2023年10月14日
今日紹介するチュービンゲン大学からの論文は、ひょっとしたら全く理解できていないかも知れないと思うほど、難しい論文だ。それでもあえて紹介したいと思ったのは、論文の書き方が凝っているように思えたからだ。論文は10月6日 Cell にオンライン掲載され、新しい像を既に存在する要素から構成し直す人間の脳過程を調べた研究で、タイトルは「Generative replay underlies compositional inference in the hippocampal-prefrontal circuit(海馬と前頭前皮質回路での構成的組成に関する推論には生成的再生が背景にある)」だ。
私の感じた凝った言葉の選び方から解説しよう。タイトルの generative という言葉は生成AI を彷彿とさせるし、実際 embedding という言葉とセットで使われている。また、サマリーの書き出しは「Human reasoning depends on reusing pieces of information by putting them together in new ways.(人間の推論は情報の一部を新しい方法で集めて新たに使い直すことに依存している)」で、ほとんどの人は気にならないと思うが、reasoning という単語は、カントの pure reason(純粋理性)を思い起こさせ、また以下に解説する実験の内容も、カントの提出した課題に通じるところが多い。要するにカントから大規模言語モデルまで、全て脳の問題として研究しているという著者の意志を感じてしまった。
この論文は責任著者が筆頭著者の Schwartenbeck さんだが、気になってラストオーサー Behrens さんの論文もいくつか読んでみたが、同じような手法で同じような課題を扱ってはいるが、この論文のような凝った単語の選び方は全く見られないので、Schwartenbeck さん自身の書き様だろう。結局私の深読みかも知れないが、人間の脳研究がカントから ChatGPT までつながっていることをはっきり認識して研究しているように思えた。
話が長くなったが、研究では画面に示された新しい複雑な構築を、イメージの中で要素となるレゴブロックを組み合わせて再構成する課題、すなわちシルエットとして提示される形を、頭の中で要素ブロックを組みあわせて分析している間に我々の脳の中で起こっている過程を調べている。
まず要素ブロックや、それを組みあわせた様々な形を見たときに起こる脳の興奮を fMRI で調べ、ブロック自体の視覚刺激とは別に、要素の数や、複雑性などを判断する reasoning のプランに関わる脳領域を特定している。すなわち経験を処理するための抽象的枠組みが脳に存在することを確認している。
次にブロック数を減らした単純な課題を行っている過程を、時間解像度の高い脳磁図計を使って調べている。この結果、3種類のブロックの組みあわせ程度のシルエットであれば、それぞれの要素ブロックとシルエットの形や大きさの比較が頭の中で1秒足らずの間に進むことを確認する。
その上で、それぞれの要素ブロックの視覚に対応する脳の表象領域の興奮を指標に、ブロックの組み合わせを考える時に頭の中で起こっているとき、それぞれの要素ブロックが同頭の中に浮かぶかを再現し、土台ブロックの上に、様々なブロックを組みあわせる試行を順番に繰り返し、正しい答えに到達していることを明らかにしている。
結論としては、新しい経験は、視覚経験(要素ブロック)を、空間、複雑性などの reasoning にもとづいて構想し直し、一般化しているという結論になる。
最後にこの結論をもう少しカント的に直して終わる。カントは経験を処理する枠組みとして量、質、関係、特性の4つのカテゴリーを示しているが、この研究はまさにこの経験を処理する枠組としてのカテゴリーが脳のサーキットとして存在し、従来の経験をこの回路上で再生しながら新しい知識へと変えていくという結論になる。著者はこの脳過程が生成AI とつながっていることまで、用いる単語に慎重に選ぶことで示しているのに感心した。今後が楽しみな研究者に思える。
2023年10月13日
遺伝子改変して拒絶反応を抑えたブタ心臓が初めて人に移植されたのはちょうど1年ほど前だが、結果は拒絶反応を抑えることがまだ完全には出来ていないことを示している。すなわち、ブタと人間とはあまりに違いが大きく、全ての違いを無くすことの難しさを物語っている。
