2014年9月4日
識字障害は文字を読んで意味を理解することがうまく出来ない症状を指し、不思議なことに表意文字を使う我が国では少ないが、欧米ではかなり高い頻度で見られる。症状だけ聞くと、文字を理解する発達が遅れているのではと思ってしまうが、実際には視覚と言語に関わる領域の結合様式の発達の違いだけを反映した結果で、脳発達全体の遅れなどでは決してないことがわかっている。事実、識字障害を持っていたことがわかっている有名人は、ダビンチ、エジソン、アインシュタインなど数えきれない。識字障害を持つ人は想像力に優れ、大局観があることから、経営者としても成功することが多いらしい。メリアン・ウルフ著の「プルーストとイカ」という本は、文字の歴史を概観した後で、私たちが文字を学習する過程でどうしても視覚的構成力を犠牲にせざるを得ないこと、それに抵抗して視覚構成力を残そうとしているのが識字障害の方々の脳であることを教えているが、実際脳内で何が起こっているのか興味は尽きない。今日紹介するエール大学識字障害センターからの論文は識字障害の背景にある脳ネットワークについて正常人と比較した研究で、Biological Psychiatry9月号に掲載された。タイトルは「Disruption of functional networks in dyslexia: A whole brain, data-driven analysis of connectivity (識字障害での脳機能ネットワークの中断:全脳レベルでのネットワーク結合をデータに即して解析する)」だ。研究では識字障害をもつ子供と成人の脳活動をMRIを用いて測定し、正常人と比べている。具体的には文章を黙読したときの脳全体の活動を記録、興奮の時間経過などから結合している部位同士をコンピュータを使って特定し、文字を読む時に活動している脳ネットワークを再構築している。結果は少なくとも私の想像に近く面白い。次のようにまとめることが出来るだろう。1)識字障害があると、注意を集中して文字を読む時に必要とされる視覚回路と前頭葉の繋がりがうまく働かない。2)言語を統合する中枢は左脳に偏って発達するが、この左脳化が識字障害があると遅い。実際には言語に関わる部位が長く右脳各部位と結合を続けるようで、これが創造性を高めるのに役立っているのかもしれない。ただ、この左脳化は時間はかかっても最終的に達成できる。これもほとんどの識字障害が成人するとなんとかその障害をマネージできるようになるのと一致する。3)脳全体の情報を統合する領域として現在後部帯状回が注目されているが、正常人が文字を読む時はこの部位は視覚と最も強い結合を持つのに、識字障害があるとこの繋がりは弱く、様々な場所とつながったままになっている。これも文字に集中することが難しい症状と理解し得る。4)文字の形を認識するために必要な視覚文字形成領域が特定されており、この領域と視覚野との結合は年とともに強まることが知られているが、識字障害があると成長後もこの結合性の発達が遅い。代わりにこの部位は右脳視覚野や、聴覚野との結合を黙読中も維持している。何か代償回路が発達しているようだ。5)識字障害をもつ成人は、黙読中も言語野が発音に必要な脳領域と強く結合している。これは、識字障害の方々が黙読するときの困難を克服するために心の中で発声する習慣を身につけていることと一致し面白い。全て出来すぎているのではと疑いたくなる、納得のデータだ。ヒトの脳の研究は確かに難しい。しかし様々な脳機能の障害がはっきりわかるのも人間だ。特に言語のようにヒト特異的な情報システムが脳ネットワークからどのように生まれたのかは21世紀の課題だ。是非生きている間に少しても言語発生過程を理解したと言う実感を得るため、苦労して論文を読んでいる。
2014年9月3日
我が国は今デングウイルス感染で大騒ぎだが、一つの地域での感染症流行には必ず始まりがあり、終わりがある。終わりは様々だが、始まりは必ず外から感染を持ち込んだ一人、あるいは少人数の感染者から始まる。この最初の感染者が特定されていると、病原体がどのように拡がるのか、その間に病原体自身がどう変化するのか、その変化のスピードはどの程度か、など様々なことがわかる。特にウイルスの場合、感染経路を特定する疫学と、次世代シークエンサーを用いたウイルスゲノム解析を対応させることが可能で、この様な情報が次の感染や流行を防ぐためには極めて重要だ。この様な千載一遇のチャンスが今回のエボラウイルス流行の始まる時点で、シエラレオネに巡って来た。