これまで何回もこのホームページで紹介して来たように、ガンゲノム研究が大きく進展し、またエクソーム解析などが安価に提供される日がすぐそこまで来ている。また慢性骨髄性白血病、GIST、非小細胞性肺ガンなどの例で示されたように、治療可能な標的分子が見つかるガンでは低い副作用で高い効果が期待できる。他にも乳がんでは、3種類の分子の発現を調べて治療計画を立てるのが普通になっている。しかし標的分子に対する薬剤と言っても必ず高い効果があるわけではなく、効果を統計的に確かめる必要がある。これまでの治験では、例えば扁平上皮肺癌なら全ての患者さんを同じ病気とみなし、一定数の患者さんを対象に統計学的に確立した方法で治験を行なえば良かった。しかし、ガンゲノム解析など、ガンが発現しているバイオマーカーに基づく標的薬治療になると、個々の患者さんを対象とする個別医療と、人間を集団として扱う統計学を統合した複雑なプロトコルが必要になる。これが実現すればこれまでより多くの患者さんが救われる事は間違いないが、個別の創薬企業や医療施設だけで取り組める事ではない。近い将来ガン治療が大きく変わる事を確信して、政府、医学研究者、製薬、そして患者さんが一体となって治験に取り組まなければならない。このための会議が2012年にアメリカ国立がん研究所の主催で持たれた。この会議をきっかけに続けられた様々な議論についてまとめ、新しい治験プロトコルのアウトラインを紹介したのが今日紹介する論文で、10月号のJournal of Thoracic Oncologyに発表された。創薬促進には新しい方法を積極的に取り入れるのが当たり前とは言え、この様な会議を組織したアメリカの規制当局の構想力に感心した。論文のタイトルは「Consensus report of a joint NCI thoracic malignancies steering committee: FDA workshop on strategies for integrating biomarkers into clinical development of new therapies for lung cancer leading to the inception of “Master Protocols” in lung cancer」と長いので、短く「将来の肺がん治療のマスタープロトコルを確立するためにバイオマーカーをどう治験に統合するか考えるFDAワークショップのレポート」とでも紹介しておこう。これまで私はガンを知って戦うという一面だけを強調して来たが、実際に治験を行なうとなるとそう簡単ではない。腫瘍の生物学的性質を治験に取り入れるほどプロトコルは複雑化する。また、がん組織をどう採取するのか、どう保存しどう調べるのか、薬剤効果の判定基準にバイオマーカーは使えるかなど議論する点は多い。またゲノムを調べても適切な標的が見つからなかった患者さんたちを排除する事になってはならない。乳がんで行なわれている様な限られた遺伝子だけを調べるのではなく、全エクソーム解析を普及させ、他の可能性が見つかる検査が必要かもしれない。おそらく会議でも大変な議論が行なわれたのだろう。こんな会議があれば是非傍聴してみたい。何が問題かを認識した上で、会議参加者全員がガン治療が大きく変わる事を確認し、それに合わせた治験法の開発の必要性について合意した。最初からゲノムなどバイオマーカー検査で選んだ患者さんを対象にした、この議論の結果を反映した治験プロトコルも既に実施段階にあるようだ。最後にこの会議の集大成とも言うべき国立ガン研究所が提案しているLung-Map trialと名付けられたプロトコルが紹介されていた。先ず患者さんのゲノムや遺伝子発現を次世代シークエンサーや免疫抗体法で調べ、結果に応じて4種類の異なる標的分子に対する薬剤に振り分け、ガンの進行が止まるかどうかを判定基準として治験を行なう。この方法だと、標的分子が新たに見つかっても同じ枠組みで治験を進められる。また、同じ分子に対する異なる会社の薬剤も治験が可能だ。是非計画が速やかに実施される事を期待する。しかしよく考えるとこの大きな変革により、治験は創薬会社が独自で行なう研究と言う考えは変える必要がある。この様な治験の枠組みが可能になるには、行政、創薬企業、医師、研究者、そして患者さんが、ガンを治療すると言う一点に向けて密接に協力する必要がある。また、費用も創薬企業が全て負うと言うのもおかしくなる。即ち、創薬の最終段階である臨床治験が従来とは大きく変わる事を意味している。しかしこの大きな変革を我が国の行政、製薬、医師達が主導できるのか心配だ。例えば日本版NIHがこの新しい時代を主導できないなら存在価値はない。助成金を配るだけの行政から、新しい時代を組織化する行政に変革できるか、先見性と企画力が求められている。
