2016年9月8日
妊娠中の女性が、病気の情報をネットから仕入れている最も大きな集団らしい。私自身、ネット上に残されている妊婦さんの声を集めて見るチャンスがあったが、ほとんどあらゆることが心配の種になっていることがよくわかった。
例えば「アルコールフリービールは妊娠中でも飲んで良いでしょうか」という質問を見たとき、私ならどう答えるだろうかと考えてしまった。個人的には、アルコール0なら他の食品や飲料と同じで問題はないと思う。しかし、もしノンアルコールビールとビールとの共通の製造法に何か落とし穴があったとしたらどうしよう、などと考えだすと、結局明確な答えがないことに気づく。即ち、特定の食品の一個一個の安全性が科学的に示されない以上、妊婦さんの心配を科学的に取り除くことはできない。
同じことがMRI検査にも言える。もちろん放射線を使う検査は、妊婦さんは止む得ないとき以外避けたほうが良い。しかし放射線は使わないとはいえ、強い磁場や電磁波、さらには高い騒音にさらされるMRI検査は大丈夫かどうか、はっきりと妊婦さんに答えることは難しかった。
今日紹介するカナダトロントにある聖ミカエル病院からの論文は、この問題に答えるために、妊娠初期3ヶ月にMRI検査を受けた妊婦さんから生まれた子供を出産時から4歳児まで追跡して、MRIを受けなかった妊婦さんから生まれた子供と比較した研究で、9月6日号のアメリカ医師会雑誌に掲載された。タイトルは「Association between MRI exposure during pregnancy and fetal and childhood outcomes (妊娠中のMRI検査の胎児期及び幼年期への影響)」だ。
結論は極めて明快で、妊娠3ヶ月までの胎児が、様々な外界からの刺激に対して最も過敏性の高い時期にMRIを受けた場合でも、胎児の成長、発生異常、成長異常、ガンの発生率などで、MRIを受けなかった妊婦さんの子供と特に大きな差異はないという結果だ。これで「MRIは妊婦さんにも安全ですよ」と言うことができる。
この調査で追跡したMRIを受けた妊婦さんは約1700人で、さらに大きな規模での研究が行われると、確実に妊婦さんをさらに安心させられるだろう。また、この研究では小さな変化を詳しく調べるということは行っていないので、影響が0であるとまでは言えないのが難点だ。
ただ研究対象が500人程度しかいなくとも、統計学的に優位な異常を発見することは可能だ。この研究では、単純なMRI検査だけでなく、ガドリニウムによる造営MRI検査を行った妊婦さんについても同じ調査を行っており、胎児の発生異常では受けなかった妊婦さんと変わりはないが、4歳までにリューマチや炎症性の疾患の頻度が高まることを報告している。このことから、妊婦さんはどの時期でもできるだけガドリニウム造影検査は避けたほうが良いことわかる。
妊娠すると、これまで当たり前に行ってきた様々な生活習慣に対して急に疑問が生まれてくる。こんな妊婦さんの不安を取り除くために、これからも科学的なコホート研究が行われることを期待したい。
2016年9月7日
せっかくアイスランドに行くのだから、滞在中に是非DeCode Genetics社からの論文を紹介しようと決めていた。というのも、アイスランド・レイキャビックに本社を置くDeCode社は、アイスランド議会を通してアイスランド国民全体と契約してゲノム解読を始めるという画期的なアイデアを実現させた、ゲノム研究の申し子とも言える会社だからだ。
この契約により、アイスランド国民から医学レコードや家族歴の提供を受け、その代わりにDeCode社が全ての国民のGWASを中心としたゲノムを解読し、その結果を国民にも提供するという画期的なビジネスモデルを作り上げ、ゲノム解読の個人サービスの先駆けとなった会社だ。高々30万人強の小さな国だから、このような取引が成立できたと思うが、個人ゲノム研究の伝説を作ったと言って良い。
実際、創立後現在まで、トップジャーナルに多くのゲノム解析の論文を発表しており、研究を最も重視するゲノム企業として高く評価されてきた。デコード社の論文を読むと、システムができると、病気の遺伝子リスクを叩き出すのがいかに簡単になるかがよくわかる。この点を、デコード社から発表された最新の論文を例に見てみよう。