今日紹介する、シエラレオネのケネマ国立病院、ハーバード大学の共同研究は疫学的に追跡できたシエラレオネのエボラ感染の最も初期段階のウイルスゲノムと、流行後感染者から分離したウイルスゲノムを調べたタイムリーな研究で、サイエンス誌オンライン版に掲載された。タイトルは「Genomic surveillance elucidates Ebola virus origin and transmission during the 2014 outbreak(エボラゲノムを監視することで今年のエボラ流行の起源と感染を説明できる)」だ。論文によると、シエラレオネでの流行の始まりは次の様なものだった。まずケネマ病院は3月にエボラウイルス監視機構をスタートさせており、5月初めまで住民のエボラウイルスは検出できなかったことを確認している。ところが5月25日エボラ患者が見つかり第一例と認定する。疫学的に感染経路を追跡すると、ギニアでエボラ患者を扱った祈祷師が感染によって死亡した時、この患者が埋葬に立ち会っていたことが明らかになった。また、同じ埋葬に立ち会った他の13人も全てエボラウイルスに感染していることがわかった。始まりが特定できた千載一遇のチャンスを逃さず、この患者からウイルスを採取してハーバードに送りゲノム解析を行い、これまでに分離されているエボラゲノムや、6月、7月に感染した患者から分離したエボラスゲノムなどと比較したのがこの論文だ。ゲノム配列から、今回流行中のウイルスは2007−2008年コンゴで流行したウイルスと共通祖先を持ち、2004年頃に分かれたウイルスと考えられる。おそらく人間以外の動物キャリアの中で進化しているようだ。これがコンゴでは2008年に流行した。一方同じウイルスがギニアでヒトに感染するためには2014年までかかり、既にコンゴで発見されたウイルスとは異なるゲノムに分化していた。その後ヒトからヒトへと感染が拡がりだす。そしてギニアで病気退治の祈祷を行っている時エボラに感染した祈祷師からシエラレオネに拡がったことが明らかになった。2014年、即ち現在流行しているエボラウイルスは互いによく似ており、おそらくシエラレオネにはこの単純なルートを通って拡がって来たと推定できる。さらに、祈祷師の埋葬に立ち会って感染した患者のウイルスの解析から、祈祷師はギニアで流行し始めていた2種類のウイルスにかかり、これがシエラレオネ流行のルーツになっていることも明らかになった。他の患者さんの解析からも、一種類のウイルスが一人のヒトに感染するのではなく、複数のウイルスが同時に感染し、維持されていると言うことも明らかになった。これが原因か結果かはわからないが、ヒトからヒトへの流行が始まると、ウイルスの変異速度は増大し、アミノ酸変化につながる遺伝子変異も多く起こることもわかった。いずれにせよ、感染の始まりが特定されることで、変異の速度などが正確に測定できた。残念ながら、見つかったアミノ酸レベルの変異の機能的意義についてはまだわからない。しかし、戦う相手の手強さをしっかり理解できることは大きい。まだまだ不十分と言われるかもしれないが、医学が十分対応していると言う実感を持つ。ただ最後に述べなければならないのはこの論文に名を連ねたケネマ病院の医師達のうち5人は既に帰らぬ人となっていることだ。それぞれの写真と経歴はサイエンスのウェッブサイトに掲載されている(下記)。しかしこれほど壮絶な論文はこれまで読んだことがなかった。医師達が危険を顧みず患者を救おうと必死になっているのがひしひしと伝わる論文だった。黙祷。 亡くなった5人、(http://news.sciencemag.org/health/2014/08/ebolas-heavy-toll-study-authors)
2014年9月2日
がん患者さんの末梢血の中にはガン細胞が流れていることが知られている。血管内を通って起こるがんの転移はこの細胞が遠隔組織に定着したものだ。今年5月18日にここで紹介したように、乳がんではかなり初期からガン細胞が見つかる。いわゆるステージ1と診断されていても30mlの血液の中に1〜数個のガン細胞が見つかることがある。ヒトの全血液を4500mlとすると、100〜数百のガン細胞が血液を流れていることになる。とは言えそれらが全て転移を起こすわけではない。いや、ほとんどが転移を起こさず血中で死んでしまう。今日紹介するハーバード大学からの論文は、転移を起こす血中ガン細胞は、他の細胞とどこが違うかを調べた研究で、8月28日号のCell誌に掲載された。