出典は覚えていないのだが、人間、家畜、ペットを合わせた総重量が、地球上の全哺乳動物総重量の98%を超すことを読んだ覚えがある。1000年前はその比は逆だったようで、いかに人間が地球を変えているかがわかる。従って、野生動物の行動研究では、人間の影響なのか、その種の持つ本来の習性なのか注意深く評価する必要がある。9月18日のNatureにこの問題を扱った論文が掲載されていた。米国、ドイツ、ベルギー、タンザニア、ウガンダ、そして我が国の多くの研究者が参加する、チンパンジーについての研究だ。タイトルは「Lethal aggression in Pan is better explained by adaptive strategies than human impacts (チンパンジーやボノボが示す致死的攻撃は人間の影響より種の適応戦略と考えた方が説明できる)」だ。同種の個体を襲って殺すのは人間だけだとされていたが、動物行動学が進むと、ほ乳動物のなかには習性として同種の個体に致死的攻撃を加える種がいることがわかって来た。中でもショッキングなのは、チンパンジーが時によっては集団で殺戮を行うという事実で、映画などで見る愛嬌のある姿から想像がつかない。このチンパンジーの殺戮行為は環境に適応するための習性だと考えられて来たが、これに対し実際には人間の生活圏がチンパンジーの生息圏と重なって来たからではないかという反論が上がっていた。この問題に対し、アフリカ18地域で別々にチンパンジーを研究してきたグループがデータを持ち寄り、殺戮行為が人間の影響で誘導されたかどうか詳細に検討したのがこの論文だ。本当に息の長い研究が行われている事を実感する。持ち寄ったデータの観察期間の平均は21年、最も長い観察は53年に至っている。その間、集団間でどのように殺し合ったのか、どのような個体(雄、雌、子供)が殺され、どの個体が攻撃したのかなど克明に記録されている。また記録も、実際に観察した例と、現場の状況から想像したものとがきちんと区別して書かれている。結論としては、チンパンジーの殺し合いは、地域内での個体数の上昇時にスウィッチオンされる種の保存に必要な適応行動のようだ。証拠としては、人間が近くに暮らし、餌を与えたり、逆に生活に介入する様な場所でも、特に殺し合いが増える事はない。一方、個体数の密度と殺し合いの頻度が最も相関しており、一定の個体数を保とうとする習性を持つようだ。更に殺し合いにも決まったルールがあるようで、基本的には雄同士が殺し合う。動物学的に見れば、自然淘汰メカニズムを種の脳内活動に組み込んでいる事になる。多くの研究者が連帯する事で、これまでの膨大な記録の正しい解釈のための基盤を確立する事に成功した仕事だ。この基盤があって初めて、ゲノム研究も意味を持つ。アフリカの熱帯雨林で何年もチンパンジーを追いかけ記録し続ける。こんなロマンを持った研究者を絶やしては行けない。論文の補遺の地図を見ると、今エボラビールス感染で問題になっているギニアやリベリアにも観察地域があるようで心配だ。是非この困難を乗り越えて、記録を続けて欲しいと願う。
9月20日:野生動物と人間(9月18日号Nature 掲載論文)
9月19日:人工甘味料による糖尿(Nature オンライン版掲載論文)
高橋さんの網膜色素細胞移植治療に続いて、Natureオンライン版に妻木さんたちの、軟骨形成異常症iPSを使った治療薬探索からスタチンが有効である事を突き止めた論文が出ていた。妻木さんが以前所属していた阪大整形外科はBMP研究の高岡さんからずっと研究のアクティビティーが高い。また、阪大は軟骨研究でも歴史があり、何となく伝統を感じさせる仕事だ(これは全く根拠のない妄想)。特に、既に臨床で利用されている薬剤を、新しい疾患に使う事はリパーパスと呼ばれ、医療経済の側面からは最も力を入れるべき分野だ。めでたしめでたしだが、臨床から基礎研究へ目を移すと、この分野でハッとする我が国からの研究に残念ながら出会えていない。特に若手の研究だ。この3本柱が機能しないと、いつかは先細る。今日は最初妻木さんの仕事を紹介しようかと思ったが、ほとんどのメディアが取り上げている。わざわざ紹介する事もあるまいと、同じ時にNatureに掲載されていたイスラエル・ワイズマン研究所からの、かなりセンセーショナルな仕事を紹介する。タイトルは「Artificial sweeteners induce glucose intolerance by altering the gut microbiota(人工甘味料は腸内細菌叢を変化させ耐糖能異常を引き起こす)」だ。研究の内容は全くタイトルの通りだ。私たちが砂糖を制限する目的で使っている、サッカリンを始めシュルラロース、アスパルテームを摂取すると、グルコース負荷に対する反応性が落ち、糖尿病予備軍状態になると言う結果だ。