昨日に続いて地上の世界を離れた話題だ。昨日紹介した深海とは打って変わり、今度は宇宙飛行士の循環状態の話だ。日本人も含め、今や長期間宇宙に滞在するのは当たり前になってきた。スペースシャトルが引退し、アメリカでさえ宇宙飛行士の運搬はロシアのソユーズに頼らざるを得ない。おのずと滞在期間が伸びるはずだ。今日紹介するNASAとなぜかコペンハーゲン大学という不思議な組み合わせのグループから発表された論文は、長期滞在中の宇宙飛行士の血液循環状態について調べた研究でJournal of Physiologyオンライン版に掲載された。タイトルは「Fluid shifts, vasodilatation and ambulatory blood pressure reduction during long duration spaceflight(長期宇宙滞在による体液変化及び血管拡張と活動中の血圧低下)」だ。研究では、24時間血圧測定、デンマーク製の(この機械が重要でおそらくデンマークとNASAという不思議な取り合わせの理由だろう)宇宙用に開発された呼吸ガスを使って心拍出量を計測する装置、尿の量や電解質測定、血液検査によるカテコラミン測定による交感神経、副交感神経刺激状態の測定を行い、地上なら下半身に溜まっている体液の上半身への移行を含む様々な循環状態を測定している。今回研究に参加したのは8人の宇宙飛行士で、宇宙滞在85日目、192日目で測定し、地上で測ったデータと比べている。面白いことに、今回参加した8人のうち2人が高血圧治療を受けており、2人は高脂血症に対するスタチンを服用している。宇宙飛行士といっても生活習慣病を持つ普通の人のようだ。もちろん同じような研究はこれまでも何回も行われている。ただ、新しいデンマーク製の機器を用いてより詳しい検査をしている点と、長期フライト中2回に分けてデータを取っている点だ。結果だが、ちいさな違いは別にして、おおむねこれまでの結果と変わらないようだ。まず、収縮期、拡張期血圧がともに10mmg以上低下する。一方、心拍数は変わらない。そして今回の研究の目玉は拍出量がなんと30−40%も上昇することだ。そして、この状態が飛行中特に調整されることなく続いている。これらの変化の程度が、従来の研究から予想される以上に大きいことも強調されている。これらの結果から、末梢の血管抵抗が30%以上低下、すなわち血管が拡張していることが想定される。しかし、心拍数や血中のカテコラミンからは自律神経系は状態を調整しようと働いていないようだ。結局、なぜこの現象が続くかは本当のところよくわからないというのが結論だ。私たちは地球の重力を前提として進化してきたため、重力に対する調節は当たり前のことだ。とすると、今後宇宙飛行士の研究から、私たちの知らなかった全く新しい生理メカニズムが明らかにされるかもしれない。いずれにしても、宇宙滞在中のすべての人間は間違いなく頭に血が上っていることは確かだ。
1月19日:宇宙では頭に血がのぼる(Journal of Physiologyオンライン版掲載論文)
1月18日:アザラシやイルカの不整脈(Nature Communicationsオンライン版掲載)
何度も書いたと思うが、論文を読んでいると本当にいろんな研究が行われていると感心する。今日紹介するカリフォルニア大学サンタクルス校からの論文は、イルカやアザラシに装着できる心電計を開発して、潜水行動中の心機能を調べている。タイトルは「Exercise at depth alters bradycardia and incidence of cardiac anomalyes in deep diving marine mammans(深海に潜水できる哺乳類が深海で運動をすると、徐脈状態が乱れ、不整脈に陥る)」だ。このような論文を読むと少し物知りになる。例えば、ラッコはたかだか数メーターしか潜れず、息をせずに潜れる時間も数分しかないのに対して、もぐりのチャンピオンはアカボウクジラで、最高3000メーター、2時間の潜水が可能だという。こんな生態も含めて哺乳動物の潜水行動を調べるべく、このグループは心電図、ヒレの運動、潜水深度を同時に測定する機器を開発し、これをイルカやウェッデルアザラシに装着し、連続記録を行っている。