残念ながら8月、9月にはdeCode社からの論文がなかったので、7月25日にNature CommunicationsにdeCode社から発表された論文を見ながら、deCode社のビジネスモデルについて説明してみよう。このために選んだ論文のタイトルは、「Common variants upstream of KDR encoding VEGR2 and TTC39B associated with endometriosis(VEGFR2をコードするKDR遺伝子とTTC39B 遺伝子の上流のコモンバリアントは子宮内膜症と相関している)」で、7月25日号のNature Communications に掲載された。
この研究では子宮内膜症に注目しているが、deCode社にとって患者さんのデータを集めるのは簡単だ。アイスランドの医療機関で子宮内膜症として組織学的に診断がついた1800症例の様々な検査結果を即座に集めることができる。これができると、あとはすでに解読が終わったゲノム全体にわたる多型データから子宮内膜症との相関を示すSNPを探せば良いだけだ。実際国民と契約を交わしているdeCode社にとって、組織学的に診断が確定した1840名の子宮内膜症患者さんの情報を集めることは簡単だ。おそらくサンプルを集めるという手間を全て省いて、血管内皮細胞増殖因子受容体の遺伝子上流と、TTC39B遺伝子上流に存在する種類のSNPが、比較的高いオッズ比で子宮内膜症と相関することができるのだろう。
結果はこれだけで、deCodeのことを何も知らないで読んでしまうと、なるほど血管新生に関係ある遺伝子の上流が内膜症に関わるのかと納得するだけで終わるのだが、この会社の歴史を知っていると、最初からやり直さなくても、多くの病気についてリスクの高い多型を特定するのはdeCodeにとっては朝飯前として提供ができるようになっているのがわかる。恐るべしdeCodeモデルと感嘆する。
しかし、このdeCodeは最近アメリカの製薬会社アムジェン社に4億ドルで買収され、現在はdeCode/Amgenがこの論文の著者の帰属になっている。これは、アムジェンがdeCode社のゲノムテクノロジーとデータに強い興味を示していたからだが、皮肉な見方をすると、ゲノム解析だけでは21世紀を生き残れないことをdeCodeが悟ったからではないかと思う。実際、SNPの特定ならdeCodeに取っては朝飯前でも、このSNPでとKDRの発現は相関するのか、疾患の成立メカニズムはどう考えるかなど、deCodeの論文にはバイオロジーが欠損していることがよくわかる。
今後アムジェンの血が入って、ゲノムとバイオロジーが融合した新しいdeCodeが生まれるのか、今後も楽しみに論文を読んでいきたい。
2016年9月6日
通常ガンに対する化学療法などの治療効果は。長期的な追跡調査をもとに算定され、五年生存率という言葉は一般の人にも広く知られている。しかし、例えば化学療法を勧められた知人と話すと、5年生存率として示される効果はよく理解していても、薬の副作用により命が縮まるのではないだろうかという不安を持っている。これは、治療の性質を考えると当然のことで、この不安に対する答えを医学は示す必要がある。
今日紹介するイングランド公衆衛生局からの論文は、治療開始後30日以内に亡くなるケースを分析することで、副作用の面から調べるだけではわからない化学療法の課題を明らかにしようとした研究でThe Lancetオンライン版に掲載された。タイトルは「30-day mortality after systemic anticancer treatment for breast and lung cancer in England: a population-based observation study (乳がんと肺がんに対するシステミックな抗がん治療による30日以内の死亡:集団ベースの観察研究)」だ。
この研究の基盤は2012年から始まり、2014年には英国のすべての医療システムに課せられたガンに対する化学療法や抗体治療の概要や経過についての報告義務により集まったデータベースだ。このデータベースの本来の目的は、治療の長期予後の判定だが、もちろんこの研究のように短期の様々なデータを分析することも可能だ。乳がんで約23000人、非小細胞性肺がんでほぼ1万人のデータがすでに利用できるというのは羨ましい。
