2年近く脳関係の論文を読んでみると、脳活動の記録や解析手法が確立したことで、研究の勝負は問題の設定とその問題を解くための課題の設計にかかっているような気がする。このため、論文を読んでいて一番面白いのは脳活動の記録や解析、あるいは結論そのものより課題設計の想像力になる。実際、論文でもこの課題設計部分について詳しく記述が行われるのが普通だ。今日紹介する英国認知脳科学研究所からの論文は、「忘れ去る」という「積極的な忘却」過程という困難な問題にチャレンジした研究でNature Neuroscienceオンライン版に掲載された。タイトルは「Retrieval induces adaptive forgetting of competing memories via cortical pattern suppression (記憶の取り出しは、皮質パターンの抑制を介する競合する記憶の適応的忘却を誘導する)」だ。訳してみるとずいぶん難しいタイトルになったが、要するに記憶を呼び起こす時、その記憶に連合した他の記憶は積極的に忘れ去るよう脳が働いているという話だ。問題がこんな複雑な過程なので当然対象はヒトだ。さて、この問題を解くため設計された課題だが、次のようになる。まずあらかじめ一つの言葉に二つのイメージが対応したセットを何セットも用意しておき、それを覚えてもらう。例えば、「砂」という言葉にマリリンモンロー(顔)と帽子(物品)を連合させて覚えてもらう。同じように「骨董」という言葉にアインシュタイン(顔)とゴーグル(物品)が連合するよう被験者をあらかじめ訓練する。そのあと、被験者に「砂」と問いかけて、それに連合したマリリンモンローの顔か帽子のどちらかを思い浮かべてもらって、どちらを思い出したか「顔」「物品」というカテゴリーで答えてもらう。そのあとすぐ、今度は覚えてもらっている様々な写真を示して、マリリンモンローが出て来れば「砂」と答えてもらう。もちろん帽子が出てきても答えは「砂」だ。ただその前の課題で行った、「砂」からマリリンモンローを思い出すという記憶の呼び起しが帽子のイメージを抑制しているとすると、帽子を見たとき「砂」という正しい答えを出す確率が低下することになる。この時、最初に呼び起こしとは関係ない連合イメージを見せて正解率を調べ、コントロールにしている。実際にはこのセッションを4回繰り返す。ほとんどの人は2回目以降はまず1回目と同じ記憶(例えば帽子ではなくマリリンモンローの顔)を呼び起こす。一度思い起こすことで記憶は鮮明になるから、当然だろう。一方、呼び起こさなかった方のイメージは抑制されているのかを帽子を見たとき「砂」と答える正解率で調べると、予想通りセッションが繰り返されマリリンの記憶が確かになるほど、帽子を見たとき「砂」と答える正解率は下がる。もちろん最初の呼び起しに使わなかったコントロールの連合セットでは、間違う率は一定している。この結果から、私たちは複数のイメージが連合した記憶セットから一つのイメージを呼び起こすとき、他のイメージを積極的に抑制していることがわかる。自らの経験に当てはめると、誰だったか思い出そうとして間違った名前が先に頭に浮かんでしまうと、本当の名前が「あの人、あの人」と思い出せないのと同じだろう。納得の課題設計だ。あとは、このセッションの過程を機能的MRIで調べ、イメージを想起すること、もう一つのイメージを抑制することに関わる脳部位の活動を対応させるだけだ(本当はこれも大変な分析だと思うが)。結果は、セッションを繰り返すほど腹側視覚野の一部の活動が記憶の抑制と関連していることがわかる。さらにこの抑制は前頭前皮質の興奮と関連することも明らかになった。すなわち、記憶を呼び起こすプロセスが興奮すると、そのイメージと連合しているイメージを探し当てるため前頭前皮質が興奮し、連合している他のイメージだけを抑制するという回路が明らかになった。脳研究の醍醐味は課題設計にあることがよくわかる。今後、この機構がうまく働かないためすぐ気が散る性格などの解明と、治療手段がわかってくれば、自分のこととしてこの結果を祝いたい。
3月21日:忘れないと覚えられない(Nature Neuroscienceオンライン版掲載論文)
3月20日:英国人(3月19日号Nature掲載論文)
