現役時代、大腸菌を分子生物学のツールとして使っていても、大腸菌の生理を対象とする論文に目を通すことはほとんどなかった。そのため、私がクリスパーを知ったのは、CRISPR-Cas9が特異的RNAをガイドとして用いるDNA切断酵素で、遺伝子の望む領域を改変するための強力なツールになるという報告からだ。しかし実際には、1987年、大腸菌のアルカリフォスファターゼのアイソザイム変換に関わる遺伝子を解析する過程で阪大微生物病研究所の石野さんたちにより発見され、2005年からほとんどの細菌に存在する外来遺伝子に対する免疫機構であることが解明されたシステムだ。もちろん、細菌の生理や進化を理解する上で今も重要な研究対象だ。今日紹介するイスラエル・ワイズマン研究所からの論文は、クリスパーシステムが外来遺伝子と自己の遺伝子をどう区別しているのかを明らかにした研究で、Natureオンライン版に掲載された。タイトルは「CRISPR adaptation biases explain preference for acquisition of foreign DNA(クリスパーの適応バイアスが外来DNAを選択的に獲得する現象を説明する)」だ。クリスパーは外来遺伝子の侵入に対する免疫系で、1度侵入したウィルスゲノムを覚えておいて、2度目に侵入してきた同じウィルスゲノムを速やかに切断して自分を守る。従って、侵入したウィルスゲノムを記憶しておく必要があるが、これは外来遺伝子の一部をCas9と結合するクリスパー配列の間に外来遺伝子由来のスペーサーとして取り込むことで行われている。すなわち、この取り込んだ外来遺伝子由来スペーサーによって、クリスパーと結合した切断酵素が外来遺伝子に特異的にリクルートできる。しかしこの系が外来遺伝子と自己遺伝子をどのように区別して、外来遺伝子の配列だけを記憶としてクリスパー領域に取り込めるのかはこれまでわかっていなかったようだ。実際、特定の配列が取り込まれるわけではないので、外来遺伝子と自己遺伝子を特異的に区別する方法はない。この研究ではまず、区別ができないならクリスパー領域にホスト遺伝子も取り込まれているはずだと発想を転換し、ホスト大腸菌のどの領域がスペーサーとして取り込まれているのかを調べることで、このメカニズムを探索している。まさにプロのセンスだ。詳細は省いて結論のみ述べるが、実際、大腸菌の遺伝子複製を知り尽くしたプロの実験が行われており、まず、このスペーサーはDNA修復酵素系によってDNAが分解される際に生まれるDNAの破片に由来している。修復系は遺伝子に入った切れ目を認識して働き始めるが、通常切れ目はDNA複製時、特に別々の方向から進んできた複製DNAが結合される段階で最も多く起こるため、スペーサーとして寄与する自己遺伝子はこの部分に由来することが圧倒的に多い。とはいえ、実際には自己遺伝子のコピーは一個だけだが、ウイルスやプラスミドはコピー数がずっと多く、しかもそれぞれが複製する。さらに、複製酵素は切断部からChi配列と呼ばれる場所まで遺伝子を削っていくが、このChi配列の密度が大腸菌ではウイルスやプラスミドと比べてはるかに高く、そのためずっと多くのDNA破片が外来遺伝子から生まれる。他にも、phageウイルスDNAは一本鎖で侵入するため最初から切れ目があり、すぐに修復系の作用を受ける。これらを総合すると、自己と他のDNAを区別することはできないが、ウイルスなどが侵入してきてクリスパー系が活性化されるときは、量的に外来DNAから生まれる破片の方が圧倒的に多いため、結果として自己DNAと外来DNAが区別されるように見え、スペーサーには外来DNAが蓄積されていくという説明だ。一般の方には申し訳なかったが、医療の未来を変えるエース、クリスパーも細菌についての地道な研究に由来していること、そして基礎研究は応用が進めば決して終わりというわけではなく、不明な点について地道な研究が現在も進んでおり、トップジャーナルもそれを応援していることを理解していただきたいと思い紹介した。
4月20日クリスパーのメカニズム探索は続く(Natureオンライン版掲載論文)
4月19日:コンセンサス形成の脳科学(4月22日号Neuron掲載論文)