結果だが、化学療法を受けた乳がん患者さんの2%、肺がん患者さんの7%が治療開始後30日以内で亡くなっており、化学療法が命を縮めるのではという患者さんの不安をある程度裏付けている。
特に根治が難しく、病状を緩和する目的で治療を受けた場合、乳がんで7%、肺がんで10%が30日以内に亡くなるという結果は、根治が難しくとも、がんを少しでも小さくしようと化学療法を使って見ることが普通に行われている現状を考えると看過できない数字だ。
研究では30日以内に死亡するリスクについて様々な分析を行っているが、主だった点だけ紹介すると、
1) 根治療法として化学療法が行われる場合年齢が高いほど30日死亡率が高いが、症状改善のために行うケースでは若年者の方が30日死亡率が高い。
2) 以前に化学療法を経験した患者さんは30日死亡率が低い。
3) 一般状態が悪いと当然ながら30日死亡率は上がる
4) 根治療法として化学療法を行う肺がん患者さんの場合、肥満気味の方が30日死亡率が低い
などだ。
それぞれの現象について説明はしているが、結果を解釈するためにはまだまだデータが少ない。今の所は現象として受け止めれば良いだろう。
もう一つ重要な発見は、30日死亡率が高い施設や団体が発見されたことで、がん登録の義務化とデータ開示の重要性を示している。
この論文を読んで、化学療法の安全性をさらに高める努力が医療に課せられた課題であることがよくわかった。我が国のがん登録データについても大至急このような調査が行われることを願っている。
2016年9月5日
実を言うと今アイスランドにいる。今日は1日ドライブと山歩きで過ごした後、夕食のワインで良い気持ちになって一寝入りしてから論文を選ぼうとしていたら、一緒に旅行しているMartinがオーロラが見えるという。そのまま表に出て、現れたり消えたり、強くなったり弱くなったりする夜のスペクタクルを眺めているうちにしっかりと記事を書く時間がなくなってしまった。そこで、9月1日号のScienceに編集者のJennifer Couzin-Frankelが書いている記事を紹介してお茶を濁すことにした。記事のタイトルは「Second chapter (第2章)」だ。
二年前の10月、この記事で扱われているCART治療、すなわちキメラ抗原受容体T細胞治療の論文を読んだ時の私の驚きについて紹介した(
http://aasj.jp/news/navigator/navi-news/2309http://aasj.jp/news/navigator/navi-news/2309)。この治療は、ガンが発現している抗原に対する抗体の遺伝子をT細胞受容体のシグナル伝達部分と結合させたキメラ抗原受容体遺伝子を合成し、この遺伝子を導入した患者さんのT細胞を調整して投与することで、抗体が認識する抗原を持つガン細胞を殺してしまおうという作戦だ。紹介した論文で普通の方法では手の施しようがなかったリンパ性白血病を、60%近くの患者さんで消失させることに成功したという画期的なものだった。原理を見ても極めて論理的で、三十年にわたるT細胞研究の成果がこの治療に凝縮しているように感じて、私も感激した。
最初の成功に力を得て、この治療法は現在固形ガンなど他の腫瘍への応用が始まっているが、残念ながらうまくいっていない。
理由として、
1) リンパ性白血病はCARTと相互作用しやすい場所に存在している、
2) CD19という抗原が全てのガン細胞に存在し、なおかつこの抗原は正常マウスのB細胞にだけ発現しているので、ガンと共にB細胞がなくなっても患者さんは生きていられる、
3) リンパ性白血病は周りの細胞に影響されることは少ないが、固形ガンは微小環境との相互作用が強く、その結果せっかく移植したCARTの活性が抑制されてしまう。
などが考えられる。
さらに、2009年には、この治療を受けていた直腸癌の患者さんが、CARTによるサイトカイン分泌亢進により肺障害で亡くなり、この治療が全身の副作用と無縁でないことも明らかになってきた。