9月29日:ガン治療薬の治験のあり方を根本的に見直す(10月号Journal of Thoracic Oncology掲載意見)
9月28日実験膵ガン II(9月25日号Cell Reports掲載論文)
昨日、今日と膵ガンの実験モデルについて紹介している。普通実験研究の方が臨床研究より容易だと思えるが、動物モデルの方がずっと難しい場合も多くある。中でも、マウスの抹消血中の細胞を利用する研究は大変だ。どんな熟練した研究者でも一匹のマウスからとれる血液量は0.5−1mlにすぎない。 今日紹介するハーバード大学からの研究は抹消血中に流れているガン細胞をマウス膵がんモデルで調べた研究で、おそらく血液を採取するのに苦労したと思う。ただ、今最も注目を集めている血中のガン細胞(CTC)を動物実験モデルと対比させる意味では重要な研究だ。論文のタイトルは「Matrix gene expression by pancreatic circulating tumor cells(血中の膵がん細胞は細胞外マトリックス遺伝子を発現している)」で、9月25日号のCell Reportsに掲載されている。
この研究では昨日紹介したのと同じマウス膵がんモデルを使っている。また抹消血からのガン細胞の分離にはマサチューセッツ総合病院が開発したCTC-iChipと言う機器を用いている。これを使うと、赤血球、白血球、ガン細胞を別々に調整する事が出来る。マウスに発生した膵臓がん細胞が抹消血で検出できる事を確かめてから、細胞を集めている。抹消血を流れている細胞は勿論多いはずはない。この研究では168個のガン細胞をようやく集め、それぞれの単一ガン細胞の遺伝子発現を別々に次世代シークエンサーを用いて調べ分類している。この結果導入された同じ遺伝子異常で誘導されるガン由来のCTCも幾つかのタイプがありそうだが、この研究では最も多いタイプに焦点を当てて調べ次の事を明らかにした。1)先ずCTCには分裂中の細胞は少ないが、元のガン細胞と遺伝子発現が大きく変化し、上皮の最も重要なマーカーEカドヘリンの発現は消失している、2)幹細胞に共通に発現する遺伝子が強く発現している、3)上皮細胞に発現する遺伝子と間質細胞に発現する遺伝子の両方がともに発現する中間的な細胞に変わっている、4)上皮と間質が相互作用する時に必要な遺伝子を強く発現している(これは転移する時に重要)、5)そして何よりも多くの細胞外マトリックス分子が発現している。マウスで明らかになったこれらの特徴はヒト膵ガン由来CTCでも同様に見られる。この結果を受けて、細胞外マトリックスを調達する能力がガンが血中に流れ転移するCTCの性質に関わるかを実験的に調べ、マトリックス遺伝子のうちSPARC遺伝子を抑制したガンを注射すると転移が押さえられる事を示している。勿論効果は完全ではないし、この研究だけで新しい創薬標的が明らかになったわけではない。しかし、しっかりした動物実験モデルと、ヒトのガンが対応できるようになると、創薬可能性が促進される事は間違いない。結局この対応はガンゲノムが明らかになったおかげで可能になっている事も強調したい。膵ガンは最も厄介なガンで、私も多くの友人や、同僚を失った。失った友人達はゲノムやCTCといった新しい方法の恩恵を受ける事はなかったと思う。これからの患者さんたちにこの様な技術が一刻も早く利用できるようになり、自分のガンを知って戦える日が来るのを望んでいる。
9月27日:実験膵ガンI (9月25日発行Cell誌掲載論文)
ガンの研究には優れた動物実験モデルが必要だ。特に膵臓ガンのように、進行、転移が早いガンは初期段階についての研究が遅れる。このギャップを埋めるために動物モデルを使う。今週膵ガンの動物モデルを使った面白い論文が2報発表されたので、今日、明日と紹介する。ともに膵ガンの特徴とも言える強い間質の反応を扱っている。今日紹介するソーク研究所からの論文は、この間質反応にビタミンD受容体が関わる可能性を示す研究で、9月25日号のCell誌に掲載された。