専門外の私から見たとき、人間の行動の背景にある脳活動を調べる研究は、行動を測定するためのタスク(課題)の設計が一番面白い。誤解を恐れずに言うと、そのあとの脳活動測定は付け足しに感じてしまう。一方、脳各領域のこれまでの研究について熟知した脳科学者は、おそらく浮き上がってきた機能的MRIの結果の方にもっと興奮するのだろう。この転換が専門家と非専門家を分ける違いではないかと思う。今日紹介するカリフォルニア工科大学からの論文は、他人の意見を聞きながらコンセンサスを形成するという複雑な過程を対象にした研究で4月22日号のNeuronに掲載された。タイトルはズバリ「Neural mechanisms underlying human consensus decision-making(人間のコンセンサスを形成しようとする決断の背景の神経メカニズム)」だ。コンセンサス形成というからには集団を扱う必要がある。この研究では6人の被験者のコンセンサス形成過程で参加者の一人の脳がどう反応したかについて機能的MRIで記録している。さて肝心のタスクだが、いつもながら感心する。この研究では、2つ示された物のうちどちらにするかを選択するゲームで、限られたトライアルの間にどちらを手にするかについて全員の意見が一致した時だけ、それが手に入るという課題を課している。例えばコーヒーと紅茶を見せてどちらが飲みたいか聞く。もちろん最初はそれぞれの好みに従って選択が行われ、例えばコーヒー4人、紅茶2人になるとする。この場合私が紅茶を選んだとすると、全員が飲み物を得るためには、とりあえず次はコーヒーにすると決断を変える。もう一人の紅茶派もそう考えてコーヒーに変える。そして、コーヒー派の4人が残りの2人が大勢に着くだろうと読めば、次の回でめでたく全員がコーヒーを得る。もし私が、コーヒーなら飲まないほうがましで、ずっと紅茶を選ぶとする。もちろん私がそうしていることはわからない仕組みになっているので、気まずくなることはない。しかし、残りの参加者には誰かこだわりのある人間がいることがわかる。その結果、残りの人が紅茶に変わればめでたく全員飲み物を得ることができる。しかしこういった場合は少数派に賛同する人はまれで、通常はコンセンサスが成立せず、何も手に入らず次の課題に移ることになる。この行動を分析すると、1)自分の好み、2)大勢についての理解、3)こだわり、でコンセンサス形成が決まることがわかる。この3要素がコンセンサス形成を決めると仮定してモデルを作ると、実際の選択結果に一致し、他の要素があまり関与していないことがわかる。これを確認して、夫々の要素に関わる脳領域を調べると、1)自分の好みはこれまでも意思決定に関わることが知られていた前頭葉の下部内側部、2)大勢の理解はやはりこれまで他者の意見を理解することに関わるとされてきた上側頭溝、3)最後に誰かのこだわりについての推察はやはり他人の意思の推察に関わるとされている頭頂間溝、にそれぞれマップされた。少し出来過ぎの感はあるが、納得だ。そして最後に、これらすべての領域に連結し、コンセンサス形成自体と相関する領域として前帯状皮質の前方部が特定された。この部位もこれまでの研究で様々な情報の統合に関わるとされている。まとめると、コンセンサス形成には好み、大勢、こだわりを感じるそれぞれの脳領域が前帯状皮質により統合されることで調節されているとする結果だ。おそらく次の課題は、6人全員の脳記録により、それぞれの心の動きと決断の法則を解明することだろう。次はどんなタスクと出会えるか、期待して論文を読んでいる。
7月18日:オキシトシンの神経科学(Natureオンライン版掲載論文)
オキシトシンが様々な社会行動にポジティブな影響を有し、一過的ではあっても自閉症の症状を和らげることはよく知られており、このホームページでも紹介してきた。たしかに連れ合いへの信頼が深まったり、人付き合いがよくなったりと、行動学的現象は面白いが、この背景にある神経活動を研究するのは難しい。今日紹介するニューヨーク大学からの論文は子供をケアする母親の行動に対するオキシトシンの作用を神経科学的に研究した力作でNatureオンライン版に掲載された。タイトルは「Oxytocin enables maternal behaviour by balancing cortical inhibition(オキシトシンは皮質神経の抑制活性のバランスをとることで母親としての行動を可能にしている)」だ。マウスを飼い始めると誰でも気づくが、初産の母親は子供のケアが下手だ。ケージ交換時、子供はどうしてもバラバラに移さざるを得ないが、子育てを経験した母親はすぐに子供を一箇所にまとめて、授乳を始める。一方、初産の母親は全く無関心で、子供を死なせることさえある。この子供をケアする行動をオキシトシンにより、無関心な初産の母親にも誘導できるという現象を神経科学的に解析したのがこの研究だ。