今日紹介するハーバード大学からの論文は、CRISPR による遺伝子編集を用いて、人の臓器にサイズが近いユカタンブタ遺伝子を操作して、カニクイザルに移植後2年機能する腎臓を作成するのに成功した研究で、10月12日号 Nature にオンライン掲載された。タイトルは「Design and testing of a humanized porcine donor for xenotransplantation(異種移植のためにヒト化したブタドナーのデザインと検証)」だ。
まず、臓器のサイズが人間に近いユカタンブタを選び、これを遺伝子編集や遺伝子導入を合わせて徹底的に改変して拒絶を抑えようとしている。既に人間に応用される遺伝子改変ブタが存在するのに、後発でも優れたブタを作ろうとする意志に脱帽だ。おそらくCRISPR技術がこのチャレンジを後押ししたのだろう。とはいえ、ここまで来るのに大変な月日とお金がかかったと思う。おそらく、ブタの生殖サイクルを考えると10年はかかりそうな、極めて長期的視野の研究だ。
要するに問題になりそうな違いをリストして、徹底的に除いている。まず αGal として知られる糖鎖抗原で、人間やサルとブタとは全く異なるので、この合成系を完全にノックアウトする必要がある。次に、補体系の活性化ルートを抑えるとともに、ヒトの補体制御系の遺伝子導入を行っている。また、ブタ特有のレトロウイルスがゲノムに59カ所存在しており、それも完全に除去する必要がある。他にも凝固系など考えられる遺伝子改変はなんと69種類のブタ側遺伝子のノックアウトとともに、7種類のヒト遺伝子を発現したユカタンブタが完成している。
それぞれの改変ごとに様々なテストをした上で、両方の腎臓を除去したサルに、ブタ腎臓移植を行っている。驚くことに、レトロウイルスを除去するかどうかは特に移植成績には影響がない。ただ、ヒトに感染することは問題があるので、レトロウイルスノックアウトは重要だと結論している。
さて結果だが、good news は1年以上腎臓が機能した個体が15例中5例存在したことで、現在最も長く機能したのは758日に達している。Bad news は、ここまでしても最短で6日で拒絶が起こっていることで、758日機能した腎臓でも最後は凝固異常と血栓により拒絶している。ただ、長期性着後拒絶されたケースでも、同種移植とは違って、T細胞の浸潤が少ないことから、おそらく抗体を原因とする拒絶や血栓による拒絶と考えられる。
結果は以上で、ここまでしても種間の差を完全に理解し埋めることが出来ていないと言えるが、一方で同種移植とは異なる免疫抑制法を用いることなどで、まだまだ改善できるポイントも明らかになっている。
移植大国の米国ですらここまで努力を重ねているのを見ると、移植後進国であるにもかかわらず我が国で長期的視野の研究が行えていいないことは、患者さんを助ける研究行政という点では反省点が多い。我が国政府は応用研究に傾いていると言われているが、応用研究ですら助成方向が定まっていないのが現状に思える。実用化したとき、我が国に臓器を輸入できる外貨が残っていることを願うだけだ。
2023年10月12日
老化した細胞を積極的に除去することで新陳代謝を促すことで、組織レベル、あるいは個体レベルで若返ることをゼノリシスと呼んでいる。すなわち、老化細胞を分解させるという意味だ。最初、ゼノリシスの可能性は老化した細胞を自殺遺伝子で除去するという方法を用いて示されたが、その後、非特異的キナーゼ阻害剤ダサニティブに抗酸化剤ケルセチンを用いる方法が開発され、これは臨床的治験が進んでいる。他にも、東大医科研の中西さん達はグルタミナーゼ阻害剤でもゼノリシスが促進できるという可能性を示している。
今日紹介する韓国・建国大学と蔚山科学技術院研究所からの論文は、老化に伴うミトコンドリアを標的にした面白いアイデアの研究で、10月11日号の米国化学協会雑誌に掲載された。タイトルは「Supramolecular Senolytics via Intracellular Oligomerization of Peptides in Response to Elevated Reactive Oxygen Species Levels in Aging Cells(老化した細胞の活性酸素によって細胞内でペプチドをオリゴマー化させる超分子的ゼノリシス)」だ。
要するにアイデアが面白い。ミトコンドリアに濃縮されるペプチド (KLAKLAK) を、重合のための活性基Dithiol と老化細胞が高発現するインテグリンに結合する RGDペプチド配列で挟んだペプチド化合物 Mito-K1及びMito−K2 を合成し、これが細胞内に取り込まれ、ミトコンドリアへ移行すると、そこで上昇している活性酸素により重合して、ミトコンドリア膜を損傷し、細胞死を誘導するというアイデアだ。