結果は物知りと褒められるネタが多い。まず、深く潜るほど徐脈になる。自分の潜水経験とはずいぶん違うが、熟練した人はそうらしい。これは水圧で副交感神経が刺激されるためで、私たちが普通に海で潜る深度の話ではない。もちろん、ここで手足をバタバタさせると心拍数は上昇する。このため、潜る時はほとんどヒレを動かさずスライドするように潜るようだ。ただ、深く潜るのは餌をとるためでもある。当然ヒレを動かす必要にかられる。この結果、心拍数は上がったり下がったりを一定の範囲で繰り返す。この運動は交感神経を刺激し、心拍数をあげている結果だ。とすると、時によって水圧などによる副交感神経が高まった条件で、拮抗する交感神経も刺激するという危険な状況が生じる。実際、深く潜ったイルカやアザラシが急にヒレを動かしたりすると、なんと8割近くの確率で期外収縮が出てくる。話はこれだけだ。結論としては、海に生活するようになった哺乳動物は、確かに嗅覚受容体を全て捨てるなどの進化を遂げているが、この問題は未だ解決できておらず、危険と隣り合わせで餌を深海で漁っているようだ。とすると、深海で彼らを驚かすようなことをすると、死に至ることもあると注意すべきだろう。トライアスロン競技中の死亡事故の90%は低水温の水泳で起こるようだ。人間の事故を防ぐ意味でも、彼らの研究は重要なようだ(と理由を書いている)。私が一番気になるのはこの研究を支援する助成金がどこから出ているかだ。調べると案の定アメリカ海軍だった。あとはノーコメント。
1月17日:免疫力は鍛えるもの、当たり前の話を証明することの大変さ(1月15日号Cell誌掲載論文)
今日は阪神・淡路大震災20周年で、何かふさわしい論文がないか調べてみたが、残念ながら見つからなかった。当時私は京大医学部分子遺伝に在籍しており、私の研究室の大学院生の中には家族が被災して大変な思いをしているのを身近に見ていた。当時は京大を離れてこの神戸に来ることは全く想像してもいなかった。しかし、この20年で医学はどれほど進んだのだろう。私自身はゲノムも含め、人間を対象とする研究が20年で大きく変化した分野の一つだと思う。これは新しいテクノロジーの開発によることも大きいが、やはり人間を調べるという強い意志と、柔軟な思考でこれに迫る様々な個性の研究者がいるおかげだろう。今日紹介するスタンフォード大学からの論文は、一卵性と、二卵性双生児を集めて免疫系の遺伝性要因を探った研究で1月15日号のCell誌に掲載されている。タイトルは「Variation in the human immune system is largely driven by non-heritable influencees(人の免疫システムの多様性は非遺伝的要因により決まっている)」だ。この研究の責任著者Mark DavisはT細胞受容体遺伝子クローニングを初めて行った一人で、熾烈な競争を遺伝子サブトラクションという当時免疫学ではまだ馴染みのなかった技術を駆使して遺伝子クローニングを行った、柔軟な思考のできる研究者だ。風の便りに、彼が現在ヒトの免疫系を理解しようと研究していることを聞いたが、その一環がこの論文だと納得した。研究では、8歳から82歳までの双生児を集め200項目を越す免疫系の指標を測定し、遺伝的に同じ一卵性双生児間、遺伝的違いがある二卵性双生児間での値を比べることで、計算により遺伝性の程度をはじき出している。結果もタイトルにある通り、また予想通り、健康時の免疫状態にあまり遺伝性はないという結論だ。しかし集められたデータはなかなか興味がある。例えば免疫に関わる細胞の数やサイトカインレベルにはほとんど遺伝的性はないが、例えばCD27陽性細胞やCD4T細胞の数、あるいはIL2やIL7のレベルも遺伝性がある。このようなデータを手始めに、ヒト免疫システムの恒常性を実験動物と比べることは重要だろう。他にも、免疫系全体をネットワークとして捉える試みも行い、このネットワークに及ぼす遺伝要因について調べるアルゴリズムも提案している。このネットワーク解析を、遺伝要因のはっきりした免疫疾患の解析に当てはめて解析することで、新しいことが明らかになるかもしれないと期待する。