これまで何回も紹介した、光を使って特定の脳細胞を刺激することを可能にした光遺伝学によって、生理学と解剖学の統合は全く新しいレベルに到達したようだ。研究を見ていると、特に行動や情動に関わる神経について、これまで証明が難しかったことが、続々わかってきたという印象を受ける。今日紹介するコロンビア大学からの論文は、渇きの感覚に応じて水を飲むという行動に関わる神経細胞の特定を光遺伝学で行った研究で、Natureオンライン版に掲載された。タイトルは「Thirst driving and suppressing signals encoded by distinct neural populations in the brain (渇きを誘導するシグナルと抑制するシグナルは脳の異なる細胞によって調節されている)」だ。この手法を使う研究は、まず調べたい過程に関わる神経の特定、その細胞特異的分子マーカーの特定、分子マーカー遺伝子座の操作、そして光を当てた時の行動観察と続く。この研究ではまず、渇きに反応する神経領域CVO(脳室周囲にある神経器官)のうちで渇きに反応する神経を特定し、その神経がCamKIIという分子を発現することを特定している。次に、このCamKII遺伝子座にCreという遺伝子を導入する。最後に、CVOをめがけて光に反応してチャネルが開くチャンネルロドプシン遺伝子をアデノウィルスベクターで注入すると、Creを発現している細胞だけでチャンネルロドプシンが発現し、光を当てると興奮するようになる。さて、こうして用意したマウスは、光を当てると、渇きとは無関係に水を飲む。なんと、体重の8%ぐらいは平気で飲むようになる。ところが、液体だったらなんでも飲むわけではない。水とは違う苦みや蜂蜜には光を当てても飛びつかない。また、水の中に強い苦みや濃い濃度の食塩が入っていると水と区別して飲まない。したがって、この神経が刺激されると、ともかく水に近いものを選択的に飲むようになる。この研究では、CamKII陽性細胞以外に、同じ領域に渇きで活性化される2種類の神経細胞を特定している。一つは、ETV-1遺伝子を発現しており、もう一つはVgat分子を発現している。この神経の機能を調べるため、今度はそれぞれの細胞にCreを導入して、そこにチャンネルロドプシンベクターを注入して、反応を調べた。このうちETV-1の発現はCamKIIと重なっており、この細胞を刺激してもマウスは水を飲むので、渇きに刺激される水を飲む行動を調節するのはETV-1/CamKII陽性細胞であると結論している。一方Vgat細胞を刺激すると、今度は水を飲む行動が極端に抑制される。しかし、塩や砂糖に対しては普通に反応するので、この神経は渇きに反応して、その感覚を抑える働きがあるのだろうと結論している。もちろんこの研究で私たちの渇きの全てがわかったわけではない。実際、水だけを選んで飲むというのはかなり複雑な反応だ。イオン濃度のセンサーから、行動開始、行動終了までまだまだ複雑な回路が想定される。しかし、光遺伝学はこの回路を全て明らかにするだろうと期待させるテクノロジーだ。だたもう少しすると大型動物、そしてヒトに応用した論文が出そうな気がする。今から身構えつつ期待しよう。
1月28日:乾きのメカニズム(Natureオンライン版掲載論文)
1月27日:大きな勘違い(1月29日号Cell誌掲載論文)
もっとも古くから知られているリン酸化酵素の一つにPKCがある。神戸大学の西塚・高井らによって精製されて以降、おそらく何千もの論文がこの分子について発表されたはずだ。このため、私たちはPKCのことならなんでもわかっていると思ってしまう。特にガンについては発がんプロモーターとして知られたフォルボルエステルがPKCを活性化することから、PKCはガンの増殖を促進するという常識が確立する。その後ガンのゲノム研究が進み、多くのガンでPKCの突然変異が発見された。これを見て私たちは「なるほど、PKCが突然変異を起こすと、多くのリン酸化酵素と同じでガン遺伝子として働くのか」と納得してしまう。幸い科学では、こんな時ドグマが本当かどうか確かめようとする疑い深い人が必ず現れる。今日紹介するカリフォルニア大学サンディエゴ校からの論文は、常識は疑えという教えを地で行く研究で、1月29日豪のCell誌に掲載された。当然だと思う。