2015年4月23日
ついこの前、2歳の1型糖尿病のお子さんを持つお母さんから、本当にこの病気は根治するのか?いつになったら治るのか?を問う投稿があった。これまで論文を読んでいてこの分野の進展は著しい印象を持っており、安全な膵島移植や、あるいは全く膵臓と同じ人工膵臓が完成するまで10年はかからないだろうと思っている。正直な気持ちとして、コストを気にしない場合は5年で多くの技術に見通しがつくのではと答えたが、「期待しすぎてはいけないでしょうね」と言われてしまった。(投稿と返事についてはhttp://aasj.jp/news/watch/2283 参照)。とはいえ、今日紹介するカナダ・Alberta大学からの論文もこの分野の力強い進展を示すものでNature Biotechnologyオンライン版に掲載された。タイトルは「A prevascularized subcutaneous device-less site for islet and cellular transplantation (あらかじめ血管網を形成させた皮下組織は膵島や移植細胞を支える組織になる)」だ。Alberta大学というと門脈を通して膵島を肝臓に移植する方法を開発した大学だ。この本家本元が、門脈から投与するエドモントンプロトコルには限界があると考えていたのだろう。もっと簡単で機動性の高い移植方法の開発を続けていたようだ。例えば将来は多能性幹細胞由来の膵島が利用されると考えられるが、未熟な細胞が残りテラトーマや他の腫瘍が発生するリスクを完全に排除することはできない。この場合、もし移植場所が皮下であれば、何か起こった時の対処がしやすい。ただ動物モデルで膵島を皮下に注射しても、細胞は全く生着しない。代わりに体内に留置可能なデバイスやマイクロカプセルに膵島を封入して患者さんに戻す方法の開発が進んでおり、かなり期待が持てる段階に来ている(例えば2013年11月に紹介した技術。http://aasj.jp/news/navigator/navi-news/737)。ただ臨床応用の観点から言うと、デバイスを使う方法は安全性が高いが、デバイスの認可に長い時間とコストがかかる。Alberta大学のグループは、膵島が腎臓の被膜下で生着するのに皮下組織で生着しないのは、血管新生が皮下で起こりにくいことが原因ではないかと考え、前もって血管新生を誘導した皮下組織に膵島を移植する方法を考えついた。この論文はこれが実際に可能であることを示した前臨床研究だ。まず皮下に血管新生を誘導する方法だが、様々な材料を試した後、市販の太さ5Fr(1.6mm)のナイロンカテーテルを皮下に1ヶ月留置することで実現している。ここにマウスや人の膵島を移植し、100日間経過を観察すると、腎臓被膜下移植と比べて少し遅れるが、あとは100日以上にわたって正常血糖を維持することが可能であることが示されている。移植抗原が違っている場合も、タクロリムスによる免疫抑制で十分移植膵島を維持することができること、すでに糖尿が発症していても有効な皮下組織を形成できることなど、前臨床としては十分な検討を行っている。そしてディスカッションにはヒトを用いた治験が準備中であると述べている。臨床応用は、多くの技術が並行して開発され、その全てが患者さんに届けられるときだけ可能になる。早期診断から、病気の進展の抑制、細胞移植や人工臓器、そして移植方法の開発など、1型糖尿病研究の進展を見ていると本当に力強いものを感じる。もう一度「大きな期待を抱いていただいて結構です」と伝えたい。最後になるが、来る5月30日日本IDMMネットワークは名古屋で10周年のサイエンスフォーラムを企画されている(http://japan-iddm.net/sympo_aichi_2015/)。このフォーラムでも力強い希望が聞けることは間違いない。
2015年4月22日