タイトルは「Vitamin D receptor-mediated stromal reprogramming suppress pancreatitis and enhances pancreatic cancer therapy(ビタミンD受容体により膵臓の間質細胞がリプログラムされると膵臓炎を押さえ、ガン治療を増強する)」だ。この研究も、明日紹介する研究もともにras遺伝子の活性型突然変異とp53癌抑制遺伝子欠損を膵管細胞で誘導して、人間の膵臓ガンに近いガンを発生させるモデルを使っている。この研究では先ずがん組織から膵臓の間質反応に重要な細胞として知られている膵臓星状細胞を分離し遺伝子発現を比べ、ビタミンD受容体が、マウスでもヒトでも星状細胞に強く発現している事を発見する。この研究を行ったロン・エバンスさんはホルモン受容体では世界の第一人者で、当然研究はこの分子のガンや炎症での機能へと進む。元々この受容体は間質細胞で発現しており、炎症を組織化していると考えられている。従って星状細胞での発現の意味を調べるべく、ビタミンD受容体をcalcipotriolという薬剤で刺激すると、細胞の活性化状態が収まり、元々の脂肪を貯めた細胞の形に戻る。さらに、マウスの膵臓炎症も同じ薬剤で押さえられる事がわかった。即ち、ビタミンD受容体は膵臓星状細胞の活性化を押さえ、炎症を抑える働きがある。同じようにガンで起こってくる膵臓の炎症性変化に対するビタミンD受容体刺激の効果を調べると、炎症や線維化が強く押さえられる事がわかった。最後に、膵臓ガンをジェムシタビンで治療するモデル実験系でビタミンD受容体刺激を行なうと生存期間が約50%伸びたと言う結果だ。まとめると、膵臓の星状細胞が活性化されると、様々な炎症性の因子を分泌し周りの間質を刺激する。これにより炎症が起こり、ガンが進行するが、これをビタミンD受容体刺激で押さえる事が出来るといううれしい結果だ。この研究でビタミンD受容体刺激に利用されたcalcipotriolは80もの治験がこれまで行なわれている。まだ膵臓がんや膵臓の炎症に対して治験は行なわれていないようだが、おそらく治験の行ない易い薬剤だと思う。研究自体の質としては普通の論文だが、膵臓ガンの緊急性から考えると重要な仕事であり、是非早期に臨床で効果が確かめられる事を期待する。
9月26日:RB1、最初に発見された癌抑制遺伝子(Nature オンライン版掲載論文)
私たちの細胞は強い増殖シグナルが入っても自動的に増殖を止めるメカニズムを何重にも備えている。このおかげで、ガン遺伝子が活性化しても細胞は増殖を維持できず死んでしまう。逆にガンが発生するためにはこのメカニズムが壊れる事が必須で、事実ほぼ全てのガンでこの様なメカニズムが破壊されている。このメカニズムに関わる遺伝子は癌抑制遺伝子と呼ばれ、ガンゲノムの解析の結果、様々な癌抑制遺伝子の機能がほぼ全てのガンで破壊されている事が確認されている。中でもRB1は代表的癌抑制遺伝子の一つで、おそらく最初に発見された癌抑制遺伝子だ。これを発見したKnudsonさんは2004年第20回京都賞を受賞した。私は選考の際、専門委員会の委員長を務めたが、家族性の網膜芽細胞腫についての臨床データを元に論理を積み重ね、癌抑制遺伝子の概念へ至る創意に満ちた論文に感銘を受けた。今日紹介するスローンケッタリングガン研究所からの論文は、なんとこのKnudsonさんの結果を実験的に確かめた研究で、Natureオンライン版に紹介されている。タイトルは「RB suppresses human cone-precursor-derived retinoblastoma tumors(Rbはヒトの錐体細胞由来網膜芽細胞腫の発生を抑える)」だ。Knudsonさんの選考に関わったと言っても元々専門外で、網膜芽細胞腫研究についてはほとんどフォローしていなかった。あれから10年経って今この論文を読んでみると、Rb遺伝子の欠損が網膜芽細胞腫発生につながるのかと言うKnudson予測は実験的には証明されていなかったようだ。その理由の一つは、遺伝子改変が簡単な動物モデルでRb遺伝子を欠損させても網膜芽細胞腫は発生しないらしく、研究はそこで途絶えていたようだ。勿論Rb分子が様々なガンに関わっている事は多くの実験事実から皆が認める所だ。しかし1973年の最初の論文の予測が実際には確かめられていなかったことを知って驚愕した。このエピソードは、ヒトの組織でしか行なえない研究になると急に研究の進展が遅れる事を語っている。この様な逆境にも関わらず、おそらくこのグループはKnudosonさんの予測を実験的に検証する事に執念を燃やして来たのだろう。