研究ではこれらの分子が老化細胞に取り込まれると、ミトコンドリア膜上で重合し、ミトコンドリア膜を破壊、細胞死を誘導できることを示している。一方、正常細胞では分解される。実際には、本当に重合しているのか、細胞死の誘導メカニズムは何か、さらには正常細胞への毒性はないのかなど、徹底的に調べている。
その上で、ゼノリシス治療として使えるかについて、眼球内にアドリアマイシンを注入し網膜色素細胞の老化を誘導するモデル系で、Mito-2が老化を防ぎ、さらには視覚機能低下を防げることを示している。また、RNAを誘導する黄斑変性症でも、Mito-K2は老化細胞を除去出来ることを示している。
最後の極めつけは、24ヶ月齢マウス眼球に Mito-K2 を注射し、自然老化で起こる視力低下を抑えられることを示した実験で、この方法が正常細胞への影響なしにゼノリシスを可能にする新たな方法として期待できることを示した。
実際には、質量分析、生理学、細胞生物学、そして single cell RNA sequencing まであらゆる方法を駆使して行われた膨大なデータで、説得力がある。RGD配列で細胞内に取り込ませる方法があらゆる細胞で利用できるかはわからないが、この部分を変化させれば、ゼノリシスの切り札になるかも知れない。
2023年10月11日
特定の波長の光を当てて神経が興奮したり、あるいは興奮を抑えたりする方法は光遺伝学と呼ばれ、動物モデルを用いた神経科学を大きく変化させた。これは、光に反応するイオンチャンネルを神経細胞に導入して興奮を調節する方法だが、刺激は光に限らず、チャンネルの開閉を操作できれば、化合物でも、磁場でも刺激を問わない。基本的にはモデル動物を用いた研究だが、それだけでも十分ノーベル賞を授与されることは間違いないと思っている。しかし、原理から考えると、当然人間にも応用されることは間違いない技術だ。
遺伝子導入を領域や細胞特異的に行えば、脳を操作して、不安を抑えたり、あるいは興奮を与えたり、これまで領域非特異的薬剤で対応していた精神疾患治療に大きな変革をもたらす可能性がある。ただ、これが実現するのは病気の神経科学を我々が理解してからのことで、それだけ脳は複雑だ。
代わりにより単純な神経サーキットを標的とした光遺伝学が開発されている。今日紹介するオックスフォード大学からの論文は禁煙を促すために使われるニコチン受容体作動薬バレニクリン刺激により開くクロライドチャンネルを痛みを伝える感覚神経に導入して、痛み刺激による神経興奮を抑えられないかを調べた研究で、10月4日 Science Translational Medicine に掲載された。タイトルは「A humanized chemogenetic system inhibits murine pain-related behavior and hyperactivity in human sensory neurons(ヒト化した化学反応性システムはマウスの傷み反応を抑え、ヒトの感覚神経の過興奮を抑える)」だ。
クロライドチャンネルを開けることで、細胞内のクロライドが流出することで膜の伝導性が高まる。これにより電圧依存性のチャンネルの閾値が高まって、神経興奮が抑えることが出来る。ただ、脳神経細胞のクロライドの維持量は高くないので、この方法を他の神経に使うと、神経活動全体を抑えてしまうが、クロライドを多く維持している感覚神経に使える可能性は高い。
この研究ではリガンド作動性クロライドチャンネルGlyR をバレニクリン作動性に変化させた遺伝子が試験管内で感覚神経の興奮を抑えることを確認した上で、遺伝子を導入したアデノ随伴ウイルス(AAV)を直接マウスに注射し、その効果を見ている。
臨床的に近い設定としてまず関節炎の痛みを、関節腔に遺伝子を注入して抑えられるか調べている。炎症を誘発して関節痛を発生させたとき、バレニクリンを極めて少量注射するだけで、非ステロイド系抗炎症剤と匹敵する鎮痛作用を示す。
次に脊髄に直接注入して熱に対する反応を見ると、10ヶ月後も導入した遺伝子は維持され、バレニクリンにより熱反応を抑えることが出来る。同じように、神経損傷後に起こる神経原性の痛みも抑制することが出来ている。
最後に、電圧依存性ナトリウムチャンネルの変異により痛みが持続する患者さんの iPS由来感覚神経細胞を用いて、このような遺伝的痛み感受性も抑えることが出来ることを明らかにしている。