タイトルは「Cancer-associated protein kinase C mutations reveal kinase’s role as tumor supperssor(ガンで見られるPKC 突然変異はPKCによるリン酸化がガン抑制に働いていることを明らかにした)」だ。常識といったが、遺伝子導入でガンができる一部のPKC(9種類の異なるPKCが存在する)を除いては、本当にPKCが発ガン遺伝子として働いているのかは明確ではなかったようだ。そこでこの研究では初心に戻って、様々なガンで同定されたPKCの突然変異が、実際にPKC活性を亢進させているのかどうか生化学的に調べるところから始めている。PKCの様々な場所に見つかった突然変異のPKC活性への影響を全部で46種類調べたところ、驚くことに、全て活性化ではなく、機能が消失、あるいは低下している突然変異であることがわかった。さらに、がん細胞を使った細胞レベルの実験から、PKCの活性が低下するとがん細胞の増殖が亢進し、逆にPKCの活性が亢進するとガンの増殖が抑制されることを示している。すなわち、PKCは予想に反してガン遺伝子ではなく、ガン抑制遺伝子として重要な役割を演じていることが明らかにされたことになる。論文で明確に示されているのはこれだけで、PKCがガン抑制遺伝子として働くメカニズムについては幾つかの可能性が示されるにとどまっている。例えば発ガンと密接に関わることが明らかなp53の活性をWTというタンパク質を通して高めることでガンを抑制する可能性や、KRASガン遺伝子の活性をリン酸化を通して直接抑える可能性だ。実際p53やrasの突然変異が、PKC機能が低下するガンで多いことなど、様々な説得材料が示されると、なるほど常識は間違っていたと納得する。この結果を知った上で、ガンに対してPKC阻害剤の治験が行われ、散々な結果だったことを聞くと、特に患者さんに使うときにはなんでも疑ってかかることの大事さを再認識した。重要な論文だと思う。
1月26日:知り合いの声:直感を検証する(1月23日号Neurorehabilitation and neural repair誌掲載論文)
交通事故で意識を失った子供に毎日お母さんが話しかけているうちに、ある時意識を取り戻すというのはドラマの定番だ。直感的には話しかけると脳が刺激されて、意識の回復が早まりそうなきがする。しかし、本当に話しかけることの効果があるのかを調べるためには、科学的検証が必要だ。今日紹介するノースウェスタン大学からの論文は、これに挑んだ研究で1月23日号のNeuro-rehabilitation and neural repair誌に掲載された。タイトルは「Placebo-controlled trial of familiar auditory sensory training for acute severe traumatic brain injury:A preliminary report(知り合いの声によるトレーニングの脳外傷への影響をプラシーボ群と比較する:予備的研究)」だ。研究では、脳外傷で回復見込みがあるが、植物状態、あるいは意識障害の患者さんを無作為に2群に分け、片方にはヘッドフォンで知り合いの声、コントロールには何も聞かさないで、意識の回復を見ている。もちろん耳が聞こえているなど基本的な検査をしているので、最初50人からスタートして、最後までフォローできた人は実験群4名、コントロール5名に減っている。そのため、統計的に有意差かどうかが明確でないため、予備的研究とタイトルに明記している。さて、聞かせた声だが、患者さんのよく知っている人に、患者さんとの共通の経験を10分程度話してもらい、それを録音する。そのテープを1日4回、ノイズキャンセリングがついたヘッドフォンで6週間続けて聞かせた後、意識状態検査、および機能的MRIによる様々な音刺激に対する反応を検査し、回復状態を調べている。まず驚くのは、知り合いの声を聞かせた患者さんは全て意識が回復したが、コントロールでは5名中1名だけしか回復していない。次に、CNCと呼ばれる意識レベルのテストでも治療開始後2週ぐらいから意識レベルが回復する。最後に機能的MRI検査でも聴覚を通した認知機能が回復している。残念ながら、患者さんの数から考えると統計的には何も言えないようだが、私たちの直感に即した治療で、副作用もあるとは思えない。ぜひどんどん試したらと思う、清々しい研究だ。ただ一つ気になったのは、コントロール群の患者さんの家族もまた、普通の時間にはいろんな語りかけをしたのではないかと想像する。こういう研究は、最終的には統計的有意差を追求するより、結果を積み重ねるほうが理にかなっているような気がする。今後何を聞かせるか、誰の声で聞かせるかなど、調べたいことは多い。