この状態は、私たちの糖代謝システムに人工甘味料が直接働いて起こるのではなく、人工甘味料が腸内で細菌叢を変化させたことによる間接効果である事を示している。実験の詳細は省くがこの研究の鍵になっているのは、腸内細菌叢を全く細菌のいないマウスに移植する実験系で、耐糖能が低下が腸内細菌叢によるものかどうかを調べる事が出来る。この論文では、人工甘味料を摂取しているマウス、あるいはヒトから採取した便を移植すると、耐糖能異常も同時にマウスに移植できる事を示している。さらに実験としてかなり重要な決め手になっているのが、試験管内で腸内細菌を培養する時人工甘味料を入れておいて、それを細菌のいないマウスに移植するだけで耐糖能異常が起こる点で、人工甘味料が腸内細菌叢に直接作用してこの現象が起こる事をはっきり示している。一方ヒトを用いた実験でも、人工甘味料を常用しているヒトはA1cヘモグロビンが軽度上昇している事、さらに1週間と言う短期の摂取でこの変化が引き起こされる点だ。とは言え、メカニズムについてはほとんどわかっていない。インシュリン分泌はそれほど落ちていないという結果が示されているので、インシュリン抵抗性が誘導されているのかもしれない。データを詳しく見ると、本当ならもう少し実験を重ねて掲載しても良かったかなと思う。ただ、Natureのエディターもこの論文の発するメッセージの重要性を優先して採択したのだろう。そう考えると、日本の既存メディアがこの論文について報道しないのも不思議だ(ネットを調べるとNHKは放送した様だが)。ネタとしては面白いはずだ。外国の研究だから報道しないのだろうか?Nature信仰は小保方事件で捨てたと言う事か?あるいは、産業界からの圧力を恐れての事か?勿論規制について最終結論を出すためには、この結果について更に検討が必要だ。とは言え、既存のメディアがこのネタに妙に慎重なのが気になるのも、私がひねくれているせいだろうか?
9月18日:老化脳を酷使する(Nature Neuroscience9月14日号掲載論文)
先日人間ドックで若い先生からラクナ梗塞が結構ありますねと言われた。以前から指摘されていたとは言え気にはしている。ただ、売り言葉に買い言葉で、「しかし脳は絶好調です」等と言ってしまって笑われた。現役時代を振り返ってみると、今は当時よりははるかに知的活動に割く時間は増えており、脳は確かに働いてくれていると言う実感がある。一方、年とともに様々な変性が起こっている事も良くわかる。どんな風に活動しているのか、様々な課題に対する活動をMRIで調べてもらおうかなどと考えていたら、同じ様な事を調べている論文に出会った。カリフォルニア大学バークレー校からの論文で9月14日号のNature Neuroscienceに掲載されている。タイトルは「Neural compensation in older people with brain amyloid-β deposition(アミロイドβ蓄積が見られる高齢者で見られる代償的神経活動)」だ。読んでしまうと、なんだこれだけかと少し拍子抜けする論文だが、今後の研究によっては私も含めた高齢者にはいろいろ示唆を与えてくれるかもしれない。研究では75歳前後の認知症ではない事がはっきりしている高齢者を集め、先ずPET検査でアルツハイマー病との関連が指摘されているアミロイドβの蓄積の有無を調べる。驚く事に、特に認知障害がなくても44人中16人にははっきりとアミロイドβの脳内蓄積が認められる。次に蓄積を認める高齢者と、認めない高齢者、及び20代の若者について、記憶テストを行い、その時の脳活動を機能的MRIで調べている。ヒトでも動物でも、脳研究の醍醐味はどのような課題を被験者に課して脳機能を計るかだが、この研究では写真を見せた後、写真全体のメッセージについての記憶(例えば男の子が逆立ちしている)と、細部についての記憶(例えば青いズボンをはいていたかどうか)を思い出させる課題を使っている。記憶テストの結果は、若者は確かに高齢者よりはいいが、総じて正常値に収まっている。さて脳活動だが、若者は中心的メッセージを思い出すとき、側頭部の皮質が強く活性化すると同時に、使っていない場所の活動が落ちる。一方、高齢になるとこの記憶に関連する領域の活動は低下しているが、その代わりに使わない場所の活動の抑制が強くなっている。言ってみれば、使わない場所を押さえて、課題に集中していると言っていいのだろうか?さて、アミロイド蓄積を認める高齢者だが、逆に記憶に必要な場所の活動が更新している一方、使わない場所の抑制は強くない。重要な事は、アミロイドが沈着している場所自体は予想通り活動が低下している点だ。