以上が結果で、痛みという局所の神経反応であれば、光遺伝学をヒトに応用することが出来ることが示された。勿論痛みは主観的な要素も強く、本当に痛みが取れたと感じられるのか、またクロライドがいくら多いと言っても、慢性的バレニクリンしようが可能なのか、応用までに乗り越えるハードルがあるが、光遺伝学の人間への応用がいよいよ始まったと感じる。
2023年10月10日
特異性のないワクチン、すなわち目的の細菌を抗原として使わないで感染を防ぐことは現実に行われている。コロナ感染の時、免疫トレーニングとして知られるようになったBCG接種によるウイルス感染の抑制はその例だ。しかし、コロナを含むウイルス感染となると、当然抗原を含むワクチンの方が有効で、免疫トレーニングを一般的感染予防として用いることは、効果から考えても現実的ではない。
ところが、抵抗力の落ちた患者さんが病院で多剤耐性菌に感染するような場合は、免疫トレーニングも一つのオプションとして実際に治験が行われている。今日紹介する南カリフォルニア大学からの論文は、黄色ブドウ球菌など医療関連感染に対するワクチンが可能であることを示した研究で、10月4日号の Science Translational Medicine に掲載された。タイトルは「A protein-free vaccine stimulates innate immunity and protects against nosocomial pathogens(蛋白質を含まないワクチンは自然免疫を刺激して病院内感染を防ぐ)」だ。
ワクチンの研究過程で、病原体とは関係ない蛋白質を抗原として加えても感染が防御できた実験結果を検討する中で、蛋白質を含まないワクチンに加えた物質、すなわち水酸化アルミニウム(古くから抗原を沈殿させるのに使われている)、リン脂質、そしてグルカン粒子だけでも免疫トレーニングによる感染防御が可能性はないかと考えた。
そこでこの3種類の物質を単純に混ぜたワクチンを作成しマウスを免疫し、アシネトバクター、黄色ブドウ球菌、肺炎桿菌を感染させると、アシネトバクター感染に対してはほぼ完全な防御、ブドウ球菌や肺炎桿菌については一定の防御効果を認めている。
次に、さらに強い防御可能なワクチンを模索し、グルカン粒子を真菌由来のマンナンに置き換えることで、ブドウ球菌、肺炎桿菌、緑膿菌、さらにはカンジダに対しても用量依存的に予防効果が認められることがわかった。
この効果は獲得免疫系が存在しないRAGノックアウトマウスでも見られることから、自然免疫を介する効果で、さらに投与後すぐに効果が現れることがわかる。
自然免疫に関わるサイトカインのレベルを調べると、IL1β や IL6 のような炎症性サイトカインが低下する一方、炎症を抑える方の IL10 などのサイトカインが上昇することがわかった。そしてこの変化は、ワクチン接種によるクロマチンの変化を基盤として、1月程度持続することを示している。
ヒトについては試験管内でマクロファージを刺激する実験を行って、炎症性サイトカインの分泌が落ちることを示しているが、IL10 の挙動はマウスの結果と完全に一致しないので、試験管内実験では予測できない。需要は高く、また既にBCGの治験も行われている分野なので、治験として進める可能性は十分ある。
2023年10月9日
ヘモグロビンは言わずと知れた赤血球が酸素を運ぶために必須の分子で、赤血球特異的な分子であることを疑う人はいない。実際、極地に生息するアイスフィッシュでは、低温のため酸素が拡散によって身体中を巡るので、ヘモグロビンや赤血球は消失してしまった。面白いのはアイスフィッシュの中には、筋肉に存在するミオグロビンまで消失した種が存在するが、このことはヘモグロビンもミオグロビンも同じように酸素を保持する目的に存在することを教えてくれる。
このようなヘモグロビンの発現が他の細胞に見られるという報告はいくつかあるが、結局赤血球のコンタミか遺伝子発現調節のいたずらで、機能とは関係ないとされてきた。しかし今日紹介する中国・空軍軍医学校からの論文はヘモグロビンが赤血球と同じように軟骨でも酸素供給のために働いていることを示した研究で、10月4日 Nature にオンライン掲載された。タイトルは「An extra-erythrocyte role of haemoglobin body in chondrocyte hypoxia adaption(ヘモグロビン体には軟骨細胞が低酸素に適応するという赤血球外の役割がある)」だ。
研究は骨端に存在する軟骨細胞の組織を調べているとき、細胞内に存在するエオジンに染まる無定型な部分に気づき、これは何だろうと素朴に問うたところから発する。おそらく何万人という人が軟骨の写真を見てきたが、この問いが発せられることがなかったのは驚きで、軟骨のようにマトリックスが多い細胞では様々な分子が溜まるのも不思議はないと思ってしまっていたのだと思う。