今ガン撲滅のために開発が必要な薬剤は何かと聞くとすると、多くの人の答えは変異型rasの阻害剤だと答えるだろう。事実ガンゲノム解析が進むにつれ、例えば膵臓癌の90%、肺がんの25%、大腸ガンの50%と多くのガンがras変異をドライバーとして使っていることが明らかになり、もしras阻害剤が開発できれば、多くの患者さんが救われるだろうと期待できる。ところが、創薬企業にras阻害剤の話を聞いてみると、薬剤開発は諦めたという悲観的な答えが一様に返ってくる。Rasは創薬にとってのタブーでありトラウマになっているようだ。ただ昨年8月1日このホームページでも紹介したように ( http://aasj.jp/news/watch/1950 ) この暗闇に少しづつ日が差してきたようだ。今日紹介するのはこの動きを伝えるためにNatureのNews &Viewsのコラムニストの一人Heidi Ledfordが書いたレポートで、4月16日号のNatureに掲載された。タイトルは「The ras renessance(ras復興)」、傷だらけの歴史から現在に至るまでの歴史をうまくまとめてある。順を追って箇条書きで紹介しよう。
- rasは動物の肉腫の原因となる発ガン遺伝子として発見された。1982年、rasの突然変異が人間のガンで見られることが最初に明らかになり、その後ガン治療の標的分子として最も期待されているのに、最も創薬が難しい標的分子として現在に至っている。しかしその重要性を考え、アメリカでは1億ドルのプロジェクトが新たに始まっている。
- rasはGTP結合タンパクだが、生化学的解析が進むとともに、GTPの結合性があまりに強く、この結合を阻害することは至難の技であることが分かった。また、構造解析が進んで、ノッペリとした分子で凹凸が少なく、タンパク同士の結合阻害も難しいことがわかった。
- そこにras機能には分子をファルネシル化して膜にアンカーすることが必要であることが発見された。これで阻害剤ができると多くの製薬メーカーが取り組んだが、実際の臨床治験が始まると全薬剤が討ち死にした。
- この失敗の原因は、ガンではK-ras, N-rasが活性化されることが多いのに、ほとんどの研究が膜へのアンカーにファルネシル化だけが関与しているH-rasで行われてしまったことで、ガンで問題になるN-ras,K-rasはゲラニル化が代わりに働いて、ファルネシル化阻害剤は役に立たなかった。
- 次に期待されたのが、rasが活性化すると細胞死を誘導するため、正常細胞と比べた時細胞死を防ぐ機構を必要とすることに注目し、この細胞死抑制機構を阻害しようとする方向だ。実際多くの論文がこの現象について発表された。しかし最近になって、synthetic lethalityと呼ばれる現象は、細胞ごとに異なっており、創薬ターゲットにならないことが分かった。
- このような歴史的経緯の結果、大手創薬企業はrasから手を引いた。しかし、アカデミアやベンチャー企業では創薬企業をやめた研究者たちが、in silicoでデザインした化合物や、弱い阻害活性を示す化合物からスタートして地道な探索を始めている。
- もう一つの方向は、特定の突然変異のみを標的とする探索で、私も8月1日に紹介したカリフォルニア大学サンフランシスコ校からの論文では、K-rasのG12C突然変異に効果のある薬剤の開発に成功している。特に、化合物がシステインを介してrasに共有結合するメカニズムは期待が持てる。
このように、大手のとらないリスクをアカデミアやベンチャーが取り、それを政府が助成する仕組みがアメリカにはしっかり存在している。我が国の医療研究機構も、なんでも薬作りにつながれば良いと申請を待つのではなく、大きな方針を示すことが最も重要だと思う。我が国の役所は工程表が好きだ。おそらく政治家にわかりやすいからだろう。医療研究機構からも最近工程表が出された。しかし、大きな方向性を示せない工程表ほど有害なものはない。末松さんから大きな方向性が示されるのを期待したい。
2015年4月21日