タイトルは「Circulating tumor cell clusters are oligoclonal precursors of breast cancer metastasis(末梢血液中で細胞塊を形成している腫瘍細胞は乳がん転移を引き起こす)」だ。著者等は、末梢血中ガン細胞(CTC)のうち塊になって血中に存在している細胞が転移を起こすのではと疑った。この目的に最も適したCTC採取法を検討し、CTC-Chipとして手に入れることの出来る機器を、乳がんや前立腺がんを塊のまま血中から取り出すのに採用している。先ず動物実験で、1)細胞塊はがん組織の中で形成されそのまま血中に流れ出ること、2)塊を形成するとガン細胞が死ににくくなること、3)また様々な組織にトラップされ易くなることを確認した後、ヒトの乳がんと前立腺がんの解析へと進んでいる。患者さんの血液をCTC-Chipをつかって何回も検査し、塊を形成したガン細胞が見つかる頻度を数えている。予想通り、ガン細胞塊が3回以上見つかる乳がん患者さんでは1月位で転移が見つかるが、塊が見つかる頻度が低いほど転移までに時間がかかる。前立腺がんではもっとはっきりこの相関が見られる。最後に細胞塊を形成に関わる分子を同定するため、塊を形成するガン細胞と形成しないガン細胞を別々に採取して遺伝子発現パターンを比べ、塊を形成するがんでプラコグロビンの発現が上昇していることを見つけている。プラコグロビンは細胞間の接着に関わる分子と細胞質内で会合して、接着を調節することが知られている分子で、この現象に関与する可能性は十分ある。そこでがんの原発巣でのプラコグロビン発現と転移を調べると、やはりプラコグロピンの高いがんでは転移し易く、ガン細胞塊が血中に検出できる。最後に、プラコグロビン遺伝子発現を抑制して血中にガン細胞塊が流れてくるかを調べると、原発巣でがんの増大は変わらないものの、抹消血中のガン細胞塊の数は大きく減少する。以上の結果から、がんの原発巣の一部でプラコグロビン発現が上昇することが、転移し易いガン細胞塊が血中に流れ出す原因で、この結果ガン細胞は抹消血でも細胞死から守られ、また組織にトラップされ易いため転移を形成すると言うシナリオが示されている。もしがん組織でのこの分子の作用を押さえることが出来ると、転移を押さえられるかもしれない。確かに、ガン細胞がこんなに簡単に抹消血に流れ出すことは恐ろしいように思う。しかし逆から見ると、簡単にガン細胞を生きたまま採取することが出来ると言うことで、がんを知って戦うための格好の材料を提供してくれるのは間違いない。今後も注目して紹介を続ける。
2014年9月1日
今21世紀の科学や文明について本を書いているが、論文を書くのとは勝手が違い歩みは鈍い。17世紀ガリレオから初めて、今ようやく18世紀が終わり、ダーウィンにたどり着いた所だ。先週はラマルクについての様々な本と格闘していた。しっかり調べると、ずいぶんラマルクを誤解していたことがわかる。獲得形質は遺伝するとか、目的に合せた身体変化を誘導する力を認める生気論とか、広く出回る説明を鵜呑みにして表面的に見ていたが、今は完全に見方を改めた。彼は、環境決定論者だったようだ。そんな時、環境により必然的に決まる形態について研究しているオタワ大学とマクギル大学からの論文に出会った。論文のタイトルは「Developmental plasticity and the origin of tetrapods(発生の可塑性と四足類の起源)」で、Natureオンライン版に掲載された。この研究では、遺伝子の変化による進化とは別に、身体の構造が必要に応じてどこまで変わるかを調べ、四足類が魚類から進化して来た過程を理解しようとしている。明確な問題を設定し、それに対する豊富な知識とアイデアがあれば、お金を使わなくてもいい研究が出来ることを示す典型だろう。魚類から四足動物への移行過程に対する現代のアプローチは、四足類進化と対応すると思われる現存の魚類、ポリプテルスから肺魚までのゲノムを調比べることが主流だ。確かにここでも紹介したように、シーラカンスゲノムなど研究の進展は著しい。しかしまだ形態とゲノムという物理的ではない性質同士を対応させることはできていない。この研究では、この過程の形態変化に必然的ルールがないかを問題にしている。このためには、水中でも陸上でも育てられる歩く魚が必要になる。