血液や皮膚など多くの組織では、成熟した細胞が毎日失われている。これを補うため、幹細胞システムが必要だ。今幹細胞の老化の仕組みについての研究が盛んだ。今年4月15日に紹介したが、115歳の老人の造血はたった2個の幹細胞でまかなわれている事が報告されている。若い時には何百もあるはずで、老化とともに幹細胞が失われて行く事をはっきりと示している。これを防いで幹細胞を若返らせる事が出来ないか?これまで、様々なメカニズムが明らかになって来た。低酸素反応、DNA損傷に対する修復機構など、一種のストレス反応に対する機能は老化とともに確かに低下するようで、まあ仕方ないなと納得する論文が多い。しかし今日紹介するオタワ大学、Michael Rudnickiグループからの筋肉幹細胞に関する研究は、これまでとは少しおもむきが違っていた。同じ時に、アメリカのサンフォード・ブルハム研究所から同じ内容の論文が出ているが、ここではRudnicki達の論文を紹介する。タイトルは「Inhibition of Jak-Stat signaling stimulates adult satellite cell function(Jak-Statシグナル抑制により成人の筋衛星細胞の機能を活性化する)」だ。衛星細胞と言うのは、筋肉組織に存在する幹細胞で、失われた筋肉細胞をゆっくりとではあるが再生するために必須の細胞だ。他の幹細胞と同じで、衛星細胞も老化とともにその機能が低下する。幸い筋衛星細胞は他の細胞から区別して集める事が出来るので、老化によってどのような変化が起こっているのかが調べられた。その結果、通常炎症反応と考えられている回路、即ちJak-Stat回路が活性化している事を突き止めた。実際にこの回路の活性化が衛星細胞老化の原因かを調べるため、様々な方法でこの分子の機能を押さえると、試験管の中でも、身体の中でも確かに幹細胞の活性を元に戻す事が出来る。最後に、このシグナル経路を抑制する薬剤を筋肉に注射し、障害した筋肉の再性能を調べてみると、細胞数も筋力も大きく改善したと言う結果だ。この研究では、Jak-Stat回路を活性化している環境因子が何か?あるいはこの回路の活性化により誘導されるどの分子が幹細胞機能を抑制しているのか?については明確ではない。ただ、慢性炎症によりこの回路が活性化され、衛星細胞が増殖より分化の方向に進む事で老化が進むと想像する事が出来る。とすると、今度は炎症と言うストレスが、幹細胞の機能を損うストレスになっている事を示している。この研究にあるように、炎症に対する反応を抑制しても幹細胞は若返らせる事が出来るが、何よりも炎症が起こらないようすることで幹細胞を守る事が重要だろう。事実、血管の動脈硬化や糖尿病も一種の慢性炎症の結果ではないかと考えられている。しかしひょっとしたら、ストレスなしの生活を送るほど、ストレスの多い事はないかもしれない。人生は複雑だ。
9月10日:老化幹細胞を活性化する(Nature Medicineオンライン版掲載論文)
9月9日:妊娠時低栄養による胎児代謝異常の犯人(Journal of Clinical Investigationオンライン版掲載論文)
ここでも何回か紹介したが、妊娠時に飢餓やダイエットで低栄養にさらされると、胎児や、時によっては孫の代まで様々な代謝異常が起こる事が知られている。この現象は、最初第二次世界大戦中にアムステルダムで飢餓にさらされた妊婦さんから生まれた子供の追跡調査によって初めて認識されるようになったが、現在では動物モデルでも確認され、基礎的研究が可能になっている。特に中年以降の糖尿病が増加する事から、糖尿病研究にとっても重要な課題として研究が続けられて来た。今日紹介するミシガン大学からの研究もこの様な基礎研究で、妊娠時低タンパクにより胎児側に誘導される変化を担う犯人分子を探索する研究で、オンライン版のJournal of Clinical Investigationに紹介されている。タイトルは、「Maternal diet-induced miroRNAs and mTOR underlie β cello sysfunction in offspring (母親の低栄養により誘導されるミクロRNAとmTOR分子が子供のβ細胞異常の基礎になっている)」だ。この研究では、一般的低栄養ではなく、低タンパク食に焦点を当てて研究し、これによって胎児側で起こってくる代謝異常の犯人探しが行われている。