2016年11月4日
昨日に続いて免疫記憶とエピジェネティックスに関する論文を紹介する。今日は、今話題のガン抗体治療薬オプジーボに関わるPD-1阻害について焦点を当てた研究だ。
ガンの友人に相談された時、免疫チェックポイント機能を抑制する抗体治療ができてからは、最後の望みを託す綱として選択肢が増え、相談に乗る方も少しは気が楽になった。とは言え。すべての人がこの治療に反応するわけではなく、実際は反応しない人のほうが多い。さらに、根治の可能性についても、いつかは効果がなくなることを覚悟する必要がある。これは、チェックポイントを抑制する治療でガンに対するキラーT細胞を再活性化し、消耗を防げても、長期の免疫記憶誘導には至らないことを示唆している。
昨日解説したように、長期記憶が成立するためには、エピジェネティック・リプログラミングが必要で、この条件を発見できれば、免疫反応を長期間維持することが可能になる。今日紹介するペンシルバニア大学からの研究もPD-1阻害治療が記憶成立に至らない原因を調べた論文で10月29日号のScienceに掲載された。タイトルは「Epigenetic stability of exhausted T cells limits durability of reinvigoration of PD-1 blockade(PD-1阻害により再活性化したT細胞の永続力をエピジェネティックな安定性が制限する)」だ。
同じ号にハーバード大学からも同じラインの研究についての論文が発表されているが、わかりやすいという点でこの論文を選んだ。
研究では、CD8T細胞を誘導するLCMウイルスに対する反応をガンの代わりに用い、チェックポイント阻害としては抗PD-1の代わりに、PD-L1に対する抗体を用いている。
まず、抗原刺激が続いてT細胞と、抗体処理により再活性化させたT細胞の遺伝子発現を比べ、PD1阻害によりキラーT細胞が刺激前の状態をある程度回復できるが、記憶T細胞と比べると、遺伝子発現は大きく違っており、また無菌マウスでの細胞の寿命も短いことを示している。すなわち、PD-1阻害だけでは消耗したT細胞をリフレッシュは出来ても、免疫記憶を成立させるほど大きなエピジェネティックリプログラミングが起こらないことを示唆している。
この結果をエピジェネティック状態の変化と相関させるために、昨年の8月このホームページで紹介したATAC-seqと呼ばれる方法でクロマチンが開いている領域をゲノム全体にわたって比べている。これにより、PD-1阻害により確かにクロマチンの変化が誘導されるが、ほんの一部だけで、記憶T細胞で見られるクロマチン変化のたかだか10%ほどしか変化が誘導できないことがわかった。
ではPD-1阻害による免疫反応を持続させるためにどうすればいいのか、そのヒントを求めてデータを詳しく解析し、抗体処理後IL-7やIL-2刺激である程度持続性を高められる可能性を示している。
このように、エピジェネティックスの観点から見ると、PD-1阻害では長期記憶という安定なエピジェネティック変化を誘導することが難しいことがわかる。ただ、山中4因子によるリプログラムからもわかるように、あるクリティカルな転写ネットワークが成立すると、多くの遺伝子を巻き込むリプログラムが可能なので、このクリティカルポイントを探求する意義は大きいと思う。また、昨日紹介したように、代謝などの一般的変化がこれに加わると、リプログラムの可能性が高まる。
チェックポイント治療による根治を目指してこの領域の研究が進むことを期待している。
2016年11月3日
「記憶は神経細胞分化」と言ったのは、長期記憶の研究でノーベル賞を受賞したエリック・カンデルだが、新しい体験を長期に維持するためには細胞自体が変化する必要のあることを述べた言葉だ。一方、発生学はエピジェネティックスだから、カンデルの言葉を言い換えると、「記憶はエピジェネティックス」ということになる。
実際、神経分野もそうだが、刺激された細胞を純化しやすい免疫系では、最近、免疫記憶とエピジェネティックスについての論文を目にする機会が増えた。今日紹介するケンブリッジ大学からの論文は同じ方向の研究だが、刺激と同時に代謝が変化することが細胞のエピジェネティックス状態を変化させ、長期記憶につながることを示した研究でNatureオンライン版に掲載されている。タイトルは「S-2-hydroxyglutarate regulates CD8+ T-lymphocyte fate(S-2-hydroxyglutarateがCD8T細胞の運命を制御する)」だ。