このように最初のフィーバーは終わって、もう一度基礎的にこの方法を見直し、先に挙げた問題点おw克服することで、より特異的で効果の高い治療へ発展させる努力が続いていることを報告している。
この記事は、この治療に大きな期待を寄せていた私には少しがっかりさせる内容だった。それでも、これまでやってみないとわからないガンの免疫治療を、論理的な治療に変革し、免疫系がガンの根治をもたらせる力があることを示した点で、CART治療の貢献は大きい。確かに当初の高揚感は水を浴びせられたが、是非第2章でこの方法が改良され、固形ガンにも適用され、根治してくれることを祈っている。
2016年9月4日
人間を使わないと難しい実験は多い。例えば今日紹介するニューヨーク州立大学からの論文のように様々なエピソードを経験した時、その時間的順序をどのように記憶しているのかといった課題は、動物を使った実験を設定することは難しい。もちろん人間でもこの時間の順番をどう記憶しているのかについての仮説を証明するとなると、課題の設定、測定の仕方など難しいだろう。
この論文は、人間が一定の時間内に経験するエピソードの順序を記憶できるのは、周波数の高いγ波と極めてゆっくりとしたΘ波をカップルさせることで行っているということを証明しようとしている研究で、タイトルは「Episodic sequence memory is supported by a theta-gamma phase code (エピソードの時間的順序に関する記憶はΘ—γ位相コードにより維持される)」だ。
まず正直に明かすと、この論文の詳細について理解するのは難しかった。もともと、実験するのが難しい課題で、様々な仮定の上に論理が組み立てられる。著者の論理の展開についていくには、この領域の研究についてしっかり理解する必要があるのだが、これが欠落している私にはわからいない点が多かった。それでも紹介したいと思ったのは、経験の順序を記憶するために持っている内的な時計は何かという、私たちが当たり前のようにやっていることも、考えてみるとほとんど説明がついていないことを教えられたからだ。
ではこの研究はこの問題にどうアプローチしているのか?
エピソードの時間的順序を記憶するためには、エピソードの起こった時間を記録する必要がある。時計を使って時間を記録すれば簡単にできることだが、日常の経験では一々時計を見ることはない。それでもエピソードが起こった時間を記憶できるのは、内的な時計があって、それにエピソードを関連づけているとしか考えられない。
この内的にリズムを刻んでいる時計が脳内のどこにあるか考えると、私たちの脳波のパターンにおもい至る。この研究では、エピソードの知覚に連動したγ波が、時計の代わりをしているΘ波に連動させることで、エピソードに内的時間記録を書き込むことが可能になっているのではと仮説を立てている。言われてみれば納得の可能性で、なかなか他の可能性を思いつくのは難しいだろう。
実験では、脳波を取りながら6枚の絵を順番に示すセッションを、異なる絵のパネルを使って6回行う。最後に2枚の絵を示してどちらを先に見たか聞いて、正解した時の脳波記録と、不正解の時の脳波記録を、γ波とΘ波が結合しているかどうかの観点から調べる。脳波では、写真を見た時のエピソードによる興奮と、その時にΘ波にγ波が結合したかどうかの解析を同時に行うことができる。
もちろん答えはイエスで、Θ波の時計に絵を見た経験によるγ波を結合させていることが示されているが、先に述べたようになぜこのデータを「イエス」と解釈できるか、恥ずかしならが理解しづらかった。
とはいえ、私にとってはΘ波が時計の代わりをしてくれているという結論は、目からウロコの納得の考え方だった。理解できなくとも、楽しめる論文がある良い例だ。
2016年9月3日
タスマニアだけに生息するタスマニアデビルが、口から口へと他の個体に転移するガンによって絶滅の危機に瀕していることをこのホームページでも紹介してきた(
http://aasj.jp/news/watch/4641)。このガンは拒絶反応を起こす免疫システムに感知されないように進化しており、粘膜を通して簡単に転移する。さらに、一旦このガン細胞が侵入すると100%致死という恐ろしいガンだ。
