人間とチンパンジーは進化上で最も近い動物同士で、ゲノム解読が終わったとき、その相同性が98%以上という点、すなわち人間とチンパンジーに差がないことが強調された。これは私が「猿の惑星型思想」と名付ける傾向で、類人猿もいつかは人間のようになれると考え、両方の共通性に着目して研究を行う。一方、ヒトとの差を徹底的に見つけてやろうとする方向の研究もあり、これはダーウィンの「The Decent of Man型思想」と名付けている。
私の印象でしかないが、サル学を中心に「猿の惑星型思想」は我が国の研究者に多く、「The Decent of Man型思想」は欧米に多い気がする。
今日紹介するカリフォルニア大学サンフランシスコ校とMITの共同論文は、これまでほとんどの人が「ほとんど同一」として使ってきたヒトとチンパンジーの多能性幹細胞の増殖メカニズムの違いを徹底的に調べた研究で、「The Decent of Man型」の典型とも言える研究だ。タイトルは「Comparative landscape of genetic dependencies in human and chimpanzee stem cells(ヒトとチンパンジー幹細胞の遺伝的依存性の違いを網羅的に調べる)」だ。
研究では2種類づつのヒトiPS, チンパンジーiPS及びES細胞株を用い、これら多能性幹細胞(PSC)の試験管内増殖に必要な遺伝子を、クリスパーを用いた網羅的ノックアウト法でスクリーニングし、人間とチンパンジーの差とはっきり言える遺伝子配列や遺伝子発現の違いがあるかを調べている。
驚くなかれ、サルとチンパンジーPSCの増殖で依存性の違う遺伝子が700種類以上存在していることがわかった。この中から、様々なPSCで比較し確実にヒトとチンパンジーの違いといえる遺伝子75種類を最終的にリストした。
PSCの増殖という観点で見ると、これら遺伝子はヒト特異的、あるいはチンパンジー特異的遺伝子に分かれ、さらに増殖促進的、増殖抑制的遺伝子に分けることが出来る。そして、増殖に関わるいくつかの遺伝子ネットワークに分類できる。
この研究ではこのネットワークの中から、V-ATPaseの関わるリソゾーム過程、そしてCDK2の関わる細胞周期過程に焦点を当てて詳しく調べている。
V-ATPaseはリソゾーム膜上に存在する分子で、V-ATPzaseとそれと複合体を形成する分子の多くは、ノックアウトによりヒトPSCのみで増殖阻害が起こる。これら分子複合体はリソゾームのpHを調節してmTOR活性を調節する重要なシグナル系で、ヒトへの進化の過程で、このシグナル系への依存性が高まったと考えられる。
中でも圧巻は増殖調節の核となる細胞周期に関わる分子群の関与の違いで、CDK2やサイクリンEがノックアウトされても、ヒトではほとんど影響ないのに、チンパンジーではPSCの増殖が強く抑制される。これは、ヒトでCDK1の発現が高いなど、CDK2の変異を保証する仕組みが整っているためであると考えられるが、この結果ヒトでは増殖の可塑性が生まれ、条件が変化しても増殖を維持できる仕組みがあることになる。
つぎに、同じCDK2/cyclinEへの依存性からの脱却性質が、他の幹細胞でも見られるか、PSCから神経幹細胞を誘導して調べると、PSCとほぼ同じCDK2/cyclonE非依存性を獲得している。また、これに関わる分子の進化過程を見ると、人間とチンパンジーが別れたときに分岐しているので、ヒトの脳細胞の増殖、すなわち大きな脳の発達に関わったことが推察される。
以上が結果で、チンパンジーと人間の違いを、遺伝子発現という通常の方法ではなく、クリスパーノックアウトという、機能的スクリーンからまず始めたことがこの研究のハイライトと言える。その結果、形質の違いとして遺伝子の変化を調べることが出来、今後なぜヒトの脳細胞は数が多いのかも含めて新たな視点が開ける気がする。
個人的にはThe Decent of Man型研究の方が面白い。