このホームページで当たり前のように使っている言葉ゲノムにはどんな意味が含まれているのかをよくよく考えると、定義するのはそう簡単でない。物質として考えると、私たちの細胞核の中にある核酸の集団30億塩基対と簡単だが、情報として考えると様々な意味を持つ。もちろん細胞や個体が未来に向かって生きていくためには必須の情報だが、トランスクリプトームや他のオミックスとは全く違う意味がある。即ち、現在のゲノムが生まれるまでの過去の歴史が書かれている。これに気づいて、今や新しい歴史学、地理学が誕生しようとしているが、今日紹介するオーストラリア・英国の合同チームからの論文は一つの例だ。英国人が成立する過程をゲノムから解明しようとした研究で、3月19日号Natureに掲載された。タイトルは「The fine-scale genetic structure of the British population(英国人の微細レベルの遺伝子構造)」だ。この研究では、英国人をゲノム上の違いとして特定できる集団に分け、その集団の地理学的分布を調べようとしている。英国各地域を代表する人を集めるために、それぞれの祖母・祖父4人全員が80km以内で生まれた人を2039人選び、その遺伝子型をSNPアレーで調べている。このような研究はこれまでも行われてきたが、これまでの解析ソフトは、一つの国の中の集団の小さな違いを指標にグループ分けするのは苦手だったようだ。この論文では、2012年に新たに開発されたFineSTRUCTUREという解析ソフトを使って分析している。このソフトの原理については完全に理解できているわけではないが、それぞれのゲノムが様々なゲノム同士の交雑を通して形成されてきたことをモデル化して、一人の人間のゲノムが生まれる過程を、個々のSNP部分から連鎖するクラスター、そして最後に各クラスターを配置した染色体へと再構成するボトムアップの手法で解析しているようだ。この研究では、まずこのソフトを用いて、対象者を住んでいる場所とは無関係に分類し、結果をそれぞれの居住地区にプロットすることが行われている。はっきり言って、アイデアとこの解析ソフトがこの研究のすべてだが、結果は予想通りというか、英国人なら全員納得の結果だ。おそらく英国中で話題になっているだろう。今回調べた対象者は、17のクラスターに分類できる。各対象者がどのクラスターに属するかを色分けし、それを英国の地図にプロットすると、英国各地域が異なる集団で構成されていることが一目瞭然でわかる。わかりやすく言えば、スコットランド人、イングランド人、ウェールズ人は遺伝的に違う。さらに、オークニーのような小さな北の島の住人はもっと違う。一方、北アイルランド人とスコットランド人はよく似ているという具合だ。この成り立ちを探るため、周りの国々の住民と比較すると、北欧、ドイツ、フランス、スペイン、イタリア人との関係、即ち侵略や移住の結果による交雑が反映されている。この交雑史はさらに歴史書の記す交雑史と一致し、それぞれの地域住民の成立過程を新しく描き直せるという結論だ。地図を見るだけで本当に感心するし、楽しめる論文だった。例えば、現在各地域に住む人を無作為に選択して同じ調査を行い今回の結果と比べると、おそらく英国でどのような人の流れが生まれているのかわかるだろう。地方創生を掛け声にする我が国も、経済だけでなく、このような実態調査の上に計画を練るのも重要ではないかと思う。21世紀、ゲノムが文明を変えていることを実感する論文だった。
3月19日:頑張れば効果はすぐ出る(3月12日号アメリカ医師会雑誌掲載論文)
これまで田舎から都会までフィンランドには全部で4回ぐらい行ったと思うが、真面目な人が多い印象を持った。事実学童の学力国際比較で常にトップの座にあるのは、教育システムだけでなく、フィンランド国民の真面目な性格も寄与しているのではないだろうか、今日紹介するフィンランド・スウェーデン合同チームからの論文はこれまで言われて来た認知症対策を全て真面目にこなせば、認知症が予防できるか確かめた研究で、3月12日号のアメリカ医師会雑誌に掲載された。