著者らはCD8T細胞が様々な場所を循環する間にさらされると予想される低酸素状態の影響について調べるため、低酸素に反応する転写因子VHL, Hif1ノックアウトマウスのCD8T細胞と正常CD8T細胞の代謝産物の違いを調べ、VHL遺伝子が存在しないとS-2-hydroxyglutarate(2HG)の細胞内濃度が上昇することに気がついた。すなわち、低酸素に反応して2HGレベルが上昇することが明らかになった。
次に抗原刺激と低酸素を組み合わせる実験から、2HGが抗原刺激でも上昇するが、それに低酸素加わると一段と濃度が高まることが明らかになった。そこで、2HGのT細胞機能への影響を調べ、T細胞刺激後起こる短期の変化を、長期の変化に変換し、記憶形成に関わることを発見した。これは、抗原刺激後上昇して刺激がなくなると消失する記憶T細胞マーカーCD62Lの発現が、低酸素にさらされ2HG濃度が高まることで、維持されることに現れている。さらに、細胞移植実験で、機能的にも記憶細胞として働くための長期的転換が起こっていることを明らかにしている。
最後にこの長期記憶成立の背景を追求して、2HGがヒストンメチル化パターンを変化させ、メチル化パターンの調節に重要な役割を演じるUtx遺伝子を抑え、記憶成立に関わる多くの分子の転写開始部位のヒストンをH3K4me3のオン型に変換させていることを明らかにしている。他にも、メチル化DNAとハイドロオキシメチル化DNAについても言及しているが、著者らはこの可能性にはあまり真剣でないような雰囲気で書かれているので、ハイライトとしては低酸素による2HG上昇がヒストンコードを変化させることで免疫記憶が成立したと結論していいだろう。
ヒストン全体がオフ型に変わって、Utxが抑えられ、そのあとで記憶に関わる遺伝子がオン型に変わる過程の詳細についてはさらに明確にする必要があるだろう。しかし、抗原刺激だけでなく、環境により誘導される代謝変化が合わさって記憶が成立するという発見は新しい展開につながる予感がする。
最初エピジェネティックス機構は環境への対応、特に酸素濃度や、危害に対する対応の必要性から生まれた。この最初の刷り込みが、免疫記憶誘導にも続いているかと思うと感動する。
2016年11月2日
擬遺伝子とは、かってはタンパク質をコードしていた遺伝子が、何らかの突然変異により機能を失ったままゲノムの中に残っている遺伝子を指す。したがってどの遺伝子でも擬遺伝子化できるが、種の生存に重要な遺伝子は、擬遺伝子として残ることはまれだ。遺伝子の中で擬遺伝子の数が多いのが、様々な匂いを嗅ぎ分けるためにゲノムに散在している嗅覚受容体分子をコードする遺伝子だ。哺乳類の中でヒトは少ない方で、機能する遺伝子は500個に満たないが、それ以上の数の擬遺伝子を有している。実際、嗅覚受容体遺伝子は重複、欠失を繰り返しており、哺乳類でも必要がなくなったクジラでは機能できる遺伝子は4個に減っている(
https://www.brh.co.jp/communication/shinka/2015/post_000006.html)。
これほど擬遺伝子が多いとどうしても配列だけで判断して擬遺伝子と断定してしまうが、突然変異が入っているからといって擬遺伝子としていいのかは問題だ。事実、嗅覚受容体として機能しなくとも、他の機能があるのではという指摘がこれまでも行われていた。
今日紹介するスイス・ローザンヌ大学からの論文は、ショウジョウバエの嗅覚受容体の中で、配列上どうしても擬遺伝子としてしか見えない遺伝子が、完全な機能を持っていることを示す研究でNatureオンライン版に掲載された。タイトルは「Olfactory receptor pseudo-pseudogenes(嗅覚受容体の擬・擬遺伝子)」だ。
実際にはこのpseudo-pseudogenesというタイトルに惹かれて、「擬・擬遺伝子とは何か?」と読み始めた。研究では、Ir75aと呼ばれる酢酸を認識する嗅覚受容体について調べている。酢酸に対する反応が低いショウジョウバエの種類のIr75a遺伝子を調べると期待通り遺伝子の中間にストップコドンが入っている。ところが、PCRで発現遺伝子を見ると、完全なIr75a遺伝子が検出されてしまった。すなわち、ゲノムでは擬遺伝子として分類できるものが、そうではなかったということになる。実際、この遺伝子を取り出して、ショウジョウバエで発現させると、ストップコドンが入っているのに発現が見られる。しかも、神経だけで発現が見られる。結局、ストップコドンを上手く飛ばして転写が進んで、機能的遺伝子が発現することがわかった。
様々な遺伝子を作ってなぜストップコドンを無視できるのか調べ、ストップコドンの下流にある配列が認識されるとストップコドンが無視できることを明らかにしている。