この研究ではヒト胎児の網膜組織を手に入れ、遺伝子変異の代わりにRbを抑制するshRNAをレトロビールスで導入する手法を用いて、Rb機能が抑制される事で本当に細胞増殖が上昇するか確かめている。幸い結果はKnudson予測を裏付けており、抑制した場合だけ、しかも未熟錐体細胞(色を感じる視細胞)だけで増殖上昇が見られることを突き止めた。この系を利用して、なぜ動物モデルでRbのガン抑制作用がはっきりしなかったのか、作用メカニズムはどうかについて明らかにしているが、詳細は割愛する。最後に、こうして得られるRb機能が欠損した細胞を数ヶ月観察し続け、ついに異常増殖がはじまり、網膜芽細胞腫に極めて類似した腫瘍が発生する事を示している。ついに執念が実り、40年を経てKnudsonさん達の予測が確認された。更に、Rb遺伝子抑制が効果があるのが錐体細胞発生時だけである事も新たに突き止められた。今後はiPSなども利用した発ガンのメカニズム解析が加速するはずだ。しかし当時Knudsonさんを選んだ専門委員会委員長としてはとてもうれしい論文だった。
9月25日:眠りを誘導するサーキット(Nature Neuroscience9月号掲載論文)
私たちは普通、起きているか、寝ている。また寝ているときも、脳の活動状態がずいぶん違うノンレム睡眠とレム睡眠を繰り返す。レムとは、rapid eye movementの頭文字をとったもので、文字通り寝ているのに目がキョロキョロ動いている。もう一つの眠りは、脳波で見た時脳全体がゆっくりした活動の波に同期している様に見える状態で、slow wave sleep(SWS)と呼ばれている。ただ、このSWSは覚醒時に得た記憶を新たに整理し直すのに重要とされている。各状態は共存するわけではなく、それぞれ排他的だ。従って、各状態を決めるための異なる中枢領域があり、相互に抑制しあう構造になっていると考えられていた。今日紹介するハーバード大学からの論文はSWS状態が脳幹のparafacial zone(PZ)と呼ばれている場所に支配されている事を機能的に確かめた仕事で、9月号のNature Neuroscienceに掲載された。タイトルは「The GABAergic parafacial zone is a medullary slow wave sleep-promoting center(PZにあるGABA性神経は延髄のSWSを促進するセンター)」だ。論文を読むと以前からPZにSWSを誘導する眠り中枢が存在し、覚醒を維持する中枢と結合している事が知られていたようだ。この研究では、PZがSWSを誘導する中枢かどうかを機能的に確かめるために、GABA性ニューロンでだけ発現できる様に細工した興奮性のムスカリン受容体をウィルスベクターに入れて、PZに注入している。この方法を用いると、CNOと呼ばれる薬物を腹腔内に投与する事でPZのGABA性ニューロンを特異的に興奮させる事が出来る。結果は期待通りで、昼夜を問わず、いつCNOを注射しても、すぐにSWSに入る。脳波でみると、完全に覚醒状態が抑制されるだけでなく、REM睡眠も抑制する。即ち、PZが興奮すると覚醒やREMに関わる中枢を抑制して、SWSが誘導される。まさに、SWS睡眠センターとしてPZにあるGABAニューロンが機能している事が明らかになった。ではPZが興奮するとどうして他の状態を押さえる事が出来るのか?この研究では、PZのGABA性ニューロンが、覚醒に関わるとされている傍小脳核(PB)にあるグルタミン酸性ニューロンを直接抑制しているかどうかを次ぎに調べている。ここで登場するのはこれまでも紹介した光遺伝学で、光を当てると興奮する遺伝子を同じようにPZのGABA性ニューロンに発現させ、今度は光刺激により覚醒神経が抑制されるか調べている。結果、PZ神経はPB神経と直接シナプス結合しており、光を当て興奮させるとPZのGABA性ニューロンがGABAを分泌、これがPBニューロンに抑制性電流を誘導する事が明らかになった。さらに今度はPBニューロンを光刺激で興奮するよう操作し、光刺激によりこのニューロンからグルタミン酸が分泌され、それにより大脳の前の方にあるpre-frontal 皮質にある神経を興奮させる事も明らかにしている。説明がややこしくなったが、要するにPZのGABA性ニューロンは直接PBニューロンとシナプス結合し、抑制することで覚醒シグナルを押さえる。この覚醒PBニューロンは皮質全体の覚醒状態を調節しているpre-frontal皮質と直接結合して、これを興奮させている。このサーキットにより、PZからのシグナルが大脳皮質全般にリレーされ、脳活動全体がSWS状態に入ると言うシナリオだ。私自身、睡眠を大分理解できたような気がする。しかしよく考えるとこれはほんの入り口にすぎない。REM睡眠状態も含め、3状態の周期全体を調節しているメカニズム解明にはまだまだ研究が必要だ。とは言え、遺伝子操作なしでなんとかPZニューロンを好きな時に興奮させられれば、ぐっすり眠れる事間違いない。眠りの浅い私としては大いに期待したい分野だ。