タイトルは「A 2 year multidomain intervention of diet, exercise, cognitive training, and vascular risk monitoring versus control to prevent cognitive decline in at-risk elderly people(FINGER) (食事、運動、認知トレーニング、血管リスク検査を組み合わせた複数の要因を介入することで高齢者の認知機能低下を防げるか(FINGERプロジェクト))だ。研究では2009年から2011までの2年間、すでに行われていたフィンランドの調査研究に参加して認知症の指標が少し高いと診断された60歳から77歳までの1260人が集められ、生活改善プログラムを指導に基づいて2年続けるグループと、看護師さんから様々な情報をもらうが、後は自宅で自由に努力するだけのグループについて、様々な認知機能テストの成績を比べている。どこにでもあるような研究だが、このプログラムに基づく指導が半端ではない。まず介入群に選ばれると、グループセッションで生活習慣を変えることの重要性の講義を受け、国の定めた詳細な食事指導要領に基づき体重の5−10%低下を目標とする食生活を続けることになる。次に運動だが、1−3回/週のジムによるトレーナーの指導、個人、及びグループのエアロビックスセッションが提供される。実際、副作用の記述で目を引いたのが筋肉痛で、半端なプログラムではないことがわかる。そして家に帰ると、コンピュータによる脳トレーニングが待っている。さらに、定期的にグループセッションが行われ、社会との接触を高めるよう促している。最後に、年に3回、BMIや血管系の検査受け、健康指導を続けている。驚くのは、このプログラムに参加した631人のうち、544人が対象として残ったことだ。本当にフィンランドの人たちは真面目だと思う。ここまでして、効果がなかったとは言えるはずはない。結果は期待通りで、実行力や問題を処理するスピードの低下は確実に防げている。ただ、記憶については大きな差はなく、ある程度年のせいと諦めたほうがいいかもしれない。私の経験で言えば、記憶自体はモバイルやパソコンでいくらでも埋め合わせが聞く。全般的には、上出来の結果と言っていいだろう。ただ読み終わって考えると、このプログラムだと、それを毎日こなすこと自体が大変な仕事になるように思える。健康になることを仕事としてこなす発想の転換が重要であることを示した結果だと思う。これも真面目なフィンランドの人だからこそできるのかもしれない。さらに、年金や福祉がしっかりしていないとこんなことは不可能だ。実際我が国でも可能か調べてみたいところだ。いずれにせよ、健康な生活を心がければ、認知症も防げる可能性があることは確かだ。
3月18日:古谷さんとビュフォン (Nature オンライン掲載論文)
今日は個人的話で終わる。さて自分の研究室メンバーではなくても、学会などで出会ったりするうち長年の付き合いが生まれる人たちが何人かいる。古谷さんもそんな一人で、彼が多田富雄先生の大学院に在籍していた時代から付き合いがある。彼のキャリアの節目節目にも不思議と立ち会った。中でも彼がNüsslein Vollhardtの研究室に行くと決めるきっかけになったケルンの会議でいろんな話をしたことをよく覚えている。その後もいろんな話をしに来てくれた。最後に会ったのは、彼が英国バースに行くことを決めた時だったと思う。今日紹介する論文はバースの古谷さんからの論文で、彼がドイツに渡ってから一貫して進めてきた仕事が凝縮している感慨を覚えた。タイトルは「YAP is essential for tissue tension to ensure vertebrate 3D body shape (YAPは脊椎動物の3次元形態を維持するための組織張力に必須)」で、Natureオンライン版に掲載された。ドイツに渡ってからの古谷さんは、一貫して無作為に突然変異体を誘導し、変異が起こった遺伝子を特定する研究スタイルを保持している。今でも覚えているが、「変異体を選ぶ時PhDの人たちは「美しい」突然変異を選びがちだが、自分はMDなので「醜い」突然変異を研究したい」と言っていた。今回選んだメダカの変異体は上下にひしゃげた醜い魚で、hirameと名付けている。この形態の原因を調べていくうち、ひしゃげるのは必ず重力方向で、魚の胚を横に寝かせて維持すると今度はひしゃげ方が変化することを発見している。重力が形態形成に影響し、私たちの細胞はそれに対処していることの証明だ。