このため1996年に最初にこのガンが記載されて以来、最も感染率が高い地域では95%以上、全タスマニアで80%の個体が20年で失われてしまっている。この結果から、ほとんどの生態学者はタスマニアデビルは間違いなく絶滅する運命にあると考えていた。
ところが今日紹介するワシントン大学を中心とする米・英・オーストラリアからの論文は、ひょっとしたらタスマニアデビルは絶滅を免れるのではないかという可能性を示唆する研究で8月30日号のNature Communicationsに掲載された。
この研究ではタスマニアデビルの個体調査を行っているわけではないが、おそらくサンプルを集める過程で、タスマニアデビルはしぶとく生き残っているという印象を持ったのではないだろうか。このしぶとく生き残るのではという期待の根拠を求めたのがこの研究で、タイトルは「Rapid evolutionary response to a transmissible cancer Tasmania devils (個体間で転移するタスマニアデビルのガンに対する反応の進化)」だ。
この研究では1999から2014年にわたって、ガンが蔓延するより前と後で約300個体からの細胞サンプルを収集、細胞から得られるDNAの多型を制限酵素切断と次世代シークエンサーによる配列決定を組み合わせた方法で解析している。著者らによると、この方法で全ゲノムの1/6の領域について多型を調べることができるようだ。
こうして得られた多型の中から、ガン蔓延前後で大きく保有率が変化し、同じ変化がタスマニアの3地域で共通して見られる多型を検索し、変化の極めて大きな2つの領域を特定している。すなわち、この領域が変化することで、ガンに対する抵抗性が進化したのではないかと提案している。
結果はこれだけで、あとはこの領域内あるいはその近くに存在する遺伝子の全てが免疫か発がんに関わる遺伝子であることを強調しているが、残念ながらどの多型がガンに対する抵抗性に関わっているかまでは特定できていない。
研究としてはかなりしり切れとんぼで、もう少し深く追求してほしいというのが本音だが、いずれにせよ20年で集団内の遺伝子多型の比率がこれほど大きく変化できるなら、おそらくタスマニアデビルも絶滅を免れるのではと期待が膨らむ論文だった。
2016年9月2日
ガンと並んでアルツハイマー病は先進国の医学が抱える最重要課題で、多くの国で優先的に研究予算が回され、研究推進が行われている。ただ、ガン研究を比べると、アルツハイマー病は病気の経過が長く、また薬剤が届きにくい脳内の病気であることから治療開発のための戦略は限られてきた。
この戦略の中で最も期待されているのが、アルツハイマー病で脳内に蓄積するβアミロイドに特異的抗体を結合させて、これをミクログリアの力を借りて除去してしまう方法だ。多くの会社が様々な抗体を開発し、治験を始めた。ところが、2014年大手製薬会社PfeizerとEli-Lillyがそれぞれ進めてきた抗体薬の第3相治験で効果が確認されず、この治療戦略に対する失望が広がっていた。
これに対し今日紹介するアメリカBiogenからの論文は、抗体を選べばこの戦略が有望であることを示した第1b相の研究で、臨床治験の論文には珍しく9月1日号のNatureに掲載された。タイトルは「The antibody aducanumab reduces Aβ plaques in Alzheimer’s disease (抗体、Aducanumabはアルツハイマー病のAβプラークを減少させる)」だ。
この研究で使われた抗Aβ抗体aducanumabは作成方法がこれまでの抗体とは異なり、アミロイドが重合してプラークを作るときに新たに生まれる抗原を標的に作成している。ただ、動物で抗体を作ってしまうと、プラークだけに反応する抗体を作るのは難しかった。代わりに、正常のアミロイドにはすでに寛容になっているヒトB細胞を直接刺激する系を用いて重合アミロイドにだけ特異的な抗体を得ることに成功している。
あとは普通の治験研究と同じだ。514人の患者さんの中から病気の状態を追跡するための条件が揃った患者さん166名を選び偽薬を含む異なる用量を投与する5群に無作為的に振り分け、54週目で脳内のAβ量を測るPETを含む臨床データを集め、効果を判定している。抗体役の投与方法だが、1ヶ月に1回、点滴で投与しており、これなら患者さんの負担もそう多くないだろう。