即ち、アミロイド沈着で活動が低下した部分を、健常な部分を必至に使って埋め合わせをしている。ただ、他の場所を抑制する全体的統合性は障害されていると言う結果と解釈できる。この解釈は局在論に立った脳機能理解の立場で、この立場からは一件落着といえる。しかし私の様な素人にとっては、機能的MRIで私たちは何を見ているのかと言う点が気になる。実は機能的MRIがなぜ可能かについては完全にわかっているわけではない。脳細胞中心に考えると、細胞の活動が上がるから、そこへの血流が受動的に上がり、それをMRIで検出している事になる。しかしひょっとすると、脳活動に必要な場所を割り出して、そこへ血流を能動的に送り込む事で、脳の活動の閾値を領域的に変化させているのかもしれない(年寄りの戯言と効いて欲しい)。とすると、アミロイド沈着は血液動員システム自体に影響を及ぼしている可能性もある。色々想像を巡らしているうち、以外とこの研究は重要かもしれないと考え始めている。自分の頭の中も含めて、脳は面白い。
9月17日:言語遺伝子FoxP2(米国アカデミー紀要オンライン版掲載論文)
言葉を話すのは人間だけだ。言葉が可能になるためには、例えば「リンゴ」と言う音の記憶と、リンゴの視覚イメージの記憶が結合して脳内に残っている必要がある。これを可能にする脳構造がヒトでどう進化したかは21世紀最大の課題だ。21世紀に入ってすぐ、遺伝性の重症の発話障害の原因遺伝子としてFoxP2が特定され、言語を可能にする脳構造形成に関わる遺伝子がみつかったと世界中が興奮した。しかしこの遺伝子は決してヒトにだけにあるわけではない。脊椎動物には広く存在する。ただ、ヒトとサルでは2アミノ酸残基の違いがあり、今はこの違いが言語発生に関わるかどうかが研究の焦点だ。このホームページで何度も紹介したネアンデルタール人のゲノム解読の第一人者ペーボさんもFoxP2には特別の興味があるようだ。ネアンデルタール人のFoxP2遺伝子が私たちと同じであることを示した論文を発表しているし、なんとヒト型FoxP2に置き換えたマウスまで作成して、ヒト型FoxP2に脳回路の形成を変化させる力がある事を示している(Cell, 137, 961, 2009)。今日紹介するMITとドイツマックスプランク研究所の共同研究はこの続きの仕事で、勿論ペーボさんも責任著者として名を連ねている。論文のタイトルは「Humanized FoxP2 accelerates learning by enhancing transition from declarative to procedural performance (ヒト型FoxP2はマウスの陳述的行動から手順的行動への変換を促進して学習を加速する)」で、米国アカデミー紀要オンライン版に掲載された。陳述的行動、手順的行動とは心理学的用語で、意識的に行う行動と、自動的に行う行動と言った意味で理解すればいい。しかし、これは人間についての定義で、同じ定義をマウスにどう当てはめるか、特殊な心理テストが必要だ。詳しくは述べないが、ここでは学習時に視覚と触覚の両方から情報が入ってくる条件での行動を陳述的、一つの刺激だけで学習させる場合の行動を手順的とする心理テストを使っている。詳しい事を全て省いてまとめると、ヒト型FoxP2を持っていると、様々な刺激が入って競合しても、それを単純な手順的行動へ変換する事が出来るが、マウス型のFoxP2のままだと、刺激が多いと混乱して学習が遅れると言う結果だ。この生理学的基盤についても調べており、この行動に関わる線条体でのドーパミン量がヒト型マウスでは低下し、脳細胞レベルでのグルタミン酸レセプター依存性の長期記憶形成が促進している事が示されている。結論的には、FoxP2がヒト型になると、線条体の神経で遺伝子発現が変化し、その結果長期記憶が更新する。この生理的変化により、複雑な刺激回路をうまく整理して、一つの行動へと統合する、言語発生に必要な能力が新たに獲得されると言う話のようだ。このシナリオを信じるかどうかは、マウスの心理テストが陳述的行動を本当に反映しているかどうかにかかっている。私自身はFoxP2の話を聞いたときから、言語の様な複雑な情報システムが一つの遺伝子で決まるはずはないと冷ややかに見ていた方だ。しかしペーボさんたちの執念を見ていると、ひょっとしたらと言う気持ちになってくる。おそらく今はクリスパー等を使って、ヒト型FoxP2を持つサルが開発されているだろう。実際ペーボさんが設立したライプチッヒのマックスプランク研究所には、ペーボさんのゲノム分野に加えて、言語学分野、そしてサル学分野が設けられている。今から考えると、彼の長期的視野に驚く。間違いなくライプチッヒの人類進化研究所は21世紀をリードする研究所だ。
9月16日:ミツバチ社会の進化(Nature Geneticsオンライン版掲載論文)