あとは常法に基づいて、変異した遺伝子を探索し、YAPと呼ばれる、今ガンや発生研究でもっとも流行っている転写因子を特定している。論文では様々な解析が示されているが、まとめてしまうとこのYAPは、下流で働く複数のRhoGTPase活性化分子を介して細胞骨格のアクトミオシン系の緊張を維持するのに必須の分子で、この分子の機能異常はこの緊張を低下させるため、細胞外マトリックスの形成異常や、マトリックスと細胞の接着異常がおこり細胞の重層構造がうまく作れず、結果重力に対して形態を維持することができなくなるという結果だ。ガン研究の分野では、YAPは細胞増殖や細胞死抑制に重要な分子として研究が進んでいるが、古谷さんたちは少なくともメダカに関してはこの細胞増殖に関わるのはYAPではなく、親戚の転写因子TAZで、YAPは細胞骨格調節を調節していることを示している。もちろん細胞骨格はガン研究にとっても重要で、おそらく今回の研究結果はガンについても再検討されるだろう。論文はわかりやすく書けており読んで面白い。彼自身も、オーソドックスな遺伝学からシナリオを書きあげるという点では満足できる仕事ができて喜んでいるだろうと推察する。もし隠居老人の私が何か加えるとしたら、18世紀、フランスを中心にニュートンの引力を形態形成原理として使おうとした人たちがいたという歴史の話だろう。その中心は有名なジョルジュ・ビュフォンだが、21世紀古谷さんたちは確かに引力も形態形成に関わる力であることを証明したと持ち上げたい(この辺りは今私が訳しているJeniffer Menschさんの「Kant’s Organicism」に詳しい)。いずれにせよ、古谷さんの顔が浮かんでくる論文だった。
3月17日:ゲノムを読み解く(4月9日号Cell掲載論文)
ある病気の患者さんと正常人のゲノムを比べて、病気と一塩基変異(SNP)などの遺伝子変異を相関させる研究が、現在我が国でも普及が始まった個人ゲノム検査サービスにつながっている。しかし正直なところ、結論はともかく、SNP検査の統計学だけが結果として示されたSNP論文を読むのはあまり面白いものではない。おいおい結論だけ拾うことになって、しっかり論文を読んだ記憶がない。この理由は、ゲノムと病気の間にある複雑な過程が、SNP論文では飛んでしまっているからだ。この中間を埋める努力が今日紹介する米国国立衛生研究所と英国キングスカレッジからの論文で、4月9日掲載発行予定のCellに掲載された。タイトルは「The genetic architecture of the human immune system: a bioresource for autoimmuneity and disease pathogensis(ヒト免疫システムの遺伝的構築:自己免疫と疾患病院のデータベース)」だ。この研究では、669組の双子について、ゲノム全体にわたるSNP検査、ほぼ80000にも及ぶ免疫に関わる細胞の種類を集積することが目的だ。80000種類というのは多いように思うが、例えばHIV感染の指標として用いられるCD4T細胞でも、もちろん発現しているCD4分子のレベルだけでなく、様々な表面分子で細かく細分できる。例えば、CD25を発現するCD4T細胞は免疫抑制機能があり、またガンの治療標的として注目されているPD1は活性化されたCD8T細胞に発現してくる。研究では現在得られる限りの指標を用いて、リンパ球や白血球を細分し、その数や表面上の分子の発現レベルなどについてのデータを集めている。重要なのは、この8万にものぼる指標をそのままSNPと相関させるのではなく、双生児を調べることで、それぞれの指標が遺伝的性質かどうかを調べ、これにより遺伝性が確認された151の性質のみSNP検査と相関させている点だ。今年1月7日にスタンフォード大学から発表された免疫系指標のほとんどは遺伝性がないことを示す双生児研究を紹介したが、8万指標調べてようやく151の遺伝的な性質が見つかるという今回の結果もそれを裏付ける。しかし151とはいえ、遺伝性が確認された指標が見つかったことは重要だ。そしてこの151の性質をSNP検査結果と相関させると、241種類のSNPが見つかってきたという結果だ。この研究のゴールは、このようなデータベースの構築で、個々の性質につての詳しい検討ではないので、私も詳細を紹介するのはやめておくが、何が可能か例を挙げておこう。