詳細は全て省くが、妊娠時低タンパク食で育てられた妊娠マウスから生まれた子供は大人になってもインシュリンの産生が低く、グルコース負荷にうまく対応できない。この異常の分子原因を調べて行くと、インシュリン遺伝子自体や膵臓β細胞分化・維持に必須の転写因子Pdxの発現が低下している。これらの異常の原因を更に遡ると、栄養など細胞外の環境と細胞内の代謝システムを統合している鍵となる分子mTORの発現が低下している事を突き止める。更にこの低下の原因を探ると、この分子のタンパク質翻訳を調節しているミクロRNA(microRNA-199a-3p)が今度は上昇している事を突き止めた。このミクロRNAは特定のセットの遺伝子がRNAからタンパク質へと翻訳される過程を抑制する分子で、今回特定されたミクロRNAはmTOR遺伝子調節に関わる事がわかっている。なぜこのミクロRNAが胎児で上昇するのかについてはまだ明らかに出来ていない。おそらくミクロRNAの発現を抑制しているエピジェネティックな機構が低タンパクにより変化し、ミクロRNA発現が上昇、それが次にmTORの発現を押さえると言うシナリオの可能性が高い。研究では、妊娠末期に短い期間mTORの機能を回復させるだけで、子供の異常が軽減される事を示しており、将来の診断と治療へ向けた研究の糸口が得られたと評価できる。実際、生命科学の知識がある者にとってこの異常の原因がmTORに集約して来たと言う事実は、最も正当な分子に落ち着いたと言う印象が強く、極めて納得の結果だ。このように、臨床、基礎、臨床と言う研究のサイクルがうまく回って、生活習慣による病気を予防できるようになる事を期待する。このトピックスを取り上げたときは必ず叫ぶ事にしているが、妊娠中に無理なダイエットをする事は間違ってもしないようお願いしたい。
9月8日:正直ものを脳から見分ける(Nature Neuroscience誌オンライン版掲載論文)
高次神経機能にどの脳領域が関わるかについては、脳出血や外傷によって局所的に脳組織が失われた患者さんを使った研究に頼る所が大きい。特に、やる気があるかとか、道徳観などと言った人間特有の機能については、これ以外のアプローチは限られている。9月3日号のNeuron誌(83、1,2014)に、様々な高次機能に関わる事がわかっている前部前頭葉(PFC)の障害に起因する症状についての詳しい概説が掲載されていた。勿論わざわざ総説を読まなくとも、神経科学者で医師のアントニオ・ダマシオが書いた「デカルトの誤り」には、PFCに外傷を受けた後、性格が変わってしまった症例などがわかり易く紹介されているので推薦する。しかしこの様な症例に関する論文や本を読むと、道徳観に関わる様な人間特有の脳機能を調べる場合、まず客観的検査法の開発が重要である事がわかる。今日紹介する論文は、正直さや利他性に関わる道徳観を客観的に調べるゲーム式テストの結果を、PFCの器質的障害と関連づけようとするバージニア工科大学からの研究で、Nature Neuroscience誌オンライン版に掲載された。タイトルは「Damage to dorsoateral prefrontal cortex affects tradeoffs between honesty and self-interest(前部前頭葉背側部の障害は正直対自己中心的態度の間の立ち位置選択に影響する)」だ。ここで使われているテストは、シグナルゲームと呼ばれるテストで、わかり易く言うと被験者が何かを売る店の主人になって客に商品を勧めると言う状況を考えればいい。勿論売った時どれだけ儲かるかは自分しか知らないとすると、勿論もうけの薄いものより、多いものを売ろうとする。ただ、普通の人は一方的にもうける事には罪悪感を感じるのが普通で、客の得になるよう振る舞う事も多い。この様なゲームを行うと、正常の人だと客も利益率など情報を全て知って選ぶ場合と比べた時、決して大もうけする事はないのだが、この道徳観が欠如した人では大もうけすると言う結果が出てくる。こんなテストを、正直さに関わるとこれまで考えられて来た前部前頭葉の背側部、及びそれより前方の眼窩前頭野に障害をもった患者さんに受けてもらい、脳障害の影響を調べている。結果は明確で、正常人は予想通り大もうけしない。また、これまで正直さに関わるとされて来た眼窩前頭野の障害を持っている患者さんも大もうけしない。しかし前部前頭葉背側部に障害があると、正直に客に情報を伝えないことで大もうけすると言う結果だ。結論的には、正直かどうかの客観的テストは可能で、これに関わる脳領域も特定できると言う面白い結果だ。ただ、読後感は複雑だ。もし客観的に正直かどうかを知るテストが本当に開発されたとして、このテストの結果をもとに人を選別していいのか?また、これに関わる部位が障害されているからと言って人を選別していいのか?是非、いい人と悪い人を区別して選ぶべきだと言う人に、この質問を投げかけてみたい。
