昨年の9月15日にも取り上げたが、小児の白血病のなかで最も多いのが急性リンパ性白血病(ALL)だ。化学療法が進み、現在では完治可能な白血病だが、フィラデルフィア染色体陽性型のALLだけは治療が厄介だ。このタイプのALLは、もともと異なる染色体にあるBcr遺伝子とAbl1遺伝子が、Bcr-Abl1融合遺伝子を形成することが原因となって起こる。不思議なことに、同じ融合遺伝子で起こる大人の慢性骨髄性白血病は、グリベックと呼ばれるこのBcr-Abl1分子機能を抑える薬剤の登場で、飲み薬でコントロールできる病気に変わった。なのに、なぜ小児のALLでは同じ薬剤が効かなくなるのか?これまで積み上がった基礎研究結果を手掛かりに、この原因の追究が行われている。今日紹介するカリフォルニア大学サンフランシスコ校を中心とする国際チームによる論文は、長年の基礎研究により積み重なった知識や材料を新しい治療へとつなげるお手本のような研究でNature オンライン版に掲載された。タイトルは「Signalling thresholds and negativeB-cell selection in acute lymphoblastic leukemia (急性リンパ性白血病にシグナルの強さをかえて細胞のネガティブセレクションを誘導する)」だ。通常がん遺伝子が働いて細胞が増殖し始めると、様々な防御機構が働きだす。ただ、同じ融合遺伝子で細胞が増殖する場合でも、細胞が異なると、この防御機構は異なる。このグループは未熟B細胞でおこる防御反応をこれまでの知識から洗い出す中で、抗原受容体からのシグナルに注目した。B細胞では抗体が細胞膜に発現して抗原受容体の役割を担っている。この時、細胞膜上の抗体と結合して様々なシグナルに変える分子(Igα/Igβ)が知られている。20年以上前に東京工業大学の工藤さんや、熊本大学の坂口さんがバーゼル研究所で発見した分子だ。この分子を介するシグナルがある閾値を越えると細胞はネガティブセレクションを受けて死ぬ。このグループはALLではIgα/Igβシグナル分子の発現が低下していることを見出した。Igα/Igβの発現を回復させて白血病細胞殺す可能性を追求すると、期待通り細胞は死ぬ。意外なことに、グリベックで融合遺伝子の機能を阻害してやると、Igα/Igβ発現による細胞死誘導効果は薄まる。この原因を探る中で、最終的にBcr-Abl1融合遺伝子が働くとIgα/Igβに結合してシグナルを伝えるSykキナーゼの機能を高め、実際には細胞を殺す防御作用が誘導されていることが分かった。即ち、Igα/Igβ分子の発現を抑えてこの防御機構を免れた細胞だけが白血病になることを突き止めた。詳細は省くが、この結果をもとに、Sykキナーゼを活性化する白血病治療の戦略を計画し、Sykキナーゼの機能を抑える脱リン酸化酵素INPP5D阻害剤を投与することで細胞死を誘導できること、またモデル動物系で生存を延長することが可能であることを示した。残念ながら、モデル動物系での実験ではこの方法では完治を得るところまではいかないようだが、治療の選択肢は間違いなく増えた。他にも様々な可能性がリストに上がっており、治療が困難だったフィラデルフィア染色体陽性ALLも根治可能になると期待している。それはともかく、1990年代、リンパ球の増殖や分化を調節するシグナルについては詳しい解析が進んだ。この成果を臨床に生かす研究が今加速していることを実感する。
3月31日:基礎研究結果を新しいがん治療へ(Natureオンライン版掲載論文)
3月30日:児童虐待についての調査(3月27日号Science掲載論文)
ScienceやNatureに論文を載せるのは簡単なことではないが、難関の一つが、エディターを十分惹きつけるトピックス性を論文が持つことを示すことだ。このことから、これらの雑誌は学術誌ではなく一般向けの雑誌だと批判的に語られることがよくある。しかしこれを裏返して考えると、編集者が社会の問題を認識して、科学者に媒介する役目、まさにメディアとしての役目を果たせることを意味する。特に昨年から、このメディア機能を発揮しようとする意思をこれらの科学雑誌に感じる。例えばこのホームページでも紹介したが、Natureは人工甘味料が逆に肥満を招くことや、最近では乳化剤が腸内細菌叢を変化させ、慢性炎症を招くという論文を掲載している。