その後、多くの鎮痛剤が開発され、また麻薬の使用の制限が緩んでくると、今度は患者さんのリクエストに答えすぎておこる麻薬の過剰使用が問題になっている。
医学部で様々な病気について学び始めると、深刻な病気の症状が自分にも当てはまるのではと心配する病気恐怖症になる学生がいる。私自身も、多かれ少なかれその傾向はあったが、実際に診療に携わり、病気の頻度を実感すると、そう簡単に病気にならないこともわかってきて、病気恐怖症は消える。この様に、医者は平均値で考えるため、患者さんからみると私の痛みが理解してもらえないと常に不満の原因になることが多い。
私は医者をやめて長いので現状を知らないが、医師から見て大げさではないかと思える痛みを訴える患者さんにどう向き合えばいいのか、それほど研究は進んでいないのではと思う。
ところが先週Journal of Applied Biobehavoral Researchの「Pain Catastrophizing」特集に目が止まった。
Pain Catastrophizingという言葉に出会ったのは初めてだが、なんとなく痛みを大げさに訴えることかなと見ただけでわかる。読み進めると予想通り、「実際の症状から予想されるより大げさな痛みを訴えるネガティブな気持ち」のことで、2000年以降、特に麻薬の過剰使用の問題の一環として痛み領域では注目を集めている分野になっている様だ。
この特集はイントロダクションとPain Catastrophizingについての歴史的検討に続いて、
1) Catastrophizingのレベルを客観的に調べることが、特に麻薬の過剰使用との関係で重要であることを示した論文、
2) 工場で働く人の誰もが背中の痛みを経験するが、これがcatastrophizingされることで多くの損失につながることから、catastrophizing自体を症状として真剣に取り組むことの重要性を示した論文、
3) 労働時の事故からの回復過程で、catastrophizingの傾向が大きな影響を持つこと、catastrophizing傾向の治療が実際に職場復帰を高めることを示す論文、
4) catastrophizing傾向の検査により、女性の生理痛の程度を予測できること。また、これにより夫の精神状態も大きく影響を受けることを示した論文、
5) カプサイシンクリーム塗布に対する痛み反応が二次痛覚過敏症とともにcatastrophizing傾向と相関することを示した論文、
など、医師の診立てと患者の評価が食い違うことが問題になる多くの状況をカバーするいい特集だと思う。
いずれの論文も結論は、catastrophizingを一つの症状として、痛みとは切り離して治療することの重要性を強調している。
医師の側から見るとこの結論は、痛みなど主観的症状を器質的原因だけでなく、患者の心にまで広げて治療する忍耐強さが求められる。
しかし最も高いハードルは、患者さん自らが自分の症状の一部が「気から」来ていることを認める必要がある点だ。これが可能になるためには、これまでとは全く異なる医者と患者の関係が必要になる。
この特集の最初の論文「Pain catastrophizing: A historical perspective(大げさな痛みの訴え:歴史的視点)」では、catastrophizingの最大の特徴が、痛みのことを考えすぎて、この結果必ず大変なことが起こるのに、誰も助けてくれないと絶望することと規定した上で、
1) 痛みを大げさに訴えることで、恐怖から逃れようとする気持ち、
2) 病気の症状は必ず治るはずだと、徹底的に根治を求める気持ち、
3) 他人の注意を引き付けたいという気持ち、
など、精神的背景が科学的に考察される様になった歴史を説明している。そして、この問題についての科学的な論文が多く発表される様になり、またゲノム研究も進んできて、catastrophizing傾向の精神的背景が理解され、この傾向を早期診断することで、この問題の解決に近づいていることを強調している。
この問題を医者患者が一緒になって考えることで、医師と患者の新しい関係が生まれる予感がする。
カテゴリ:論文ウォッチ