9月7日:多発性骨髄腫の治験情報(9月4日発行The New England Journal of Medicine掲載論文)
多発性骨髄腫についてはこれまで2回紹介した。一回はエクソーム解析の結果についてで、骨髄腫では早くから異なる突然変異がガンの中に混在するため、ガンの増殖に関わるがん遺伝子を突き止め、分子標的治療を行う事が難しいという残念な報告だった。一方、最近サリドマイドに変わる薬として使われ始めようとしているレナリドマイドが、サリドマイドと比べた時IKZFと呼ばれるリンパ系細胞の発生に関わる分子に高い特異性を持っており、効き目が強く副作用が少ない事が期待できる事を紹介した。ただ現在の所では、骨髄腫に対する標準治療はMPT、即ち古くから使われて来たメルファランと呼ばれるアルキル化剤、プレドニン、そしてサリドマイドだ。現在ではこれに、自己の血液幹細胞移植を組み合わせ、先ず高濃度のメルファランでたたいてから、造血機能や抵抗力を抹消血から集めておいた自己の血液幹細胞を移植し回復を計ると言う治療法が行われ、良い成績を得ている。今日紹介する2編の論文は、基本的に骨髄腫治療に対するレナリドマイドの効果を調べた第3相試験の結果で、9月4日号のThe New England Journal of Medicineに続けて掲載されている。一編はイタリアトリノ大学からの論文、もう一編はヘルシンキ大学から論文で、それぞれ「Autologous transplantation and maintenance therapy in multiple myeloma(骨髄腫の自己幹細胞移植と維持療法)」及び「Lenalidomide and dexamethasone in transplant-ineligible patients with myeloma(自己幹細胞移植の出来ない骨髄腫に対するレナリドマイドとデキサメサゾン治療)」がタイトルだ。詳しい内容は全て割愛するが、最初の論文では、治療の中心をレナリドマイド、デキサメサゾンに据えて、それに加える様々なプロトコルを試した第3相試験だ。結論としては、先ずレナリドマイドとデキサメサゾンで約一ヶ月導入療法を行った後、メルファランの大量療法に自己幹細胞移植を組み合わせた4ヶ月コースを2サイクル繰り返し、その後レナリドマイドを飲み続けると言うプロトコルが最も効果が高い事が示されている。この方法だと、半分の患者さんが4年近く病気の進行なしに過ごす事が出来る。これに対し、他の方法だと大体2年で病気の進行が始まり、この差は大きい。将来の治療の中心になって行く事が予想できる。しかし残念ながら65歳以上の患者さんの多くは高濃度のメルファランと移植と言うプロトコルには耐えられない。従ってこれまでMPTという組み合わせが使われて来たが、この従来法と、メルファランを使わず、レナリドマイドとデキサメサゾンのみの組み合わせを検討したのが2番目の第3相試験だ。結果だが、腫瘍の進行を止められる期間が従来の方法では21ヶ月なのに対して、レナリドマイド、デキサメサゾンの組み合わせでは25ヶ月と明らかな延長が見られる。4年目で見た生存率は51%対59%で、劇的とは言えないが有意な差と言える。重要な事はメルファランを使わないため、副作用が少なく生活の質を向上させる事が出来る。骨髄腫には他にもプロテアソーム阻害剤の効果も確かめられており、骨髄腫に対する治療は着実に進展している事は明らかだ。患者さんの期待に答えられるよう、さらに最適のプロトコルへが開発される事を期待する。
9月6日:リプログラミングは効率より質?(9月4日号Cell Stem Cell掲載論文)