前者の方は科学的には些か問題を感じる論文だが、それでも自分のゲノムとの関係だけで捉えていたのでは食の安全性は保証できないなら、科学者は新しい課題にもっと取り組んでほしいという強いメッセージがこもっているように思える。またScienceは昨年5月に格差問題を特集し、これが科学の重要な課題だと強く呼びかけた。今話題の、トマ・ピケが巻頭総説を書いたのも象徴的だった。この延長が今日紹介するニューヨーク大学から3月27日号のScienceに発表された論文で、児童虐待問題を扱っている。タイトルは「Intergenerational transmission of child abuse and neglect: real or detection bias(児童虐待や育児放棄は世代を超えて伝わるという仮説の検証:事実か調査法のバイアスか)」だ。この研究課題は、児童虐待を受けた子供は、自分の子供に対して今度は児童虐待する可能性が高いというこれまで言われていた仮説を検証することだ。これまでももちろんこのような調査はあった。ただ、今回の研究は1967−1971年公的機関に児童虐待としての記録のある900人を超す対象を選び、これを1989年からインタビューを始め、その後次の世代が生まれた後、今度は本人とその子供についてインタビューや児童保護局の記録を調べるという、30年近い徹底した前向き調査を続けた点が重要だ。しかも、公的記録だけに頼るのではなく、インタビューを丹念に繰り返し、この仮説を検証している。特に、子供世代に直接インタビューしているのも重要な点だ。実際、自分が虐待されたことは語っても、虐待していることは語りにくい。そのため、子供世代のインタビューと、児童保護局のデータの両方を集め結論を出している点が重要だ。さて結果だが、児童虐待を受けた子供は、自分の子供に対して虐待する確率が高いようだ。面白いことに、育児放棄や性的虐待についてはこの傾向ははっきりしているが、暴力による虐待は伝わらないようだ。今後の施策からも重要な指摘だと思う。読んでみると、もちろん様々な問題がある論文だ。特に、児童保護局に記録されたケースだけを調べており、社会階層としては貧困家庭の調査と言える。したがって、心理的な遺伝性があるのかは、中産階級などについても調査をする必要があるだろう。しかし、Scienceの編集者の社会問題に科学で立ち向かうべきという意思を示すのには十分な論文を掲載したと思う。専門知識を誰もが理解するよう伝えるだけがメディアの役割ではない。社会の課題を科学者や、科学を志す人たちに伝えることもメディアの役割だ。残念ながら、我が国の科学メディアは未熟で、結局政府しか社会と科学を媒介するセクターはない。しかも、この点について政府の限界がはっきりしている以上、新しい科学メディアの創生が必要だ。
3月29日:アルコール依存性遺伝子(3月10日号米国アカデミー紀要掲載論文)
意外なことにアルコール依存症の大きな要因は遺伝的要因であることが一卵性双生児の研究で示されている。はっきり言えばまず酒に強いという遺伝的要因が必要なわけだが、ADHのような直接アルコール代謝に関わる遺伝子を除けば、メカニズムの解析は進んでいない。今日紹介するバージニアコモンウェルス大学からの論文はこの問題に意外な方法で迫った研究で、3月10日号の米国アカデミー紀要に掲載された。タイトルは「SWI/SNF chromatin remodeling regulates alcohol response behaviors in Caenorhabditis elegans and is associated with alcohol dependence in human (染色体再構成に関わるSWI/SNFは線虫のアルコール反応調節に関わり、人のアルコール依存症と関連する)」だ。この研究では最初から染色体の構造変化調節を通して遺伝子発現調節に関わるメカニズムの中核を担っているSWI/SNF複合体がアルコールに対する反応とどう関わるかに焦点を絞って研究を行っている。もちろん、最初からヒトで研究できることではないので、モデル動物を使って研究している。ただこの動物選びの際、ヒトに近いマウスなどを選ぶのではなく、一足飛びに線虫という体全体の細胞数が1000個余りで、それぞれの細胞の機能や由来がはっきりしている動物を使っている。