最後に同じような転写のされ方をする嗅覚受容体遺伝子が他にも存在することを示して、この方法で少し反応が変化した嗅覚受容体を積極的に生成しているのではないかと示唆している。
おそらくtRNAがmRNA上でアッセンブルする際の制御にりストップコドンが無視できると考えられるが、分子を完全に同定するには至っていない。このため、現象論的で終わっているのだが、しかしこのような様式が高等動物でも存在するという認識は、今後の遺伝子分類にとって重要だと思う。
最後にわかりやすく擬・擬遺伝子を定義するなら、擬遺伝子を装う遺伝子とするのが良さそうだ。
2016年11月1日
もともと今日はスウェーデン・ルンド大学からの、ヨーロッパアマツバメは10ヶ月続けて空で過ごすことがあることを示した11月21日Current Biologyに掲載予定の論文を紹介しようと思っていた。ところが朝日新聞のワシントン支局小林記者がこの論文を紹介しているのを知った(
http://www.asahi.com/articles/ASJBY2HKQJBYUHBI009.html)。よくまとまった記事なので、あえて私が紹介することもないと思い、ここでは簡単に触れて、他新聞記事になりそうな話を2題紹介する。ヨーロッパアマツバメに関しての感想だが、活動を長期間記録するロガーがここまで軽量化できているのかと驚いたし、この論文により、私が今年8月に紹介したグンカンドリは飛行中も寝ることができることを脳波記録から示した論文も間違いないことを確認した(
http://aasj.jp/news/watch/5615)。
最近面白いと思った記事の一つが10月20日号のNature(Vol 538, 290p)に掲載された、Sara Rearoon編集者の記事「Scientists who back Trump (トランプ支持の科学者)」だ。
アメリカ大統領選挙まで後1週間。両候補ともスキャンダルにまみれた、前代未聞の選挙戦になっているが、それでもクリントンはリベラル、トランプは保守といった図式はあるように見える。では、アメリカの科学者は両候補についてどんな意見を持っているのか気になるが、それに上手に答えたレポートだ。
記事はトランプ支持のKaylee(偽名)さんというカソリック教徒のポスドクが、今の大学の雰囲気では、トランプ支持を公にすると研究職を失うかもしれないと語るところから始まっている。すなわち、大学や研究所のほとんどが今回は反トランプでまとまっており、トランプ支持者は頭がおかしいのではと迫害されるというのだ。もともとアメリカの大学の教授陣はリベラル派が多い。これにトランプの女性差別や人種差別発言が重なり、大学内がリベラル派以外を排除するところまでに至っているという話だ。
さもありなんと納得の記事だが、記事の中でリベラル支持の大学の雰囲気を示すため、科学者がリベラルと保守のどちらを支持するかについて分野別に調べた統計が掲載されており、面白かったので最後に紹介する。
統計では各分野の科学者に、リベラルか、中道か、保守か、あるいはそれ以上に左翼か、右翼かを選ばせている。グラフで示されており、正確な数字ではないが、まずほとんどの分野でリベラル傾向が圧倒的に強い。リベラル傾向の強い順に分野を並べると、天文学、社会学、生物学、地質学、物理学、化学、数学、経済学、そして工学と続く。工学や経済学に保守・中道支持が多いのはなんとなくわかった気になるが、他の分野の順序、例えば生物学の方が数学よりなぜリベラルが多いのかなどはよくわからない。しかし、面白い統計だともと科学者の私は不思議と納得した。一般の方の意見も聞いてみたい。
最後に紹介するのがスペイン・マドリードコンプルテンセ大学からの論文で、リーマンショックに始まる不況は、皮肉にも死亡率の低下をもたらしたことを示す調査でThe Lancetにオンライン掲載されている。タイトルは「Mortality decrease according to socioeconomic groups during the economic crisis in Spain: a cohort study of 36million people(経済危機期間中、経済的状態によっては死亡率が低下する。3600万人のコホート解析)」だ。
この論文を読むまで、経済危機によって死亡率が上昇すると思っていたが、これまで多くの国で行われた統計調査では、経済危機により一般的に死亡率が低下することが示されていたようだ。