医学や生物学の実験では言うまでもなく再現可能かが問われるが、一回きりの経験を重視する伝統も持っている。特に精神医学や神経学では症例報告のウェイトが高い。これは脳のような複雑で個別の要素が高いシステムでは、統計的手法を当てはめることが難しい一回きりの現象が存在し、限界はあっても個別を追求することで普遍的な原理や法則に迫ることが可能だからだ。例えば精神疾患なら、この伝統はフロイトの膨大な症例報告に残っているし、神経学でも例えばダマシオの「デカルトの間違い」などには、脳障害で性格が一変した症例などが一般の方にもわかるよう紹介されている。今日紹介するワシントン大学からの論文も同じように繰り返して経験することのできない症例報告でPsychological Science4月号に掲載された。タイトルは「A lack of experiencee-dependent plasticity after more than a decade of recovered sight(視覚回復後10年以上たっても経験による可塑性は欠損している)」だ。この症例は、3歳半に事故で化学薬品を浴び、左目は完全に失われ右目は角膜障害を受け失明状態に陥る。46歳まで光は感じるが視覚による形態などの認識を行うことなく生活してきた後、右目の角膜を幹細胞移植で再生する治療を受け、視覚を回復する。この症例では、視覚が急に回復した時、経験による脳内での統合が必要な複雑な視覚認識はどこまで回復するのかが問われた。手術後2年目の検査で、光や色の感覚、また単純な形態の認識はほぼ完全に回復しているが、表情の認識を始め3次元画像など経験を必要とする視覚認識は全く回復しておらず、視覚が回復しても触覚や聴覚に頼らざるを得ないことが明らかになっていた。さらに10年経過して、この状態が改善したかどうかを調べたのが今回の研究で、結論を先に言うと、全く回復しないという結果だ。実際行われたテストでいうと、椅子の写真を見せて椅子と認識することができない。また、男か女か、あるいは怒っているのか喜んでいるのか、感情を理解するのも画面だけを通してだとうまく判断できない。一方、2次元画像の形であればある程度認識できるが、3次元画像になると単純な形の認識も難しい。もちろん全くランダムに答えるよりは正解率は高く、ある程度の認識が可能なことも確かだ。しかし、50近くで視覚が回復して10年たっても、それまでの50年の経験を通して積み重ねた脳内ネットワークを再構築することはできていないという結果だ。このことをより客観的に確かめる意味で、MRIで脳活動を調べている。詳細は省くが、顔の認識、人間の体の認識、景色の認識などの課題に対して反応は強く低下している。結局、見えるということと、それが何かわかることが全く別物であり、この患者さんでは3歳半までにわかるために獲得した脳内ネットワークはそのまま発達することなく止まってしまっていることがわかる。この患者さんは回復後視覚について「見えることで何ができ、何ができないかわかってきたので、あとはそれ以上の挑戦をしないでいる」と語っている。すなわち、脳内ネットワークの壁を壊すことの難しさを語っている。何歳まで視覚経験を積み重ねれば完全になるのか?回復しなかったのは個人的な問題なのか?同じような症例で、事故が起こった年齢が異なる患者さんの症例が集まれが、統計学的処理できなくとも多くのことがわかるのではないだろうか。だとすると眼科領域の再生医学の進展に大きな期待が集まる。
2015年4月20日
現役時代、大腸菌を分子生物学のツールとして使っていても、大腸菌の生理を対象とする論文に目を通すことはほとんどなかった。そのため、私がクリスパーを知ったのは、CRISPR-Cas9が特異的RNAをガイドとして用いるDNA切断酵素で、遺伝子の望む領域を改変するための強力なツールになるという報告からだ。しかし実際には、1987年、大腸菌のアルカリフォスファターゼのアイソザイム変換に関わる遺伝子を解析する過程で阪大微生物病研究所の石野さんたちにより発見され、2005年からほとんどの細菌に存在する外来遺伝子に対する免疫機構であることが解明されたシステムだ。もちろん、細菌の生理や進化を理解する上で今も重要な研究対象だ。今日紹介するイスラエル・ワイズマン研究所からの論文は、クリスパーシステムが外来遺伝子と自己の遺伝子をどう区別しているのかを明らかにした研究で、Natureオンライン版に掲載された。タイトルは「CRISPR adaptation biases explain preference for acquisition of foreign DNA(クリスパーの適応バイアスが外来DNAを選択的に獲得する現象を説明する)」だ。