まず、オキシトシン投与、あるいは光遺伝学を用いたオキシトシン産生細胞の刺激により、普通なら無関心の妊娠経験のないメスマウスが子供を巣に戻すケア行動を示すことを示し、ケア行動の開始にオキシトシンが関与していることを示している。このケア反応が、母親が子供の声を聞いて誘導されていることを確認した後、皮質聴覚野のどこにオキシトシンに反応できる細胞が存在するのか受容体に対する抗体を用いて調べ、反応性の細胞が左側の聴覚野に集中しているという驚くべき発見を行った。これを機能的に確かめるために、聴覚野の反応細胞を左右別々に刺激すると、左側を刺激した時だけケア行動を誘導できる。社会行動が片側の脳で決まるとは驚きだ。しかもこの刺激は、社会行動を最初に誘導するときだけに必要で、それ以後のケア反応には関わらないことが明らかになった。このようにして反応神経が特定されると、次はこの細胞が本当に子供のマウスの声に対する反応に関わるかを調べることになる。数多くの神経細胞の活動を計測する方法で、これらの細胞が子供の声にだけ反応すること、また妊娠経験のない母親ではこの反応がないこと、そしてこの声に対する反応をオキシトシンで誘導できることを示している。ここまでくると、あとはこの細胞が脳の他の部分とどうつながっており、どう支配されているかを調べることになるが、詳細を省いてまとめると、オキシトシンに反応する神経細胞は、視床の室傍核にあるオキシトシン産生細胞により刺激され、皮質にある聴覚に直接関わる神経の抑制に関わることを明らかにしている。この聴覚に直接関わる個々の神経細胞がオキシトシン投与によりどう影響されるか、シナプスでの興奮や抑制を最後に調べて、オキシトシンが抑制性の神経細胞をうまく調節して、聴覚神経の刺激と抑制のバランスをとって、その後続く社会行動を誘導することを証明している。一般の方にはわかりにくい話だと思うが、行動レベルの表面的解析を本当に理解するためには、個々の神経を対象としたここまで大変な研究が必要であることを理解していただければ十分だ。脳の話は面白い。しかし、真実の宿る細部まで迫る苦労を厭わないのも生物学だ。
4月17日:マウンテンゴリラの危機(4月10日号Science掲載論文)
新しい京大総長山極さんの入学式・式辞の評判がいい。私も京大のHPに掲載されている文章を読んだが、何よりも権力と経済のにおいがしないのがいい。とはいえ21世紀を作る人材を育てたいという初々しい気持ちが伝わってくる。1月にある会合で会う機会があったが、その時の印象を再確認した。この爽やかな姿勢はおそらく山極さんが科学の対象として野生のゴリラを見続けながら、その生の悲哀を感じる感性を持っているからではないだろうか。しかし私たちはその野生のゴリラを失うかもしれない。今日紹介する英国を中心とする国際チームの論文は、アフリカに生息するマウンテンゴリラのゲノム解析で4月10日号のScienceに掲載された。タイトルは「Mountain gorilla genomes reveal the impact of long-term population decline and inbreeding (マウンテンゴリラのゲノムからゴリラが近親交配により長期にわたって数を減らし続けていることがわかる)」だ。研究ではウガンダからガボンの各地域で生息しているゴリラ13頭の全ゲノムを調べ、各地域の集団の関係、それぞれの集団の進化過程と集団数の変遷、そして環境に応じた遺伝子選択などを調べている。まず最初に調べたゴリラの多様性は極めて少ない。なかでもコンゴに棲む東部ゴリラでその傾向が著しい。また、各地のゴリラの亜種では2万年以後ほとんど交雑がない。さらに近親交配が進んだため、個々のゴリラの遺伝子の3分の1はホモ(同型)で、実験動物のような状況に陥っている。この近親交配は最近になるほど著しいこともわかる。これは個体数が減少していることと一致する。全ゲノム配列を総合して計算すると、東部のゴリラは西部のゴリラと約15万年前に分離を始め、2万年ぐらいまで交流があったようだが、今は全くなくなった。その結果、さらに近親交配が進んできたことがわかる。それに輪をかけて、氷河期などの気候変動にさらされ個体数が急速に低下した結果、ゲノムから見るとゴリラは間違いなく絶滅への道をひた走っているという悲しい結果だ。強そうに見えても危機にさらされている。この結果だけを見ると、人類の影響は少ないように見えるが、現在個体数が800にまで減少し、生息域も限られていることから考えると、ゴリラの絶滅への道に人類が大きく寄与していることは間違いない。少し議論が飛躍するかもしれないが、私には教師も学生も多様性が失われつつある我が国の大学も近親交配が進んだ絶滅危惧種に思える。その意味で、ゴリラを見続けてきた山極さんのWIDOW構想への期待は大きい。