例えば様々な細胞でのCD27発現はFcγ2a受容体の多型と相関すると同時に川崎病や腸炎など様々な病気と相関する。あるいは、NK細胞の表面分子をコードする遺伝子の多型は、予想通りNK細胞のうちCD158を発現するセットの数と相関し、同じ多型がベーチェット病とも相関するという結果だ。確かに、ゲノムと病気をつなぐ中間段階のデータが集まっていることを実感する。また、論文を読むのも苦痛は全くない。ただ実際はもっと面白いデータが集まっているはずだ。すなわち、この研究ではただ双生児を集めただけではない。40−70歳の双生児、すなわちそれまでの様々なデータが集まったコホート研究だ。今後このデータと他のデータとの相関を探すのが面白い。また面白い仮説が浮かんだら、このデータと遊ぶだけで大発見が生まれるかもしれない。集まったゲノムデータを読み解く時、ただ統計学だけに頼らず、さらに必要なデータが何かを構想する21世紀的視点を持った研究だと思う。我が国もある時までGWASやSNP研究が活発に行われていた。しかしこのような21世紀的視点のある仕事は影を潜めている。再建が必要だと思う。
3月16日:脊髄再生を促進する(3月12日号Science掲載論文)
脊髄損傷治療のゴールは切断された神経の再生だ。ただ、すべての外傷で始まる炎症や組織修復反応が神経再生の大きな障害になることがわかっている。従って、神経そのものの再生とともに、障害部位の周辺で起こる組織反応の抑制も重要な課題になる。例えば我が国の岡野さんたちによって示されたIL-6抑制による治療を始め、様々な方法がこのために開発されている。今日紹介するドイツ・ボンの神経変性疾患研究所からの論文は、これまでとは少し異なる方法でこの課題を解決しようとした研究だ。タイトルは「Systemic adminstration of epothilone B promotes axon regeneration after spinal cord injury (epothilone Bの全身投与は脊髄損傷後の神経再生を促進する)」だ。タイトルにあるepothilone B(エポチロン)は、細胞の微小管を安定させる作用のある抗生物質で、その作用機序から抗がん剤として利用されている。この論文では理由を示さず、この薬剤の微小管安定作用が脊髄損傷の神経再生に効果があるのではと研究が始まったことを述べている。同じ作用の薬剤と比べた時、マクロファージ刺激作用がないこと、また中枢神経系に到達できることからこの薬剤が選ばれたのだと思うが、着想の経緯がないと素人には唐突に感じる。いずれにせよ、脊髄損傷直後からこの薬剤を投与すると、微小管を安定させる効果があることを確認している。次に肝心の組織修復反応だが、フィブロネクチンやラミニンなどの間質への蓄積が著名に抑制される。一方、心配されたグリア細胞増殖阻害はほとんど見られない。次に、神経再生自体に及ぼす影響を調べるために、試験官内で線維芽細胞と神経細胞を培養すると、すぐに神経細胞の軸索形成が促進する。最後に実際の脊髄切断モデルにこの薬剤を投与すると、普通切断部位に起こる神経の退縮が抑制され、神経の再生が促進し、運動機能の障害がかなり抑制できるという結果だ。抗がん剤として使われている微小管安定剤を使ってみようというアイデア、組織反応だけでなく、神経再生も促進する効果があるという結果については評価できる。ただ、この分野ではこれまでも同じような報告が行われており、期待はずれに終わらないことを願う。これまで脊髄再生の論文を読んできて、最も印象に残ったのが昨年10月23日このホームページでも紹介したポーランドと英国の共同研究だ。この論文は1例報告だが、損傷後1年経過した患者さんの運動機能が回復したという点で画期的に思える。掲載されているレントゲンフィルムを友人の整形外科医に見てもらっても、完全な損傷で本当なら驚く結果であることを確認してくれた。今日紹介した研究は急性期が対象だが、もしポーランドからの論文が有望なら、組み合わせてさらに神経再生を促進させるような研究を進めてほしい気がする。脊髄損傷再生治療を心待ちにしているのは、損傷後時間が経った慢性期の患者さんだ。ぜひ慢性期治療の可能性の進展について、専門家の意見を聞きたいと思う。