クリスパーは外来遺伝子の侵入に対する免疫系で、1度侵入したウィルスゲノムを覚えておいて、2度目に侵入してきた同じウィルスゲノムを速やかに切断して自分を守る。従って、侵入したウィルスゲノムを記憶しておく必要があるが、これは外来遺伝子の一部をCas9と結合するクリスパー配列の間に外来遺伝子由来のスペーサーとして取り込むことで行われている。すなわち、この取り込んだ外来遺伝子由来スペーサーによって、クリスパーと結合した切断酵素が外来遺伝子に特異的にリクルートできる。しかしこの系が外来遺伝子と自己遺伝子をどのように区別して、外来遺伝子の配列だけを記憶としてクリスパー領域に取り込めるのかはこれまでわかっていなかったようだ。実際、特定の配列が取り込まれるわけではないので、外来遺伝子と自己遺伝子を特異的に区別する方法はない。この研究ではまず、区別ができないならクリスパー領域にホスト遺伝子も取り込まれているはずだと発想を転換し、ホスト大腸菌のどの領域がスペーサーとして取り込まれているのかを調べることで、このメカニズムを探索している。まさにプロのセンスだ。詳細は省いて結論のみ述べるが、実際、大腸菌の遺伝子複製を知り尽くしたプロの実験が行われており、まず、このスペーサーはDNA修復酵素系によってDNAが分解される際に生まれるDNAの破片に由来している。修復系は遺伝子に入った切れ目を認識して働き始めるが、通常切れ目はDNA複製時、特に別々の方向から進んできた複製DNAが結合される段階で最も多く起こるため、スペーサーとして寄与する自己遺伝子はこの部分に由来することが圧倒的に多い。とはいえ、実際には自己遺伝子のコピーは一個だけだが、ウイルスやプラスミドはコピー数がずっと多く、しかもそれぞれが複製する。さらに、複製酵素は切断部からChi配列と呼ばれる場所まで遺伝子を削っていくが、このChi配列の密度が大腸菌ではウイルスやプラスミドと比べてはるかに高く、そのためずっと多くのDNA破片が外来遺伝子から生まれる。他にも、phageウイルスDNAは一本鎖で侵入するため最初から切れ目があり、すぐに修復系の作用を受ける。これらを総合すると、自己と他のDNAを区別することはできないが、ウイルスなどが侵入してきてクリスパー系が活性化されるときは、量的に外来DNAから生まれる破片の方が圧倒的に多いため、結果として自己DNAと外来DNAが区別されるように見え、スペーサーには外来DNAが蓄積されていくという説明だ。一般の方には申し訳なかったが、医療の未来を変えるエース、クリスパーも細菌についての地道な研究に由来していること、そして基礎研究は応用が進めば決して終わりというわけではなく、不明な点について地道な研究が現在も進んでおり、トップジャーナルもそれを応援していることを理解していただきたいと思い紹介した。
2015年4月19日
専門外の私から見たとき、人間の行動の背景にある脳活動を調べる研究は、行動を測定するためのタスク(課題)の設計が一番面白い。誤解を恐れずに言うと、そのあとの脳活動測定は付け足しに感じてしまう。一方、脳各領域のこれまでの研究について熟知した脳科学者は、おそらく浮き上がってきた機能的MRIの結果の方にもっと興奮するのだろう。この転換が専門家と非専門家を分ける違いではないかと思う。今日紹介するカリフォルニア工科大学からの論文は、他人の意見を聞きながらコンセンサスを形成するという複雑な過程を対象にした研究で4月22日号のNeuronに掲載された。タイトルはズバリ「Neural mechanisms underlying human consensus decision-making(人間のコンセンサスを形成しようとする決断の背景の神経メカニズム)」だ。コンセンサス形成というからには集団を扱う必要がある。この研究では6人の被験者のコンセンサス形成過程で参加者の一人の脳がどう反応したかについて機能的MRIで記録している。さて肝心のタスクだが、いつもながら感心する。