4月16日:染色体異数性のルーツ(Scienceオンライン版掲載論文)
試験管内で受精させてから着床させる試験管ベービーの技術がわが国で急速に普及を始めたのはちょうど20世紀から21世紀にかかる頃だが、2000年に体外受精で発生する胚の実に7割以上に染色体数の異常が存在するという論文がでて、問題になったことがある。当時、ヒトクローン技術規制法案が発布され、ヒトES細胞の作成を巡る議論が佳境に入っていた時で、私も調べた覚えがある。この染色体数異常が生殖補助医療の成功率が低い原因であることは間違いがなく、この問題を解決できれば生殖補助医療の成功率はさらに上昇するだろう。今日紹介するスタンフォード大学からの論文は試験管内で起こる胚発生時の染色体数異常発生率と相関する遺伝子座を探る研究でScienceオンライン版に掲載された。この研究では受精後3日後に遺伝子診断目的で採取される胚の細胞を用い、その染色体数異常と、インフォームドコンセントで得られた両親のゲノムを調べ、異常と相関する一塩基多型(SNP)を調べている。この研究に参加してくれた母親、父親はそれぞれ2360人で、今更ながらこの技術と同時に、着床前診断がアメリカで普及していることを実感する。詳細は全て省くが、この研究で受精後3日までの染色体数異常と相関するとして母親側の遺伝子に見つかった1つのSNPがrs2305957で、この遺伝子領域を調べると、PLK4遺伝子が存在することが分かった。この分子は、中心体に存在して有糸分裂を調節しており、この異常を説明するのにうってつけの遺伝子が特定されたことになる。このSNPにはAA,GA,GGの3タイプ存在するが、AAタイプの母親からの胚では、染色体数異常率が2倍程度高い。これらの結果から著者たちは、このSNPの結果PLK4分子の発現量の小さな変化が生じ、その結果染色の分配に乱れが生じ、胚の染色体数の異常につながると推察している。また、この染色体数に異常のない胚を選んで着床させることで、妊娠率は大幅に改善するだろうと予想している。CGH法などで染色体を調べるときコストがどのぐらいかかるかわからないが、生殖補助医療が目指す重要な方向の一つとなるだろう。不妊治療としての情報としてはこれが全てだが、最後に面白いデータを付け加えている。すなわちこの染色体異常と相関する遺伝子タイプの起源を調べ、なんとネアンデルタールやデニソーバ人にはなく、私たちの先祖が分離してから新たに獲得されて現在まで維持されていることを示している。ちょっと考えると、異常が起こりやすい遺伝子座が維持されていることは不思議に思える。しかし、この異常はあくまでも体外受精という自然ではあり得ない状況での異常だ。このことから、著者らはこの遺伝子座を持つことで、逆に染色体数異常が起こった胚を流産できるようになり、種としての進化優位性を獲得したのではないかと推論している。逆に言うと、ネアンデルタールはこの選択機構を持たなかったことで絶滅したのかもしれない。なかなか面白いシナリオだ。
4月15日:海を漂うガン細胞は故郷の夢をみるか?(4月9日号Cell誌掲載論文)
医学から離れて広く生物を見始めると、生命の営みの多様性に今更ながら驚く。今日紹介するコロンビア大学の論文は、アメリカ東部北部の海岸で猛威をふるっているオオノガイに発生する白血病についての研究で、4月9日のCell誌に掲載された。タイトルは「Horizontal transmission of clonal cancer cells causes leukemia in soft-shell clams (ガン細胞の水平伝搬によりオオノガイの白血病が引き起こされる)」だ。白血病はオオノガイだけでなく、ムール貝や牡蠣にも見られることは昔から知られていたようだ。さてオオノガイだが、これまでの研究で白血病の原因がSteamerと呼ばれるレトロトランスポゾンの仕業であることが突き止められていた。正常の細胞のゲノムにも2−10個のレトロトランスポゾンが存在するが、白血病になるとその数が150−300に増加する。この研究は現在アメリカ東部のニューヨークからカナダまで白血病が蔓延しているオオノガイを集め、その白血病の起源を調べている。最初はレトロトランスポゾンが飛び込んだ場所から白血病の原因を調べようとしたのだろう。ところが、様々な場所から得られた貝を調べるうちに驚くべきことに気づく。