さて結果だが、最も効果がはっきりしていたPET画像のデータを示すところから始めている。実際に見てみると驚きの結果だ。最も多い用量を投与した患者さんではほとんど健常人の範囲に治まってきている。ただ、この検査は直接プラークだけに特異的ではないので、病気の原因が完全に取り除かれたと喜ぶわけにはいかない。
実際にプラークが減少していることはどうしても動物実験を行うか、あるいは治療中の患者さんが亡くなった時に解剖して確かめるほかない。この研究では、動物モデルに同じ抗体を投与し、組織学的及び生化学的にプラークが減少することを確認している。このデータを足したことが、Natureを発表に選んだ理由かもしれない。いずれにせよ、説得力がある。
さて症状だが、PET画像の改善と比べると効果は遅く現れてくる。2種類の評価法で調べているが、半年目には全ての用量でほとんど効果が見られない。おそらく研究者はがっかりしたことだろう。しかし1年経ってみると、用量に比例して効果が現れ、アルツハイマー病の進行を止めることができている。
抗体療法のもう一つの問題は、抗体が脳内に到達するかどうかだ。今回これを確かめることはしていないが、この抗体が脳に到達し、しかも繊維状のAβからできたプラークだけに結合することを示している。効果から見ても、抗体は脳内にわざわざ投与しなくとも、一定量脳内に到達することを示している。
最後に副作用だが、20例が副作用のために治療を中断しており、用量が多いほど副作用も多い。副作用のうち最も多いのが、ARIA(アミロイド関連画像異常)と呼ばれる、血管浮腫に相当すると思われるMRI画像上の異常だ。これと並行して頭痛が起こっている。ほかに用量依存的副作用として尿路感染も記載されているが、私にはこの原因は理解しにくい。
以上まとめると、これまでの抗体治療と異なり、かなり有望な抗体薬が開発されたと言っていいのではないだろうか。投与方法にしても、アルツハイマーの患者さんにも許容できる範囲だ。しかし、まだ1年経過を見ただけの第1b相治験だ。副作用から考えて、もっと長期に投与した場合はどうかなど、最終的に臨床に利用可能かどうかの結論が出るにはまだ時間がかかるだろう。とはいえ、私がこれまで読んだ中では、すでに確立したアルツハイマー病に対する抗体治療の可能性について最も説得力のある論文だった。
最後に一つ気がかりなのは値段だ。もし効果が明らかになれば、多くの人が使える値段にして欲しいと思う。
2016年9月1日
子供の頃くさむらを歩いたり走ったりしている時、確かに毛虫に刺されて痛い思いをするのではという恐怖感はあったが、どんな虫でも見たぐらいで恐怖を覚えることはなかった。ただ、何がきっかけかはわからないが、大人になってもクモや虫を写真で見るだけでもいやという人はいる。
そんな人のために是非紹介したいと今日取り上げるスウェーデン・ウプサラ大学からの論文は、大人になっても続くクモ嫌いは治るかを科学的に調べた研究で10月10日号のCurrent Biologyに掲載予定だ。タイトルは「Disrupting reconsolidation attenuates long-term fear memory in the human amygdala and facilitates approach behaviour (記憶の再構成過程を遮断することで扁桃体に由来する長期間続く恐怖の記憶を弱め接近行動を促進する)」だ。
心的外傷後ストレスをはじめ、私たちがトラウマと呼んでいる多くの恐怖経験に基づく心的障害の治療法開発を目指して、様々な実験や、試行錯誤が続いている。これらの研究から、恐怖記憶は扁桃体の興奮と連合していること、また記憶から恐怖への回路は新たな経験に出会って想起されるたびに不安定になり、構成し直す必要があるという弱点を持っていることがわかっていた。
そこでこの恐怖記憶が不安定になる時を狙って治療する方法が開発されている。この方法では、恐怖記憶をまず誘発して記憶を不安定にして、時間をおかず同じ体験を繰り返させることで、恐怖心を取り除く治療だ。