9月24日:マイクロRNAを肺線維症治療に使う(EMBO Molecular Medicineオンライン版掲載論文)
8月20日にRNA干渉を用いたエボラ感染治療の論文を取り上げ、歩みは遅くてもRNAを用いる疾患治療が進みつつある事を紹介した。この時紹介したsiRNAの他に、臨床への応用が期待されているのがマイクロRNA(miRNA)だ。siRNAと比べた時、miRNAは一つの遺伝子が標的になるのではなく、特定の生物学的プロセスに関わる一つのセットのmRNAが標的になっており、そのプロセスに関わる分子全体の発現レベルを押さえるラフな調節を担っていると考えられる。従って、ガンの場合でも特定のガン遺伝子を抑制するのではなく、ガン細胞の全体的活性を抑制するために利用できないか研究が行われている。今日紹介するアメリカベンチャー企業miRagen Therapeuticsからの論文は、なるほどmiRNAに最適の疾患モデルを選んだと拍手したくなる研究で、EMBO Molecular Medicineオンライン版に掲載されている。タイトルは「MicroRNA mimicry blocks pulmonary fibrosis(マイクロRNA疑似分子は肺線維症を抑制できる)」だ。元々miRNAは私たちのゲノムの中にコードされているが、これが転写された後機能的miRNAになるための生化学プロセスはかなり明らかになっている。この会社は、細胞に取り込まれ易く分解されにくいmiRNAの開発を行なっているようで、今回の研究でも彼らが開発した修飾法で改変したmiRNA-mimicryと彼らが呼ぶ人口疑似miRNAの有効性を確かめることが目的だ。標的に選んだのは肺線維症だ。線維症では線維芽細胞が活性化され、細胞外マトリックスが分泌されるとともに、同様に分泌されるサイトカインにより、慢性炎症が起こり更に症状が悪化するというサイクルが回りだす。この線維芽細胞の活性化が起こる時miR29bと呼ばれる細胞外マトリックス分子やサイトカインのRNAレベルを調節するmiRNAの発現が低下し、これを細胞内に戻してやると正常化する事が知られていた。幸いこのグループが開発して来たmiRNAは肺の細胞に最も取り込まれ易い。この特徴を生かして、マウスにブレオマイシンと言う薬剤を注射した時起こってくる肺線維症をモデルに選び、miR29b人工疑似分子を投与する事で改善できるか調べている。結果は予想通りで、血中にmiR29bを投与すると、投与量に応じて肺の線維化が抑制され、また局所のサイトカインが押さえられる結果、局所の炎症を抑える事が出来る。残念ながら、生存率等の長期効果については全く触れられていないためこの論文だけで最終的判断をする事は難しい。またまだまだ動物モデルの研究にとどまっている。しかし、8月22日に紹介した様なエマルジョンを用いなくとも、miRNAに必要な化学的修飾を加えるだけでこれだけの効果が得られるならかなり期待が持てる。現在の所肺線維症には特効薬がなく、また急性で劇症の線維症の場合予後は極めて悪い。それを考えると自然と期待も大きくなる。これまで難しいとされて来たRNA創薬をベンチャー企業と大学(今回はエール大学)が協力して、確かな歩みを進めているのだと言う事をまた実感した。
9月23日:「あっち向いてホイ」;アルツハイマー病の簡易診断法(9月号Journal of Alzheimer Disease掲載論文)