この条件にかなう魚として、肺が発達して陸上生活が可能になったばかりの種、ポリプテルスを選んでいる(写真はwikiコモンズより)。実際にはここまでで研究の大半は達成出来ている。実験では、水中で育てた群と、陸上で育てた群の2群にわけ、陸上歩行と言う機能と、それを支える身体の構造について比べている。言い換えると、陸上という環境により決定される必然的形態変化を明らかにしようとしている。結論は明確だ。水中で育ててから歩行させたポリプテルスと比べると、生まれてから陸上で育てたポリプテルスは、歩行のためのヒレの使い方が全く変化し、陸上歩行と言う機能が進化していることがわかる。そしてヒレを支える鎖骨の構造も、この機能を支えることが出来るように変化している。何よりも、陸上で育てるとこの構造の多様性が大きく低下し、同じ形態へ収斂する。一方、水中で育てると形態の多様性は大きい。即ち、機能と形態が一定の状態に収斂しているのだ。最後に、この収斂へと向かう形態が、デボン紀四足動物進化の過程で起こった形態変化、即ち化石に残るケイロレピスからエウステノプテロンに至る鎖骨進化とそっくりであることを示している。この論文ではこの結果を、「形態のこの可塑性が、必ず遺伝的基盤を持つ大進化にも貢献していると考える」と淡々と述べるだけで、雄弁に議論を展開するのは避けているようだ。しかし議論を展開しなくとも、著者達が込めた気持ちは理解できる気がする。私は読んだ後、ゲーテからラマルクに至る(異論はある分類法とは思うが)形態の機能的必然性を中心においた進化思想と、ダーウィンに代表される偶然的多様化を中心においた進化思想がもう一度互いにまなざしを交換している様な興奮を感じた。形態も機能も、そして遺伝情報も非物質的性質だ。とすると、この非物質的性質の相関を、物質的性質を通して説明することが21世紀の生物学の課題だ。21世紀に向かって生物学が着実に進んでいると言う実感を持った。
2014年8月31日
昨日早とちりして腸内細菌叢第2弾とアナウンスしたが、今日紹介するのは皮膚にある細菌叢の話だ。従って、ヒト細菌叢第2弾。研究の目的は住宅の細菌叢と、それに触れるヒトの細菌叢の関係を明らかにすることだ。シカゴ大学からの論文で8月29日号のScience誌に掲載された。おそらくなんとか論文掲載にこぎ着けようと頑張っている若い研究者は「えー?」と驚きそうな論文だが、タイトルは「Longitudinal analysis of microbial interaction between humans and the indoor environment(ヒトと室内環境の細菌叢相互作用に関する長期分析)」だ。研究では、10の家で4−6週間、室内の様々な場所と、住人の手、顔、足の皮膚の細菌叢に存在する細菌の種類を次世代シークエンサーで調べただけの仕事だ。これはHome microbiome projectというアメリカのプロジェクトの一環らしい。結論も簡単だ。要するに同じ家だと場所が変わっても細菌叢は似ているし、ヒトの細菌叢ともよく似ている。実際にはかなり詳細に調べてある。例えば、床の細菌叢と足の裏の細菌叢は似ている。しかし鼻の細菌叢は手や足の裏と比べるとそれほど似ていない。また、それぞれの家の細菌叢は大きく異なり、その結果どの家に住んでいるのか、住人の細菌叢を調べれば推察できる。要するに、家の細菌叢は住んでいる人の細菌叢の平均的総和を表し、例えばお父さんが出張すると、すぐにお父さんからの影響が無くなり、残りの家族の総和に落ち着いて行くと言う結果だ。また、新しい家に引っ越すと、その家の細菌叢は家族の細菌叢へと変化して行く。勿論子供部屋の細菌叢に両親の影響は少ない。これが正しいとすると、若い女性がつり革を持ちたがらないのも理解できる。極めて納得のいく結果だし、こんな調査をまじめに行い、トップジャーナルに掲載できる社会全体は極めて興味がある。しかし、ではこの家庭の細菌叢研究自体がトレンドかと聞かれればそうではない。この様な研究の背景には、記録できることは全て記録すると言う新しい思想がある。ゲノムを始めとするあらゆるライフログ。そして私たちを取り巻く環境が全て記録出来るようになりつつある。これまで死ねば個人の痕跡が何も残らなかった20世紀までとは異なる新しい人間学が誕生する。地球上で起こることなら針一本落ちた現象も全て記録したいとグーグルの創業者は言ったらしい。これと同じ思想をこの研究に感じたとき、この論文の真価が初めて見える気がする。次世代シークエンサーが21世紀の新しい情報時代の象徴になっていることは確かだ。とは言え、せっかくなら腸内細菌叢も調べて欲しかった。後は手洗い回数も是非ライフログとして加えて欲しい。