ほぼ毎日のように様々な生物のゲノム解析が報告される。最近では一つの種のゲノムの配列を解読するだけではなかなかトップジャーナルには掲載されない。種内の多様性や、種間の詳しい比較、進化シナリオの実験的検証などがあって初めてトップジャーナルが掲載する。大変な時代になって来たとも言えるが、個人のアイデアや才能が生きる道が拡がったとも言える。即ちゲノムを通して、自分の面白いと思っている事を人に伝える事が出来る。今日紹介するスウェーデンウプサラ大学からの論文はミツバチ社会の進化についてのシナリオで、Nature Geneteicsオンライン版に紹介されている。タイトルは、「A worldwide survey of genome sequence variation provides insight into the evolutionary history of the honeybee Apis mellifera(ミツバチのゲノム配列変異を世界中で比べる事でミツバチの進化の歴史を洞察する)」だ。現役時代ならミツバチの論文は読まなかっただろう。要するに時間があると言う事だが、ミツバチが人間の進化と決して無関係でない事、そして分業社会の進化のルールの面白さなど、学ぶ事は多かった。先ず私たちが食べている食物の1/3はミツバチの受粉のおかげである事、また今このミツバチに大異変が起こり始めており、この問題がミツバチを知り尽くす事からしか解決できない事もよく理解した。この研究の目的はミツバチがどのように世界中へ拡がり、多様化したのか。その過程での人為的介入も含めた選択圧は何かを解明する事だ。研究では14種類のミツバチをアフリカ、東アジア、欧州、アメリカから集めゲノム配列を比べ、これまでの進化の過程で生まれたおよそ800万を超す遺伝子多型を同定している。この解析から生まれて来たシナリオをまとめると次のようになる。今回調べられた4地域のミツバチの祖先はおそらく中東か東アジアのどこかで生まれ、30万年前にそれぞれの地域へと分散して行った。アフリカに移動したグループが最も多様化しているが、どの地域のミツバチも他の種と比べると多様化の速度は速い。私見だが、この時間スケールは我々がネアンデルタール人と分かれた時間と重なり、移動の方向性も同じで面白い。さらに、氷河期に個体数が急速に縮小した後、現在個体数が上昇期にあるが、アフリカでは急速な個体数の低下が起こっている。ミツバチで面白いのは、女王蜂、雄蜂、そして働き蜂と役割が分かれており、働き蜂は全く生殖に関わらない点だが、地域に応じた多様化を示す遺伝子の多くは働き蜂に発現している。即ち、生殖能力のない働き蜂に大きな環境からの選択圧がかかっていると言う結果だ。即ち、外で働かない雌や雄蜂は環境によって選択されようがないため、選択は働き蜂を通して間接的に集団全体の興亡として現れるようだ。どの社会でも、いい働き蜂がいない集団は集団ごと選択される。選択されてくる遺伝子は温度や形態形成など多様な範囲にわたっており、様々な環境条件に適応しているのが推察できるが、ではそれぞれの遺伝子の実際の選択にどの環境がどうか変わったのかを証明する事の難しさを示す。一方、巣の中で暮らす雄蜂では変異は少ない。ただ、選択され方は極めて直接的だ。雄蜂で発現している遺伝子で選択圧にさらされたと考えられる遺伝子の多くは精子形成に関わっている。特に精子の動きをコントロールする微小管形成に関わる遺伝子が選択されているようだ。ミツバチの受精時には、なんと20個体分の精子が互いに競争するらしい。結局どの精子が卵に早く到達できるかの勝負だけで決まっているようだ。色々学んでみると、ミツバチの進化も期待通り人間社会の参考になる事は多い。
9月15日:AYA世代の白血病:フィラデルフィア染色体陽性型(9月11日号The New England Journal of Medicine)
小児期から20代までにかかるガンをAYA世代のがんとして特別に区別している。これは成熟期と比べた時、成長期の人の身体には様々な違いがあり、それを考慮した治療が必要とされるからだ。今年4月に、自らも胎児性がんを経験した岸田徹さんを招いて、AYA世代のガンの最近の論文について読書会を行いニコニコ動画で放送した。岸田さんはガンノートと言うサイトを立ち上げて特にAYA世代のガン患者さんのための多面的な活動を行っておられる(http://gannote.com/)。その時議論の中で、ガンゲノム解析をAYA世代のガン全てで行って、敵を知って戦う事の重要性を強調した。