この研究では、2001年時点で10−74歳までのスペイン国民3600万人を選び、リーマンショック前後で死亡率を調べている。これまでの研究と同じで、リーマンショック後、全体の死亡率とともに、様々な疾患による死亡率も低下しているという結果を示している。例外はがんによる死亡率で、逆に増加が見られている。
死亡率の低下は、所得の低い階層に特にはっきり認められることから、生活困窮により死亡率が上昇するというのは、おそらく先進国には当てはまらないという結果だ。
私が一番驚いたのはスペインでは自殺による死亡率も減少していることだ。私もそうだが、不況により自殺が増えると思うのが常識だ。実際、米国の統計では、経済不況は低所得者層の自殺を増やすことが示されている。我が国の自殺統計を見ると1993年バブル崩壊後上昇を始め1998年に大きく跳ね上っている。スペインと同じ時期のギリシャの経済危機でも自殺率は増加している。
不思議なことに、スペインだけが違うようだ。「Hasta manana! 明日は明日」と挨拶するスペイン人の国民性かと変に感心してしまった。
2016年10月31日
プロテアソームで切断されたタンパク質が分断された後再結合するタンパク質のスプライシングを発見したのは、今年のノーベル賞を受賞した大隅さんが大学院を過ごした研究室の教授、安楽さんだが、オートファジーと比べると、この現象はなかなか表舞台に現れることはなかったと思う。実際私の様な門外漢でも、オートファジーについては数多くの論文を読んだが、今日紹介するベルリン・シャリテ医大とロンドン・インペリアルカレッジからの論文を読むまで、タンパク質スプライシングについての論文を読んだ記憶はほとんどない。
この論文は、タンパク質スプライシングがT細胞を刺戟するペプチド抗原の生成に大きな役割を演じていることを示しており、今後、ウイルス感染免疫やガン免疫成立を考える時、避けては通れない現象になる可能性を示唆している。タイトルは「A large fraction of HLA class I ligands are proteasome-generated spliced peptide (クラスI組織適合抗原に結合するリガンドのかなりの部分がプロテアソームでスプライスされたペプチド)」で、10月21日号のScienceに掲載された。
タンパク質スプライシングが重要な役割を演じるかもしれないと期待できるのが、T細胞刺激を誘導するペプチドの生成だ。私自身、このT細胞刺戟ペプチドは単純にタンパク質が9−12merに切断されてできてきたと信じ込んできた。しかし、もしタンパク質がスプライシングを受けるとすると、ペプチドの配列はもっと多様になる。
幸い、最近細胞内のペプチドを網羅的に解析するプロテオーム解析が進み、データベースが整備され、タンパク質スプライシングが決して稀な現象でないことが明らかになってきた。
この研究では、この様な進展を活かせる情報処理方法を開発し、様々な細胞表面上のHLA抗原に結合しているペプチドを溶出、解析してスプライシングによるペプチドがどの程度存在するか調べている。
驚くことに、三種類の細胞で調べた時、なんと3割近くのペプチドがスプライシングにより生成されたペプチドであることが分かった。さらに、メラノーマを用いた別の研究から、スプライシングを受けたペプチドがT細胞の試験管内反応を誘導することも確認しており、タンパク質スプライシングにより本来ゲノムにはない新しい免疫原性のあるペプチドができることも示している。
そして、同じタンパク質から生成されるスプライス型とノンスプライス型のペプチドを比べて、自己抗原ペプチドの三分の一がスプライス型であること、組織適合抗原と結合しやすい様なアミノ酸部位でスプライスを受けていることなどを明らかにしている。
今後外来抗原やガン抗原での解析が待たれるが、著者らはプロテアソーム内でのタンパク質スプライシングにより、組織適合抗原上に抗原として提示されるペプチドのレパートリーが増えるため、このメカニズムが進化過程で選択されてきたと考えている。確かに、どのペプチドも組織適合抗原に提示されるわけではないことを考えると、スプライシングにより、抗原性を持つペプチドのレパートリーを増やすことは免疫系の多様性にとっては重要に思える。
繰り返すが、次は外来抗原やガン抗原でのタンパク質スプライシングの役割についての研究を進めて欲しいと期待する。
2016年10月30日
昨日に続いて今日も心理学の論文を紹介する。