1月25日:気候と言語(アメリカアカデミー紀要オンライン版掲載論文)
無生物から生命が誕生する過程と同じく、言語の発生は間違いなく21世紀科学の最重要課題だ。ただ、この問題は短い論文で切り込めるほど簡単ではなさそうで、私のような分野外の人間の目に触れるようになる論文は、どうしても生理学的視点から言語を調べている研究が多い。特に、言語成立と複雑な音声を可能にする発生のための解剖学的構造は研究が進んでいる。今日紹介するマイアミ大学を中心に、ドイツ、オランダが参加した共同論文もそんな例でアメリカアカデミー紀要オンライン版に掲載された。「Climate, vocal folds and tonal languagees: connecting the physiological and geographic dots (気候、声帯、声調言語:生理学と地理学のデータを結合させる)」という興味を引くタイトルで思わず読んでしまった。現在実際に使われている言語の地理学は政治や民族の移動に影響されることが多く、気候の影響を受けることはないとされている。とはいえ私の直感でも、気候は確かに影響があると思う。同じラテン語系のオペラでも、口を大きく開けられるイタリア語と比べて口を閉じたように話すフランス語の歌は歌いにくいのではと思う。また、英国英語のほうが米国の英語と比べて明らかに口の開け方が少ない。おそらく寒いほど口を開けない言語になるのだろうと勝手に思っていた。この研究では気候、特に湿気と言語の関連を調べている。タイトルの声調言語(Tonal languagee)とは中国語の四声のように、音の調子を使って単語を区別する言語で、中国語以外にもタイ語など東南アジアの言語はこれに属している。まずこのグループは文献調査を中心に、声調言語のような微妙な音の高低の使い分けには声帯が常に湿っていることが重要であると結論している。その上で、ドイツマックスプランク研究所が収集した世界の言語地図に、複雑な声調を使うかどうかを重ね合わせ、複雑な声調言語のほとんどが高温多湿地帯に分布していることを示している。実際、声調の複雑と湿度が相関することや、モンテカルロ法を使ったシミュレーションで温度と湿度との相関を検証して、彼らの仮説の確かさを確認している。これらの結果から、声調言語は多湿でないと維持できないとい事、低温地区でも空気が乾燥しているため、複雑な声調言語の可能性は少ないなどの結論を引き出している。内容はこれだけだが、この論文を読むと声調言語が中国、東南アジアだけではなく、インドネシア、カシミール地区、そしてサハラ以南のアフリカに集積していることがわかり、物知りになる。その多くは消滅の危機にあるだろう。これを集め、データベースを作っているマックスプランク研究所にも敬意を抱く。しかし、声調言語がこれほど気候に影響されるとすると、地球温暖化の影響で言語がどう変わっていくかも今後は面白いテーマになるように感じた。中国語の未来を予想するのもまた言語生理学の使命だろう。
1月24日 DNAメチル化の調節(Nature オンライン版掲載論文)
一般の人の興味を引くことはないテーマだが、ガン研究や生活習慣病の分野ではDNAのメチル化の重要性が広く理解されるようになってきた。これは、ゲノム全体にわたってDNAメチル化の状態を知ることができるようになり、重要な遺伝子の発現調節がメチル化の違いで狂わされていることが明らかになってきたからだ。ただ、膨大なゲノムに広く分布するメチル化部位を調節し、また維持しているメカニズムについてはわかっていないことが多い。DNMT1, DNMT3a, DNMT3bがDNAを直接メチル化する酵素で、DNA複製時にすでに確立したメチル化部位を正確に新しく出来るDNA鎖に写し取っていくDNMT1についてはメカニズムも分かっているが、他の2つの酵素についてはわからないことが多かった(少なくとも私の頭の中での整理はついていなかった)。その意味で、今日紹介するスイス・バーゼルにあるフリードリッヒ・ミーシャー研究所からの論文は私の頭の整理には大変役立つ研究で、Natureオンライン版に掲載された。