レーザーでこの部分を切り出して質量解析を行い、なんとヘモグロビンα、βともにこの中に存在することを発見する。さらに、ヘモグロビンにも相分離を引き起こす配列が存在し、これが軟骨内で相分離したヘモグロビン体を形成していることを突き止める。
ここまでならウケ狙いの論文で終わるのだが、この研究ではまず胎児発生で赤血球と同じように胎児型ヘモグロビンから成人型ヘモグロビンへのスイッチが起こることを確認し、軟骨発生過程を通して必要とされていることを確認する。
次に、軟骨でのヘモグロビン発現調節について調べ、GATA1やRunx1が発現しているだけでなく、Klf1は低酸素によりエピジェネティックなメカニズムを介して発現が上昇し、これによりヘモグロビンの発現量が低酸素依存的に上昇することを発見する。軟骨にとってこの点は重要で、軟骨組織が形成されても血管が入ってこないので、低酸素状態になる。この時ヘモグロビンが酸素を組織内で蓄える役割を持つとすると、機能も存在する可能性がある。
そこで、ヘモグロビン遺伝子を軟骨で除去する実験を行い、これにより軟骨細胞が強い低酸素状態に晒され、最終的に軟骨細胞が壊死に陥ることを明らかにしている。また、試験管内実験系で細胞にヘモグロビンを発現させると、低酸素への抵抗性が高まることも示している。
以上が結果で、ちょっと驚いたと言うより、ヘモグロビンの新しい機能をはっきりと示した力作だと思う。中国からはよく意外性を強調した論文が発表されるが、これは意外でも納得できる力作だ。
2023年10月8日
現在は監視カメラの数が増えたおかげで、目撃による犯人捜しの役割は減ってきたのではと想像する。というのも、目撃者がしばしば当てにならないことは明確で、実際それまで見たこともない顔を覚えることは簡単ではない。
今日紹介する英国バーミンガム大学を中心とする国際共同研究は、目撃者情報の確度を高める小さなトリックについて調べた研究で、10月2日米国アカデミー紀要に掲載された。タイトルは「Enabling witnesses to actively explore faces and reinstate study-test pose during a lineup increases discriminability(目撃者が写真を操作して顔の方向を変化させながら積極的に検証することで、個人特定の率を高めることが出来る)」だ。
刑事ドラマで目撃者に犯人を特定してもらうとき、取り調べの様子を他の部屋から見せるというシーンがよくあるが、この場合犯人へと誘導するバイアスがかかる心配がある。代わりに、何枚かの写真の中に犯人の写真を混ぜて提示し、その中から犯人を特定してもらうことが行われているようだ。
我が国の状況は知らないが、写真の提示方法についてはこれまでも様々な研究があるようで、一枚ずつ順番に提示するのではなく、同時に何枚かを提示して特定してもらうほうが正確なことがわかっているらしい。
この研究では、最近検討が始まった新しい方法、すなわち同時に提示された顔写真の画面を目撃者が自由に操作して顔の方向を変えたりしながら以前目撃した犯人を特定する方法を、これまで主に行われている前向き写真の表示による特定と比較した研究だ。
結果は、モニター上で見る方向を変えたり、自由に他の顔と比べることが出来る提示の方法を使った相互作用型が、前を向いた写真の中から選ぶ方法、あるいは画面に順番に顔写真が出てくる方法を凌駕していることが確認された。
結果はこれだけで、例えばアイトラッキングを組みあわせたり、あるいは脳の活動をモニターすると言った手法は全く取り入れられておらず、少しでも多くの情報を十分時間をかけて与えることが正確な目撃情報につながっていると結論している。
脳科学の裏付けがないとはいえ、犯罪捜査の心理学を科学的に前に進める努力が行われているのに感心した。
2023年10月7日
レカネマブはADの初期にAβ治療を始めると、進行を遅らせることが出来ることを示した。しかし遅らせたとは言えこの治療だけでは病気は進行する。とすると、この進行をさらに遅らせることが次の課題になる。実際、Aβが蓄積してもADにならないAPOEの変異が知られているように、Aβ蓄積から次の過程へ転換するメカニズムを明らかにすることが、レカネマブ使用を続けるためにも最も重要な課題になる。
この初期段階を理解する上で重要な細胞の一つがミクログリアで、10月5日に紹介したエピジェネティックな解析で、ADリスク遺伝子でエピジェネティック変化が明らかな遺伝子の全てがミクログリアで発現が見られることは、これを示している。