この研究では、写真でクモを見せられるだけで恐怖心を感じるという、生粋のクモ嫌いを慎重に選び、このクモ嫌いを上記の戦略で治療した時、扁桃体の興奮の低下という客観的改善につながるかMRIを用いて調べている。
研究ではまず2種類のクモが映った写真をランダムに見せて恐怖反応を誘導する。その後被験者を2グループに分け、1グループは10分後から、他のグループは6時間後から、最初見せたうちの1つのクモの写真を連続して見せる治療セッションを行って、恐怖記憶が再構成されるのを阻害している。この記憶の誘発から治療セッションまでの10分と6時間の違いは、恐怖記憶が再構成されたかどうかの違いで、10分では記憶と恐怖の回路が完全に固まりきっていないが、6時間あれば十分再構成されていると考えている。
さて、治療セッションの次の日、4種類のクモの写真を様々な組み合わせで被験者に見せて恐怖記憶を呼び起こし、治療効果を扁桃体が興奮するかどうかMRIで調べて確かめている。結果は明白で、6時間経ってから治療セッションを受けたグループは、10分後に同じ治療セッションを受けたグループと比べ、扁桃体の興奮が高い。すなわち、恐怖記憶を呼び起こしてすぐ治療セッションを受けたグループは確かに恐怖反応が軽減している。
ここまでならなるほどと納得するだけだが、この結果をさらに確認するため最後に行っている「接近・回避心理試験」は圧巻だ。
このテストでは被験者に写真を見ませんかと尋ねる。恐怖記憶が除かれたとしても、わざわざクモの写真を見る物好きは多くない。しかし、3クローネ、5クローネと、写真を見るとお金がもらえるとなると話は別だ。それでも、恐怖記憶が残っていると、5クローネぐらいでわざわざ見る気にならない人も多い。
このテストで調べると、恐怖心が除かれたと考えられる10分後に治療セッションを受けた人たちは、もらえるお金が多いとほとんど写真を見るという選択を行う。6時間後に治療セッションを受けたグループは本当は見たくないはずだが、お金の額が上がると、お金に惹かれて見る人が出てくる。私だって、害がないと思えばお金を選ぶだろう。
面白いのはこの時の脳の反応だ。このお金のために写真を見ようと決意したタイミングで扁桃体の興奮を調べると、10分後に治療セッションを受けたグループは、お金につられてクモの写真を見ている時も扁桃体の興奮は低い。一方、6時間後に治療セッションを受け、恐怖記憶が除かれていないグループでは、お金につられて写真を見ると扁桃体が興奮する。すなわち、恐怖心を持ったまま、葛藤の末お金を選んでいることがわかる。
心理学と脳のイメージングを組み合わせた面白い実験で、このような研究はいつ読んでも楽しい。しかし、クモの実物を見た時でも同じ結果が得られるのか、あるいは他のトラウマでも同じ方法が利用できるのか、結果に完全に納得したわけではない。
2016年8月31日
ガンで最も恐ろしい転移は原則としてどの臓器にでも起こるし、またどの臓器に転移しやすいかは原発のガンの性質に大きく影響される。しかし、肝臓や肺はたしかに転移が起こりやすい臓器と言えるのではないだろうか。この理由は、臓器が大きく血管に富んでいるからだと単純に考えていた。
今日紹介するアメリカ国立衛生研究所からの論文は肺転移が起こりやすいのは肺の高い酸素濃度により免疫反応が抑えられるのも一つの要因であることを示す論文で8月25日号のCellに掲載された。タイトルは「Oxygen sensing by T cells establishes an immunologically tolerant metastatic niche (酸素を感知するT細胞によって免疫的に転移に対して寛容なニッチが形成される)」だ。
この研究は最も高い酸素濃度に晒される肺で免疫反応はどうなっているのか調べるところからスタートしている。これまでの研究でプロリル・ハイドロオキシダーゼ(PHD)がT細胞の酸素センサーになっていると考えられていたが、3種類もの分子が存在し、互いに補い合うので研究が難しかった。この研究では3種類の分子が全て欠損するマウスを作成して酸素センサーの機能を調べ、炎症や細胞障害に関わるエフェクター機能が高まる一方、それを抑制する制御T細胞が低下することを見出す。すなわち、酸素を感知するPHDシステムは炎症を抑え、免疫反応を抑える方向にT細胞を分化させることがわかった。
