硤合先生がノーベル化学賞を受賞したのを記念して、キラリティーの問題を扱った論文を紹介できないか考えながら論文を読んでいて、今日紹介するハンガリー・絵とボッシュ・ローランド大学からの論文に出会った。化合物のキラリティーを変えるだけで新しい薬効が生まれて、心筋梗塞などの虚血性疾患で末梢循環を守ることが出来るという研究で、10月14日Natureにオンライン掲載された。タイトルは「Capillary-selective vasodilation through myosin inhibition halts ischaemic cascades(ミオシン阻害による毛細血管特異的血管拡張は虚血性のカスケードを止める)」だ。
「タイトルににキラリティーなど書いてないぞ」と言われそうだが、種明かしまで少しお待ちを。硤合先生のノーベル賞については、各社示し合わせて「生命の起源に関わる謎」、と紹介していたが、有機化合物のキラリティーと生命の関わりは、単純にキラリティーを生命が支配するといった話ではない。おそらく人間が合成した化合物のキラリティーの偶然を医学が認識したのは、サリドマイド薬害だと思う。1950年代では有機化合物のキラリティーを選択することはなく、サリドマイドもRとSの光学異性体が混合したラセミ体をそのまま用いていた。ところがR体は鎮静作用を持つが、S体はセレブロンと呼ばれるユビキチンリガーゼに結合して、手足の発生に関わる分子を分解することがその後の研究でわかるが、この結果つわりに投与された妊婦さんからサリドマイド児が生まれて大スキャンダルになった。その後、野依先生たちの研究により、キラリティーを選択して分子を工業的に合成できる用になって、製薬業界ではキラリティーを選択できるようになった。ただ、サリドマイドの場合、R体を選択して使っても、体内でS体に変わる事もわかり、催奇形性ではますます複雑であることもわかった。現在では、特に創薬ではS体、R体を別々に効果を調べるのが普通になっている。
少し前置きが長くなったが、この研究の目的は、心筋梗塞などの虚血が続いた後血流が回復しても毛細血管が開かないため循環が回復せず、組織が死滅するCNR(caplillary no-reflow)と呼ばれる現象を、血管の収縮の張本人smooth muscle myosin(SMM)の収縮を阻害する化合物を開発して治療することだ。
ミオシン阻害剤としてブロビスタチンと呼ばれる化合物が存在し、左旋性のS体(S(-))は阻害効果があるが、R(+)は不活性であることが知られている。この研究ではブロビスタチン由来のMPH-220ベースに化合物を合成し、SMM特異的な阻害剤が出来ないか探している。その結果、MPH-2501が驚くべき活性を持つことを発見する。ブロビスタチンと同じで、S体のS-2501はほとんどのミオシンと結合するが、R体のR-2501は完全にSMM特異的であることがわかった。即ち、キラリティーを変えてみることでミオシン結合特異性が変わった阻害剤を開発できたという話になる。分子構造を調べると、R-2501とS-2501とは異なるミオシンの部位に結合し、ミオシンモーター活性を阻害することが明らかになった。
薬剤動態を調べると、注射後数分のうちに肝臓で分解される。効果だが、期待通り毛細血管平滑筋の収縮を抑えることが出来るが、効果は短い。正常ラットに注射する実験で、毛細血管での緊張阻害は正常の心機能に大きな影響がないことも確認している。
その上で、最初目指した臓器が虚血にさらされた後、再循環が始まったとき毛細血管が開かないCNRを防ぐことが出来るか、腎臓と心臓を用いて調べている。腎動脈を縛って10分血流を遮断すると、結紮を解いてもCNRがおこり腎組織は非可逆的に傷害される。この再灌流を始めるときに一回だけR-2501を静脈注射すると毛細血管を開くことができる。その結果、腎機能を改善し、1週間目の生存数が10%から30%に上昇する。
次は心筋梗塞モデルで、冠動脈を30分閉塞させその後再灌流させるモデルで、再灌流後の毛細血管のCNRを抑えて末梢血流を再開させ、梗塞巣を大きく縮小させることを明らかにしている。これらの実験は、全てラットを用いて行われたが、大動物としてブタを用いてカテーテルによる冠動脈閉鎖、再灌流実験も行っており、現在血管拡張剤として使われているアデノシンやニトログリセリンと比較している。結果は、他の薬剤と比べても冠動脈血流と左室圧力の回復がはるかに大きいことが示された。
結果は以上で、まさにキラリティーを変えた化合物を調べることで、思いがけなくSMM特異的に収縮を抑制するが、他の平滑筋には作用しない、周囲細胞の緊張を特異的に、しかも収縮の最終段階で抑える理想的な薬剤が開発できたという話だ。私たちはこのようにキラリティーの罠から抜け出すことは出来ない。