この研究では、2つ示された物のうちどちらにするかを選択するゲームで、限られたトライアルの間にどちらを手にするかについて全員の意見が一致した時だけ、それが手に入るという課題を課している。例えばコーヒーと紅茶を見せてどちらが飲みたいか聞く。もちろん最初はそれぞれの好みに従って選択が行われ、例えばコーヒー4人、紅茶2人になるとする。この場合私が紅茶を選んだとすると、全員が飲み物を得るためには、とりあえず次はコーヒーにすると決断を変える。もう一人の紅茶派もそう考えてコーヒーに変える。そして、コーヒー派の4人が残りの2人が大勢に着くだろうと読めば、次の回でめでたく全員がコーヒーを得る。もし私が、コーヒーなら飲まないほうがましで、ずっと紅茶を選ぶとする。もちろん私がそうしていることはわからない仕組みになっているので、気まずくなることはない。しかし、残りの参加者には誰かこだわりのある人間がいることがわかる。その結果、残りの人が紅茶に変わればめでたく全員飲み物を得ることができる。しかしこういった場合は少数派に賛同する人はまれで、通常はコンセンサスが成立せず、何も手に入らず次の課題に移ることになる。この行動を分析すると、1)自分の好み、2)大勢についての理解、3)こだわり、でコンセンサス形成が決まることがわかる。この3要素がコンセンサス形成を決めると仮定してモデルを作ると、実際の選択結果に一致し、他の要素があまり関与していないことがわかる。これを確認して、夫々の要素に関わる脳領域を調べると、1)自分の好みはこれまでも意思決定に関わることが知られていた前頭葉の下部内側部、2)大勢の理解はやはりこれまで他者の意見を理解することに関わるとされてきた上側頭溝、3)最後に誰かのこだわりについての推察はやはり他人の意思の推察に関わるとされている頭頂間溝、にそれぞれマップされた。少し出来過ぎの感はあるが、納得だ。そして最後に、これらすべての領域に連結し、コンセンサス形成自体と相関する領域として前帯状皮質の前方部が特定された。この部位もこれまでの研究で様々な情報の統合に関わるとされている。まとめると、コンセンサス形成には好み、大勢、こだわりを感じるそれぞれの脳領域が前帯状皮質により統合されることで調節されているとする結果だ。おそらく次の課題は、6人全員の脳記録により、それぞれの心の動きと決断の法則を解明することだろう。次はどんなタスクと出会えるか、期待して論文を読んでいる。
2015年4月18日
オキシトシンが様々な社会行動にポジティブな影響を有し、一過的ではあっても自閉症の症状を和らげることはよく知られており、このホームページでも紹介してきた。たしかに連れ合いへの信頼が深まったり、人付き合いがよくなったりと、行動学的現象は面白いが、この背景にある神経活動を研究するのは難しい。今日紹介するニューヨーク大学からの論文は子供をケアする母親の行動に対するオキシトシンの作用を神経科学的に研究した力作でNatureオンライン版に掲載された。タイトルは「Oxytocin enables maternal behaviour by balancing cortical inhibition(オキシトシンは皮質神経の抑制活性のバランスをとることで母親としての行動を可能にしている)」だ。マウスを飼い始めると誰でも気づくが、初産の母親は子供のケアが下手だ。ケージ交換時、子供はどうしてもバラバラに移さざるを得ないが、子育てを経験した母親はすぐに子供を一箇所にまとめて、授乳を始める。一方、初産の母親は全く無関心で、子供を死なせることさえある。この子供をケアする行動をオキシトシンにより、無関心な初産の母親にも誘導できるという現象を神経科学的に解析したのがこの研究だ。まず、オキシトシン投与、あるいは光遺伝学を用いたオキシトシン産生細胞の刺激により、普通なら無関心の妊娠経験のないメスマウスが子供を巣に戻すケア行動を示すことを示し、ケア行動の開始にオキシトシンが関与していることを示している。このケア反応が、母親が子供の声を聞いて誘導されていることを確認した後、皮質聴覚野のどこにオキシトシンに反応できる細胞が存在するのか受容体に対する抗体を用いて調べ、反応性の細胞が左側の聴覚野に集中しているという驚くべき発見を行った。