ネアンデルタール人と現代人の間に交雑があったかどうかは考古学の重要問題だったが、マックスプランク研究所のペーボさん達によりネアンデルタール人のゲノムが解読され、間違いない事実となった。もう一つの重要問題が、ネアンデルタール人は言語を持っていたのかだが、勿論まだ謎のままだ。ここでも紹介したように、これまで知られている言語に関わる遺伝子に関しては両者で差が見つからない。ただ、言語の様な複雑な高次脳機能を遺伝子から再構築できるほど私たちの知識は進んでいない。言語構造と脳の機能について更に深い理解も必要だ。言語を話すために必要な能力の中で考古学が最も注目しているのが、経験を象徴と対応させる能力で、これが発生するためには象徴を何かの表象として利用していた証拠が必要になる。この観点から見ると、ラスコーやアルタミラで良く知られるような現代人の居住洞窟に残された絵画に見られる象徴の使用が、ネアンデルタール人の居住区では見つかっていなかった。ところが最近になってスペインの4万年近く前の洞窟で、幾つかの象徴と思われる模様が見つかり、この分野は一気に活気づいた。今日紹介するスペインウエルバ大学の研究はまさにこの問題を扱っている。タイトルは「A rock engraving made by Neanderthals in Gibraltar(ジブラルタルのネアンデルタール人が岩に残した彫刻)」で、9月16日発行のアメリカアカデミー紀要に掲載された。ずっと紹介したいと思っていたが、遅くなってしまった。考古学の論文を読むと単語を知らない事に気づく。それで二の足を踏んだが、考古学研究とは何かが良くわかる論文なので紹介する。先ず、象徴らしき岩に掘られた模様の見つかった場所の地理学が来る。ジブラルタル半島の突端近くにある海の浸食を受ける洞窟だ。これにより、数万年の過去の歴史の間にこの場所が気候変動を含めどのような影響を受けたのかがある程度わかる。次に来るのが地層学だ。この洞窟も10万年以上前からのいくつかの地層で形成されている。それぞれの層に含まれる岩石の性質などを詳しく調べて、この洞窟の成り立ちを探る。特に彫刻の見つかった場所とその上の地層が完全に分離している事を明らかにする。そして、同位元素による年代測定により、彫刻の見つかった層の最下層が3万8千年前の地層である事を決める。この時期にはまだネアンデルタールはジブラルタルまで達していない事が通説だ。次ぎに来るのが、それぞれの地層に残された石器の評価だ。彫刻の層はネアンデルタール人の特徴とされるムスティア文化の特徴を持っている。その上の層にはかなり進んだソリュートレ文化を代表する石器が見つかるが、これは2万年より新しい。これらの結果から彫刻はネアンデルタール人によると結論づけている。また、この洞窟ではネアンデルタール人と現代人の交雑はなかったようだ。次は、この模様が象徴か、偶然出来たただの線かだ。実際には8本の線で格子が描かれているだけで、現代人の絵画と比べると極めて原始的だ。従って、先ず物理・化学的に自然発生した模様でない事を詳しく調べている。特にこの層の岩石の化学成分を調べ、例えばコウモリの尿の通り道として出来た物でないなど様々な可能性を排除している。その上で、この模様が如何に書かれたのかを線の長さ、太さ、深さなどを計測する。そして最後に、様々な道具を使って同じ岩石にこの模様を実験的に再現する実験研究だ。かなり頑丈な切っ先を持つ石器で何十回も彫り込まないとこの線が描けない事を推測している。結論としては、目的にあった道具と多大な努力でこの模様が描かれた事になる。これまで漠然と考えていた考古学のイメージとは異なる、総合科学である事が良くわかる。もちろん、この模様が象徴かどうか私も確信は持てない。更に多くの発掘が必要だろう。しかし、脳から新しい情報が生まれる過程の解明にとってのこの分野の重要性は良く理解できるし、このゴールに向けて地道な努力が進んでいる事を感じる。本来再現できない過去を研究するのは本当に難しそうだ。
10月14日:ネアンデルタール人と言語(9月16日発行アメリカアカデミー紀要掲載論文)
2014年10月14日
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