小保方さんのSTAPに日本中、特にメディアが大騒ぎした一つの理由は、記者会見でSTAP法によるリプログラミングの効率が、山中法の100倍も高いという宣伝文が配布されたせいだと思っている。勿論これは間違いだった。しかし当時の報道ではそれが疑われることなくそのまま掲載され、少し心配になった私はこのホームページで苦言を述べた。勿論私の苦言など誰も聞きはしないが、今日紹介するJaenisch研究室とエルサレム大学からの論文を読めばリプログラミングの効率で大騒ぎすることのバカさ加減がわかるはずだ。論文のタイトルは「The developmental potential of iPSCs is greatly influenced by reprogramming factor selection (iPS細胞の分化能はどのリプログラム因子を選ぶかによって大きく左右される)」で、9月4日号のCell Stem Cellに掲載された。私も個人的な付き合いが長いのでよくわかるが、山中iPS論文に最もショックを受けたのはJaenischだろう。実際私とEdison Liuが主催したシンガポールのシンポジウムで、若手研究者に仕事以外の話をしてもらった時、体細胞を直接リプログラムする事が自分の夢だと率直に話してくれた。しかしそれを一番に成し遂げたのは山中さんだった。その後の彼は決してめげることなく、リプログラム過程を徹底的に解析し、完全なリプログラムのための方法開発に焦点を絞って、精力的に論文を生産している。今日紹介する研究は、リプログラミングが始まって、転写ネットワークが変化する間に発現してくる山中因子以外の転写因子の組み合わせを用いてリプログラミングが出来ないかを調べたものだ。この研究の目的の一つは、彼らがリプログラム過程の解析から導きだした仮説の妥当性の確認だが、もう一つはともかく山中因子を全く使わずリプログラムが出来るかを確かめるためだ。経緯はともかく、これまでの膨大な研究から山中4因子の一つSox2の下流で活性化される因子として同定されたEsrrb, Sall4, Lin28に、多能性に必須のNanogを加えて線維芽細胞に導入してリプログラムが可能か調べている。答えは当然イエスだ。勿論多能性細胞では最終的に山中因子の幾つかが発現する必要がある。これについては、ベイズ推計学などを駆使してともかく山中因子を導入しなくてもリプログラムの過程で誘導可能であることを強調している。ともかく、この4種類のnon-山中因子を導入すれば、効率は極めて低いが、iPSが出来る。それどころか、多能性の最も厳格なテストを使ってリプログラムの質を調べ、新しい方法で出来たiPSが、山中因子が含まれた遺伝子セットで作ったiPSより質的に優れていると結論している。詳しくは述べないが、論文では、リプログラムの完全さ、ゲノムの安定性等、様々な基準を使って、これでもか、これでもかと新しい方法で出来たiPSの方が質が高いことを強調している。文中で山中iPSはpoor-iPS、新しい方法によるiPSはhigh quality iPSと決めつけており、余りに攻撃的な論文で辟易する。さらに驚くことに、山中論文は最初の論文も含めて全く引用していない。要するに、体細胞リプログラミングという可能性を拓いたのは山中さんだが、どの方法がいいのかはまだまだ勝負がついていないと叫んでいるようだ。とは言え、肝心のヒトではこの方法では効率が低すぎてまだiPSは作成できていない。しかしこれも、山中因子なしでいつかは何とかなると本音を漏らしている。しかし、この様な攻撃的論文を日本のマスメディアはどのように扱うのだろうか?マウスでの戯言と無視するのだろうか。あるいはSTAPの時のように、大変だと驚くのだろうか。私自身はJaenischも科学議論の一線を越えてしまったのではないかと心配している。
9月5日:電磁波で脳を操作する(8月29日号Science掲載論文)
電線のつながったヘルメットをかぶせて電磁波を通すイメージは、フランケンシュタイン以来、脳操作の定番の方法として私たちの頭の中に刷り込まれている。ただこれは決して荒唐無稽なイメージではない。薬剤治療が普及するまで重症の統合失調症に対する電気ショック治療は広く行われていた。この様な野蛮な方法ではないが、現在では磁場を操作して脳内に微小電流を発生させる刺激法も開発され、様々な神経症状に一定の効果を収めている。しかしなぜこの様な方法が効果を持つのかはよくわかっていない。今日紹介するシカゴ・ノースウェスタン大学からの論文は、脳内の特定部位に電流を流すと神経細胞の器質的結合が強まり、記憶能力が高まることを示した研究で、8月29日号のScience誌に掲載された。タイトルは、「Targeted enhancement of cortical-hippocampal brain network and associative memory(皮質—海馬ネットワークと連想記憶を選択的に増強する)」だ。