研究結果で一番面白かったのは、サイトメガロウィルス抗体値が大きく異なる16人の一卵性双生児の免疫状態を調べると、多くの免疫指標に大きな変化が起こっており、遷延する感染が私たちの体に大きな影響を及ぼすことがわかったことだ。免疫抑制治療でいつも問題になるこのウィルスに一旦感染すると、それを抑えるために常に大きな努力を私たちは払っているようだ。私たちはこんな病原体を勝手に弱毒と名付けているが、免疫システムにとっては大変な相手のようだ。この免疫ネットワーク状態を調べて、日和見感染の可能性が予測できるなら、臨床にも重要だと思う。話としてはこれだけだが、ヒト免疫システムを理解したいという強い意志と、デザイン自体柔軟な思考を伺わせ、さすがMark Davisと思った。我が国でシステムバイオロジーというと、生物現象を予想可能な力学に落とし込もうという方向性が強いが、部分が全体を作る仕方を歴史として分析するというのも伝統的システムバイオロジーだと思う。
1月16日:パピローマウィルスと子宮頸癌(オンライン版Nature Genetics掲載論文)
子宮頸癌がパピローマウィルスの感染によって引き起こされることを突き止め、ウイルスによる発ガンが人でも起こることを明らかにしたのはドイツのツア・ハウゼンだ。もちろん我が国でも高月、日沼らによってHTLV1によりATLが引き起こされることが明らかにされていたが、ノーベル賞に輝いたのはツア・ハウゼンだけだった。それはともかく、この発見が2006年のパピローマワクチンにつながっている。これまでの研究で、もちろんパピローマウィウルスが飛び込みやすいホットスポットがあり、近くの発ガン遺伝子を活性化したり、あるいはガン抑制遺伝子を不活化するため子宮頸癌の発症を助けることは明らかになっていたが、驚いたことにウィルスの挿入箇所についてまだ大規模ゲノム研究は行われていなかったようだ。当然と考えてしまうと、研究する気にならないのかもしれない。これにチャレンジしたのが、今日紹介する中国華中科技大学や北京ゲノム研究所を中心に多くの国が参加した論文で、Nature Geneticsオンライン版に掲載された。タイトルは、「Genome wide profiling of HPV integration in cervical cancer identifies clustered genomic hot spots and a potential microhomology-mediated integration mechanism(子宮頸がんでのパピローマ挿入部位の全ゲノムに渡る解析により、挿入しやすいホットスポットと、遺伝子の微小相同性を使った挿入メカニズムを特定した)」だ。研究では、子宮頸癌及び前癌状態と考えられている子宮頸部異形症をそれぞれ104人、26人集め、全ゲノム配列を決定した上で、詳しくパピローマウィルス(HPV)の挿入部位を調べている。地道な仕事だが、読んでいくと確かに面白い。まず、子宮頸癌の81%に、異形症の53%のゲノムにHPVが組み込まれているが、組み込まれているHPVの数は圧倒的に子宮頸癌の方が多い。これまで疫学で子宮ガンの危険因子として知られたいた妊娠回数や、中絶経験の数などと、組み込まれたHPVの数などが相関している。さらに、これまでホットスポットとして知られていたように、発ガンに関わる遺伝子の近く、あるいは遺伝子内に組み込まれている。近くに飛び込んだ場合、ウィルスのプロモーターが働いて、遺伝子の発現が上がることが多く、一方内部に組み込まれたケースは遺伝子発現抑制に関わっていることが多い。これらの結果から、HPVは感染時にランダムにゲノムに飛び込むが、発ガンの過程で徐々に多くの遺伝子がHPVにより影響を受けた細胞がガンとして現れてくることがわかる。すなわち、HPVは原因になるが、エピジェネティックスも含め他の要因の関与も大きい。飛び込んだ方のHPVも、プロモーターなどの活性が保存されている細胞が選択されている。最後にHPVの組み込まれた部位の配列の解析から、HPV感染自体がゲノムの安定性を壊し、遺伝子の切れ目を作った上で、短い相同配列をうまく使ってゲノムに組み込まれている事も示している。この選択プロセスで何が起こっているのかを明らかにすることが今後の課題だろう。この点から言うと、このデータから異形症からガンに発展するという安易な結論を出しているが、いただけない気がする。実際異形症ではHPVの数はたかだか2個だが、ガンになると8−9個になっている。異形症が前癌状態だとすると、異形症で見られる2個はガンでの頻度は高いのではと思う。詳しく見ればもっと面白い結果が潜んでそうだ。最後に読み終わって、日本のATL患者さんのゲノム解析はどこまで進んでいるのか気になった。