2014年8月30日
昨日は腸内細菌叢の面白い論文が2報も見つかったので、今日、明日と紹介する。次世代シークエンサーが開発されて腸内細菌叢のDNA配列を無作為に決定することで、腸内にどの細菌がどの程度存在しているかを測定することが可能になった。ただ病気と腸内細菌叢の関係を研究したい時この方法にも問題はある。先ず私たちの腸内細菌叢には何百、何千もの異なる細菌が住み着いている。それぞれの量が測れたとしても、どの細菌が病気の原因になっているかを突き止めるのは簡単ではない。このため、病気になった時に大きく変化する細菌種を調べることでこの問題に対処して来たが、もう少し合理的な方法が求められていた。今日紹介するエール大学医学部からの論文は、クローン病や潰瘍性大腸炎の様な炎症性腸疾患に関わる細菌を特定する新しい方法を報告した論文で、8月28日号のCell誌に報告された。タイトルは「Immunoglobulin A coating identifies colitogenic bacteria in inflammatory bowel disease(IgAによりコーティングされている細菌は炎症性腸炎を引き起こす原因菌だ)」だ。この研究では、腸炎の原因菌ほど宿主の免疫反応を刺激しているはずで、そうなら腸内に分泌されるIgA抗体と結合しているはずだという仮説を立て、これをマウスで確認する所から始めている。先ずマウスの便を採取し、そこに存在する細菌にIgAを認識する蛍光抗体を反応させ、どの細菌の表面にIgAがコートされているか調べた。予想通り、一部の細菌だけが腸内でIgA抗体と結合していた。この結果は、腸内細菌の一部だけが宿主の免疫反応を刺激しており、免疫刺激性の細菌はIgAでコートされているかで見分けられることを示す。次にIgAコートされた細菌の種類を調べると、これまで腸炎に関わるとされて来た細菌が濃縮されている。それをもう一度マウスに戻して、IgA抗体反応を刺激し、腸炎を起こすか調べると、コートされていない細菌より強い反応が見られる。この結果は、IgAコートされた菌が腸炎原因菌であるという仮説を支持する。次にヒトでも同じ事が見られるか、先ずクローン病や潰瘍性大腸炎患者と、正常人でIgAコートされた細菌の種類を調べると、腸炎患者さんでIgAコートされた細菌の数が増加しており、この方法でそれぞれの病気だけで検出される細菌を特定することが出来ている。最後にこうしてヒトで特定された細菌が本当にIgA抗体反応を刺激し、腸炎を引き起こすかもマウスに菌を移植して調べている。IgAコートされた菌を植えると、確かにIgA抗体反応が起こる。しかしこの菌だけでは腸炎は起こらない。そのマウスに、腸炎を起こすことが知られているデキストラン硫酸ナトリウムを投与すると、IgAコートされた細菌によって腸炎が重症化することがわかった。今のところわかったのはここまでで、なぜ腸炎原因菌だけが抗体反応を刺激するかなど多くの問題は残る。しかし、原因菌が特定されたことで、これらの菌を特異的に撲滅して、クローン病や潰瘍性大腸炎を治癒できるのではと期待させる結果だ。この分野の加熱ぶりを実感させる論文だった。
2014年8月29日
基礎研究と臨床のギャップがよく語られる。しかし両方の関係は単純ではない。基礎研究が晴れて臨床応用される場合もあるが、臨床的には効果があるのだが、基礎的にはメカニズムがわからないことも多い。おそらく統合医療と呼ばれる治療の中で、エビデンスを持って効果が確かめられている方法のほとんどはこれに当たる。今日紹介する論文での基礎と臨床の関係も複雑だ。エリスロポエチンは赤血球造血に必須の分子で、この分子がないと当然生きられない。早くから臨床応用の進んだサイトカインで、例えば透析患者さんの腎性貧血の治療を始め、赤血球が減少する病気に広く使われている。これは基礎研究から臨床研究へ橋渡しが進んだいい例だ。1990年の中頃だっただろうか、私がまだ京大の分子遺伝学教室教授だった頃、サイトカインの学会で京大の農学部の佐々木さんのグループが、エリスロポイエチン受容体が脳で発現しており、脳虚血にエリスロポエチンが効くと言う話をしたのを覚えている。勿論これは基礎研究だが、生物学的意味があるとは思えないと当時の基礎医学会ではあまり真剣に取り上げられなかったのではと思う。