特に記念の論文を探したわけではないが、私がドイツに渡って基礎医学に専念したときに選んだ、「抗原受容体遺伝子の再構成を観察できるB細胞分化系の再構築」というテーマともどこかで関係する上海・中山大学からの論文を見つけた。タイトルは「Discovery of an active RAG transposon illuminates the origin of V(D)J recombination(RAGトランスポゾンの発見によりVDJ遺伝子再構成の起源が明らかになった)」で、6月30日発行のCellに掲載された。
言うまでもなく抗原受容体遺伝子再構成(VDJ再構成)は、利根川さんがノーベル賞に輝いた発見だが、David SchatzによりRAG1/2遺伝子が再構成のための必要十分な分子であることが示されるまでに約10年かかっている。今日紹介する研究はこの RAG遺伝子の起源がナメクジウオの持つトランスポゾンにさかのぼれることを明らかにした論文. 楽しく読むことができる力作で、1000回目に紹介する価値があると思う。
RAG1/2分子は共同して再構成標識配列(RSS)が標識するDNA部分を切り出し、隔てられていたVとD,DとJ各遺伝子を再結合させる。このプロセスは、トランスポゾンが自分を切り出し、他の部位に挿入されるプロセスと似ているため、RAGがトランスポゾンに由来することは、遺伝子再構成が明らかになった当時から想定されていた。このグループは、脊椎動物へ進化する前のナメクジウオのゲノムに散らばるトランスポゾン配列の中から、低いがRAGと相同性を持ち、RSSに似た配列(TSD)と近くに再挿入時にできるトランスポゾン特有のリピートを持つ配列を発見する。
あとは、
1) この分子がトランスポゾンとして働く過程は、RAG遺伝子がVDJ再構成する過程に似ていること、
2) RAG1/2両遺伝子がナメクジウオでもセットでゲノムに存在するが、脊椎動物とは異なり、それぞれの遺伝子はイントロンを持つこと、
3) ナメクジウオのprotoRAG遺伝子と相同の遺伝子がウニにも存在すること、
4) 切り出しの時の標識配列は完全に異なっていること、
5) RAGでは切り出し時に両方の断端がほぼ同時に切れるが、protoRAGはバラバラであること、
6) ProtoRAGが切り出した後の宿主の再結合様式が異なること
7) 試験管内でprotoRAG分子を用いてトランスポゾン挿入を再現できること、
など、利根川さんの論文以後RAGを求めて多くの研究者が開発した手法を駆使して、RAGとprotoRAG を比べている。
これだけデータを見せられると、まず間違いなくRAGはトランスポゾン由来であることを確信するし、なぜRAG遺伝子が八つ目ウナギには伝わらなかったのかの説明もある程度理解できる。研究グループの高い実力と同時に、中国生命科学一般のの急速な発展を実感させる論文だった。
最後に1000回ということで報道ウォッチに関して一言。
1000回にこだわるのは、松岡正剛さんの千夜千冊に綴られた書評のあり方に深い感銘を受けていたからだ。時代にとらわれず、古典を含む東西の著作について、一作品ごとに他の多くの本を引用しながら、思考を紡いでいく膨大な営みは、我が国の知識人から生まれた重要な貢献だと思っている (一般受けはしないので、多くの読者には馴染みがないと思うが)。
もちろんこれと比較するのは難しいが、同じ様なことを生命科学でできたらいいなとぼんやり考えて論文ウォッチを始めた。幸い、始めた当時と比べるとずいぶん物知りになり、一つの論文を、様々な分野の状況との関わりで理解できる様になってきた。少なくとも生命科学についてはさらに知識を集め、時代の科学について適切に語れる様努力したいと思っている。
折しも英国がEU離脱を決意した。この出来事を見て2つの問題を感じる。一つは年寄り(20世紀の遺物)が若者(21世紀)を支配しようとする傾向と、知識人の劣化だ。
年寄りの若者支配については、言及は必要ないだろう。あらゆる分野で、未来の可能性を蝕んでいる。
知識人の劣化は私一人の感覚だろうか?
離脱派のボリス ジョンソンには、一般受けするために「知」を劣化させたエリートを感じるし(知識人の劣化にSNSの果たした役割は大きい)、残留派のデビッド キャメロンには「知」が「経済」以外の何ものも代表できないエリートを感じる。
我が国も同じ様な状況で、世界は分断の危機を迎えている。こんな状況で知を磨くことは虚しいかもしれない。しかし欧州の人たちも、ロベール・シューマンらの知識人が磨いてきたEUの理想に共感したはずだ。
私は英国のEU離脱は、知識人が一般人から分離したのではなく、SNS語に慣れて本当の知を磨くことをやめ、世俗に同化してしまったからではないかと思う。
当分は2000回を目指し、「書を求めて書斎にこもろう」と思っている。
カテゴリ:論文ウォッチ