1月15日:ガン血管を増強する:結果よければすべて良し(1月12日号Cancer Cell誌掲載論文)
薬剤の臨床効果を確かめる治験は第1相から3相まで、安全性、用量、効果、そして目標とする効果の達成について、対象になる患者さんを増加させながら進む。私自身には経験がないが、開発者にとって一番ハラハラするのが最終段階の第3相ではないだろうか。そこにまで至るすべての努力がこの段階にかかっており、またこの段階に必要なコストは半端でない。その結果が撤退と決まった場合、諦めるのは簡単でないはずだ。特にその薬剤にかけてきた研究者にとってはなんとか復活の道を探りたいと思うはずだ。もちろん多くの企業の場合、上からの命令でこれは叶わないことが多いだろう。しかし大学となると、研究者の独立性が強く、復活の道を探ることは稀ではない。今日紹介するミュンヘン工科大学からの論文はそんな例で、Cancer Cell誌1月号に掲載された。タイトルは「Dual-action combination therapy enhances angiogenesis while reducing tumor growth and spread(血管新生を促進しながらもガンの増殖や進展を押される2種類の薬剤作用を利用する治療法)」だ。このグループは、メルク社とともに血管新生に関わるインテグリンを阻害する化合物シレンギチドと呼ばれる分子の臨床応用を目指していたようだ。しかしグリオーマの血管新生抑制を目指した治験の最後の第3相段階で目標が達成できず撤退が決定される。断腸の思いだっただろう。だだ開発の中心は大学だったようで、簡単に諦めず復活の道を探していたようだ。そして、シレンギチドの量を10分の1に減らして血管新生への効果を見ると、なんと血管新生を増強することを発見した。そこで、間質反応が強いために抗がん剤が到達しにくい膵臓癌の化学療法を助ける薬としてシレンギチドを使えないかという問題に方向転換してこの論文に至ったようだ。研究ではシレンギチドにベラパミルという血管拡張剤を併用し、化学療法としては膵臓癌に最も使われているジェムシタビンを使って効果を見ている。詳細を全て省いて結果をまとめると次のようになる。1)まず低用量のシレンギチドはガンの血管新生を増強するが、血管自体は成熟しておらず漏出性が高い(薬剤も到達しやすい?)、2)シレンギチド自体でガンの薬剤取り込みを増強する効果がある、3)担ガンマウスにシレンギチドを投与するとガン血管が増強してガンの増殖が増える、4)しかしこれにジェムシタビンを組み合わせると今度はガンの増殖がジェムシタビン投与だけよりはるかに抑制できる、5)抑制効果はべラパミルを合わせることで増強する、6)3剤併用の場合、もちろんガンの増殖や進展は抑制され、ガンをより悪性化する低酸素状態が改善され、ジェムシタビンの取り込みが担ガン部位のみで上昇し、間質反応が低下し、転移も少ないという良いことずくめの結果で終わっている。マウスモデルとはいえ大きな期待を持てる結果だ。この結果でメルクが次の治験に乗るかどうかはわからないが、第3相まで進んだ薬剤を10分の1用量で使えばよく、ベラパミルもすでに臨床で使われている。ハードルは低いだろう。大学の研究室が創薬に関わることの利点の一つは、そう簡単に諦めないことだと思った。しかしこのグループにとってはまたハラハラする何年かが待っているのだろう。おそらくこれを知れば、患者さんはもっと大きな期待を持って見ていると思う。うまくいってほしい。
1月14日:進むC型肝炎治療(1月13日号The Lancet掲載論文)