ADの網羅的研究紹介4日目はミクログリアに焦点を当てた論文で、タイトルは「Human microglial state dynamics in Alzheimer’s disease progression(アルツハイマー病の進行に伴うヒトミクログリアの動態)」だ。
研究ではまずデータベースからヒトミクログリアを12種類のポピュレーションに分類出来ること、そしてAD進行に伴い、脂肪代謝系が活性化した集団(MG4)、およびAβプラークとの相関が弱いレベルの炎症に関わる集団(MG8)が上昇することを発見する。
この研究の特徴は、こうして発見したADによると思われる遺伝子発現を、iPS由来のミクログリア刺激実験で検証し直している点で、これらを総合してADでは初期の方が炎症が強く、その後炎症が弱いMG8に置き換わるのと並行して、脂肪代謝が活性化したMG4ミクログリアへと進行することを明らかにする。
さらに、ATAC-seqを用いて、遺伝子発現の変化と、転写調節に関わるクロマチン変化を比べると、遺伝子発現では12種類に分けられる集団も、たかだか3種類にしか分けることが出来ないことを発見する。これは、ミクログリアの変化が反応性に誘導される遺伝子発現の変化によっており、エピジェネティックメモリーは大きく変化しないことを示している。実際、MG8を含む炎症に関わる3集団を比べると、このことがわかる。
様々な結果が示されているが、主な結果は以上で、ミクログリアの変化と、ADの変化の因果関係についてははっきりした結論が出ていない。この研究でもADリスク遺伝子の発現も調べ、AD特有の脂肪代謝が活性化したMG4で発現するリスク遺伝子として期待通り、APOE他2種類の分子も特定されているが、標的としての因果関係を示すまでには至っていない。
ただ、ミクログリアの状態が反応的に変化するという事実は、Aβ、Tauといった本道に加えて、ミクログリア制御による病気の抑制を期待させる。論文としては食い足りないが、膨大なデータの中にレカネマブの効果を長続きさせるヒントが眠っていると期待したい。
2023年10月6日
アルツハイマー病 (AD) は、神経細胞が失われることが症状につながるとされているが、昨日紹介した AD のエピジェネティックス研究は、細胞が失われる前から、例えばクロマチン構造が全体的にはっきりしなくなる(論文では epigenetic erosion と呼んでいた)ため、遺伝子発現に大きな変化が起こり、細胞機能に変化が見られることを示している。すなわち、細胞機能異常も AD の重要な要因であることを示している。
なぜ AD で epigenetic erosion が発生するのか明確ではないが、一つの可能性はDNAが切断され、ゲノム自体に大きな変化がエピジェネティックス異常を誘導している可能性だ。今日紹介する論文は AD というより、細胞老化と切断DNA蓄積の結果起こるクロマチン3D構造の変化をマウスとヒトで追求している。タイトルは「Neuronal DNA double-strand breaks lead to genome structural variations and 3D genome disruption in neurodegeneration(神経変性疾患では、神経細胞でのDNA二重鎖切断がゲノムの構造変化と3Dゲノム構造の破壊の原因になる)」だ。
DNA切断をヒストン染色や Repair seq と呼ばれる方法で検出することが出来るが、single cell RNA sequencing に組みあわせることは難しい。そこで、神経細胞のように静止期にある細胞で切断が起こったとき修復に用いられる non-homologous end joining の結果として発生する異なる遺伝子が融合したRNAの存在で、切断部位を定量している。
死後標本を用いた解析で、予想通りADで融合RNAの上昇が見られ、DNA切断部位が上昇していることが推察された。
ただこれ以上の解析は人間では難しいので、次にDNA切断が上昇するメカニズムをマウスで調べている。その結果、ADに限らず細胞老化が始まると、転写の活発な遺伝子や長い遺伝子でDNA切断が発生し、その結果DNAの構造的変化が誘導される。この結果、特に神経系で必要な遺伝子異常が持続する次の段階の老化細胞が発生し、最終的には細胞死による神経変性につながるが、それまでも神経機能が傷害された状態が続く。
このような異常神経細胞の持続に関わるエピジェネティックな変化が、昨日紹介した epigenetic erosion だが、この研究ではこれと平行して核内でのクロマチン3D構造を維持するコヒーシンや LaminB1 の転写異常による3D構造の崩壊も見られることを示している。