タイトルは「Genomic profiling of DNA methyltransferases reveals a role for DNMT3b in genic methylation (DNAメチル化酵素の結合部位のプロフィルの解析により遺伝子メチル化でのDNMT3bの役割が見えてくる)」だ。この研究の鍵は、DNMT3bなどのメチル化酵素が結合しているゲノム上の領域を解析できるようにしたことだろう。もちろん酵素をDNAに結合した状態で回収して、結合部分を特定する方法(Chip法と呼ばれている)はすでに広く普及しており、現役時代は私の研究室でも普通に行っていた。その意味で、どうしてDNMT3bの結合部位の解析が行われていなかったのか不思議だが様々なテクニカルな問題があったのだろうと想像する。この研究では、DNMT3bや他の遺伝子に標識をつけた細胞を使って、これらの分子が結合しているゲノム領域が調べられるようにしている。得られたプロファイルは他の分子の結合プロフィルと比べると、ピークがぼけていて、確かに解析は難しそうだ。そこをなんとか判読することができるようにするのは大変だったと思う。幸い、理研発生再生総合研究センターの岡野さんたちが樹立した全ての酵素が欠損したES細胞をコントロールとして用い、その細胞にDNMT3bだけを戻す実験から、DNMT3bの結合部位をよりはっきりと確かめることができている。このような道具を組み合わせて得られた結論をまとめると次のようになる。1)DNMT3bとDNMT2aの結合部位は異なっている、2)DNMT3bは転写が活発な部位に結合する、3)しかしプロモーターやエンハンサーなどの転写の中心には結合しない、4)DNMT3bはH3K36me3(36番目のリジンがメチル化されたヒストン)に結合してその近くをメチル化する、5)こうしてメチル化される部位はgene bodyと呼ばれる遺伝子が転写されている場所に集中している。もし結論が正しければ、頭がすっきりして新しい想像が湧いてくる研究だと思った。少し専門的になるが、例えばこのgene bodyのメチル化はRNAを切り張りするスプライシングに関わるのではないかと想像されている。とすると、多くのガンで、RNAスプライスに関わる分子の異常が見られることとも関係するのかもしれない。バラバラだった現象が徐々に一つの話にまとまっていく気分が味わえる論文だった。ただ、プロファイリングの解釈は恣意的過ぎるかもしれないという懸念はある。それでも私としては、一つの視点が得られることで十分だ。バラバラで整理されずに現象が散らばっているより、ずっとましだ。
1月23日:脳各部の大きさを決める遺伝背景(Natureオンライン版掲載論文)
遺伝は、背の高さも含めて、私たちの体の様々なサイズを決める重要な要因になっている。背の高さと遺伝的多形についての研究はこれまでも数多くあり、例えば2010年にはNature Geneticsに、4000人、30万近いSNPから身長の多様性を説明する論文まででている。同じように、脳各部のサイズの決定にも遺伝的要因が関わる可能性を想像することはできるが、身長や体重と違って測定が大変で、ほとんど研究はない。今日紹介する200近い施設が参加するコンソーシアムからの論文は、まさにこの大変な脳の測定を13000人というスケールで行った研究で、Natureオンライン版に掲載された。タイトルは「Common genetic variants influence human subcortical brain structures(ヒトの脳構造に影響を及ぼコモン遺伝的変異)」だ。繰り返すがこの研究では13000人というヨーロッパ人の全ゲノムレベルの遺伝子多型検査と、MRIを用いた脳各部の計測を行い、脳各部のサイズと相関する一塩基多形を探索している。大変な力仕事で、200近い機関の協力が欠かせないのも理解できる。このプロジェクトの名前はENIGMA(enhancing neuro imaging gentics through meta analysis)で、多施設が独立で集めた脳イメージや脳機能検査結果を統合するコンソーシアムだ。エニグマというと、アラン・チューリングにより解読された第2次大戦中解けないとされたドイツの暗号機を思い出すが、おそらくこのプロジェクトもこのエピソードをかけて名前をつけているのだろう。