事実この分野の研究は拡がりを見せなかった。今日紹介するジュネーブ大学医学部からの論文は、ほとんど忘れられていたエリスロポエチンの基礎分野の研究を臨床に応用して、予想以上の効果を得たと言う論文で、8月27日号のアメリカ医師会雑誌に掲載された。タイトルは「Association between early administration of high-dose erythropoietin in preterm infants and brain MRI abnormality at term equivalent age(早産児へのエリスロポエチン大量投与は通常出産相当時期の子供の脳MRI異常を改善する)」だ。前書きを読むと、この研究が、細々と続いていた動物モデルの基礎研究に啓発され、ヒトへの応用を進めたことが書いてある。研究では約29週で生まれた平均1300gの未熟児に、誕生直後、半日後、2日後にエリスロポエチンを投与し、通常出産に相当する40週前後でMRI検査を行い、脳の異常を調べている。30週未満で生まれる未熟児で最も心配なのは脳障害だ。脳質の周りの脳細胞が死んでしまって軟化しているMRI像は、何と1割以上の未熟児に見られ、新しい治療法開発が待たれていた。この研究では、この様な脳白質に起こる異常と、灰質に起こる異常をスコア化して点数をつけ、エリスロポエチンを投与したグループと投与しなかったグループを比べている。結果は予想通りで、異常の発症はほぼ半減し、異常の段階を示すスコアも大幅に改善している。論文ではあまり触れられていないので、おそらくエリスロポエチン投与自体による副作用はあまりなかったようだ。この結果だけ見れば、明日から未熟児にはエリスロポエチン治療を行えばいいと言うことになるだろう。しかしMRIが正常化したからと言って本当の脳機能が回復したことを意味しない。今後、参加した子供達の脳機能を長期間追跡することが重要だ。機能的にも脳障害の発症が抑制されることがわかれば、標準的な治療へと発展するだろう。これまでの研究で、MRI画像と脳機能の相関は示されているので、個人的には大きな期待を寄せている。期待通り大きな脳障害予防効果があった場合、今度はそのメカニズムを探る基礎研究が必要になる。本当に脳細胞に直接効いているのか、あるいはほとんどの基礎科学者が考えるように、血液への効果が間接的に脳に影響を及ぼしているのか?このように研究では基礎も臨床も複雑に絡み合っている。しかし、それにしてもエリスロポエチンを投与する研究なのに赤血球の数も示されていないのは解せない。
2014年8月28日
紹介する論文
1) Generation of multipotent induced neural crest by direct reprogramming of human postnatal fibroblasts with single transcription factor (一種類の転写因子導入でヒト線維芽細胞を神経堤細胞へ直接リプログラムする。)
2) An organized and functional thymus generated from FOXN1-reprogrammed fibroblasts (FOXN1によってリプログラムした線維芽細胞から組織化された機能的胸腺を作る。)
1996年クローンヒツジドリーが生まれるまで、ほ乳動物でリプログラミングは難しいと思われていた。それどころかクローン動物作成は不可能だと言う論文まであった。実際、安定な分化状態を決めている細胞分化に伴う染色体構造の変化(エピジェネティック変化)が簡単に揺らぐようでは、私たちの身体の維持が出来るはずがないと考えるのは当然だ。しかし一旦リプログラミングが可能であるとわかると、今度は培養するだけで血液が神経になったり、果ては血液が卵子になるという論文まで発表された。しかしリプログラミングはそう簡単でない。こんなフィーバーは長続きしなかった。この状況を一変させたのが山中iPSだ。細胞質に特定の分子ネットワークが存在すれば、染色体構造もなんとか変化させられる。この確信が今、線維芽細胞から直接様々な細胞を作成するブームを生んでいる。既に多くの体細胞がiPSを経ずに直接リプログラムされている。今日紹介する2編の論文もこのブームを反映しているが、これまでのように複数の遺伝子を導入する方法とは異なり、誘導したい細胞の分化を決定している最も重要な分子一つを導入するだけでリプログラミングが達成できることを示した点で新しい。