今日紹介するセントジュード子供病院からの研究はこの議論の重要性を再確認させるもので、9月11日号のThe New England Journal of Medicineに掲載され、タイトルは「Targetable kinase-activating lesion in Ph-like acute lymphoblastic leukemia(フィラデルフィア染色体(Ph)陽性急性リンパ芽球性白血病は標的薬の適用が可能なリン酸化酵素活性化異常が見られる)」だ。一般的に子供のかかる急性白血病は治療法が確立しており経過は良好だ。しかしそんな中でも少し治療が難しいグループがある。未熟B細胞由来の白血病で、特にPh陽性グループと分類されている白血病は治療が困難だ。一方、Ph染色体として表現されるBCR遺伝子とABL遺伝子が融合する異常を持つ白血病では融合遺伝子の活性を押さえる事で、白血病を飲み薬でコントロールする事が可能になっている。Ph染色体を持つ他の白血病でも同じ様な標的治療が可能ではないかと言う期待を持って、この研究では1700例以上の急性リンパ芽球性白血病の中からPh染色体陽性の154例選び出し、遺伝子解析を詳しく行った。結果は予想通りで、9割以上の患者さんが異なる染色体が融合する遺伝子転座を持ち、転座遺伝子の多くが、薬剤で治療可能なチロシンキナーゼ分子をコードする遺伝子の転座である事を発見している。さらに、このグループの多くでCRLF2遺伝子の転座による発現上昇がおこり、TSLPと呼ばれる本来はB細胞には効かないサイトカインが白血病の増殖を促進している事もわかった。また症例のほとんどでIKZF1と呼ばれる遺伝子の発現も上がっている。この論文では議論されていないが、ここで紹介したようにこの分子はレナリドマイドで特異的に分解可能な分子だ。このように、この白血病グループの増殖回路は比較的単純で、また特徴的な遺伝子発現が見られており、その分標的薬剤を使える可能性がある。この論文ではキナーゼ阻害剤をモデル実験系で試した後、12例の患者さんに試し、なんと11例の患者さんに薬剤が効いている事を報告している。これまで経過が悪いとされて来た白血病グループが、逆に最も治療し易い白血病へとかわるのではと期待させる結果だ。事実我が国でも、Ph陽性白血病にチロシンキナーゼ抑制剤が使われ始めている。おそらく未熟B細胞の生理に関わる他の標的薬も今後利用できるようになるのではないだろうか?(元未熟B細胞の発生を研究していた人間の私的意見)。しかし本当の標的治療を実現するためにはPh陽性と診断するだけでなく、出来るだけ正確に遺伝子異常を確かめる必要がある。簡便にこれを診断するための遺伝子アレーの導入を進めるとともに、当分はエクソーム解析などを提供する必要があると思う。若い世代は日本を支える力だが、経済的には一番苦しい世代でもある。是非この事を考えた公的・私的支援が彼らに届くよう岸田さん達と一緒に頑張っていきたい。
9月14日:身体は薬の宝庫?(9月11日号Cell誌掲載論文)
9月5日号のScience誌にコーヒーの全ゲノムを解読した論文が出ていた(Science 345, 1181,2014)。勿論研究の焦点は、私たちを虜にするカフェインの合成システムが進化して来たプロセスを理解することだ。カフェインはコーヒーだけでなく、カカオや、お茶の葉にも含まれているが、それぞれの植物は種としてずいぶん離れている。今回ゲノム解読により、カフェイン合成経路がお茶やカカオとは全く別々に進化して来た事がわかった。この論文を読んでわかるのだが、ゲノム解読により遺伝子に直接コードされたペプチドだけではなく、その生物により合成される分子についても推測が可能になっている事だ。私たちの身体の中で作られる分子のうち遺伝子に直接コードされているのはほんの一部だ。実際には外部から物質を取り入れ様々な化合物を合成する事で生命を維持している。コンピュータを使って代謝合成経路を再構築しどのような化合物や代謝物が生成されるかの予測が可能になると、今後様々な生物のゲノムから、有用な薬剤の存在を予測できるかもしれない。事実、アスピリンも、ペニシリンも、最近ではスタチンも最初は生物の合成物として分離された。今日紹介するカリフォルニア大学サンフランシスコ校からの論文は、この可能性をなんと私たちの身体の中に常在する細菌で調べた研究で9月11日号のCell誌に掲載された。タイトルは「A systematic analysis of biosynthetic gene clusters in human microbiome reveals a common family of antibiotics (人体の細菌叢に存在する生合成に関わる遺伝子クラスターを解析する事で共通の抗生物質ファミリー分子が明らかになる)」だ。ここでも紹介したように、肥満といった私たちの身体に影響する物質が細菌叢により分泌されている事がわかってきた。