この動物を使うもう一つの利点は、RNAiという方法で遺伝子発現を抑えることが容易な点だ。問題は線虫のような単純な動物でアルコールに強いという性質をどう調べるかだ。この研究では線虫をアルコールに30分晒し続けると、最初麻痺していた運動が回復してくるという性質を、アルコールに強い事を示す性質として使っている。すなわちこの研究では、線虫は全て酒に強いと見なしている。次に、染色体再構成に関わるSWI/SNF複合体の遺伝子をRNAi法を用いて抑制して、アルコールに弱くなるかどうか調べる。この複合体は13の分子からできた複合体で、エピジェネティックスによる遺伝調節の基本分子であるため、分子はヒトも線虫もよく似ている。この方法で、実に13分子のうち9分子がアルコールが強いという性質に関わることが明らかになった(逆に言うと遺伝子機能を抑制するとアルコールに弱くなる)。この研究では、機能が落ちると最初からアルコールに強くなる分子コンポーネントがあることや、この検査系でアルコールの強さを決めているのが筋肉と神経であることも示している。線虫の実験はこれで終わりだが、ヒトでも同じことが言えるのかを確かめようと、アルコール依存性とこの複合体遺伝子の多型との関連をデータベースで調べている。予想通りこの複合体の一つの遺伝子の多型が強くアルコール依存性と関わっていることを見出し、線虫による実験結果がヒトのアルコール依存性の発症メカニズム解析にも役に立ったと結論している。線虫で分子を特定し、それをヒトのゲノム解析結果とつなげる一見スマートな研究に思える。しかし、読者の気を引きつけた割には結局何もわかっていないこともたしかだ。すなわちSWI/SNFのような染色体構造調節の中核にある分子の関わりがわかっても、それによって調節されアルコールに強い性質をつくる遺伝子を見つけないと結局具体的なメカニズムは何も語れない。昔と違って、染色体の構造をゲノム全体で調べるのはそう難しいことではない。できればそこまでやってほしいというフラストレーションが残った。残念ながら、私のアルコール依存生活には何の示唆も得られなかった。
3月28日:蛋白翻訳を見えるようにする(3月20日号Science掲載論文)
遺伝子の情報がタンパク質へと変換するとき、まずmRNAへの転写が起こり、これがリボゾーム上でペプチドへと翻訳されるというセントラルドグマは、高校でもしっかり習う分子生物学の中核だ。教科書にも、核内で転写されたmRNAが核外に出てリボゾームと出会い、リボゾームの上でタンパク質に翻訳される図が載っている。しかしこの絵の通り、特定のmRNAが転写され、移動し、ペプチド合成の鋳型として使われていることを生きた細胞で追いかけることは難しい。というのも核酸自体は情報であっても、それ自身で蛍光を発したりすることがないからだ。ただ特定の核酸構造に結合するペプチドを用いて特定の核酸を追跡する技術が続々開発されている。今日紹介するスイス ミーシャー研究所と、アメリカ アインシュタイン大学の共著論文は、まさにセントラルドグマを視覚化することにチャレンジした研究で、3月20日号のScienceに掲載された。タイトルは「An RNA biosensor for imaging the first round of translation from single cells to living animals (生細胞や動物の最初の翻訳を調べるためのRNAセンサー)」だ。このグループが開発したRNA追跡システムはファージウイルスから借りてきた4つのコンポーネントからできている。まず追跡する遺伝子の翻訳される部分に、蛋白の機能には関係ないがタンパク質に翻訳されるPP7と呼ばれる配列と、翻訳されない後ろの部分にMS2配列を挿入する。この挿入したRNA部分に結合するPCPとMCP蛋白にそれぞれ緑と赤の蛍光分子を結合させた蛋白を核内で発現させるベクターシステムだ。すなわち、このmRNAが転写されるとPP7,MS2に緑と赤の蛍光物質が結合してマークする。これにより特定のmRNAだけが光るようになる。このmRNAがリボゾームと出会って、翻訳が始まるとPP7は翻訳されるためヘアピン構造を取れなくなり、結果緑の蛍光物質だけが外れる。すなわち転写されたては、一個のmRNAは緑と赤が合わさって黄色く光るが、翻訳が始まると緑の蛋白が外れて赤だけが残るという設計だ。論文ではこの設計で、mRNAを追跡できることをビデオで示している。