実は磁場脳の特定の場所に当てて微小電流を発生させると、脳内の神経結合が高まることが、既にMRIを使った脳内の神経結合性を調べる方法を用いて示されいる。この論文では記憶に焦点を当て、この方法で長期的に記憶を高められないか調べている。研究では、この反復経頭蓋磁気刺激を5日間毎日脳皮質後側頭部に照射し、照射部位と海馬の神経結合をMRIを用いて調べている。すると、照射野に対応した数ミリ程度の領域で海馬—皮質の結合性を上昇させられる。勿論離れた海馬だけではなく、照射野内の神経結合も上昇する。この結果から、磁場により脳内部に微小電流を発生させるとその場所の神経結合を非特異的に上昇させることは間違いない。ではこの変化が機能の変化に結びついているのか?これを確かめるために、海馬が深く関与している連合記憶検査を行っている。この研究では、様々な顔写真と単語を同時に覚えさせ、顔を見た時に対応する単語を思い出せるかテストを行って、連合記憶能力を検査している。期待通り、刺激を受けなかった場合と比べると、記憶能力の上昇が見られる。結果はこれだけだが、この方法の臨床応用が、従来の結果オーライといった手探りではなく、合理的な治療へと変わる可能性を秘めている。例えば、様々な疾患で海馬との神経結合が失われ記憶機能が低下した時、残っている神経結合を先ずMRIで確認し、次にこの結合を磁場照射で高めると言った治療が可能になるのではないかと期待する。電磁波での脳操作は医療だけでなく意外な拡がりを見せているようだ。実際この方法で視覚野を刺激すると光が見えることが確認されている。これを利用して、離れた所にいる人同士で脳内の情報交換が可能かを研究したバルセロナ大学とハーバード大学からの論文が最近PlosOneに掲載された(Plos One vol9, e105225, 2014)。詳しくは述べないがインドとフランスと地理的に離れている人間同士で、脳波をインターネットを介して伝達し、同じ体験を共有できないかと言う研究で、イエスと言う結果だ。まだまだ広く信じられてはいないようだが、私たちの子供時代に刷り込まれたイメージを追い続けている研究者がいるのだと実感する。
9月4日識字障害の脳ネットワーク(Biological Psychatry9月号掲載論文)
識字障害は文字を読んで意味を理解することがうまく出来ない症状を指し、不思議なことに表意文字を使う我が国では少ないが、欧米ではかなり高い頻度で見られる。症状だけ聞くと、文字を理解する発達が遅れているのではと思ってしまうが、実際には視覚と言語に関わる領域の結合様式の発達の違いだけを反映した結果で、脳発達全体の遅れなどでは決してないことがわかっている。事実、識字障害を持っていたことがわかっている有名人は、ダビンチ、エジソン、アインシュタインなど数えきれない。識字障害を持つ人は想像力に優れ、大局観があることから、経営者としても成功することが多いらしい。メリアン・ウルフ著の「プルーストとイカ」という本は、文字の歴史を概観した後で、私たちが文字を学習する過程でどうしても視覚的構成力を犠牲にせざるを得ないこと、それに抵抗して視覚構成力を残そうとしているのが識字障害の方々の脳であることを教えているが、実際脳内で何が起こっているのか興味は尽きない。今日紹介するエール大学識字障害センターからの論文は識字障害の背景にある脳ネットワークについて正常人と比較した研究で、Biological Psychiatry9月号に掲載された。タイトルは「Disruption of functional networks in dyslexia: A whole brain, data-driven analysis of connectivity (識字障害での脳機能ネットワークの中断:全脳レベルでのネットワーク結合をデータに即して解析する)」だ。研究では識字障害をもつ子供と成人の脳活動をMRIを用いて測定し、正常人と比べている。具体的には文章を黙読したときの脳全体の活動を記録、興奮の時間経過などから結合している部位同士をコンピュータを使って特定し、文字を読む時に活動している脳ネットワークを再構築している。結果は少なくとも私の想像に近く面白い。次のようにまとめることが出来るだろう。1)識字障害があると、注意を集中して文字を読む時に必要とされる視覚回路と前頭葉の繋がりがうまく働かない。