結果だが、脳各部の大きさと相関する10近くのコモンSNPが特定されている。この結果はすべて、他の17000人近いデータで調べ直して、確認している。研究自体はこれで終わりだが、一応見つかったSNPの意義について考察しているので、簡単に紹介しておこう。まず、これまで知られている脳疾患と相関するSNPとの関わりはほとんどなく、脳形態に関わる多形はそのまま病気に関わるものではないことが明らかになった。もっとも強い相関が見られたのがKTN1という遺伝子の近くに見つかった多形と脳幹部被殻のサイズだった。この遺伝子は小胞体輸送に係わる分子だ。他にも、軸索伸長に係わるDCC遺伝子座、神経細胞死を防ぐBCL2L1、シナプスのチャンネルの密度を決めるDLG2などの遺伝子座のSNPが、被殻のサイズと相関している。他にも海馬や脳幹尾部のサイズと相関するSNPも発見されている。これらの分子が脳各部のサイズ決定にどう関わるかは今後の課題だが、見つかった多形のほとんどは脳発生に関わる遺伝子で、発生過程での多様性を説明するための第一歩になるだろう。最後に、KTN1下流で見つかったSNPについて少し詳しく調べ、SNPがKTN1遺伝子の発現に関わっていること、この遺伝子の量が細胞自体の大きさを決めていること、これにより特定の被殻の構造変化が起こることを示している。まだまだはっきりしたシナリオが書けるというところまで行っているわけではないが、大変な量の仕事で、このようなコンソーシアムが進むヨーロッパは羨ましいと思う。どの本で読んだのかもう忘れたが、有名な脳科学者Brocaはフランス人の脳の容積が、ドイツ人の脳容積より大きいことを示すために、脳容積の正確な測り方の開発に執心したようだ。科学が大衆に迎合することの危険を教えてくれるエピソードだが、このコンソーシアムを見るとヨーロッパはこのようなナショナリズムを科学で乗り越えていることがよく理解できる。
1月22日:加齢黄斑変性症発症についての新説(アメリカアカデミー紀要オンライン版掲載論文)
あらゆる分野の論文を乱読していると、「ここまでわかっていたのか」と感心する一方、「こんなこともわかっていなかったのか」と驚くこともしばしばだ。今日紹介するメリーランド大学からの論文は、加齢黄斑変性症の発症過程についての新説で、アメリカアカデミー紀要オンライン版に掲載された。タイトルは「Identification of hydroxyapatite sperules provides new insight into subretinal pigment epithelial deposit formation in the aging eye(ハイドロオキシアパタイトの特定から生まれる、加齢に伴う目の色素上皮でおこる沈着物の形成に新しい考え)」だ。もともと加齢黄斑変性症は網膜色素上皮下に老廃物が沈着して起こると考えられてきたが、発症初期過程の解析はあまり行われず、加齢という言葉でおしまいにしていた。「どうしてこんなこともわかっていなかったのか?」と感じたと言ったが、この研究自体はかなり古典的で、特に変わった方法も使わずこの初期過程に焦点を当て解析している。このグループは色素上皮下に蓄積される沈着物の成因に興味を持っていたようだ。屍体から眼球を集め沈着物共通の物質がないかX線回折を用いて分析を進めるうち、不溶性のリン酸カルシウムであるハイドロオキシアパタイトを特定した。この発見が研究の全てで、あとはこれが黄斑変性症などにすすむ可能性を追求しているだけだ。まずこのハイドロオキシアパタイトは網膜色素上皮と脈絡膜の間に形成される。おそらくなんらかの原因で微小ではあってもリン酸カルシウムの結晶がまず形成される。次にこれが核となって、コレステロール、アミロイド、ヴィトロネクチン、補体因子などの分子が集まり沈着物を作る。もちろん同じ沈着物は黄斑部にも存在するため、おそらく変性症のトリガーになるだろうと推察している。残念ながら、実際の黄斑変性症でこのような構造がどのように存在しているのか、浸出型や萎縮型といった病系との関わりなどは全く示されていない。今後、実際の病眼を用いた研究が必要だろう。しかしこんな結晶が本当に存在するなら、早期診断も可能なはずだ。単純な発想と、古典的な方法で明らかになってきた現象は、臨床応用も簡単だと思う。ぜひ加齢黄斑変性症を防ぐという方向に研究が進んでくれることを期待する。