この研究では、こうした化合物を網羅的に探索しようと、ClusterFinderと呼ぶコンピューターソフトを開発し、これを用いて腸、口内、膣などの様々な部位から分離さている2430種類のゲノムを解析している。この結果、抗生物質に関わると予想できる14000種類の分子クラスターを特定し、そのうち健康人に存在する3000のクラスターについて更に詳しく検討している。この研究は常在細菌叢の合成する抗生物質を調べてみようと言うアイデアを着想し、このために新しいコンピューターソフトを開発した点で終わっている。もちろんこの3000の中に役に立つ抗生物質の合成経路はあったのかは一番重要な点だろう。しかしこの点に関してはこの論文はまだ物足りない。確かに現在抗生物質として使われている様々なタイプの生物由来化合物合成経路に対応するクラスターを特定し、現在登録されている化合物に近い分子を発見している。その中から、グラム陽性菌への殺菌作用のある新しい化合物lactocillinも発見し、この抗生物質が、正常人の膣内で分泌され、おそらく細菌叢のホメオスタシスを維持するのに役立ってそうだと言う所まで示している。アイデアは面白く、新しい分子も見つけて論文としては十分だが、では製薬会社が今後こぞって人間の細菌叢の探索に走るようには思えない。やはり焦点を役に立つ抗生物質の探索におくより、私たちの身体で日々起こっている細菌同士のせめぎ合いの秘密を理解するもっとダイナミックな研究へと発展すれば面白いのにと思った。更に今回の仕事では抗生物質だけに焦点が当たっているが、宿主との相互作用は細菌叢の役割を考える時最も重要になる。今年腸内細菌からNK細胞の表面にあるCD1に対するリガンドが分泌されてMK機能が変化する事が示された。是非更に網羅的に合成物を予測できるアルゴリズムの開発を望む。ゲノム解読の論文はほぼ毎日のように読んでいるが、今勝負の焦点はアルゴリズムの開発に移って来ている感がある。是非ゲノム数理の研究者が我が国でも育つ事を願っている。
9月13日:真打ち登場(9月11日号Cell誌掲載論文)
今日は各紙高橋さんのiPS由来細胞を用いた加齢黄斑変性症治療の話で持ち切りだ。実は感覚器の再生医療は、再生医療として最初に重点助成対象に取り上げられた分野だ。これは神戸理研が出来るより更に前の話で、自民党の水島議員の発案だったと覚えている。提案を受けた時、最も難しいテーマから再生医学を始めるのは大変だと思ったが、今から考えると案ずる必要はなかったようだ。その後、ミレニアムプロジェクトとしてES細胞を初め様々な細胞を用いた再生医学助成へと対象が拡がり、今に至っている。高橋さんは最初からずっと見守って来たので、一区切りと言う感じだ。しかしメディアの報道では紋切り型のように安全性の問題が指摘されている。事実、国の委員会でもiPS技術自体の安全性を厳しく追及されたようだ。現役時代言い続けて来た事だが、培養細胞を使う限り100%安全と言う細胞はあり得ない。実際、誰が自分は100%ガンにならないと言い切れるだろうか。腫瘍発生に関する安全性試験は当然行う必要があるが、重要なのは不幸にして腫瘍が発生してもすぐに対処できる事を患者さんに納得してもらう事だ。私がディレクターを務めていたときはその方針で進めており、網膜色素細胞シートからパーキンソン病までは、不幸にして腫瘍が発生してもそれに対応して患者さんの命を危険にさらさないための検討は十分出来ていると思っている。とは言え、私たちの身体の細胞は今使われているiPSよりは安定している。これは細胞のおかれた環境から最適なシグナルが提供されるためで、それぞれの細胞に至適な環境がある。一方培養するとなると、本来の環境を完全に再現する事は出来ないのが普通だ。私たちの細胞の発生、成長、老化などのほとんどのプロセスはこのような環境との関わりで決められる染色体構造の変化に他ならない。従って、臨床的には一定のリスクを許容できるにしても、エピジェネティックな状態を安定に整える方法の開発をおろそかにしてはならない。しかしこれまで紹介して来たように、iPS大国日本では、この分野が極めておろそかになっており、気がついたら日本の技術がガラパゴス化していた事になるかもしれない。今日紹介するケンブリッジの幹細胞研究センターからの論文はヒトiPSを最も未熟な安定状態に保つための培養法の開発についての研究で、昨日のCell誌に掲載された。タイトルは「Resetting transcription factor control circuitry toward ground-state pluripotency in human(ヒト多能性の転写調節ネットワークをground stateにリセットする)」だ。