2−3日前、我が国の認知症患者の数が推定で460万人に達する事が報道されていた。実際欧米では65歳以上の10%以上、80歳以上だと40%以上の人が認知症になるとされており、報道された推定数はまだ低めの見積もりかもしれない。自分自身が既にこの統計の対象になっている事を考えると恐ろしい話だが、早期に診断出来れば進行を遅らせる様々な介入は可能だ。従って、単純な老化とアルツハイマー病を区別する診断法、とりわけマススクリーニング方法の開発は重要だ。今日紹介するトロント・ヨーク大学からの論文はひょっとしたらこのような方法に発展できるのではと思った(全く私見)ので取り上げる事にした。論文のタイトルは「Visuomotor impairments in older adults at increased Alzheimer’s disease risk(アルツハイマー病リスクが高い高齢者に見られる視覚運動連合の障害)」で、Journal of Alzheimer Disease9月号に掲載されている。私たちはアルツハイマー病と言うと認知機能障害とすぐに結びつける。確かに短期記憶に関わる海馬の萎縮が顕著で、また日常生活には認知機能障害が最も顕著に影響するので、アルツハイマー病=認知症となるが、実際には広範囲に脳萎縮が起こり、様々な障害が出る。今日紹介する研究は、アルツハイマー病の初期から、視覚と協調する運動機能が障害されていることを示す研究だが、ここで使われている機能テストが興味を惹いた。テストを一言で言うと、「あっち向いてホイ」のテレビ版と言える。ここでは垂直及び水平におかれた2つのモニターが使われる。最初のテストは垂直モニターだけを使う。画面中央の緑の丸印を指で触るとテスト開始だ。一定時間後に、中央の印は消え、代わりに画面左右、上下どこかに新しい丸印が急に現れるのでそれを指で出来るだけ早く辿る。次のテストは、垂直画面に同じテストが示されるが、指で追うのは垂直画面に現れる印そのものではなく、その位置を水平画面に投射して、一種仮想の場所を指でなぞる。次のテストは垂直画面にまた戻るが、今度は新しく現れた丸印をなぞるのではなく、「あっち向いてホイ」のように、現れた場所の正反対を指で指す。これには当然認知機能が関わる。最後に同じテストを、印が現れる垂直画面ではなく、水平画面の対応する場所を指で辿る。この時、目の動きや指の動きを記録できるようにし、指の辿る軌跡の正確性、到達時間などを記録する。このテストを、若者、アルツハイマーリスクの低い高齢者、アルツハイマーリスクの高い高齢者、そして認知障害のある人に受けてもらい、結果を比べている。もし認知障害のある人と、認知症ではないがリスクの高い人が一致するテスト項目があれば、初期からそれに関わる運動障害があると結論できる。結果は一目瞭然、4番目のテストで記録される指の軌跡が、認知症は発症していないが、アルツハイマーリスクの高いグループが、認知症発症患者さんと同じ異常を示すことがわかった。まさに、「あっち向いてホイ」ゲームがアルツハイマーリスクを反映できるかもしれないと言う結果だ。この論文では、これをそのまま新しい診断機器に発展させようと言った議論は行われていない。しかし機械は今あるタブレットを2枚使えば簡単に設計できるはずだ。現在でもミニメンタルステート試験の様な、簡易テストはあるにはあるが、もしこの論文が正しければ、より正確なリスク判定を人手をかけずに行なう事が出来ると期待できる。是非この方向で開発を加速させて欲しいと思う。
9月22日移植細胞をモニターする(Magnetic resonance in Medicineオンライン版掲載論文)
iPS由来の網膜色素細胞移植を受けた患者さんは先週無事退院された。これからおそらく決められたプロトコルに従ってあと5例の患者さんの治療が行われるだろう。この治療でiPS細胞を利用する細胞治療の安全性について第一段階がクリアーされると、次は高橋淳さんのドーパミンニューロン移植によるパーキンソン病治療に進む。この順番はこれらのプロジェクトが文科省・再生医学実現化ハイウェイ計画に採択する時の重要な要因となった。勿論ヒトiPSからの細胞培養技術が確立している事は言うまでもない。しかし、心臓細胞を始め他にも多くの細胞培養法は同じレベルに達している。おそらく最も重要な要因は、移植した細胞をモニターする方法がある事ではなかったかと思う。網膜色素細胞移植では、眼球内と言う特殊な状況のおかげで移植した細胞を克明に、いつでも観察する事が出来る。おそらく何か不測の事態が起こればほとんど瞬時に検出可能だろう。一方、高橋淳さんのドーパミン細胞移植も注入した細胞の量と機能をモニターする方法が完成していいることが決め手になった。従って、異常増殖が起これば早期に発見が出来る。同時に効果が確かに移植細胞によるのか、あるいは間接的な反応によるのかなど評価がし易い。しかし、他の細胞となるとヒトに移植した細胞をどうモニターするか困難な事が多い。従って、両高橋に続くプロジェクトは、常にこの課題と向き合う必要がある。