2)言語を統合する中枢は左脳に偏って発達するが、この左脳化が識字障害があると遅い。実際には言語に関わる部位が長く右脳各部位と結合を続けるようで、これが創造性を高めるのに役立っているのかもしれない。ただ、この左脳化は時間はかかっても最終的に達成できる。これもほとんどの識字障害が成人するとなんとかその障害をマネージできるようになるのと一致する。3)脳全体の情報を統合する領域として現在後部帯状回が注目されているが、正常人が文字を読む時はこの部位は視覚と最も強い結合を持つのに、識字障害があるとこの繋がりは弱く、様々な場所とつながったままになっている。これも文字に集中することが難しい症状と理解し得る。4)文字の形を認識するために必要な視覚文字形成領域が特定されており、この領域と視覚野との結合は年とともに強まることが知られているが、識字障害があると成長後もこの結合性の発達が遅い。代わりにこの部位は右脳視覚野や、聴覚野との結合を黙読中も維持している。何か代償回路が発達しているようだ。5)識字障害をもつ成人は、黙読中も言語野が発音に必要な脳領域と強く結合している。これは、識字障害の方々が黙読するときの困難を克服するために心の中で発声する習慣を身につけていることと一致し面白い。全て出来すぎているのではと疑いたくなる、納得のデータだ。ヒトの脳の研究は確かに難しい。しかし様々な脳機能の障害がはっきりわかるのも人間だ。特に言語のようにヒト特異的な情報システムが脳ネットワークからどのように生まれたのかは21世紀の課題だ。是非生きている間に少しても言語発生過程を理解したと言う実感を得るため、苦労して論文を読んでいる。
9月3日:壮絶なエボラ論文(Science誌オンライン版掲載論文)
我が国は今デングウイルス感染で大騒ぎだが、一つの地域での感染症流行には必ず始まりがあり、終わりがある。終わりは様々だが、始まりは必ず外から感染を持ち込んだ一人、あるいは少人数の感染者から始まる。この最初の感染者が特定されていると、病原体がどのように拡がるのか、その間に病原体自身がどう変化するのか、その変化のスピードはどの程度か、など様々なことがわかる。特にウイルスの場合、感染経路を特定する疫学と、次世代シークエンサーを用いたウイルスゲノム解析を対応させることが可能で、この様な情報が次の感染や流行を防ぐためには極めて重要だ。この様な千載一遇のチャンスが今回のエボラウイルス流行の始まる時点で、シエラレオネに巡って来た。今日紹介する、シエラレオネのケネマ国立病院、ハーバード大学の共同研究は疫学的に追跡できたシエラレオネのエボラ感染の最も初期段階のウイルスゲノムと、流行後感染者から分離したウイルスゲノムを調べたタイムリーな研究で、サイエンス誌オンライン版に掲載された。タイトルは「Genomic surveillance elucidates Ebola virus origin and transmission during the 2014 outbreak(エボラゲノムを監視することで今年のエボラ流行の起源と感染を説明できる)」だ。論文によると、シエラレオネでの流行の始まりは次の様なものだった。まずケネマ病院は3月にエボラウイルス監視機構をスタートさせており、5月初めまで住民のエボラウイルスは検出できなかったことを確認している。ところが5月25日エボラ患者が見つかり第一例と認定する。疫学的に感染経路を追跡すると、ギニアでエボラ患者を扱った祈祷師が感染によって死亡した時、この患者が埋葬に立ち会っていたことが明らかになった。また、同じ埋葬に立ち会った他の13人も全てエボラウイルスに感染していることがわかった。始まりが特定できた千載一遇のチャンスを逃さず、この患者からウイルスを採取してハーバードに送りゲノム解析を行い、これまでに分離されているエボラゲノムや、6月、7月に感染した患者から分離したエボラスゲノムなどと比較したのがこの論文だ。ゲノム配列から、今回流行中のウイルスは2007−2008年コンゴで流行したウイルスと共通祖先を持ち、2004年頃に分かれたウイルスと考えられる。おそらく人間以外の動物キャリアの中で進化しているようだ。これがコンゴでは2008年に流行した。一方同じウイルスがギニアでヒトに感染するためには2014年までかかり、既にコンゴで発見されたウイルスとは異なるゲノムに分化していた。その後ヒトからヒトへと感染が拡がりだす。そしてギニアで病気退治の祈祷を行っている時エボラに感染した祈祷師からシエラレオネに拡がったことが明らかになった。