私に取っても初めてセントラルドグマを目にした実感がある。また、タンパク質の翻訳を阻害すると、黄色から赤への変化は見られない。この追跡によって、当たり前かもしれないが、ほとんどのmRNAは核外に移行した後翻訳が始まること、また継時的拡散により核から離れ、そこでリボゾームと出会うことも示している。詳しく述べないが、最後にこの技術が様々な分野に実際役立つことを示す目的で、一つは細胞ストレス反応として起こってくる翻訳の停止プロセス、そしてショウジョウバエの卵形成のOskar分子mRNAの翻訳の調節がモニタリングできることを示している。こんなこととっくにわかっているという人もいるかもしれない。しかし、見ることは信じることにつながる。遺伝子組換え技術や蛍光タンパクが利用できるようになってから始まった、細胞の中の分子動態を見るための挑戦は当分終わることはなさそうだ。
3月27日:薬を中止する治験(3月23日発行JAMA Internal Medicine掲載論文)
アメリカで盛り上がっているプレシジョンメディシンは、個人個人の病気を正確に把握して、各個人に最も合った治療を行うことだ。この推進をオバマ大統領が一般教書演説で表明した時、しかし彼の頭の中にあったプレシジョンメディシンは、ゲノムや生活習慣を正確に把握し、個人に最も適合した治療を選択することにとどまっていたと思う。しかし考えてみると、一人の個人は様々な病気を同時に持つことが多いし、そんな病気と一生という長い時間の中で付き合っていく必要がある。したがって、プレシジョンメディシンにも、一生という長い時間で個人とその病気を把握することが重要になってくる。今日紹介するコロラド大学を中心とした米国チームからの論文は、一見プレシジョンメディシンとは無関係の研究だが、私にとっては将来のプレシジョンメディシンを考えるために極めて重要な論文に思えた。タイトルは「Safety and benefit of discontinuing statin therapy in the setting of advanced, life-limiting illnesss. A randomized clinical trial (進行した疾患の末期にスタチン治療をやめることの安全性と利点、無作為化治験)」で、3月23日発行のJAMA Internal Medicineに掲載された。この治験は薬剤の効果を調べる治験ではなく、薬剤を使わないことの危険性や利点を調べるための治験だ。実際には様々な疾患(その多くはガン)の末期に入って、余命が確実に1年以内と診断されたスタチンを服用中の患者さんのスタチン投与を中止した時どのような問題が起こるかを調べている。プライマリーエンドポイントと呼ぶが、この研究の第一目的は投与中止後60日目の死亡率の算定だ。その上で、1年間追跡して自覚的な生活の質などを調べている。結果だが、60日目の死亡率はスタチンをやめても全く変化がなかった。また1年間の追跡で約2割の人がまだ生存していたが、中止群と継続群で有意の差はなかった。半分以上の患者さんが循環器病を持っていることでスタチンを投与されていたわけだが、ほとんどの末期の患者さんにとってはスタチンが命に関わる薬でないことがはっきりした。さらに、自覚的な生活の質向上ではスタチンをやめた患者さんの方が身体的にも、精神的にも状態がよくなったと感じており、やめたことに対する満足度も高いという結果だ。このように、本当のプレシジョンメディシンでは、一生の各ステージでそれぞれ個人に適合した治療を行うことが必要だ。その意味で、病気があるからただ薬剤を投与し続けていいのかも問われるべきだと実感した。しかし思いついたらこのような治験を行うこの研究グループには頭がさがる。
3月26日:サルからヒトへのスイッチ(3月16日号Current Biology掲載論文)