これまで移植細胞を追跡するため、様々な方法が開発されて来た。しかし解像度の点から考えると、MRIが利用できるとありがたい。今日紹介するカリフォルニア大学サンディエゴ校からの論文は、これまで開発が進んで来た移植細胞イメージング法を初めて臨床に応用したことを報告した論文でMagnetic Resonance in Medicineオンライン版に掲載された。タイトルは、「Clinical cell therapy imaging using a perfluorocarbon tracer and fluorine19 MRI (細胞治療のイメージングにパーフルオロカーボントレーサーとフッ素19MRIを用いる)」だ。フッ素19は極めて安定なフッ素同位元素で、NMRで高感度に検出できる。従って、これをトレーサーに用いてMRIで検出し細胞を追跡すると言うアイデアは古くから注目され研究が進んできた。最近では動物実験で神経幹細胞を追跡するのに使える事を示す論文も報告されている。フッ素19を細胞に取り込ませるために、炭化水素の水素をフッ素で置き換えた化合物のエマルジョンが既に開発されている。これは細胞と混ぜるだけで細胞内に取り込まれ、安定的に細胞内にとどまる。また、これまでの所、細胞毒性はなく、安全である事も確認されている。この研究では、動物実験から一歩進んで、5人のガン患者さんに樹状細胞ワクチンを注射する際、この樹状細胞をラベルして追跡するのにこの方法を使っている。結果は期待通りで、1000万個の樹状細胞を皮下に注射すると、MRIで明瞭なスポットとして検出できるようになる。その後、細胞が体中に拡がるに従い、注射部位から消えて行くのをモニターできる。残念ながら感度のせいで、どこに最終的に分布したのかはわからない。従って、利用は同じ場所に移植細胞がとどまって欲しい場合に限られるだろう。結果はこれだけだが、患者さんの皮下に1000万個安全に注射し、追跡できた事は大きい。他にも様々な方法の開発が進んでいると思うが、例えば脊髄損傷や心筋症など次の段階の細胞治療が進むためには、安全な細胞追跡法の開発は欠かせないと思う。その意味で重要な進展ではないかと思う。
9月21日:進化は顔を多様化させる(Nature Communications9月号掲載論文)
自然選択は進化を説明するときの重要な柱だが、選択自体は集団内の多様性を減らす方向で働く。逆説的だがこの自然選択の効果が、種の多様性を生み出す。少しわかりにくいかもしれないが、この論理について完全に理解しないと自然選択を誤解してしまう。例えば、交雑が可能な黒いカラスと2色のカラスの生活圏が重なり合っているのに、普通ハトで見るような色の多様性が生まれないのはどうしてかを調べた論文 (http://aasj.jp/news/watch/1735) を6月22日に紹介した。ここで扱われてたのは多様性が押さえられる原因だが、逆に多様性が固定化される種分化の過程を研究しているとも言える。一方変異のメカニズムから考えると、集団は多様化するのが普通で、形質が選択にかからない(中立)と、多様化は維持拡大する。これにとどまらず、この多様性を更に積極的に維持するメカニズムが存在する事を示そうとしたのが今日紹介するカリフォルニア大学比較生物学博物館からの論文で、Nature Communicationsに掲載された。タイトルは「Morphological and population genomic evidence that human faces have evolved signal individual identity(人の顔が個別性を伝えるために進化した事を示す形態学及び集団ゲノムに基づく証拠)」だ。この研究では、データベースにあるデータの情報処理を行い、顔の多様性は積極的に選択されて来た結果だと結論している。先に述べたが、選択圧を受けないと多様性は維持拡大される。従って、顔の多様化が積極的に選択された形質だとすると、中立的な他の形質と比べたとき、形態やゲノムの多様性が、より多様化している事を示す必要がある。この論文では、手の大きさと、鼻の大きさを比べたとき、鼻の大きさがはるかに多様化している事を先ず示し、多様化のための積極的選択圧があると結論する。その上で、1000人ゲノムデータベースから抽出される顔の造作に関わる遺伝子多型の多様性を、背の高さや、中立的遺伝子で見られる多型と比べ、顔に関わる遺伝子多型のほうがより多様性が高い事を示している。