断っておくが、私自身昨年12月までこの研究所のアドバイザリーメンバーで、またこの論文の筆頭著者高島君は私の研究室に在籍していた。また、高島君からの情報や、アドバイザリー会議での議論から、この仕事が続けられた5年間の紆余曲折を良く知っている。しかしだから紹介するわけではなく、マウス多能性幹細胞についてground stateという概念を提出したSmithがヒト多能性幹細胞(PSC)についても、ついに真打ちとしてこの開発競争のとりを務め、この分野の方向性をしめしたと思ったので紹介する。事実7月29日、ここでもう一人の真打ちJaenisch研究室から発表されたPSCのground stateに関する論文を紹介した。その時、かなりマウスground stateに近い状態が達成できている事を紹介したが、驚く事に高島君達はこれとはまた違う条件を使い、違ったground stateを達成している。最も大きな違いはPKC阻害剤を用いる点で、これによりJaenisch達より単純な培養システムが可能になっている。最初PKCの話を聞いた時、高島君が卒業した神戸大学・西塚先生により発見された分子がこの成功の鍵になったのは何かの因縁ではないかと思ったが、この研究ではなぜこの阻害剤が効くかもしっかり答えを出している。詳しい事は全て省いて、新しい方法ではLIF+ERK阻害剤+GSK阻害剤+PKC阻害剤とフィーダー細胞があると、安定で増殖力の高いヒトPSCを維持できると言う結果だ。細胞の接着を維持する目的でフィーダー細胞を使っているが、故笹井さんの開発したRock阻害剤とマトリックスを使えばフィーダーも必要ないようだ。重要なのは、Jaenisch研の方法によるPSCとは少し違った状態を反映していることで、培養条件により、多能性の様々な状態を作りうる事が示され、将来の基礎研究課題としても面白い。論文では、これがマウスground stateに対応する状態に近い事を示すための多くの検証が行われている。淡々とした、わかり易いいい論文だと思う。ground stateからの分化誘導についてのデータなどから見ても、Smith法であれ、Jaenisch法であれ、PSC培養は最終的にはこのようなground stateで維持する方法に変わって行くだろう。まさに真打ち登場と言う感がある。しかし、真打ちがとりをとるのは寄席の話だ。是非我が国の若手から、あっと言う新しい状態の提案や、培養方法が提案されるのを待っている。
9月12日:スターの力を借りて論文を宣伝する(Journal of Paleontology9月号掲載論文)
今日は読んでいただくのを少しはばかる。世界のメディア各紙がこぞって一つの科学論文を紹介する事はそうない。しかし9月10日にはニューヨークタイムス、ワシントンポスト、デイリーメールなどがこぞって紹介した論文が今日紹介するウェークフォレスト大学とデューク大学からの論文でJournal of Paleontology9月号に掲載された。タイトルは「Anthracotheres from Wadi Moghra, early Miocene, Egypt(中新世代エジプトのWadi Moghraから出土するAnthrocotheres)」だ。Anthrocotheresはカバと同じ偶蹄類の絶滅哺乳動物で、この名前は最初フランスの炭坑で見つかった事からつけられた名前だそうで、石炭獣とでも訳せば良い。約2000万年前位に生息し、カバの先祖ではないかと研究が続けられているが、特にWadi Moghara(洞窟の谷)と呼ばれるエジプトの南部湿地地帯が多くの化石が出土する地域として発掘が続いている。しかし、この論文がどうして多くのメディアに報道される事になったのだろう?実は私も、ニューヨークタイムズで紹介していなかったらおそらく読む事はなかっただろう。ともかく読もうと心に決めて読み始めたが、しかし化石についての一般論文は結構読むのが大変だ、と言うより読む気にならない。計測や、これまでの化石との関係、標本番号など、専門家には大事だが、専門外の私には到底意味のない文字が並んでいる。思ったより写真も少ない。しかしサマリーと短いディスカッションを読むと、Moghra地区で出土するAnthrocotheresの様々な種を整理し、今回見つかった2種類と比べているようだ。とはいえそれぞれの系統関係などあまり議論がされておらず、極めて記述的でメカニズム、メカニズムとすぐ思う私にとっては不思議な論文だ。いずれにせよこの論文のハイライトは今回見つかった新しい絶滅種をjaggermeryx naidaと名付けた点にある。この種の特徴は下顎に開いた4つの神経を通す穴で、これは下唇の運動がかなり精緻に調節されていた事を思わせる。