1月21日:結核菌の歴史(Nature Geneticsオンライン版掲載論文)
私が医者になった40年前は外来で結核患者さんを見るのは当たり前だった。すでに抗生物質が存在したおかげで、必ずしも入院をさせなくても良いという考えが徐々に普及しており、多くの患者さんを外来で治療したのを覚えている。しかし私の結核についての記憶は決して医学だけではない。結核は私たちの文化、特に19世紀後半からの文化と深く結びついている。多くの芸術家が結核を扱い、また結核のために亡くなったことは文学や音楽史からも理解できる。作曲家で言えばショパン、作品で言えば椿姫やボエームなど、19—20世紀の庶民の脅威として心を支配していたようだ。今日紹介するヨーロッパを中心とした国際コンソーシアムからの論文は世界99カ国から5000近い結核菌を集め、ゲノムを調べた研究で、Nature Geneticsオンライン版に掲載された。タイトルは「Evolutionary history and global spread of the mycobacterium tuberculosis Beijing lineage(結核菌北京株の伝搬と進化の歴史)」だ。結果自体は地道な細菌ゲノム研究で、結核の歴史を知ることで耐性菌への対応を目指すものだ。結核がもはや私たちに重くのしかかる問題で亡くなった現代の人には面白くないかもしれない。しかし、結核菌の歴史に私たちの歴史を重ねて考えると、結核と私たちの交流がいかに深かったか理解できる。まず、私自身患者さんを診ていた時、世界に広がっている結核菌がこれほど大きな多様性を持っているとは考えなかった。完全にゲノムが調べられた110菌株には6000のSNPが見つかる。また菌の進化についても全く知らなかった。この研究から世界に感染を拡大させた結核菌がなんと北京から日本までの東アジアに由来する菌で、6000年前に独立した菌として生まれたようだ。その後、人類の交流史とともに西へ西へと広がり、欧州に達する。これもそれぞれの歴史イベントと重なるはずだ。面白いことに、広がった先で独自の進化を遂げる。その結果、現在のアジアに広がる菌と欧州に広がる菌には大きな差がある。また、結核は欧州からアメリカへ持ち込まれて抵抗のなかったアメリカ原住民の人口減少をもたらしたことが知られているが、旧植民地の結核も独自の進化を遂げている。予想通り地球上の結核菌の総数が急増したのが19世紀で、産業革命による都市化の始まった時期と重なる。そして次の波が、第一次大戦時だ。この原因も追及の価値がある。そして、私が医者になった時から急速に結核菌の総数は減少するが、AIDSが流行りだすと少し増加して、今に至っている。また、抗生物質の使用により生まれた耐性菌が現在の結核菌総数の増加にも関わっているという結果だ。もちろんこの研究は純粋医学的に、耐性菌の発生を予測し、結核自体を撲滅するために行われている。事実、耐性をもたらすメカニズムも明確にしている。しかし、空気感染する慢性感染症という結核が持つ稀な特徴を考えると、我々自身の歴史と結核菌ゲノムをさらに詳細に重ね合わせた研究は間違いなく面白い分野になる。幸い19世紀は組織の保存などが行われ始めた時期だ。当時の結核菌を調べることも可能だろう。ゲノム研究が歴史研究を変えていることを実感する研究だった。
1月20日:本当の発想の転換(Scienceオンライン掲載論文)
昨年のノーベル化学賞は、回折限界を超える解像度を持つ光学顕微鏡開発に与えられた。私自身はこの超解像度顕微鏡を使ったことはないが、授賞理由を見ると柔軟な発想で観察の光学的限界が超えられたのが理解できる。即ち、顕微鏡で観察される側の光そのものを操作するという発想の転換だ。しかし今日紹介するマサチューセッツ工科大学からの論文は、その上をいく発想の転換のように思える。Science誌オンライン版(Science Express)に掲載された論文で、タイトルはズバリ2語、「Expansion microscopy (拡大顕微鏡だ)」。この研究では、顕微観察の解像度をあげるために、対象になる組織そのものを拡大するという180度の発想の転換が行われ、それが可能であることが示されている。いかにして組織を拡大するか?私たちの周りには、水を溜め込んで膨張する多くの高分子凝集剤が使われた製品があるが、同じ原理が使われている。