2014年、即ち現在流行しているエボラウイルスは互いによく似ており、おそらくシエラレオネにはこの単純なルートを通って拡がって来たと推定できる。さらに、祈祷師の埋葬に立ち会って感染した患者のウイルスの解析から、祈祷師はギニアで流行し始めていた2種類のウイルスにかかり、これがシエラレオネ流行のルーツになっていることも明らかになった。他の患者さんの解析からも、一種類のウイルスが一人のヒトに感染するのではなく、複数のウイルスが同時に感染し、維持されていると言うことも明らかになった。これが原因か結果かはわからないが、ヒトからヒトへの流行が始まると、ウイルスの変異速度は増大し、アミノ酸変化につながる遺伝子変異も多く起こることもわかった。いずれにせよ、感染の始まりが特定されることで、変異の速度などが正確に測定できた。残念ながら、見つかったアミノ酸レベルの変異の機能的意義についてはまだわからない。しかし、戦う相手の手強さをしっかり理解できることは大きい。まだまだ不十分と言われるかもしれないが、医学が十分対応していると言う実感を持つ。ただ最後に述べなければならないのはこの論文に名を連ねたケネマ病院の医師達のうち5人は既に帰らぬ人となっていることだ。それぞれの写真と経歴はサイエンスのウェッブサイトに掲載されている(下記)。しかしこれほど壮絶な論文はこれまで読んだことがなかった。医師達が危険を顧みず患者を救おうと必死になっているのがひしひしと伝わる論文だった。黙祷。 亡くなった5人、(http://news.sciencemag.org/health/2014/08/ebolas-heavy-toll-study-authors)
9月2日:末梢血中の乳がん細胞塊(8月28日号Cell誌掲載論文)
がん患者さんの末梢血の中にはガン細胞が流れていることが知られている。血管内を通って起こるがんの転移はこの細胞が遠隔組織に定着したものだ。今年5月18日にここで紹介したように、乳がんではかなり初期からガン細胞が見つかる。いわゆるステージ1と診断されていても30mlの血液の中に1〜数個のガン細胞が見つかることがある。ヒトの全血液を4500mlとすると、100〜数百のガン細胞が血液を流れていることになる。とは言えそれらが全て転移を起こすわけではない。いや、ほとんどが転移を起こさず血中で死んでしまう。今日紹介するハーバード大学からの論文は、転移を起こす血中ガン細胞は、他の細胞とどこが違うかを調べた研究で、8月28日号のCell誌に掲載された。タイトルは「Circulating tumor cell clusters are oligoclonal precursors of breast cancer metastasis(末梢血液中で細胞塊を形成している腫瘍細胞は乳がん転移を引き起こす)」だ。著者等は、末梢血中ガン細胞(CTC)のうち塊になって血中に存在している細胞が転移を起こすのではと疑った。この目的に最も適したCTC採取法を検討し、CTC-Chipとして手に入れることの出来る機器を、乳がんや前立腺がんを塊のまま血中から取り出すのに採用している。先ず動物実験で、1)細胞塊はがん組織の中で形成されそのまま血中に流れ出ること、2)塊を形成するとガン細胞が死ににくくなること、3)また様々な組織にトラップされ易くなることを確認した後、ヒトの乳がんと前立腺がんの解析へと進んでいる。患者さんの血液をCTC-Chipをつかって何回も検査し、塊を形成したガン細胞が見つかる頻度を数えている。予想通り、ガン細胞塊が3回以上見つかる乳がん患者さんでは1月位で転移が見つかるが、塊が見つかる頻度が低いほど転移までに時間がかかる。前立腺がんではもっとはっきりこの相関が見られる。最後に細胞塊を形成に関わる分子を同定するため、塊を形成するガン細胞と形成しないガン細胞を別々に採取して遺伝子発現パターンを比べ、塊を形成するがんでプラコグロビンの発現が上昇していることを見つけている。プラコグロビンは細胞間の接着に関わる分子と細胞質内で会合して、接着を調節することが知られている分子で、この現象に関与する可能性は十分ある。そこでがんの原発巣でのプラコグロビン発現と転移を調べると、やはりプラコグロピンの高いがんでは転移し易く、ガン細胞塊が血中に検出できる。最後に、プラコグロビン遺伝子発現を抑制して血中にガン細胞塊が流れてくるかを調べると、原発巣でがんの増大は変わらないものの、抹消血中のガン細胞塊の数は大きく減少する。