研究でも、医療でも急速に進展するときがある。そんな時は、少し目を離すと実験方法や治療方法は大きく変わって、自分を浦島のように感じる。C型肝炎治療はそんな例のようだ。私が現役の頃は肝炎ウィルスに対して直接働く治療法はなかった。それが、インターフェロンを中心にリバビリンなどのRNA ポリメラーゼ阻害剤を併用することでかなりコントロールすることが可能になっていた。しかしインターフェロンが効きにくいウィルスや患者さんが存在し、また副作用も長期の薬剤服用を困難にしていた。昨年になって、創薬ベンチャーであるギリアド社が開発を進めていたソフォブヴィルと呼ばれる新しいRNAポリメラーゼ阻害剤が認可され、副作用がなく効果が高いことがわかってきた。その後同じ会社はウィルス膜の形成に必要な蛋白形成を阻害するレディパシヴィルを組み合わせて、インターフェロンを使うことなくほとんどの患者さんを治療できること示していた。今日紹介するアメリカNIHからの論文は、この2剤にもう一つ新しいメカニズムの薬剤を加えることで、ウィルスをもっと早く体内から除去できないか調べた第2相研究で、The Lancet1月号に掲載された。タイトルは「Virological response after 6 week triple-drug regimens for hepatictis C: a proof of concept phase 2A cohort study (C型肝炎に対する3剤併用の6週治療プロトコルの効果、可能性を探る第2a相コホート研究)」だ。この研究では60人の患者さんが3群に分けられ、ソフォヴィル、レディパシヴィルの2剤併用に、開発中のGS9669,あるいはGS9451が3剤目として加えられ効果を調べている。GS9669はウィルスゲノムと結合するポリメラーゼ機能を抑制し、GS9451はウィルスが持つプロテアーゼの阻害剤だ。結果は期待通りで、どの薬を用いても2剤併用より早期に効果が現れ、4週ではほぼ100%の患者さんから肝炎ウィルスが消失する。薬をやめて再発があったのは1例だけで、また副作用も許容範囲だったという結果だ。仔細に比べると、全く新しいメカニズムの阻害剤GS9451が優れていると結論している。20人という少人数での結果だが、6週の薬剤服用コースで、1ヶ月でほとんど病気が消失するという結果は、C型肝炎がもう普通の風邪と同じ病気になったのと期待させる。しかしこれほど異なるメカニズムの化合物を並行して開発しているギリアド社の開発ポリシーは徹底している。世界には今も1億8千万のC型肝炎感染者がいるようだ。この人たちを全部自分の会社からの薬で治すという意気込みが伝わる論文だった。
1月13日:絶対音感の神経生物学(1月7日号Journal of Neuroscience掲載論文)
絶対音感というと最相葉月さんが1998年に出版された本を思い出す。絶対音感とは何かという最相さんの個人的問いから始め、音楽家から科学者までの多くの取材を重ねて、個人や社会にとっての音楽の多様なあり方を示すとともに、「絶対」の持つ意外な不自由を教えてくれる良書だ。音楽好きは是非読まれることを勧める。今日紹介するチューリッヒ大学からの論文は、この絶対音感に関わる脳の必要条件について調べた研究で1月7日号のJournal of Neuroscienceに掲載された。タイトルは「Bridging the gap between perceptuall and cognitive perspectives on absolute pitch (絶対音感の見るときの感覚と認知の間のギャップをうめる)」だ。音楽についての脳科学的論文はそう多くないので、このグループの論文は他にも読んでおり、紹介することにした。様々な音楽能力を、脳内各部位の結合性の変化と相関させる研究が中心で、これを脳波という単純な方法で調べて来たグループだ。今回の研究でも、脳波に現れるθ波が部位間で同期している程度をコンピューターで計算して、部位間の結合度合いを割り出している。研究ではプロの音楽家を絶対音感の有り無しで分け、それぞれの絶対音感の厳密さを異なるピッチの音を聞かせてドレミを言い当てる検査を用いて測定し、自己申告の正確さを確認する。その上で、脳活動を調べるのだが、これまでの研究の多くは、対象者にピッチの違う音を聞かせて脳の反応を調べるものだった。事実、この論文で引用されていた我が国東京医科歯科大学からの研究では(Neuroscience letters, 548:155, 2013)、ピッチを外した音を聞くとき絶対音感があると脳がおかしいと反応する状態を検出して絶対音感と相関させている。