すなわち、切断部位の蓄積は、クロマチン3D構造を崩壊させ、またこれによる重要な遺伝子発現の変化は、さらにこの崩壊を加速させる。その結果、クロマチン構造の維持も困難になり、細胞機能の低下とともに、細胞老化を進行させて、細胞死を早めるというシナリオが示された。
今日紹介した研究は、DNA切断が上昇し、クロマチン3D構造が大きく変化するという現象を示したのみで、これがADと直接関わることは示せていない。しかし、ADの最大リスクが細胞老化であることを考えると、DNA二重鎖切断はADの進行過程をモニターするために必須であることがわかる。
レカネマブが利用されることで、初期ADの進行が遅らされている内に、新しい治療を併用し、進行を完全に止めることが重要になる。そのためには、様々なAD進行に関わる因子の研究が重要になるが、明日紹介するミクログリアは最も期待されている治療標的になる。
2023年10月5日
ADシリーズ論文2番目は single cellレベル のエピゲノム解析になる。実は今回紹介する4編の論文の全てはMITからの論文で著者もオーバーラップしており、ADについての一種の班研究のまとめを読む感がある。おそらく連携しながら、ADを網羅的に調べ尽くすグループ研究のように思える。今日紹介する論文のタイトルは「Epigenomic dissection of Alzheimer’s disease pinpoints causal variants and reveals epigenome erosion(アルツハイマー病のエピゲノムは病気発生に関わる多様性とエピゲノム浸食をあきらかにした)」だ。
この研究では、single cell RNA sequencingで遺伝子発現レベルを調べるとともに、single cellレベルのATAC-seqにより、転写を調節領域のクロマチン状態を調べている。これにより、遺伝子発現を転写調節領域のクロマチン状態と統合した上で、転写領域の活性を、遺伝子発現の強さとして推察することが出来る。
大変な作業だが、これが出来ると、ADリスクと相関するとしてこれまでリストされてきたゲノム領域の機能を特定できる可能性がある。ADリスク遺伝子には、蛋白質をコードしている遺伝子変異が当然存在し、AD理解に重要な役割を果たしてきた。例えばAβの蓄積と病態が一致しないというデータを聞きかじって、Aβ仮説が間違っていると唱える声をよく聞くが、アミロイド遺伝子や、それを切断する酵素の変異がアルツハイマーリスク遺伝子として特定されていることは、Aβ蓄積がAD進行に関わることを明確に示している。
ただ、このような蛋白質をコードしている領域のAD関連変異は多くなく、ADと相関が示されている多くの遺伝子のほとんどは、コーディング領域外に存在している。このようなADリスク領域の機能を調べるためには、この研究のように遺伝子調節領域と遺伝子発現が統合され、調節領域の活性を推定する方法が必須になる。
研究ではまず、これまで特定されてきたAD関連調節領域の多型を、この研究で特定した遺伝子調節領域と比べ、ADリスク多型領域の機能を探っている。こうして遺伝子発現調節と関連付けられたADリスク領域は69種類に及び、期待通り多くのADリスク領域が転写調節の増減を介してADに関わることを示している。
こうして遺伝子発現領域と関連付けられたADリスク領域の中で、最も明瞭な相関を示した領域の多くは、ミクログリアで働いていることがわかった。これら19種類のADリスクとして遺伝できる領域の半分は他の細胞でも遺伝子調節に関わっているが、残りの半分はミクログリアだけで働いており、インターフェロン刺激遺伝子のような炎症に関わる遺伝子発現に関わっていることがわかった。
最後に、ADの進行により変化が見られる遺伝子発現モジュールを探索すると、進行したADではせっかく統合したクロマチン情報と遺伝子発現情報の関係の明瞭さが失われることに気がつく、この原因を探ると、基本的にATAC-seqで得られるOpen/Closeの差が不明瞭になり、クロマチン状態の正確な維持が出来なくなっていることが明らかになった。この背景には、核内の3次元構造の崩壊が関わることもLaminB1染色を使って明らかにしている。
以上、エピジェネティックスからはあまりはっきりした結果は出ないのではと思いながら読み始めたが、最後の結果は面白い。明日はDNA損傷の論文を紹介するが、このクロマチン構造の崩壊とDNA損傷とは深く関わるのではないかと思うが、明日をお楽しみに。