昨日私が勤務する生命誌研究館を訪問中の某放送局の方から、サルからヒトへの進化を後押ししたスイッチのような遺伝子がないか聞かれた。サルとヒトのゲノムがほとんど同じと考えれば、一つの遺伝子で話が決まる可能性がないわけではないが、やはり「そう簡単な話ではない」と、答えるしかなかった。事実、700万年前に我々の先祖・原人がサルと別れてからも徐々に変化が積み重なってきていることが化石からわかるし、転写・翻訳される遺伝子の差から考えても、新しい遺伝子が全てのスイッチを入れるとは考えにくい。とはいえ、ヒトとサルの差は間違いなくゲノムの差としてそこに存在している。従って、それぞれの遺伝子の発現を調節している領域の差による遺伝子発現の小さな差が積み重なってヒトとサルの差が生まれたのではと多くの研究者は考えており、また地道な努力が重ねられている。今日紹介するデューク大学からの論文はサルとヒトの脳の大きさの差を決めている領域についての研究で3月16日号のCurrent Biologyに掲載された。タイトルは「Human-Chimpanzee differences in a FZD8 enhancer alter cell-cycle dynamics in the developing neocortex (FZD8エンハンサー領域のヒトとチンパンジーの差が新皮質発生過程での細胞周期の動態を変化させる)」だ。この研究ではFZD8と呼ばれるWnt増殖シグナルを受ける受容体遺伝子の上流にある領域の活性の差をチンパンジーとヒトで比べている。この領域に注目した理由についてはあまり明確ではないが、情報処理手法だけで出てきたというより、おそらく長年の経験から、FDZ8を脳細胞の増殖に関わる重要分子として狙いを定め、その遺伝子調節領域に注目したのではと想像する。このHARE5と名付けられた領域は他の領域と比べてもチンパンジーとヒトの差が大きい。この遺伝子配列の差を機能の差として見るため、ヒト、チンパンジーそれぞれからHARE5領域を調整して標識遺伝子とつなぎ、マウス胎児発生でその活性を調べたところ、予想通りこの領域は、どちらも発生中の脳新皮質で発現する。ただ驚くべきことに、ヒトの領域を用いると発生の早くから、しかも30倍も高い発現が誘導される。この発現の量の差が実際の脳の形態変化をもたらすのか、今度は同じ領域をFZD8遺伝子自体とつないで、マウス胎児脳で発現するFDZ8分子の量を変化させると、ヒト調節領域を用いてFDZ8を発現させたマウスでは脳細胞がよく増殖するようになり、脳の大きさが少し増大したという結果だ。話はこれだけだが、現在行われている地道な努力を代表するなかなかの力作で、このような積み重ねから少しづつサルとヒトの違いが明らかになるのだろうと思う。もちろん、全ゲノムが解読されているネアンデルタール人やデニソーバ人のゲノムデータも重要だ。個人的には、もしこのマウスが生きているのなら、次はそれぞれのマウスの行動解析の結果を知りたいものだと思う。
3月25日:CRISPRの倫理問題(Scienceオンライン版報告他)
CRISPR/Casシステムが遺伝子編集に用いられるようになってまだ何年も経っていないが、いつノーベル賞が出てもおかしくないほどこの世界を変える技術へと発展した。このホームページでもなんども紹介したが、その度にこんな利用法もあったのかと、奥の深さに感心する。要するに、技術が多くの研究者の新たなアイデアを生み出して増殖している。ただ拡大が続く素晴らしいテクノロジーだからこそ、今アメリカでは大きな懸念の的になり、今月に入ってNature, Science, そしてMIT technology reviewなどにこの技術の生む倫理問題について様々な意見が掲載されている。発端は、CRISPRを使ってヒト受精卵の遺伝子編集を行った中国からの論文が審査に回っているという噂だ(Regalado, A., MIT Tech. Rev. Äi0http://go.nature.com/2n2nfl (2015).。実際には論文が回ってきた審査員が匿名でこの問題を指摘した。これを受けて、1月この問題を話し合うべく、このテクノロジー生みの親の一人Jennifer Doudnaが呼びかけNapaで会議が持たれた。NAPA会議の参加者は、今回の会議が、遺伝子組み換え技術の倫理や社会的インパクトについて話し合われた1975年のアシロマ会議に続く第二のアシロマ会議と言える重要な問題を扱うという強い認識でこの問題を話し合ったようだ。この会議の経緯や様子について3月20日号のScienceはレポートを掲載、またオンライン版ではこの会議参加者の連名でコメントが発表された。同じ時NatureでもCRISPRと並ぶ遺伝子編集法を開発し、ベンチャー企業でその応用を目指すEdward Lanphierの「Don’t edit human germ line (ヒト生殖系遺伝子を編集してはならない)」というコメントを掲載している。