この研究では、組織を固定した後、この高分子凝集剤のひとつsodium acrylateを組織内に浸潤させ、架橋材で格子状の高分子化構造を形成させ、最後にポリマーが組織に均一に分布するよう酵素処理を行っている。その後、水で透析するとポリマーが水を吸収し最大4.5倍まで拡大する。これにより見たい組織が、存在する分子数はそのまま、縦横高さが平均して4.5倍になる。体積でいうと、約90倍になる。この研究では神経に焦点を絞り、細胞骨格、小さなオルガネラ、また脳の海馬全体を蛍光抗体法で染めてその効果を示している。5倍ぐらいならレンズの倍率をあげれば同じと思われるかもしれないが、この方法が可能にしているのは分子間の距離を5倍広げることで、回折限界そのものが200nmから40nmになるのと同じ効果が得られる。このおかげで、倍率が上がるというより、回折限界を超える解像度が得られるというわけだ。論文に示された写真をお見せできないのが残念だが、得られる解像度には驚嘆する。おそらく、今後様々な方法と組み合わせて普及すると思う。事実、今回ノーベル賞に輝いた超解像度顕微鏡との相性も示しており、それはそれは美しい海馬の蛍光写真が得られている。大学を卒業して40年、基礎研究に移って33年だが、組織を拡大して観察するなどついぞ思いつかなかった。結局凡人で終わったことを思い知った。
1月19日:宇宙では頭に血がのぼる(Journal of Physiologyオンライン版掲載論文)
昨日に続いて地上の世界を離れた話題だ。昨日紹介した深海とは打って変わり、今度は宇宙飛行士の循環状態の話だ。日本人も含め、今や長期間宇宙に滞在するのは当たり前になってきた。スペースシャトルが引退し、アメリカでさえ宇宙飛行士の運搬はロシアのソユーズに頼らざるを得ない。おのずと滞在期間が伸びるはずだ。今日紹介するNASAとなぜかコペンハーゲン大学という不思議な組み合わせのグループから発表された論文は、長期滞在中の宇宙飛行士の血液循環状態について調べた研究でJournal of Physiologyオンライン版に掲載された。タイトルは「Fluid shifts, vasodilatation and ambulatory blood pressure reduction during long duration spaceflight(長期宇宙滞在による体液変化及び血管拡張と活動中の血圧低下)」だ。研究では、24時間血圧測定、デンマーク製の(この機械が重要でおそらくデンマークとNASAという不思議な取り合わせの理由だろう)宇宙用に開発された呼吸ガスを使って心拍出量を計測する装置、尿の量や電解質測定、血液検査によるカテコラミン測定による交感神経、副交感神経刺激状態の測定を行い、地上なら下半身に溜まっている体液の上半身への移行を含む様々な循環状態を測定している。今回研究に参加したのは8人の宇宙飛行士で、宇宙滞在85日目、192日目で測定し、地上で測ったデータと比べている。面白いことに、今回参加した8人のうち2人が高血圧治療を受けており、2人は高脂血症に対するスタチンを服用している。宇宙飛行士といっても生活習慣病を持つ普通の人のようだ。もちろん同じような研究はこれまでも何回も行われている。ただ、新しいデンマーク製の機器を用いてより詳しい検査をしている点と、長期フライト中2回に分けてデータを取っている点だ。結果だが、ちいさな違いは別にして、おおむねこれまでの結果と変わらないようだ。まず、収縮期、拡張期血圧がともに10mmg以上低下する。一方、心拍数は変わらない。そして今回の研究の目玉は拍出量がなんと30−40%も上昇することだ。そして、この状態が飛行中特に調整されることなく続いている。これらの変化の程度が、従来の研究から予想される以上に大きいことも強調されている。これらの結果から、末梢の血管抵抗が30%以上低下、すなわち血管が拡張していることが想定される。しかし、心拍数や血中のカテコラミンからは自律神経系は状態を調整しようと働いていないようだ。結局、なぜこの現象が続くかは本当のところよくわからないというのが結論だ。私たちは地球の重力を前提として進化してきたため、重力に対する調節は当たり前のことだ。とすると、今後宇宙飛行士の研究から、私たちの知らなかった全く新しい生理メカニズムが明らかにされるかもしれない。いずれにしても、宇宙滞在中のすべての人間は間違いなく頭に血が上っていることは確かだ。