最初のJohn Hopkins大から発表されたCell Stem Cellの論文は、ヒト線維芽細胞から神経堤細胞を誘導出来ると報告している。もう一つのエジンバラ大学から発表されたNature Cell Biologyの論文は、Tリンパ球を作る環境を提供する胸腺上皮細胞をマウス繊維芽細胞から誘導した研究だ。詳細は全て省くが、これまでの研究で神経堤細胞分化決定にはSox10、また昨日紹介したように胸腺上皮細胞の分化決定にはFOXN1が最重要分子であることがわかっている。両方の研究では難しいことを考えず、ストレートにこれらの最も重要な分子一つだけを線維芽細胞に導入してリプログラミングが可能か挑戦し、導入後それぞれ2週間、10日で目的の細胞誘導に成功している。山中論文以来、どうしても分子の組み合わせが必要と思っていた先入観が取り払われると、先ず一個の分子からと言う挑戦が増えそうだ。ただ、これらの研究の意義は、一つの分子だけで簡単にリプログラミングが出来ることを示しただけではない。両方ともリプログラミングによって、これまでなかった新しい可能性を開いている。先ず神経堤細胞だが、これは第二の多能性幹細胞と言える細胞で、骨、筋肉、神経、色素細胞など数多くの系列に分化することが出来る多能性の幹細胞だ。これが簡単に作成できると言う今回の結果は、幾つかの系列細胞を作成する新しい方法として発展する可能性があり、再生医学的にも意義が大きい。実際この研究では、神経堤細胞の異常が起こる遺伝病の患者さんの神経堤細胞を誘導し、これを使って病気メカニズムが研究できるか調べている。iPSから誘導した神経堤細胞と比べて全く遜色ない神経堤細胞が誘導でき、病気のメカニズムの一端が再現できるようだ。一方、エジンバラ大学の研究でリプログラムされた細胞は胸腺上皮で、T細胞の長期培養には必須の臓器、胸腺を作るための基本材料だ。リプログラムされた細胞は試験管内でも、また移植しても胸腺の機能を再構築できる。これがヒトでも可能になると、T細胞が作れない多くの患者さんを救う可能性がある。当分このブームは収まらないどころか、加速しそうな2論文だった。ただ、細胞の分化研究を行っていた私としては、プログラムよりリプログラムという風潮が生まれるのではと懸念している。
2014年8月27日
38億年前地球上に生命が誕生してから、ヒトも含めて生命が関わるあらゆる過程は不可逆的散逸を繰り返して来た。このため過ぎ去った過去についての研究、進化研究は、過程を遡ることが原理的に出来ないと言う制限の中で行わざるを得ない。とは言えなんとか巻き戻したいと考えるのが人情だ。想像力でつなぎながらも、他人を納得させる形で時間の遡行を体験しようと様々な努力が繰り返される。試験管内で進化を巻き戻す、そんな研究の一つを8月12日紹介した。今日も「進化を巻き戻す第2弾」として、ドイツ・フライブルグのマックスプランク研究所からの研究を紹介する。我が国の国立遺伝研や京都大学も参加している研究で、8月21日 発行、Cell Reports誌に掲載されている。タイトルは「Conversion of the thymus into a bipotent lymphoid organ by replacement of Foxn1 with its paralog, Foxn4(Foxn1をそのパラログFoxn4で置き換えると胸腺がT,B両方の細胞発生を誘導するリンパ組織に変換する)。」だ。この研究を率いるThomas Boehmは胸腺の欠損したヌードマウスの原因遺伝子がFOXN1と呼ばれる転写因子であることを初めて特定した研究者で、それ以後ずっとこの遺伝子について研究している。FOXN1には同じ遺伝子から重複して来た兄弟遺伝子(パラログと呼ぶ)FOXN4が存在しており、魚類ではFOXN1,4両方が胸腺で発現している。一方哺乳動物ではFOXN1だけしか発現していない。機能的に比べると、魚の胸腺ではT,B両方の細胞が作られるのに、ほ乳動物ではほぼT細胞だけだ。B細胞は動物が陸上で生活し始めると、新しく出来た臓器、骨髄で作られるようになる。研究は、この機能の差が、FOXN遺伝子の発現パターンの差ではないかと仮説を立て、マウスの胸腺がFOXN4あるいは、FOXN1、FOXN4両方が胸腺で発現するように遺伝子操作をし、機能が魚型になるか調べている。両方のパラログ遺伝子はほとんど機能が同じと考えられ、FOXN1をFOXN4で置き換えてもT細胞を作る能力は保たれる。