これらすべての結論は、アシロマ会議の結論と同じように、ヒト胚や生殖細胞の遺伝子編集を当分行わないようモラトリアムを呼びかけるものだった。サイエンスオンライン版に掲載された会議参加者からのコメントでは、1)CRISPRといえども確実な技術ではなく、猿を用いた実験でも100%効率が得られていない、2)他の遺伝子への影響については議論がある、3)社会に受け入れられる適応についてまだ議論がされていない、などの議論に基づき、以下の提言がなされている。1)法的規制がない国といえども、遺伝子編集を胚や生殖細胞に使う研究は議論が進むまで中止する、2)国際的フォーラムを大至急形成し、新しいテクノロジーについて正確な情報を提供する、3)CRISPRテクノロジーを、生殖細胞以外のヒト細胞や動物細胞を用いた透明性の高い研究でさらに深化させる、4)世界的な会議を組織化し議論する。
あらゆる公職を退いたので、本当のところはわからないが、我が国ではアカデミア、マスメディア、政府もこの問題の重要性を認識していないのではないだろうか。今回強調したいのは、アシロマ、ヒトクローン、そしてCRISPRと科学者の方から情報が提供され、自発的に研究のモラトリアムが呼びかけられている点だ。これを起点として倫理議論が始まる。私は世界の科学者社会は自ら問題を指摘し、社会に積極的に呼びかけるだけの成熟さがあると自信を持っている。その上で、体細胞操作についてはiPSと同じで、リスクを取りながらヒトで研究を進める事の重要性を堂々と社会に要求している。現役時代、10年以上国の倫理委員会での議論に関わり、並行してISCFという国際フォーラムで議論を行った。この議論を通して、我が国の科学者、科学メディア、政府の3者全員がまだこの成熟度に達していないのではという感触を常に抱いてきた。すなわち、参加者全員が私が正義だと思って議論に参加している。この感触は、昨年始まった小保方問題に端的に表れた。科学者、科学メディア、政府が一体となってあの騒動につながったと思うが、これは科学と社会の関係について3者全てが未熟なままであり続けたことが原因の一つだと思う。その意味で、韓国の黄さん事件を分析した李成柱さんの「国家を騙した科学者」を読むと、成熟するということがよくわかる。李さんは新聞記者であるにもかかわらず、この問題に対するアカデミア、マスメディア、政府の3者の責任を冷静に分析している。我が国のエネルギーは失せてきたようだが、今もマスメディアを通して読者が一番興味のある科学記事が捏造問題で、この1年だけでも小保方事件に始まり、多くの論文に見つかったデータ使いまわし、そして最近の熊本大学医学部、岐阜大医学部、大阪市大の研究者が関わる捏造まで綿々と続いている。その間に、世界では社会と一体になって考える必要のある何が起こっていたのか、冷静に分析し対応し社会に発信できる科学者、政府、科学メディアが新たに生まれないと、成熟した科学と社会の関係など生まれようがない。
3月24日:RNAのメチル化(Natureオンライン版掲載論文)
2013年11月10日、このホームページで京大の岡村さんたちが細胞時計に関わるRNAメチル化の役割についての明らかにした論文を紹介するまで、私も酵母からヒトまで、真核生物にRNAをメチル化したり、脱メチル化したりする機構があることは考えたこともなかった。しかし最近論文を見ていると、この分野は結構賑やかになってきているようだ。例えば2月27日号のScienceではイスラエルのHannaがRNAメチル化酵素を欠損したES細胞は多能性状態からの抜け出しが遅くなって、正常な分化が進まないことを示している。ただ、これまでの研究ではRNAのメチル化は、核からの移行や、RNA自体の安定性など一般的な性質の調節に関わるとされてきた。これに対し、今日紹介するロックフェラー大学からの論文は、メチル化がマイクロRNAの調整に重要な役割を持つことを示した研究で、Natureオンライン版に掲載された。タイトルは「N6-methyladenosine marks primary microRNA for processing (N6メチル化アデノシンはプライマリーマイクロRNA処理の標識)」だ。マイクロRNAは20−25塩基の短いRNAで、たんぱく質をコードするのではなく、様々な形で遺伝子調節に関わることが知られている。