この研究がこれまでと異なるのは、音と脳の反応の相関は全く調べていない点だ。代わりに、連合記憶などの高次認知機能に関わる前頭葉の部位と、聴覚に関わる部位との連結の程度を、安静時に調べている。すなわち最初から調べる部位に狙いをつけて、その間の結合を調べている。結果は、絶対音感があると、左脳だけでこの2つの部位の連結が発達している。一方、音楽家でも絶対音感がないと、いくらキャリアが長くてもこの結合は発達していない。また、絶対音感の程度が高いほど、左脳でのこの二つの部位の結合が高まるという結果だ。まとめると、絶対音感を持つということは、この研究で調べた左脳の2つの部位の結合が高まっている、即ち脳の構造変化が起こっていることを示している。どうりで、日常何気なく入ってくる音も、絶対音感を持つ人には気にって仕方がないのもよく分かる。いずれにせよ、次の課題はこの研究で発見された指標を使ってどの程度絶対音感の有無が予言できるかだ。これが揃って初めて私も説得されるだろう。最相さんの本にも絶対音感と左脳の構造の変化が相関すること、また我々が憧れる絶対音感が、持っている人間には大きな制約になることなどが書かれている。構造的に決定されているということは、制約があるのも当然だと納得する。最相さんの本と、最新の結果がこのように合致するなら、今後の研究にとって、半端でないエネルギーでインタビューを重ねて最相さんが集めた様々な例の記録は役に立つこと間違いない。この本がさらに脳科学者のインスピレーションを刺激して面白い研究が生まれることを期待する。
1月12日:耐性のない抗生物質(Natureオンライン版掲載論文)
医学の勝利の一つの例がフレミングによるペニシリンの発見と、フローリー、チェインによるペニシリンの単離であることは間違いがない。しかし抗生剤の使用には必ず耐性菌の出現がつきものだ。これに対応するため、新しい抗生剤が開発されるが、耐性菌の出現から解放されることはなかった。結果、MRSAや薬剤耐性の結核菌など、勝利したと思っていた細菌がより強力になって医療現場の問題になっている。今日紹介するボストンのノボビオティックという製薬会社と、ノースイースタン大学からの論文は全く新しい抗生剤の探索の仕方と、それによって発見された耐性が出ないと考えられる抗生剤トキソバクチンについての論文で、Natureオンライン版に掲載された。タイトルはズバリ「A new antibiotic kills pathogens without detectable resistance(耐性の出現のない抗生物質)」だ。しかしこれまでも耐性の出にくいという抗生剤の話はいくらもあった。ほんとかなと読み進むうち、もともと説得されやすい私はすっかり説得された。まず土の中から抗生剤を探す方法が新しい。ペニシリンを始め多くの薬剤が土壌の中に住む細菌から発見され、抗生剤の宝庫であることはわかっているのに、実際には土壌から菌を分離することが難しい。メタゲノムという方法で、土壌中の細菌の種類がわかるようになり、ほとんどの菌は培養で分離できないことがわかった。この問題を解決するため、このグループは全く新しい土壌の中で細菌クローンを培養する技術を開発する。実際には半透膜で隔たれた、多くの小さなウェルを持つチェンバーの中に、土壌中の細菌クローンを撒いて、チェンバーごと土壌の中に戻して細菌を増やしている。単純なアイデアだが、これによってなんと土壌中の5割の細菌が増えてくるようだ。次に細菌を含むチェンバー全体の上に抗生剤を発見したい細菌が一様に分布したシートをかぶせ、細菌が死んでいるのが見つかったウェルから細菌を単離し、抗生剤を開発するという技術だ。詳細は省くが、この方法で現在の医療が対策に困っている緑色ぶどう球菌を殺すトキシバクチンというアミノ酸が連なった構造が、これまで全く知られていなかった新しい細菌から作られていることを発見した。このペプチドをリボゾームなしで合成する経路も特定している。驚くことに、トキソバクチンはぶどう球菌を始め、今病院が対策に困っている細菌を殺してくれる。その効率も、現在市場に出回っている抗生剤よりはるかに高い。