これを機能的に確かめるために、聴覚野の反応細胞を左右別々に刺激すると、左側を刺激した時だけケア行動を誘導できる。社会行動が片側の脳で決まるとは驚きだ。しかもこの刺激は、社会行動を最初に誘導するときだけに必要で、それ以後のケア反応には関わらないことが明らかになった。このようにして反応神経が特定されると、次はこの細胞が本当に子供のマウスの声に対する反応に関わるかを調べることになる。数多くの神経細胞の活動を計測する方法で、これらの細胞が子供の声にだけ反応すること、また妊娠経験のない母親ではこの反応がないこと、そしてこの声に対する反応をオキシトシンで誘導できることを示している。ここまでくると、あとはこの細胞が脳の他の部分とどうつながっており、どう支配されているかを調べることになるが、詳細を省いてまとめると、オキシトシンに反応する神経細胞は、視床の室傍核にあるオキシトシン産生細胞により刺激され、皮質にある聴覚に直接関わる神経の抑制に関わることを明らかにしている。この聴覚に直接関わる個々の神経細胞がオキシトシン投与によりどう影響されるか、シナプスでの興奮や抑制を最後に調べて、オキシトシンが抑制性の神経細胞をうまく調節して、聴覚神経の刺激と抑制のバランスをとって、その後続く社会行動を誘導することを証明している。一般の方にはわかりにくい話だと思うが、行動レベルの表面的解析を本当に理解するためには、個々の神経を対象としたここまで大変な研究が必要であることを理解していただければ十分だ。脳の話は面白い。しかし、真実の宿る細部まで迫る苦労を厭わないのも生物学だ。
2015年4月17日
新しい京大総長山極さんの入学式・式辞の評判がいい。私も京大のHPに掲載されている文章を読んだが、何よりも権力と経済のにおいがしないのがいい。とはいえ21世紀を作る人材を育てたいという初々しい気持ちが伝わってくる。1月にある会合で会う機会があったが、その時の印象を再確認した。この爽やかな姿勢はおそらく山極さんが科学の対象として野生のゴリラを見続けながら、その生の悲哀を感じる感性を持っているからではないだろうか。しかし私たちはその野生のゴリラを失うかもしれない。今日紹介する英国を中心とする国際チームの論文は、アフリカに生息するマウンテンゴリラのゲノム解析で4月10日号のScienceに掲載された。タイトルは「Mountain gorilla genomes reveal the impact of long-term population decline and inbreeding (マウンテンゴリラのゲノムからゴリラが近親交配により長期にわたって数を減らし続けていることがわかる)」だ。研究ではウガンダからガボンの各地域で生息しているゴリラ13頭の全ゲノムを調べ、各地域の集団の関係、それぞれの集団の進化過程と集団数の変遷、そして環境に応じた遺伝子選択などを調べている。まず最初に調べたゴリラの多様性は極めて少ない。なかでもコンゴに棲む東部ゴリラでその傾向が著しい。また、各地のゴリラの亜種では2万年以後ほとんど交雑がない。さらに近親交配が進んだため、個々のゴリラの遺伝子の3分の1はホモ(同型)で、実験動物のような状況に陥っている。この近親交配は最近になるほど著しいこともわかる。これは個体数が減少していることと一致する。全ゲノム配列を総合して計算すると、東部のゴリラは西部のゴリラと約15万年前に分離を始め、2万年ぐらいまで交流があったようだが、今は全くなくなった。その結果、さらに近親交配が進んできたことがわかる。それに輪をかけて、氷河期などの気候変動にさらされ個体数が急速に低下した結果、ゲノムから見るとゴリラは間違いなく絶滅への道をひた走っているという悲しい結果だ。強そうに見えても危機にさらされている。この結果だけを見ると、人類の影響は少ないように見えるが、現在個体数が800にまで減少し、生息域も限られていることから考えると、ゴリラの絶滅への道に人類が大きく寄与していることは間違いない。少し議論が飛躍するかもしれないが、私には教師も学生も多様性が失われつつある我が国の大学も近親交配が進んだ絶滅危惧種に思える。その意味で、ゴリラを見続けてきた山極さんのWIDOW構想への期待は大きい。