このRNAは先ずプライマリーマイクロRNAとして転写され、その後DGRC8、DROSHA,Dicerなどの分子の作用による処理を受けて短いマイクロRNAが作られる。このグループの本来の研究目的は、マイクロRNA調整過程の解明だったのだろう。マイクロRNAに高頻度に存在している核酸配列を探索していたところ、プライマリーマイクロRNAにRNAメチル化の標識配列が特に選択的に分布していることを発見した。また、100種類の脊椎動物のプライマリーマイクロRNAを比較すると、ほぼ全ての動物でこの標識配列が保存されていた。この結果から、プライマリーマイクロRNAからマイクロRNAへの処理過程にメチル化が関わるのではないかと狙いをつけ、次にRNAメチル化酵素Mettle3をノックアウトして見ると、期待通り様々なマイクロRNAの発現が低下する一方、プライマリーマイクロRNAが増える。即ちプライマリーマイクロRNAの処理が停止することが確認された。詳細は省くが、様々な生化学的研究から、プライマリーマイクロRNAがメチル化されることで、処理に関わるDGCR8が結合するヘアピン構造形成が促進され、DROSHAによって切断される量が上昇するというシナリオを提案している。これまでのメチル化RNAの研究から一歩進み、この機構がRNAの特異的処理にも関わることが明らかになった。メチル化がマイクロRNA処理だけに関わることはないだろうが、おそらく、この結果をもとに岡村さんやHannaの研究も再検討されるだろう。しかしますます生命維持機構は複雑になっていく。
3月23日:ヒト化マウスをガン治療に使う(Nature Biotechnologyオンライン版掲載論文)
発生や組織の維持に必要な遺伝子をヒトの遺伝子で置き換え、動物の体の中で人の細胞や組織を作らせ、それを移植治療に用いようとするヒト化動物プロジェクトが世界中で進んでいる。中でも、抗体遺伝子やT細胞受容体遺伝子をヒト遺伝子で置き換えたマウスは、実用化に近いところまできた。特に、人型の抗体を作るマウスから得られた抗体は第2相治験まで進んでいるのではないだろうか。一方遅れていたT細胞の方も、抗原特異性を操作したT細胞移植によりガンを根治する可能性が示されてから、がぜん研究がスパートしているようだ。今日紹介するドイツ ベルリン マックスデルブリュックセンターからの論文はこの流れの研究を代表すると思う。タイトルは「Identification of human T-cell receptors with optimal affinity to cancer antigens using antigen-negative humanized mice (ガン抗原を持たないヒト化マウスを用いて、ガン抗原に対するT細胞受容体を同定する)」で、Nature Biotechnologyオンライン版に掲載された。指摘される前に明かしておくと、このグループを率いるThomas Blankensteinは私の留学時代からの友人だ。その意味で、「Thomas、よくやっている」という印象だ。さて、2010年このグループはヒトのクラス1抗原とT細胞受容体遺伝子が全てヒトの遺伝子に置き換わったマウスを作成し、Nature Mecdicineに報告している(Nature Medicine, 16:1029,2010)。このマウスでのT細胞反応は全てこのクラス1抗原をコンテクストし、導入してあるヒトT細胞受容体レパーートリーから選ばれる。
さて、ガン抗原に対してキラーT細胞がうまく成立するとガンが根治できることはわかってきた。ただこれまでのワクチン療法は、最終効果が予想できない試行錯誤の側面が強かった。また免疫を高めるPD1やCTLA4療法も免疫反応が成立していないと役に立たない。これを解決するため、ガン抗原に対して最適の結合活性を持つT細胞受容体を見つけてその受容体を持つT細胞でガンを殺せないかと考えるのは当然だ。ただ、言うは易く行うは難しで、最適T細胞を取り出すのはうまくいっていなかった。この研究の目的は、T細胞反応がヒト化したマウスを用いて、メラノーマで最初発現が発見された胎児性の分子MAGEA-1に最適の反応を示すT細胞受容体を見つけることだ。MAGEA-1は精巣以外の正常組織では全く発現がないが、多くのガンで発現が見られる。