また、マウスを使ったテストでも、バンコマイシンのように副作用がなく、抗菌作用は高い。さらに、様々な細菌の培養を用いて調べても耐性菌が出現しない。なぜこんな素晴らしい性質があるのかを追求していくとバンコマイシンと知られる抗生剤と同じように、細菌の細胞壁を作る原料に結合して合成を阻害することで細菌を殺すことがわかった。さらにバンコマイシンの耐性菌が使っている細胞壁原料にも結合して殺すことも確認している。この阻害過程の解析から、原理的にまず耐性は出ないと結論している。説得力のある期待できる論文で、おそらく早期に臨床治験に持っていけるだろう。ただ、リボゾームを介さずトキシバクチンのような分子を合成する経路を開発するのが細菌だ。バンコマイシンも出た当時は耐性の出ない抗生物質が売りだった。まだまだ戦いは続くかもしれない。ただ、これが正しければ当分は多くの患者さんが救われ、院内感染で病院長が頭をさげるシーンが減ることは確かだと思った。
1月11日:光を細胞内の力に転換する(Natureオンライン版掲載論文)
細菌、酵母、植物の多くにはLOV(light oxgen or voltage)ドメインを持った分子が数多く見つかる。このドメインはフラビンを光センサーとして使って、構造を変化させ、同じ分子の他のドメインの機能を活性化させ、様々な機能に関わる。LOV自体も多様で、光によって開いたり、回転したり、2量体を作ったり様々な構造変化を起こすことができる。茎が太陽の方向に伸びたり、ひまわりが太陽を向く動きを見るだけで、光を必要とする植物が様々な戦略を発展させているのがわかるが、LOVドメインはその重要な一員だ。このドメインを動物で使うことができると、新しい細胞操作法を開発できると期待されていたが、今日紹介するオランダ・ユトレヒト大学からの論文はLOVを細胞内のオルガネラ輸送に利用できないか調べた研究で、Natureオンライン版に掲載されている。タイトルは、「Optogenetic control of organelle transport and positioning(オルガネラの細胞内輸送や位置決めを光遺伝学的に調節する)」だ。この研究では、光が当たるとLOV分子が開いて、他のドメイン(ePDZ)と結合するようになる分子の組み合わせを使っている。この研究ではペルオキソゾームやミトコンドリアなどのオルガネラの輸送や位置決めの調節に焦点を絞っている。このために、オルガネラの膜状に発現している分子にLOVを組み込んだキメラ遺伝子と、LOVが開くとそれに結合するePDZを細胞内の動きを担うモーター分子等と結合させたキメラ遺伝子を細胞内導入する。この細胞に光を当てると、LOVが開いてePDZに結合することで、オルガネラに任意のモーター分子や、逆に動きを止める分子を結合させることができる。この方法を使うと、例えば特定のオルガネラを細胞内骨格の微小管を沿わせて細胞の中心に移動させたり、外部に移動させたり、あるいは特定の場所に停止させたりすることができる。この研究ではこれが実際に細胞の中で可能であることを様々なオルガネラ・アンカータンパクとモータータンパクを組み合わせて示している。例えば光を当てた場所だけで、ペルオキソゾームが細胞の辺縁へ、あるいは中心へと動かせるビデオは見るだけで興奮する。また、光による分子変化は可逆的なので、光をon/offすることで、オルガネラを動かしたり止めたりできることも示している。また、神経軸索の伸長に重要な働きをすることがわかっていたRAB11が成長している先端でだけ働いていることを、先端だけで光を当てる実験で証明して、これまではっきりしなかった問題の解決に役立つことまで丁寧に示してくれている。他にも、ミトコンドリアを神経軸索の任意の場所に移動させる実験なども行い、著者たちが子供のようにはしゃいでいるのを感じる。要するに、これまでほとんど不可能だった、分子やオルガネラの細胞内での位置を調節することが可能になったこと、この技術が細胞生物学に大きな可能性を開いたことははっきりわかる。チャンネルロドプシンを使った光遺伝学が神経生物学を変えているのを見れば、このテクノロジーの大きな未来を予測することは簡単だ。どんなエキサイティングな話がこの方法を使って示されるのか、ワクワクする。しかし、細菌のCRISPR、藻類のチャンネルロドプシン、そして細菌や植物のLOVと、動物以外から道具を借りた方法の広がりはすごい。こんな時代になると、狭い知識しかない研究者はどんどん淘汰されてしまう。私はもう現役を退いているが、圧倒されるほどの新しいテクノロジーに直面して、本当に興奮できるのだろうか。実際は置いてきぼりを食って大変だと思うのではないだろうか。例えば、このようなテクノロジーがほとんどリアルタイムで若い人に手に入るような組織を考えたらどうだろうか。金をかけて導入競争をして、有力研究者だけが勝利するという構造は無くなるはずだ。