3月15日:樹状細胞療法の新しいプロトコル(Nature オンライン版掲載論文)
ガンに対する免疫機能を高める樹状細胞療法は、健康保険の適用はないものの、普及している免疫治療と言える。様々な方法があるが、一般的には自己血から樹状細胞を調整し、ガン抗原を様々な方法でパルスし、患者さんに戻して免疫反応を誘導するというプロトコルが使われている。残念ながら我が国でこの治療法を提供する機関は、患者さん向けのサイトに全く治療成績を表示していない。従ってその効果についてははっきりしないが、科学的治験を行った論文からは一定の延命効果があることは明らかだ。今日紹介する論文を発表したデューク大学脳腫瘍センターのグループも、最も悪性のグリオブラストーマの治療として樹状細胞療法を積極的に取り入れており、その過程で見つかった新しい方法が治療成績を大きく改善することを発見し、Natureオンライン版に発表した。タイトルは、「Tetanus toxoid and CCL3 improve dendritic cell vaccines in mice and glioblastoma patients (破傷風トキソイドとCCL3はマウスモデルやヒトグリオブラストーマに対する樹状細胞ワクチンの効果を促進する)」だ。この論文は基礎研究から臨床研究へと進む通常の方向の逆で、臨床で効果が見られたプロトコルの科学的メカニズムを動物モデルを使って調べた研究だ。まずこの新しいプロトコルの効果を無作為化した12人について比べている。プロトコルだが、患者さんは全て樹状細胞ワクチンを受けるが、このグループはガン自身の抗原の代わりに、グリオブラストーマの多くが発現しているサイトメガロビールスp65分子のRNAを樹状細胞に導入して、ガンへのキラー活性を誘導している。さて、普通の方法で樹状細胞ワクチンを投与しても、6例全員が30ヶ月以内、ほとんどは1年で死亡している。しかし、樹状細胞ワクチンを投与する21日前に破傷風トキソイド・ジフテリアトキソイド混合剤を注射、その後ワクチン投与時に破傷風トキソイドを打つプロトコルだと、なんと半数が40ヶ月を超えて生存している。研究では主にマウスモデルを使って、この破傷風トキソイド前処理がなぜこれほど効くのか、そのメカニズムを探っている。詳細を省いて結論だけを言うと、破傷風トキソイドを2回注射することで、活性化CD4T細胞が誘導され、局所の炎症だけでなく、全身のリンパ節でケモカインが産生されることで、注射した樹状細胞ワクチンの局所リンパ節への移動が促進され、最終的にガンに対するキラーT細胞効率よく誘導できるという結果だ。この移動に、CCL3ケモカインが関わること、またリンパ節でCCL21ケモカインの発現が上がることもこの反応に関わることを示している。臨床結果が先にあって、そのメカニズムを後からモデル動物で明らかにし、安心して臨床研究をさらに進めるという典型的研究だと思う。いずれにせよ、これまで、試行錯誤的に行われてきた様々な免疫治療が、一歩づつ予測可能な治療へと変化しつつあることを実感させる研究だ。もちろん樹状細胞ワクチンをPD1,PDL1,CTLA4抗体などと組み合わせることも可能だ。免疫治療はどこまでガンに勝利するのか、期待が膨らむ。
3月14日:老兵は殺せ(Aging Cell4月号掲載予定論文)
Old soldiers never die, but fade awayは、トルーマンにより解任されたマッカーサーの引退演説の最後の言葉として有名で、日本語では「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と訳されている。訳がマッカーサーの真意を伝えているかどうか議論になったようだが、neverはうまく訳せているとは思えない。本当は自分の功績を讃えるニュアンスもあるように思う。しかしどんなに功績があろうと、新旧が入れ替わることで社会も身体も若々しさを保てる。このことをマウスの老化防止という観点から示したのが今日紹介するメイヨークリニックからの論文でAging Cell4月号に掲載予定だ。タイトルは「The Achilles’ heel of senescent cells:from transcriptome to senolytic drugs(老化細胞のアキレス腱:トランスクリプトームから老化細胞死誘導剤)」だ。