すなわち、白血病細胞は、それにかかった貝の細胞とは全く異なる起源の細胞で、しかも異なる広い場所から採取したのに白血病は同じ起源を共有していることに気づいた。この研究で行われたのは、様々な方法に基づく細胞の起源の特定で、北東部海岸に蔓延する白血病が同じ細胞を起源とすることを確認した。すなわち、広い範囲に蔓延する白血病は、一個のオオノガイの一個の細胞に発生したクローン細胞が個体から離れ、細胞自身が海を漂いながら他の貝に伝搬し、白血病を引き起こし、次々と「ハマグリ算?」で拡大していることが証明された。話はこれだけで、どのように伝搬するのかなどはこれからの研究になるだろう。脊椎動物になると、組織適合抗原が存在するため、白血病細胞が他の個体で増えることはないが、よく考えると組織抗原のプロトタイプはホヤからしかなく、軟体動物ではこのような伝搬が起こっても不思議ではない。実際ディスカッションで、このような伝搬形式を防ぐために組織抗原が進化したのではないかまで議論している。しかし、白血病細胞が次のホストを探して海を漂っているなど、結構ロマンチックに感じるのは私が長く血液について研究してきたからだろう。面白い話だった。
4月14日:膵臓癌の早期診断は可能か(JAMA Surgery掲載論文)
私の年になると、ほとんどの人は知人を膵臓癌で失っているはずだ。また、ガンの中でも膵臓癌は現在も増え続けている。しかし、このガンだけは医者も早期に発見することは諦めてきた。最近になって、遺伝性の高い膵臓癌のグループが見つかり、またゲノム検査からp16,BRCA1,2の遺伝子変異のように、遺伝性の危険因子もわかってきた。もしこのような危険性がある場合、なんとか定期検診で早期発見ができないか?この問題に取り組んだのが今日紹介するカロリンスカ大学からの論文だ。タイトルは「Short-term results of a magnetic resonance imaging-based Swedish screening program for individuals at risk for pancreatic cancer.(膵臓癌の危険性の高い人を対象としたMRI画像診断によるスウェーデン早期発見プログラムの中間報告)」だ。このプログラムでは胆汁や膵液を強調して撮影するMRCPという方法を使っている。CTなどと比べると被曝がなく、また胆管や膵管を詳しく見ることができるため、異常の発見率が高い。40人のリスクの高い人達を集め、2010年から年一回この検査でスクリーニングを続けた、その中間報告だ。40人全員が血縁のある親戚に2人以上の膵臓ガン患者さんがおり、さらに8人に遺伝的変異が特定されている。期待通りというか、なんと16人が3年の間にこの検査で異常と診断されており、そのうち12人は検診開始時に見つかっている。かなり高感度の検査だ。見つかったのはほとんどがいわゆる前癌状態だが、2人は膵臓癌として発見された。この前癌状態の患者さんの一人は、その後ガンを発生し、手術されている。2人の膵癌患者さんのうち一人は完全に早期発見だったが、もう一人は検査を一回パスしてしまったが、その後症状が現れ、すでにリンパ節に転移していると診断された。前癌状態の人のうち2人は手術まで進み、まだ膵癌には至っていないことが確認された、という結果だ。追跡はまだ続いているが、遺伝的リスクがあると、3年に10%近い人が膵癌を発症するのには驚く。この検査が本当に早期発見につながるかどうかだが、玉虫色と判断せざるを得ないだろう。ただ、リンパ節転移のない2例を発見できたこと、またもう一人も定期検診を一回パスしていた結果であることを考えると、1年に1回の検査ながら一定の成果があったと言える。一方、前癌状態で手術をした人が2人いる。ただ、遺伝性のある場合前癌状態からガンへ発展する確率が高いことを考えると、コストや負担から考えてもMRCPは使えそうだという印象を持った。膵臓癌の恐ろしさを考えると、親戚に膵臓癌の多い人には勧めていいのではないだろうか。一方、一般的な検査として考えると、ガンでなくとも手術されていいという覚悟の人なら勧められるように思った。
4月13日:毛の再生は炎症だ(4月9日号Cell掲載論文)