ただ、普通なら出現しないはずのB細胞もFOXN4で置き換えた胸腺では作られるようになり、胸腺の機能が少し魚に近づいた。これに励まされ、魚と同じように両方のFOXN遺伝子が胸腺で発現するように操作したマウスを作ると、FOXN4に置き換えただけのマウスと比べ、さらに多くのT,B細胞を作る胸腺に生まれ変わることが明らかになった。なぜこの変化が生まれるのかについてはFOXN4が胸腺で発現することで、T細胞への運命決定に必要なDLL4と未熟B細胞増殖に必要なIL7の発現にアンバランスが生じるためであることを実験的に示している。勿論詳細についての実験は今後も必要だが、実験的にマウスの進化を巻き戻すことに成功したと言っていいだろう。即ち、骨髄のない水生脊椎動物が陸に上がると、骨髄が現れる。これと同時に、胸腺や脾臓で作られていたB細胞だけが骨髄で作られるようになるが、その時FOXN4遺伝子の胸腺内発現を止めることで、胸腺からB細胞を骨髄へと追い出すというシナリオを実験的に確かめている。一種の実験進化学の研究だが、こうして生まれた魚型胸腺は再生医学にも役に立ちそうだ。魚型の胸腺を用意しておけば、T,B両方の細胞を試験管内でも作れるようになる可能性がある。8月24日号のNature Cell Biologyに発表した論文で、友人のエジンバラ大学BlackburnはFOXN1で線維芽細胞をリプログラムして胸腺上皮に生まれ変わらせ、そこでリンパ球を作らせることに成功している。この系にFOXN4も発現させればT,B両方を作ることの出来る魚型の胸腺が出来るはずだ。このように、生命科学では進化研究も再生医学もあまり違いがない。
2014年8月26日
胃の動きや胃液分泌を促しているのが迷走神経で、何かストレスを感じると胃にグッと来るのはこの神経の働きが、私たちの脳で脳の高次活動とつながっているせいだ。このため、ストレスで起こる胃・十二指腸潰瘍などでこの神経を切ってしまうという治療が行われることがある。ただ、迷走神経が胃の幹細胞やガン細胞を促進するなど想像だにしなかった。今日紹介するノルウェー科学技術大学と米国コロンビア大学からの論文は、この迷走神経が胃がんの発生や、その増殖を助けることを示した研究で、8月20日号のScience Translational Medicineに掲載された。面白い研究は当たり前と思っていることについて疑問を抱くところから始まる。胃がんの8割は胃の小湾部に発生するが、この研究はなぜこの差が生まれるのかという疑問から始まっている。著者等はこの原因として、小湾部から胃に入ってくる迷走神経密度が小湾部で高いためではないかと疑った。これを確かめるべく、マウスモデルで迷走神経と胃の連結を断って、胃がんの発生やガン細胞の増殖に対する効果を先ず調べている。予想は正しく、迷走神経支配が断たれると、発ガン率が低下し、また出来てしまったガンの増殖も遅くなる。更にガンの化学療法モデルで治療効果を調べる実験系でも迷走神経切除の効果は絶大で、マウスの生存率が大幅に延長する。臨床的にはこれで十分だが、次に著者等はなぜ迷走神経がガンの増殖を促進するかのメカニズムを追求し、迷走神経がムスカリン受容体を介して胃の上皮幹細胞を直接刺激し、幹細胞の増殖に必要なwntと呼ばれる増殖因子を分泌するようになり、幹細胞が自発的に増殖し始めることで、ガン化リスクが上がることを示している。これまで神経細胞が幹細胞を支えるニッチに働いて幹細胞の増殖を間接的に調整する可能性は示唆されていた。この研究で、神経が直接幹細胞に働きかけるルートが示されたことは、幹細胞研究から見ても面白い。ではヒトの胃がんでも同じことは起こっているのか?これを確かめるため、胃がんの組織を調べて、確かに増殖速度の高いガンほど周りに迷走神経が集まって来ていることを示している。ひょっとしたら、ガンの方も神経に働きかけて自分の増殖に都合のいい環境を作っているのかもしれない。更に、胃切除部に再発してくる胃がんの発生頻度を事後的に、迷走神経切除群と、非切除群で比べて、迷走神経切除群では小湾部のがんの再発が強く抑制されていることを示している。臨床で発生した疑問から、基礎研究、そして再度臨床研究に戻るという優れた疾患研究だ。更にムスカリン受容体を抑制するとガンの進行を抑制できるという治療可能性も示唆した点でも、トランスレーショナル研究の手本だろう。しかし、これが正しいとストレスがたまり、迷走神経が高まる状態は、ガンを助けていることになる。気をつけたい。