間に、絶対的な真実を保証すると称する、宗教や神、あるいはイデオロギーが忍び込み、あなたの本当の生は、絶対者が保証している仮想現実の世界だとささやく。
今統一境界問題で世間は大騒ぎだが、カルト宗教のマインドコントロールというのも、機械に頼らない仮想現実と考えられる。実際、オウム真理教は機械を使った仮想現実も取り入れようとしていたことを思い出そう。政治家も同じことで、トランプのフェイクニュース論は、まさに彼が自身で造った仮想現実(もちろん現実かも知れないが)を信じろと迫っている。そして何よりも、現実を否定する仮想現実は、科学を否定することでしか成立しない。
バークリーを読んで、現実の仮想体験と、虚構の仮想現実という重要な問題を考えることが出来た。反面教師としてのバークリーが今回の結論になる。