もともと放射線障害やDANN修復を研究していたグループだろうか?いずれにせよ、まず観念が先に来るスタイルの論文だ。このグループの観念とは、「老化による障害は、老化により機能低下した細胞を完全に除去できていないためにおこる」だ。これを示すために、まず10グレイの放射線を照射し老化を誘導した脂肪細胞や血管内皮細胞の遺伝子発現を調べ、生き残った細胞で細胞死を防止するプログラムが働いていることを確認している。次に、このプログラムに関わる分子の中から、その機能を抑制すると完全な細胞死を誘導できる分子を探索し、細胞死を促進する一方、増殖細胞には影響を持たない6種類の分子を特定する。その上で、これらの分子の機能を抑制する分子を探して、ダサチニブと呼ばれるリン酸化酵素阻害剤、および抗炎症作用が知られている天然に存在するビタミン用物質、クェルセチンが、それぞれ脂肪細胞、血管内皮細胞の細胞死を促進する化合物として特定された。あとは、試験管内でこれらの化合物が確かに老化細胞を選択的に殺すことを確認した後、最後にマウスに対する影響を調べている。まず2年齢のマウスの心血管機能への影響を調べ、ダサチニブ+クェルセチン一回投与で心機能が改善することを見出している。即ち、老化してもなお心臓に残っている細胞を除去することで循環機能が改善するわけだ。次に、片足に強い放射線障害を与えたマウスに一回だけ両剤を投与し7ヶ月後の運動機能を調べると、トレッドミル検査で運動機能の改善が著しい。最後に、DAN修復欠損のため老化が早まったマウスに両剤を毎週飲ませると、運動障害をはじめ様々な老化による障害の発生が抑制される。実際の寿命については言及されていないが、要するに健康寿命が伸びるという結果だ。著者たちが予想したように、老兵は殺したほうが身体にはいいという結果だ。アイデアは面白く、ガンや老化による機能低下治療の一つの可能性を示した貢献だと思う。しかし年寄りから見ると複雑な結果だ。自分の体についてのことだと考えると、なんとか老兵を殺して元気になりたいと思う。しかし、その結果社会から見ると老兵が元気になり、新陳代謝が進まないという矛盾を抱える。おそらく、Old soldiers will survive, but hide away.が座右の銘としていいかもしれない。
3月13日:マウスの行動学から学べること(3月12日号Cell掲載論文)
食欲と摂食行動のつながりが正常でないと、拒食症や過食症を招く。幸い、この神経回路は人間だけでなく、ほとんどの高等動物にとって基本的な回路であるため、動物行動学をそのまま人間に当てはめることができると期待され、研究が行われてきた。中でも、視床下部に存在し、ニューロペプチドY(NPY)、GABA,そしてアグーチ関連ペプチド(Agrp)を分泌し、食欲に関わるレプチンなどの制御を受け、食欲と様々な行動を連携させるAgrpニューロンの特定がこの分野を大きく進展させた。とはいえ、未だ拒食症治療薬の決定打は開発されていない。今日紹介するエール大学からの論文はマウスの行動学を駆使してAgrpニューロンの役割を調べた研究で3月12日号Cellに掲載された。タイトルは「Hypothalamic Agrp neuron drive stereotypic behaviors beyond feeding (視床下部Agrpニューロンは摂食だけでなく定型行動を誘導する)」だ。脳研究の論文に目を通しているとエール大学からの論文が目立つ気がするが、この研究もそうだ。おそらくこのグループは、食欲から摂食行動への神経回路を調べていたのだろう。これに関連する行動として、餌がない空腹時に見られる行動を解析し(例えば餌を探して歩き回ったり、心理学的転移行動としての毛づくろいなど)、空腹時の行動を類型化している。次に、Agrpニューロンだけでカプサイシン受容体を発現するマウスを作成し、カプサイシンを投与してこのニューロンを興奮させた時に起こる行動を観察している。もちろん、空腹行動をとることから、満腹していても餌に飛びつく。また、餌のない時は餌を探す行動や、毛づくろいをする。この行動をさらに詳しく分析する目的で、Marble-buryingテストと呼ばれるケージ内のビー玉を床敷きで隠す強迫的繰り返し行動や、見慣れない物体に対する不安行動などを調べた結果、Agrpニューロンが摂食行動だけでなく、強迫的繰り返し行動を誘導し、不安行動を抑制することを見出した。