1月10日:HPVワクチンと多発性硬化症(1月6日アメリカ医師会雑誌掲載論文)
論文発表から撤回まで10年以上を費やした有名な捏造事件が、Andrew Wakefield事件で、発端は彼と12人の共著者がThe Lancetに発表した3種混合ワクチン(MMR)接種後に自閉症が発症することを示唆する論文を発表したことだった。もちろん大規模な疫学試験によってこの報告が追試できないことはすぐに明らかになる(この調査には我が国のMMRと麻疹単独ワクチン接児を比べた研究も貢献している)。しかしこの事件は最初から科学以外の要因が絡んでいた。まず、Wakefieldが論文にははっきり結論していない因果性についてプレス発表で明言し、MMRワクチンを中止するよう呼びかけたため大きな問題となった。しかし捏造行為自体は自白すれば分かる問題で、その後この論文が、MMRに反対する組織からお金を受け取っていたことや、彼自身が自分のベンチャー会社を設立しようとしていたことが明らかになり、彼を除く12人の共著者が論文取り下げに同意、The Lancetもそれに従った。この問題は、結果としてワクチン接種を止めて麻疹にかかった子供が発生したことなど、重大な実害があったことで、捏造は刑事事件にすべきであるという意見の根拠になっている。一方、ワクチンに反対するグループは世界中に存在し、実際Wakefieldもテキサスでこのような団体に支持される研究所で活動を続けていた。このように捏造行為自体の解明には本人や関係者の自白を積み重ねるしか手段はない。一方、科学側としては論文や雑誌を通して論争を進めるしかない。事実この事件でも先に挙げた日本のデータを用いた研究を含め、様々な雑誌でWakefieldも参加した論争が続いた。特にワクチンのように医学内に論争をとどめにくい問題では、軽々に個人的意見をさけ、あえて医学的論争に終始する態度が必要だ。今日紹介する論文は、子宮ガン予防のために世界的に接種が行われているHPVと多発性硬化症との関連を調べるために行われたデンマーク、スウェーデンの疫学調査で1月6日号のアメリカ医師会雑誌に掲載されている。タイトルは「Quadrivalent HPV vaccination and risk of multiple scleraosis and other demyelinating diseases of the central nervous system (ヒトパピローマウィルス4種混合ワクチンと多発性硬化症や他の脱ずい性神経疾患のリスク)」だ。このワクチンをめぐっては我が国でも全身性の痛みを始め様々な副作用が問題にされている。同じように、欧米ではこのワクチンと多発性硬化症を始めとする脱ずい性疾患との関連を示唆する症例報告が続いていた。しかしこの問題に対しては、結局疫学調査と、症状のメカニズム解明しか答えを出すことはできない。これに対して、2006-2013年にワクチンを受けた方と、受けなかった女性を2年間追跡して、多発性硬化症の発症を調べたのがこの研究だ。研究では約400万人の女性が調べられ、そのうち80万人がワクチンをプロトコル通り接種されている。疫学調査としては十分大規模で、信用できる。結論はこの疫学調査ではワクチン接種と脱ずい性疾患の関連は認められなかったという結果だ。ただ、免疫反応には多くの遺伝的要因が関わる。北欧の結果がそのまま我が国にも当てはまるかは不明だ。我が国でも、このような調査を重ねて、受けるリスクと受けないリスクを正確に出す努力が必要だろう。論争が科学の範囲を越え出すときこそ、科学者は「象牙の塔」にこもる努力が必要な気がする。