2015年4月16日
試験管内で受精させてから着床させる試験管ベービーの技術がわが国で急速に普及を始めたのはちょうど20世紀から21世紀にかかる頃だが、2000年に体外受精で発生する胚の実に7割以上に染色体数の異常が存在するという論文がでて、問題になったことがある。当時、ヒトクローン技術規制法案が発布され、ヒトES細胞の作成を巡る議論が佳境に入っていた時で、私も調べた覚えがある。この染色体数異常が生殖補助医療の成功率が低い原因であることは間違いがなく、この問題を解決できれば生殖補助医療の成功率はさらに上昇するだろう。今日紹介するスタンフォード大学からの論文は試験管内で起こる胚発生時の染色体数異常発生率と相関する遺伝子座を探る研究でScienceオンライン版に掲載された。この研究では受精後3日後に遺伝子診断目的で採取される胚の細胞を用い、その染色体数異常と、インフォームドコンセントで得られた両親のゲノムを調べ、異常と相関する一塩基多型(SNP)を調べている。この研究に参加してくれた母親、父親はそれぞれ2360人で、今更ながらこの技術と同時に、着床前診断がアメリカで普及していることを実感する。詳細は全て省くが、この研究で受精後3日までの染色体数異常と相関するとして母親側の遺伝子に見つかった1つのSNPがrs2305957で、この遺伝子領域を調べると、PLK4遺伝子が存在することが分かった。この分子は、中心体に存在して有糸分裂を調節しており、この異常を説明するのにうってつけの遺伝子が特定されたことになる。このSNPにはAA,GA,GGの3タイプ存在するが、AAタイプの母親からの胚では、染色体数異常率が2倍程度高い。これらの結果から著者たちは、このSNPの結果PLK4分子の発現量の小さな変化が生じ、その結果染色の分配に乱れが生じ、胚の染色体数の異常につながると推察している。また、この染色体数に異常のない胚を選んで着床させることで、妊娠率は大幅に改善するだろうと予想している。CGH法などで染色体を調べるときコストがどのぐらいかかるかわからないが、生殖補助医療が目指す重要な方向の一つとなるだろう。不妊治療としての情報としてはこれが全てだが、最後に面白いデータを付け加えている。すなわちこの染色体異常と相関する遺伝子タイプの起源を調べ、なんとネアンデルタールやデニソーバ人にはなく、私たちの先祖が分離してから新たに獲得されて現在まで維持されていることを示している。ちょっと考えると、異常が起こりやすい遺伝子座が維持されていることは不思議に思える。しかし、この異常はあくまでも体外受精という自然ではあり得ない状況での異常だ。このことから、著者らはこの遺伝子座を持つことで、逆に染色体数異常が起こった胚を流産できるようになり、種としての進化優位性を獲得したのではないかと推論している。逆に言うと、ネアンデルタールはこの選択機構を持たなかったことで絶滅したのかもしれない。なかなか面白いシナリオだ。
2015年4月15日
医学から離れて広く生物を見始めると、生命の営みの多様性に今更ながら驚く。今日紹介するコロンビア大学の論文は、アメリカ東部北部の海岸で猛威をふるっているオオノガイに発生する白血病についての研究で、4月9日のCell誌に掲載された。タイトルは「Horizontal transmission of clonal cancer cells causes leukemia in soft-shell clams (ガン細胞の水平伝搬によりオオノガイの白血病が引き起こされる)」だ。白血病はオオノガイだけでなく、ムール貝や牡蠣にも見られることは昔から知られていたようだ。さてオオノガイだが、これまでの研究で白血病の原因がSteamerと呼ばれるレトロトランスポゾンの仕業であることが突き止められていた。正常の細胞のゲノムにも2−10個のレトロトランスポゾンが存在するが、白血病になるとその数が150−300に増加する。この研究は現在アメリカ東部のニューヨークからカナダまで白血病が蔓延しているオオノガイを集め、その白血病の起源を調べている。最初はレトロトランスポゾンが飛び込んだ場所から白血病の原因を調べようとしたのだろう。