今日紹介するスイス・チューリッヒ大学からの論文は、外から電磁気刺激で脳を操作して自己中心的な気持ちを克服する行動がどう変化するかの研究で、脳と行動を関連させるための操作介入研究だ。論文は10月19日にScience Advances に掲載され、タイトルは「Brain stimulation reveals crucial role of overcoming self-centeredness in self-control(脳刺激研究によって自己中心主義を乗り越える行動が自制心に重要な役割を演じていることが明らかになった)」だ。
私たちは、将来のため、あるいは他の人との関係を維持するため、現時点の欲望を我慢することができる。この研究の目的は、将来や人間関係を考えて我慢が必要な二つの行動が、側頭頭頂接合部(TPJ)と呼ばれる支配を受けているという仮説を検証するために行われている。この脳領域は、今月10日に紹介した(
http://aasj.jp/news/watch/5895)Theory of Mindと密接に関わると考えられている
この仮説を証明するために、著者らは経頭蓋磁気刺激法(TMS)でTPJ領域の脳活動を操作し、被験者の行動が影響されるかどうかを調べている。
将来のために我慢できるかどうかを調べるために、満期まで待てば160フラン、すぐに受け取る場合は0−160フランまでのお金がもらえるという条件で、どちらを選ぶかを決めさせる。例えば、1年待てば160フラン、今受け取る場合は50フラン、あるいは1ヶ月待てば満額、今受け取る場合は30フランと条件を変化させて、それぞれの場合で被験者に選ばせる。この実験をTMSでTPJを操作して繰り返し、影響を調べている。
同じ様に、今度は最も近い親戚から赤の他人まで、様々な関係の人に自分の取り分をどれだけ他人に提供できるか、決めさせる。この時やはりTMSで刺激を加えて影響を受ける過程を調べている。
結果だが、「今は我慢する」、あるいは「他の人と取り分を分かち合ってもいい」という気持ち自体はTPJ領域の帰納をTMSで乱しても影響されない。しかし、何ヶ月待てるか、今いくら受け取れるなら我慢できるか、あるいは、関係の大事さとそれに合わせた提供する額のような、量的な指標は大きく変化する。すなわち、我慢する、あるいは大事にするという判断の基準がより厳しくなる。
最後に、これが自制心と関わることを示すために、他人の視点に立てるかについて調べる課題を行わせ(詳細は省く)、TPJ領域をTMSによって乱すと他人の視点に立つことが障害されることを示している。
結論的には、TPJ領域は他人の視点に立つ、すなわちTheory of Mindと関わる脳の高次機能を介して、将来のために我慢したり、他人との関係を大事にする行動を支配しているが、我慢しても良い、他人との関係を大事にする気持ちそのものではなく、どの条件なら我慢するかといった気持ちの強さを支配しているという結論だ。
最初に結論ありきの印象を強く持つが、しかしTMSがこの様に特定の脳領域操作に使えるなら、行動心理研究はかなり進展する気がする。
一方、頭蓋の外から脳操作が可能だとすると、少し背筋が寒くなる。
2016年10月29日
嘘をつかないひとはまずいないと思うが、だからと言って世の中が大混乱に陥るわけではない。それは、ほとんどの人が嘘を小さな嘘で終わらせるブレーキを持っているからだ。従って、嘘の問題は、嘘をつくことに慣れてしまうことだ。
今日紹介する英国・ロンドン大学からの論文は、このブレーキについての研究でNature Neuroscienceオンライン版に掲載された。タイトルはずばり「Brain adapts to dishonesty(脳は不誠実さに慣れてしまう)」だ。
おそらく自分が嘘をつくのを観察されるのは誰でも嫌だ。そのため、嘘をつかす心理学実験は難しい。さらに、嘘をつかせながらMRIで脳の活動を調べるのはさらに難しい。この課題をなんとかこなしたのがこの研究だ。
さて、嘘のつかせかただが、実験のためにやってきた被験者をまずダミーのもう一人に紹介し、これから一緒に実験に参加してもらうことを伝える。そして二人に実験の説明をした後、被験者にはパートナーの決断のためのアドバイザーにまわってもらうことを伝えて実験に入る。
さて実験だが、大きなガラスジャーにコインが入っていて、いくら入っているかをパートナーに当てさせる。指南役の被験者には大きな写真が示され、パートナーには小さな写真しか見せない。さらに15−35ポンドのコインが入っていることを被験者だけに教える。そして、様々な条件下で、ジャーに入っている金額の推測のための情報を、被験者がパートナーに正しく伝えるかを調べている。
例えばパートナーが高めに見積もった場合、被験者に多くのお金が与えられ、逆にパートナーは正確な判断をするほど多くのリターンがあるとすると、嘘をつくほど自分が儲かり、パートナーは損をする。