重要なことは、この強迫繰り返し行動と摂食に関連する行動が、異なるAgrpニューロンにより調節されていることがわかったことだ。特に、この強迫繰り返し行動はNPYの阻害剤で完全に抑制されるが、摂食自体には影響がない。この結果から、神経性食思不全の患者さんが持っている強迫観念をNPYの阻害剤で治療できないかという提案を行っている。実際、神経性食思不全の患者さんでは血中のAgrp濃度が高いようだ。身体はなんとか患者さんに摂食を促そうと努力している証拠だ。しかし、患者さんでは強迫行動が強く、摂食に至らないという可能性は十分納得できる。もしこの興奮を他の強迫行動回路から切り離し、摂食へとつなげることができれば素晴らしいことだ。しかし一方で、人間の行動がそんな簡単な図式で説明できるはずがないという気持ちもある。この論文を読んで、マウスの行動学が進んでいること、神経細胞操作術の進歩はよくわかったが、予言通りNPY抑制剤が神経性食思不全症に効くかどうかは、この行動学の意義を判断する上で重要な試金石になる気がする。
3月12日:画期的止血法の開発?(3月10日号Science Translational Medicine掲載論文)
銃創・刺創など外傷性の出血に対しては、圧迫などで血流を抑え、輸液で循環血流量を維持しながら、早期に手術処置を行う必要がある。ただ、例えば先の震災や、大きな事故などでは、手術をする術者の手が足りない事が多い。こんな場合、少々の傷なら、もともと備わっている止血機能を高めることで、多くの人が救える可能性がある。これを達成するため、人工的血小板で止血を高める方法と、凝固系を促進し傷口のフィブリン形成を高める方法の2種類の方法が開発されている。今日紹介するワシントン大学からの論文はフィブリン塊形成を高める新しいペプチドについての研究で3月10日号のScience Translational Medicineに掲載された。タイトルは「A synthetic fibrin cross-linking polymer for modulating clot propertyes and inducing hemostasis (フィブリン塊の性質を変化させ止血を誘導するフィブリン分子の合成架橋ポリマー)」だ。この研究はフィブリンに特異的に結合するペプチドをスペーサーでつないで、フィブリンを架橋する能力を持つように設計した水溶性ポリマーが、実際に自然のフィブリン塊形成を高め、またできたフィブリン塊の止血能力を高るか確認する、まさにトランスレーショナル研究だ。この方法で問題になるのは、フィブリノーゲンがトロンビンで切られてフィブリンができるまでは架橋材は働かないことを確認すること、及び大きなポリマーなので腎毒性などがないか調べることだ。試験管内の予備研究で、フィブリンだけに結合すること、フィブリン塊の強度を高め、隙間を減らすことなどを確認した後、いよいよラットを用いて、外傷性の出血を止める実験を行っている。実験ではラット大腿動脈に3ミリの切開を入れてまず圧迫止血なしに15分出血させ、その後生理食塩水を点滴して血液量を維持する条件で、ラットの状態を観察している。何もしないと、1時間程度でラットは出血死する。生理的フィブリン架橋材の第8因子を出血が始まった時に注射すると25%ぐらいは助かる。一方、新しいPolyStatと名付けられた架橋材を注射するグループは出血が止まり、全例生存するという画期的な結果だ。様々なテストで、このフィブリン塊が栓溶作用にも強く安定していることが示されている。さらに、副作用もほとんど認められず、注射後1時間ぐらいはクレアチニンが上昇し確かに腎毒性は見られるが、元に戻るようだ。ただ、ラットの実験だけでは手放しでは喜べない。もっと大型の動物で、外傷の種類も変えて適用を調べることが必要だろう。しかし、事故が起こってすぐに注射をしておけば手術までの時間が稼げるなら、これは大きな展開だ。AED並みに普及するかもしれない。この場合、静脈注射ぐらいは医師や看護婦以外もできるように学校で訓練が行われるかもしれない。いやおそらく、自動静脈注射機が開発されること必至だろう。ニーズはどこにでもある。問題は、それに気づかないことだ。