次になぜこのような肺特異的な反応の仕方があるのか探るために、抗原刺激実験を行い、もともと様々な外来抗原に晒される肺で免疫のバランスを整えることで、炎症を抑える役割があることを示している。
また、この抑制優位の分化を誘導するメカニズムを探り、PDHがFoxp3やTbetなどのT細胞分化プログラムを直接変化させることで抑制優位の反応を実現していること、そしてこのプログラムの変化は酸素センサーとしてのHIF1αだけでなく、PHDが関わる糖代謝を介して起こることを明らかにしている。
以上の結果は、このPHDによる抑制を外せば肺への転移を抑えることができる可能性を示唆している。これを確かめるために、メラノーマの肺転移実験系を使ってPHDの影響を調べると、PHD欠損により元のガンの大きさは影響されない一方肺転移が強く抑制できることを示している。タイトルにあるように、もともとは抗炎症システムとして出来上がった肺の酸素感知システムが、ガンの転移がしやすい環境を作っていることになる。
この結果は、PHD抑制により肺転移が抑制できる可能性を示すが、問題は他の原因の炎症も高まることだ。
この問題への一つの回答として、ガンに特異的な抗原受容体を持ったT細胞を試験管内でHIF分解阻害剤のDMOGと培養してから移植することで転移を抑制し生存期間を伸ばせることを示している。
免疫には数多くのチェックポイントがあり、2重3重に免疫の暴走を止める仕組みがあることがわかる。したがって、免疫全体でこのメカニズムを外すと取り返しがつかないことになる心配があるが、利用が進み始めているガン抗原に対するキメラT細胞受容体を持った細胞療法(CART)での治療には重要なヒントとなる気がする。期待したい。
2016年8月30日
このホームページで何度も強調してきたが、RAS突然変異を阻害できると30%近くのガンの進行を一時的にでも止めることができる。ただ、RASは直接的阻害剤を設計しにくい構造になっていて、利用できる阻害剤は現在もできていない。代わりに、RASの下流で活性化する分子を標的にした阻害剤が開発されてきた。この中で最も成功したのが京都府立医大の酒井さんとJT医薬総合研究所が開発し、GSKに導出したトラメチニブだろう。しかし、トラメチニブ阻害はフィードバックを介して上流でのRAS-RAFの活性を高め、さらにKSRと呼ばれる分子を介するバイパスを活性化してシグナルを伝えるため、RAFの突然変異を持つメラノーマには効いても、RASの突然変異を持つガンには効果がなかった。
今日紹介するマウントサイナイ医科大学からの論文は、このバイパスでRAFとMEKの活性を制御するKSRを標的とした科学化合物の開発についての話で8月24日号のNatureに掲載された。タイトルは「Small molecule stabilization of the KSR inactive state antagonizes oncogenic Ras signaling(KSRの不活性状態を維持する化合物はRASの発がん性を抑制する)」だ。
この研究ではまずRAS活性を抑制する分子を探索したショウジョウバエと線虫の遺伝子探索の結果を再検討し、KSR分子のATP結合部分の突然変異がRAS変異を抑制できることを見出し、この部位を阻害する化合物を176種類のキナーゼ阻害剤の中から選び出し、分子の構造解析をもとにより特異的な阻害剤APS-2-79を開発している。
後は、KSRと RAF,MEK分子の構造解析と阻害実験を繰り返し、RASからMEKを介するシグナルを阻害することを確認している。
もちろんKSRを介さないRASシグナル経路が存在するため、この薬剤単独でのRAS阻害活性は低く、細胞増殖抑制効果はないが、RAFに変異がない系でトラメチニブなどのMEK阻害剤と共同すると強い細胞抑制効果を示すことがわかった。
以前紹介したように(http://aasj.jp/news/watch/5606)私が最近目にしただけでもRigosetibやPonatinibのようにトラメチニブと協調する薬剤が明らかになってきており、この論文でまた一つ新しい化合物の可能性が見えてきた。我が国発の薬剤が早くRAS変異制御に使われることを本当に期待している。