特に集団内で中等度の多型が見られる遺伝子で際立って多様性が高い。この結果から、期待通り顔の造作に関わる遺伝子の多様性を拡大する積極的な選択圧が存在すると結論している。最後に、2つの遺伝子領域に見られる多型を各大陸、更にはネアンデルタール、デニソーバ人まで拡大して比べ、ネアンデルタール人やデニソーバ人も顔を多様化する積極的なメカニズムを持っていたと結論している。この選択圧について何の手がかりもないが、古代人を含め私たちが、個人識別に顔を使い始めたからだろうと想像している。論文を読んで、人間についてのゲノム研究の仕方が急速に変化しているという印象を持った。顔データにせよ、ゲノムデータせよ、膨大な蓄積が進んでおり、この蓄積は加速している。従って、データを集めるより、それを処理する事が研究として重要になりつつある。一方、自説を検証し発表するための様々な基盤が整っており、面白い事を考える研究者に平等にチャンスが与えられるようになっている。素晴らしい事だと思う。とは言えこの研究で言うと、ただ単純に選択圧がないと考えてはなぜだめなのか、顔の識別はどのように生殖上の差へと変換されるのかなどまだまだ想像で埋めている点が多く、研究の成熟度としてはまだまだだと私は思う。生物学は、ビッグデータを扱う社会科学と同じでいいのかをもう少し真剣に問いかける事も必要だと思った。
9月20日:野生動物と人間(9月18日号Nature 掲載論文)
出典は覚えていないのだが、人間、家畜、ペットを合わせた総重量が、地球上の全哺乳動物総重量の98%を超すことを読んだ覚えがある。1000年前はその比は逆だったようで、いかに人間が地球を変えているかがわかる。従って、野生動物の行動研究では、人間の影響なのか、その種の持つ本来の習性なのか注意深く評価する必要がある。9月18日のNatureにこの問題を扱った論文が掲載されていた。米国、ドイツ、ベルギー、タンザニア、ウガンダ、そして我が国の多くの研究者が参加する、チンパンジーについての研究だ。タイトルは「Lethal aggression in Pan is better explained by adaptive strategies than human impacts (チンパンジーやボノボが示す致死的攻撃は人間の影響より種の適応戦略と考えた方が説明できる)」だ。同種の個体を襲って殺すのは人間だけだとされていたが、動物行動学が進むと、ほ乳動物のなかには習性として同種の個体に致死的攻撃を加える種がいることがわかって来た。中でもショッキングなのは、チンパンジーが時によっては集団で殺戮を行うという事実で、映画などで見る愛嬌のある姿から想像がつかない。このチンパンジーの殺戮行為は環境に適応するための習性だと考えられて来たが、これに対し実際には人間の生活圏がチンパンジーの生息圏と重なって来たからではないかという反論が上がっていた。この問題に対し、アフリカ18地域で別々にチンパンジーを研究してきたグループがデータを持ち寄り、殺戮行為が人間の影響で誘導されたかどうか詳細に検討したのがこの論文だ。本当に息の長い研究が行われている事を実感する。持ち寄ったデータの観察期間の平均は21年、最も長い観察は53年に至っている。その間、集団間でどのように殺し合ったのか、どのような個体(雄、雌、子供)が殺され、どの個体が攻撃したのかなど克明に記録されている。また記録も、実際に観察した例と、現場の状況から想像したものとがきちんと区別して書かれている。結論としては、チンパンジーの殺し合いは、地域内での個体数の上昇時にスウィッチオンされる種の保存に必要な適応行動のようだ。証拠としては、人間が近くに暮らし、餌を与えたり、逆に生活に介入する様な場所でも、特に殺し合いが増える事はない。一方、個体数の密度と殺し合いの頻度が最も相関しており、一定の個体数を保とうとする習性を持つようだ。更に殺し合いにも決まったルールがあるようで、基本的には雄同士が殺し合う。動物学的に見れば、自然淘汰メカニズムを種の脳内活動に組み込んでいる事になる。多くの研究者が連帯する事で、これまでの膨大な記録の正しい解釈のための基盤を確立する事に成功した仕事だ。この基盤があって初めて、ゲノム研究も意味を持つ。アフリカの熱帯雨林で何年もチンパンジーを追いかけ記録し続ける。こんなロマンを持った研究者を絶やしては行けない。論文の補遺の地図を見ると、今エボラビールス感染で問題になっているギニアやリベリアにも観察地域があるようで心配だ。是非この困難を乗り越えて、記録を続けて欲しいと願う。