全くの初対面で話し始めて、アイデアや知識にあふれているのに、それをひらけかさない好印象を受ける人がいる。そんな一人が南カリフォルニア大学の台湾人科学者、鍾(Chenmin Chun)さんだ。キーストンだったか、ゴードンだったか幹細胞会議の帰りのバスの中で話しかけられ、空港までの2時間以上、ずっと話し込んでしまった。その後は彼の仕事を読むのを楽しみにしてきた。そんな鍾さんから毛根の再生について全く新しい視点を示す素晴らしい論文が4月9日号のCellに掲載された。タイトルは「Organ level quorum sensing directs regeneration in hair stem cell population (臓器レベルの定足数制限メカニズムにより毛根の幹細胞再生が制御される)」だ。研究のきっかけは鍾さんたちが2008年Natureに報告した、決まったエリアの毛をまばらに抜いた場合、毛の再生が見られないという、鍾さんならではの発見だ。このメカニズムを解こうとモデリングや材料の開発についての論文を発表していたが、この論文はその集大成と言っていいだろう。まばらに抜いたときは毛の再生がないということは、個々の毛根で毛の再生が決められるのではなく、障害の程度に応じて領域で再生を決めるメカニズムがあることを示す重要な発見だ。最初はこの現象に関わる分子の条件を探るためのモデリングの実験だが、数学嫌いの私から見ると鍾さんの知識の広さを示す一種のデモンストレーションで、おそらくモデリングする・しないに関わらず、彼はこの論文を書けただろうと思う。そして出てきたのが、毛根再生とは、毛が抜かれるという損傷に対する炎症メカニズムを取り込んで、障害の程度に応じた再生を行っているという新しいシナリオで、核となる分子過程についても決定に成功している。長い論文なのでシナリオについてだけ紹介しておこう。まず毛が抜かれると組織では損傷として認識され、その一環としてマクロファージを引き寄せる遊走因子CCL2が分泌される。CCL2の濃度が閾値に達しないとそれ以後の反応は起こらないため、毛をまばらに抜いたとき再生が起こらなかったのは、CCL2濃度が閾値に達しないからということになる。実際、CCL2ノックアウトマウスでは毛の再生の誘導が起こらない。さて次に起こるのは、CCL2に対する受容体を持ったマクロファージの集積で、これは全く炎症反応と同じだ。これを確認するため、顆粒球を除去した皮膚で再生を調べると、全く再生が起こらず、マクロファージの集積が必須であることが確認される。このマクロファージは炎症反応の主役TNFαを分泌しNFκbを介する炎症反応を誘導すると同時に、Wntシグナルを毛根で誘導することで毛根の再生が起こる。実際、この分子がないマウスでは再生が遅れ、TNFαをビーズにまぶして皮膚に注入するとその場所にだけ毛の再生が起こる。アイデア先行で分子メカニズムをなおざりにするモデリングの仕事が多い中で、あらゆる材料を駆使した素晴らしい研究だと思う。さらに、炎症を損傷による毛根再生の基礎に持ってきたのは新しい展開だ。鍾さんならではの、総合力をうかがわせる仕事だ。私も京大に在籍中、当時研究室に在籍していた大学院生の吉田さん(現横浜理研)や本田さん(現慶應大学医学部)たちと、リンパ組織や造血組織が、炎症をプロトタイプとして発生してくるという総説を書いたことがある(Current Opinion in Immunology, 12:342, 2000)。その時おそらく毛根も同じではないかと書いたので、その意味でもより感慨が深い。しかし考えるだけでは何の意味もない。鍾さんに脱帽。
4月12日:刑務所の財政から見たC型肝炎(Journal of Urban Health掲載論文)
現在京都で開かれている医学会総会の会長は井村裕夫先生だ。考えてみると、熊大から京大へ移って以後20年近く井村先生の手伝いをしてきたように思う。当時総長だった井村先生に頼まれた京大の再生医学研究所設立。この研究所をきっかけに再生医学が我が国に定着を始めた頃、今度は当時の科学技術会議委員であった井村先生から再生医学を拡大するようにと、ミレニアムプロジェクトを任された。そして最後の仕上げとして理研CDBを設立した。この間井村先生と一緒に何を目指したのかと考えると、基礎と臨床の橋渡しのためのトランスレーショナルメディシンの推進だった。高橋さんのiPSを用いた網膜治療実施などを見ると、どう推進すればいいかについての一定のノウハウは蓄積できたのではないだろうか。ただ、井村先生と一緒に旗を振っているうち、21世紀本当に問題になる死の谷は、続々と橋を渡って登場する新しい治療を限られた財源で利用するための社会構造ではないかと考えるようになった。そのため2013年、理研を辞めると同時に全ての公職を辞め、もう少し広い視野で医学・医療を勉強し、患者さんたちと話をしながら頭をリフレッシュしてみると、この問題の深刻さがさらに深く理解される。