この発見から著者等はミックジャガーの唄っているときの大きな下唇や下顎の複雑な動きを思い出したようだ。ほ乳動物の進化にとっては勿論大事な発見だろうが、それにしてもミックジャガーを思いついてJaggermeryxと名前を付けなければメディアも紹介する事はなかっただろう。いずれにせよ、サイエンスコミュニケーションの難しさを思い知らされる論文だった。ただ、有名人の力を借りてなんとか自分の論文を注目させようとすることは別に珍しい事ではないようだ。同じニューヨークタイムズの記事によると、ミックジャガーは既に三葉虫の学名(Aegrotocatellus jaggeri)に使われているそうだ。他にも同じローリングストーンのキースリチャードも同じ三葉虫に名前を残している(Perirehaedulus richardsi)。果ては、最近乳がん遺伝子で騒がれたアンジェリーナジョリーはクモの学名に名を残しているようだ。(Aptostichus angelinajolieae) 物知りになったと言う意味では、今日はニューヨークタイムズの方がためになった。更に有名人の名がついた学名を調べたい人達には(http://abcsofanimalworld.blogspot.jp/2011/09/animals-named-after-famous-rock-stars.html)がお勧めサイトだ。
9月11日:免疫と自然免疫を補体がつなぐ(9月5日号Science誌掲載論文)
私たちの身体の中には2種類の免疫機構がある。一つは抗原特異的反応で、抗体反応や、T細胞の細胞性障害反応がこれに当たる。一方、自然免疫と呼ばれている機構もあり、これは細菌の細胞壁に存在する物質や核酸に対して即座に反応し、炎症を誘導して身体を守る仕組みだ。外来物質に対する特異性を考慮すると、外界から侵入する細菌やビールスに対しては、先ず自然免疫が対応して手当り次第に 病原体の増殖を抑え、その後特異的な免疫反応を誘導して標的となる病原体だけを処理すると言うなかなか合理的な仕組みだ。では両者は全く別々の機構なのか?病原体侵入直後の自然免疫反応が、その後の免疫反応誘導を促進すると言った共同作用についてはこれまでも知られていた。今日紹介する英国ケンブリッジMRCからの論文は、特異的抗体がでてきた後、抗体の結合した病原体が細胞内に取り込まれ自然免疫反応を誘導する新しい仕組みについて明らかにした研究で、9月5日号のScience誌に掲載された。タイトルは「Intracellular sensing of complement C3 activates cell autonomous immunity(細胞内のC3検出機構は細胞内因性の免疫を活性化させる)」だ。正直、どうしてこのような事が今まで気づかれなかったのか不思議なくらい面白い現象だ。侵入する病原体に対する抗体が結合すると、病原体に対する貪食機能を促進したり、病原体の細胞内への侵入を阻止する中和反応を起こしたり、あるいは補体と言うタンパク質分解系を活性化させ、病原体を分解する事が知られている。この補体の成分の一つC3が病原体とともに細胞内に取り込まれ、細胞内で自然免疫を活性化させることで、病原体排除に一役買うと言う事を初めて示したのが、この研究だ。このグループは免疫に関わるリンパ球やマクロファージと言った特殊細胞とは異なる普通の細胞(ここでは胎児腎臓細胞株)が病原体に直接反応できるか調べていた。そして、細胞はビールスや細菌などの病原体自体には反応できないが、病原体をそれに対する抗体を持つ人間の血清で前処理すると反応できるようになり、自然免疫反応に関わるシグナル経路が活性化される事を発見した。実際にはこの発見が全てで、後はトントン拍子で研究は進む。1)細胞内に取り込まれたときだけ自然免疫が活性化する。2)抗体だけではだめで、補体の中のC3が抗体と結合しているときだけ反応が起こる。3)誘導される反応はほとんど自然免疫と同じで、炎症を引き起こすサイトカインが分泌される、4)ほとんどのほ乳動物でこの機構が存在する、5)どんな病原体でも抗体が出来れば有効、そして5)MAVSと呼ばれるミトコンドリアに存在する分子がC3のセンサーとして働き、自然免疫回路を活性化させている事を突き止める。他にも、ビールスが補体と抗体の結合を弱める機構を開発する事で、この反応を回避している事まで明らかにしており、内容は盛りだくさんだ。新しい事をしっかり理解できたと言う気持ちにさせる論文だ。著者等は慎み深く、勝手に様々な事を議論すると言うスタイルはとっていない。しかし素人が見ても、このメカニズムはクローン病を始め様々な慢性炎症で、免疫と自然免疫をつなぐ鍵になっているかもしれない。新しい抗ビールス薬の開発だけでなく、まだ試行錯誤の続く慢性炎症治療薬の開発に道が開かれるのではと期待したい。