以上の結果から、がんの原発巣の一部でプラコグロビン発現が上昇することが、転移し易いガン細胞塊が血中に流れ出す原因で、この結果ガン細胞は抹消血でも細胞死から守られ、また組織にトラップされ易いため転移を形成すると言うシナリオが示されている。もしがん組織でのこの分子の作用を押さえることが出来ると、転移を押さえられるかもしれない。確かに、ガン細胞がこんなに簡単に抹消血に流れ出すことは恐ろしいように思う。しかし逆から見ると、簡単にガン細胞を生きたまま採取することが出来ると言うことで、がんを知って戦うための格好の材料を提供してくれるのは間違いない。今後も注目して紹介を続ける。
9月1日:論文は知識とアイデア勝負;4足動物の進化(Natureオンライン版掲載論文)
今21世紀の科学や文明について本を書いているが、論文を書くのとは勝手が違い歩みは鈍い。17世紀ガリレオから初めて、今ようやく18世紀が終わり、ダーウィンにたどり着いた所だ。先週はラマルクについての様々な本と格闘していた。しっかり調べると、ずいぶんラマルクを誤解していたことがわかる。獲得形質は遺伝するとか、目的に合せた身体変化を誘導する力を認める生気論とか、広く出回る説明を鵜呑みにして表面的に見ていたが、今は完全に見方を改めた。彼は、環境決定論者だったようだ。そんな時、環境により必然的に決まる形態について研究しているオタワ大学とマクギル大学からの論文に出会った。論文のタイトルは「Developmental plasticity and the origin of tetrapods(発生の可塑性と四足類の起源)」で、Natureオンライン版に掲載された。この研究では、遺伝子の変化による進化とは別に、身体の構造が必要に応じてどこまで変わるかを調べ、四足類が魚類から進化して来た過程を理解しようとしている。明確な問題を設定し、それに対する豊富な知識とアイデアがあれば、お金を使わなくてもいい研究が出来ることを示す典型だろう。魚類から四足動物への移行過程に対する現代のアプローチは、四足類進化と対応すると思われる現存の魚類、ポリプテルスから肺魚までのゲノムを調比べることが主流だ。確かにここでも紹介したように、シーラカンスゲノムなど研究の進展は著しい。しかしまだ形態とゲノムという物理的ではない性質同士を対応させることはできていない。この研究では、この過程の形態変化に必然的ルールがないかを問題にしている。このためには、水中でも陸上でも育てられる歩く魚が必要になる。この条件にかなう魚として、肺が発達して陸上生活が可能になったばかりの種、ポリプテルスを選んでいる(写真はwikiコモンズより)。実際にはここまでで研究の大半は達成出来ている。実験では、水中で育てた群と、陸上で育てた群の2群にわけ、陸上歩行と言う機能と、それを支える身体の構造について比べている。言い換えると、陸上という環境により決定される必然的形態変化を明らかにしようとしている。結論は明確だ。水中で育ててから歩行させたポリプテルスと比べると、生まれてから陸上で育てたポリプテルスは、歩行のためのヒレの使い方が全く変化し、陸上歩行と言う機能が進化していることがわかる。そしてヒレを支える鎖骨の構造も、この機能を支えることが出来るように変化している。何よりも、陸上で育てるとこの構造の多様性が大きく低下し、同じ形態へ収斂する。一方、水中で育てると形態の多様性は大きい。即ち、機能と形態が一定の状態に収斂しているのだ。最後に、この収斂へと向かう形態が、デボン紀四足動物進化の過程で起こった形態変化、即ち化石に残るケイロレピスからエウステノプテロンに至る鎖骨進化とそっくりであることを示している。この論文ではこの結果を、「形態のこの可塑性が、必ず遺伝的基盤を持つ大進化にも貢献していると考える」と淡々と述べるだけで、雄弁に議論を展開するのは避けているようだ。しかし議論を展開しなくとも、著者達が込めた気持ちは理解できる気がする。私は読んだ後、ゲーテからラマルクに至る(異論はある分類法とは思うが)形態の機能的必然性を中心においた進化思想と、ダーウィンに代表される偶然的多様化を中心においた進化思想がもう一度互いにまなざしを交換している様な興奮を感じた。形態も機能も、そして遺伝情報も非物質的性質だ。とすると、この非物質的性質の相関を、物質的性質を通して説明することが21世紀の生物学の課題だ。21世紀に向かって生物学が着実に進んでいると言う実感を持った。