例えば今年の1月14日ギリアドサイエンス社から続々出されるC型肝炎薬についてこのホームページに掲載し、橋渡しが進んでいることを紹介した(http://aasj.jp/news/navigator/navi-news/2732)。しかし、後で調べていくと新しい薬の薬価は恐ろしく高い。そのうちの一つは我が国での一錠の薬価が13万円を越した。このような新しい治療を本当に現在の医療システムの中で支えきれるのか。この問題をわかりやすく論じることは難しいが、一つのモデルとして刑務所でのC型肝炎治療を扱った面白いブラウン大学からの論文がニューヨークアカデミーの機関紙Journal of Urban Healthに掲載された。タイトルは「A budget impact analysis of newly available hepatitis C therapeutics and the financial burden on a state correctional system (新しいC型肝炎治療が州の更生施設の財政に及ぼすインパクトの分析)」だ。研究では米国最小の州、ロードアイランドの刑務所の受刑者3000人余りの医療記録や10%のサンプリング検査の結果より、活動型のC型肝炎患者を割り出し、病状や肝炎ビールスのタイプなどを調べている。最初に驚くのは刑務所での感染者が2割を超えていることだ。おそらく麻薬や刺青など様々な要因と相関しているのだろう。この調査の結果、服役期間が十分で、治療が必要なC型肝炎受刑者の数が327人と割り出される。最も新しい薬剤療法を施行すれば315人は完全に治癒するとも予想している。問題は、活動性患者を全て治療すると34億円が必要で、現在薬剤費として計上されている予算の12.5倍、全医療費の1.7倍の予算が必要になる。これを線維化が進んだ進行ステージに限っても、現在の薬剤費の5.5倍、全予算の約8割をC型肝炎だけで使ってしまうという結果だ。アメリカの保健制度から見ると、これは特殊な刑務所の話で、治療対象を選択し、治療手段を安価な方法に限ればいいという結論になる気がする。恐らく同じ議論は、個人で保険に入れないメディケイドの患者さんへ拡大されるだろう。一方、わが国の健康保険は国民皆保険で、維持のために税金が投入されている。いわば刑務所がそのまま拡大した構造だ。薬剤の開発、値付け、保健全てを含めて持続可能な健康保険をどのように構想するのか今考える必要があると思う。医療の場合、一度認めた命の可能性を、経済で断ち切ることはできない。もし混合保険しか解決のためのアイデアがないと、取り返しのつかないことになる。
4月11日:捏造の構造(JAMA Internal Medicine4月号掲載論文)
降圧剤バルサルタン治験について現在も細々と報道は行われているが、ほぼメディアの興味の対象ではなくなったようだ。しかし小保方問題の起こる前、わが国メディアが大きく取り上げ、ニュースに何度も登場したのは当時の京都府立医科大学教授だった松原さんが責任著者として指揮した治験でのデータ捏造だった。2013年8月、大学の調査委員会の報告についての新聞記事をこのホームページでも取り上げたが(http://aasj.jp/news/watch/99)、私はこの文章の最後を、「この様な捏造は、個人だけの問題ではなく、捏造を期待する学会社会が背景にある事を肝に銘じるべきだ。例えば、スティーブングールドのパンダの親指や、韓国の優れたジャーナリスト李成柱の「国家を騙した科学者」はこの事を鋭く指摘している本だ。我が国の成長戦略が、捏造の背景にならないよう、これらの本を読み直すときかもしれない。」と結んだ。すなわち捏造問題(実際にはあらゆる個人犯罪に共通するが)を構造問題として捉える視点の重要性を強調した。このことを冷静な分析を通して伝えなければという気持ちは、私も選考に関わった小保方さんの捏造を巡る科学者、政府、そしてメディアが演じた大騒ぎを目の当たりにしてより強まり、現在原稿を書きつつある。わが国で行われてきたように、捏造を個人の責任問題として分析してしまうと、分析者はあくまで「私が正義、あなたは間違っている。」と主張するアウトサイダーの立場で終わる。しかし、その結果から具体的対策が出ることはまずない。いつも倫理の徹底と、研究の透明性など抽象的な提言で終る。一方、構造問題として捉えるということは、その社会の構成員の全てに責任があると考える立場だ。もちろんメディアにも責任がある。こうして初めて、分析を実現可能な具体的提言につなげることができる。構造問題として分析できる視点の欠落した社会は「子供の国」だ。