ところが、様々な場所から得られた貝を調べるうちに驚くべきことに気づく。すなわち、白血病細胞は、それにかかった貝の細胞とは全く異なる起源の細胞で、しかも異なる広い場所から採取したのに白血病は同じ起源を共有していることに気づいた。この研究で行われたのは、様々な方法に基づく細胞の起源の特定で、北東部海岸に蔓延する白血病が同じ細胞を起源とすることを確認した。すなわち、広い範囲に蔓延する白血病は、一個のオオノガイの一個の細胞に発生したクローン細胞が個体から離れ、細胞自身が海を漂いながら他の貝に伝搬し、白血病を引き起こし、次々と「ハマグリ算?」で拡大していることが証明された。話はこれだけで、どのように伝搬するのかなどはこれからの研究になるだろう。脊椎動物になると、組織適合抗原が存在するため、白血病細胞が他の個体で増えることはないが、よく考えると組織抗原のプロトタイプはホヤからしかなく、軟体動物ではこのような伝搬が起こっても不思議ではない。実際ディスカッションで、このような伝搬形式を防ぐために組織抗原が進化したのではないかまで議論している。しかし、白血病細胞が次のホストを探して海を漂っているなど、結構ロマンチックに感じるのは私が長く血液について研究してきたからだろう。面白い話だった。
2015年4月14日
私の年になると、ほとんどの人は知人を膵臓癌で失っているはずだ。また、ガンの中でも膵臓癌は現在も増え続けている。しかし、このガンだけは医者も早期に発見することは諦めてきた。最近になって、遺伝性の高い膵臓癌のグループが見つかり、またゲノム検査からp16,BRCA1,2の遺伝子変異のように、遺伝性の危険因子もわかってきた。もしこのような危険性がある場合、なんとか定期検診で早期発見ができないか?この問題に取り組んだのが今日紹介するカロリンスカ大学からの論文だ。タイトルは「Short-term results of a magnetic resonance imaging-based Swedish screening program for individuals at risk for pancreatic cancer.(膵臓癌の危険性の高い人を対象としたMRI画像診断によるスウェーデン早期発見プログラムの中間報告)」だ。このプログラムでは胆汁や膵液を強調して撮影するMRCPという方法を使っている。CTなどと比べると被曝がなく、また胆管や膵管を詳しく見ることができるため、異常の発見率が高い。40人のリスクの高い人達を集め、2010年から年一回この検査でスクリーニングを続けた、その中間報告だ。40人全員が血縁のある親戚に2人以上の膵臓ガン患者さんがおり、さらに8人に遺伝的変異が特定されている。期待通りというか、なんと16人が3年の間にこの検査で異常と診断されており、そのうち12人は検診開始時に見つかっている。かなり高感度の検査だ。見つかったのはほとんどがいわゆる前癌状態だが、2人は膵臓癌として発見された。この前癌状態の患者さんの一人は、その後ガンを発生し、手術されている。2人の膵癌患者さんのうち一人は完全に早期発見だったが、もう一人は検査を一回パスしてしまったが、その後症状が現れ、すでにリンパ節に転移していると診断された。前癌状態の人のうち2人は手術まで進み、まだ膵癌には至っていないことが確認された、という結果だ。追跡はまだ続いているが、遺伝的リスクがあると、3年に10%近い人が膵癌を発症するのには驚く。この検査が本当に早期発見につながるかどうかだが、玉虫色と判断せざるを得ないだろう。ただ、リンパ節転移のない2例を発見できたこと、またもう一人も定期検診を一回パスしていた結果であることを考えると、1年に1回の検査ながら一定の成果があったと言える。一方、前癌状態で手術をした人が2人いる。ただ、遺伝性のある場合前癌状態からガンへ発展する確率が高いことを考えると、コストや負担から考えてもMRCPは使えそうだという印象を持った。膵臓癌の恐ろしさを考えると、親戚に膵臓癌の多い人には勧めていいのではないだろうか。一方、一般的な検査として考えると、ガンでなくとも手術されていいという覚悟の人なら勧められるように思った。