したがって、これを抗原として用いることで、多くのガンに対するキラーT細胞治療が可能になる可能性がある。ただ、胎児組織や精巣で発現していると免疫寛容が成立しているため、多くの胎児性ガン抗原に対するT細胞反応は弱い。ところがマウスMAGEA-1はヒトの分子とアミノ酸配列が異なるため、寛容は成立していない。したがって、人型のペプチドでこのヒト化したマウスを免疫すると、もっとも反応性の強いヒトT細胞受容体レパートリーを単離できるはずだ。詳しくは述べないが、この論文は予想通りこのマウスを用いると最適T細胞受容体を単離することが可能で、このT細胞受容体を導入したヒトT細胞は、この抗原を発現しているガンにだけ反応し、マウスモデルでほぼ根治が可能であることを示している。さらに、従来の方法で単離されたT細胞受容体と比べた時、ヒト化マウスから単離したT細胞受容体ははるかに優れていることも示し、このシステムの有用性を強調している。もちろんまだ概念が証明されたという段階で、実際の応用には、様々なクラス1抗原を持つマウス(少なくとも200種類は必要だろう)、MAGEA-1以外の他のガン抗原の特定などがさらに必要だろう。ただ、ひいき目なしに方向性は見えたと思う。もし根治が可能なら、余命を延ばすだけの治療と比べると優位性は高い。Thomasならクラス1抗原の組み合わせを変え、着々使えるT細胞受容体遺伝子セットを準備していることだろう。私と同じクラス1抗原を持ったマウスも早く作ってと今度頼んでおこう。
3月22日:トクソドンとマクラウケニアの古代化石に残るコラーゲンのアミノ酸配列(Natureオンライン版掲載論文)
タイトルにあるトクソドンとマクラウケニアは共にビーグル号探検の際ダーウィンが化石を発見した有蹄類で、南米が北米と繋がり侵入した肉食猛獣により絶滅するまで南米で栄えていたことが知られている。この発見の経過などは彼のノートに詳しく、公開されているDarwin Onlineで (http://darwin-online.org.uk/content/frameset?pageseq=1&itemID=CUL-DAR33.249-278&viewtype=text)読むことができる。いずれも他の大陸にないユニークな形態をしていたと想像され、ダーウィンを驚かせたことだろう。これまで南米でしか化石が見つからない5目の有蹄類は、南米大陸が孤立していた時に生まれた固有種ではないかと考えられていた。ただ大陸移動過程などが明らかにされることで、アフリカの有蹄類と同一起源ではないかという説も出されていた。ただ、やはり形態学からだけで系統を判断するのは限界がある。これを解決する古代DNA解析も、この時代の化石にはまだ利用できないことがわかっていた。今日紹介する英国・ヨーク大学からの論文は、この問題を化石に残されたコラーゲンのアミノ酸配列を解読することで解決しようとした研究で、Natureオンライン版に掲載された。タイトルは、「Ancient proteins resolve the evolutionary history of Darwin’s South American ungulates (ダーウィンが発見した南米有蹄類の進化起源を古代蛋白から明らかにする)」だ。コラーゲンは構造上極めて安定な蛋白質で、骨に大量に含まれている。このグループは古代DNA解読を狙っていたようだが、技術の改良で解決できるレベルではないことを認識し、同じ骨に残るコラーゲンのアミノ酸配列決定に挑戦した。方法に詳しく書いてあるが、なんと90%以上のアミノ酸配列を決定できる方法の開発に成功している。もちろん、それをコードするDNAがもう存在しないため、完全に正しいかどうかについては今後も調べていく必要がある。ただ、こうして明らかになったコラーゲンの配列を元に、トクソドンとマクラウケニアの系統を決めると、馬やバクなどの奇蹄目に分類され、アフリカ有蹄類との関係は否定されたという結果だ。DNAと異なり、コラーゲンだと他の動物からの混入の心配は少ない。博物館に残る化石調査を変えることまちがいない。コラーゲンだけで系統を決めるのは問題だと批判もあるだろう。しかし、この論文は化石動物の解析を大きく前進させたことは確かだ。化石にだけ残る哺乳動物の系統樹は言うに及ばず、恐竜の骨にまで解析が進むかもしれない。この将来性が夢を生む。