少し前置きが長くなったが、今日紹介するメイヨークリニックからの論文も論文捏造について実現可能な提言を引き出すための捏造分析で、JAMA Internal Medicineに掲載された。タイトルは「Research misconduct indentified by the US Food and Drug Administration (FDAにより特定された研究不正)」だ。(副題は長いので省いている)。FDAは15000人近い職員を擁する組織で、薬剤や医療機器などを認可するための調査を行っている。当然その審査は厳しく、治験過程で不正が行われているかどうかも、査察する権限を持って行われる。査察結果は、1)問題なし、2)自主的対応で良い、そして3)強制的措置が必要(OAI)の3段階に分かれ、OAI判定を受けた治験の中には、治験に参加した機関で不正や捏造が行われたことが明確に指摘される例も多い。これらは、報告書としてまとめられ開示されているが、文書自体に大きな編集が加えられているために具体的事例をたどりにくい場合が多い。この研究では、査察でOAIと判断された治験400余についてその後の経過をたどれるか詳しく調べ、査察を受けた治験から発表された論文が、FDAの指摘を論文でどう扱っているのか調べている。繰り返すがFDAから開示されている査察記録は編集されすぎているため、調べた421例のOAI査察を受けた治験のうち論文まで辿れたのが57例にとどまった。この57治験で行われた指摘の内訳だが、1)虚偽記載が22例、2)副作用記載もれが14例、3)プロトコル違反42例、4)不適正な資料保存35例、5)インフォームドコンセント等の患者の権利軽視30例、6)それ以外の分類不可能な不正20例と驚くべき実態だ。これらの治験結果を使った論文がThe New England Journal of MedicineやThe Lancetなどの臨床トップジャーナルも含めて78報も発表されている。3報だけはよそ事のようにOAI判定を受けたことについてなんらかの記載をしているが、残りは全く無視をして論文を書いている。論文では、眼に余る具体例のケースレポートが行われているが、読むと驚く。私が関わったわが国の再生医学プロジェクトで当時最も臨床に近いと期待されたのが下肢の血管障害の幹細胞治療で、多くの治験が世界中で行われた。その中に治療後2週間目に一人の患者が下肢切断を余儀なくされた治験ではOAI査察を受けたにもかかわらず、このことが全く記載されていない論文が発表されている。また抗凝固剤リバーロキサバン治験では、半数の治験参加機関で機関ぐるみの医療記録破棄や、改ざんが行われていたが、発表されたLancet論文ではこのことについての記載が全くない。さらには抗がん剤エフロルニチンの治験で一人の研究者が患者さんの検査データ捏造を行い、その結果患者を副作用で死亡させ、法廷で殺人として有罪判決を受けているにもかかわらず、J Urology, The New England Journal of Medicineに発表された論文では全くその点についての記載がない。もちろん指摘された問題に対応できたから認可されているわけで、論文にわざわざ記載するのは馬鹿げているという意見はあるだろう。しかし、論文とFDA認可は全く別物で、論文はやはり薬の効果を世に問い宣伝する意味で書かれる。これまで議論されたように科学論文が、行われたことを正確に伝えることだとすると、その研究過程で行われた捏造についてまったく無視できるはずはない。重要なことは、これが決して稀な事象ではなく、かなりの頻度で行われそのまま論文になっていることだ。昨年3月14日このホームページでトップジャーナルに掲載される治験論文は、書かれる過程でほとんど(97報中93報)が実際に登録されたデータとは異なる虚偽記載を行い、6%に至っては5年生存率まで変えていることを報告したJAMA論文を紹介した(http://aasj.jp/news/watch/1273)。このように、論文を書くこと自体が製品の宣伝につながる場合の不正は今や構造問題になっている。長くなったので詳しく述べないが、この論文では最後にclinicaltrial governmentとFDAを連携させて、OAI記録へのアクセスを容易にし、雑誌のエディターへの情報提供を促進するなど、具体的提言をしており、わが国のように研究者の倫理教育徹底のような思考停止で終わっていない。もちろん私も小保方問題を含む日本の分析が終われば、具体的提言で終わるつもりだ。また、50人以上の方が集まるところであればどこでも出かけて議論を行っている。いつでも声をかけてほしい。