一方、パートナーをミスリードして間違わせたほうが両方に多くのリターンがある場合は、嘘をついてもパートナーに不利益にならない。
最後にパートナーが正確な予測するほど被験者は高いリターンを得、逆にパートナーは多めに見積もるとその分リターンを得られる様な条件では、嘘をつくと自分の損になりパートナーは得をする。
これらの条件でトライアルを繰り返し、嘘の程度を調べると、嘘をついて自分が得する場合は回を重ねるごとに、嘘の程度が拡大する。幸い、自分の嘘で相手が損を被る場合は、嘘の程度は少し抑制されるが、それでも回を重ねると拡大する。
一方、嘘をつくと自分が損する場合、ほとんど嘘はつかない。というより、できるだけ正確な情報を伝える。
さてこの時、機能的MRIで脳の活動を調べると、嘘をつく時に扁桃体が活性化しているのがわかる。しかし、この脳活動は嘘が拡大するほど、低下する。逆に、この活動を調べると、被験者が嘘をつくかどうか予測することが可能だという結果だ。
結論としては扁桃体が嘘を認識してブレーキ役になるが、嘘が続くと活動は低下し、ブレーキを失うことになる。
面白い論文だが、小さな嘘についての話だ。ぜひ政治家が大きな嘘をつく時の扁桃体の活動を調べてみたいと思った。ヒットラーは「Die meisten Menschen werden leichter Opfer einer großen Lüge als einer kleinen.(ほとんどのひとは小さな嘘より大きな嘘に簡単に騙されてしまう)」と言ったが、この質の差を決めているもの脳のどこなのか興味が尽きない。
2016年10月28日
自閉症は治すことのできない病気だと思い込んでいる人がいるが、着実に治療のための科学的取り組みは進んでいる。科学的治療といったのは、医師が思いつきで行う治療ではなく、その効果を治験という形で調べることだ。
嬉しいことに、先週はこの様な科学的治験についての論文が2報も報告されたので、紹介する。
最初の論文はロンドン・キングスカレッジを中心に自閉症児の両親に対する教育プログラムの効果を確かめた治験論文で10月25日号The Lancetに掲載された。タイトルは「Parent-mediated social communication therapy for young children with autism (PACT): long-term follow up of a randomized controlled trial (自閉症児童に対する両親を介するコミュニケーション治療(PACT)長期追跡治験)」
この研究では、テンカンや知恵おくれなどの症状を持たない2−4歳の自閉症児童をリクルート、その中から無作為に選んだ半分の児童の両親に、2週間に1回6ヶ月間、自閉症のことをより深く知り、子供を観察し、責任を持ってコミュニケーションを高めるための一回2時間の教育プログラムを受けてもらい、そこで学習したことを元に子供に接してもらうことが自閉症の子供の成長に及ぼす影響を調べている。
実はこの治験の短期効果は2010年すでにLancetに報告されている。今回は、さらに5年を経た長期効果だ。効果の判定は徹底している。ADOSと呼ばれる自閉症総合診断テストに加え、言語能力は言うに及ばず、8ミリビデオの記録を使ってコミュニケーション能力の判定も行っている。さらには、両親や学校の先生の評価も加えてこの方法の効果を確かめている。
結果はあらゆるテストで、PACTにより自閉症児の症状の改善がみられ、6ヶ月のプログラムだけで少なくとも6年にわたって効果が続いたという結果だ。2週間に一回のコースなら負担も大きくない。特に自閉症児を持つ両親はすでに大きな負担の中で生活されている。おそらく治療のための重要な時期があるはずなので、早く普及するといいと思う。また、日本版の作成も期待したい。
次の米国アーカンサス小児病院からの論文は自閉症児自体を対象とした治験で、Molecular Psychiatryオンライン版に掲載された。タイトルは「Folinic acid improves verbal communication in children with autism and language impairment: a randomized double blind placebo controlled trial(葉酸は言葉の問題がある自閉症の言葉によるコミュニケーション能を改善する:偽薬を用いた無作為二重盲検治験)」だ。
不勉強で知らなかったが、自閉症児の多くは葉酸を細胞内に取り込む受容体に対する抗体ができているらしい。この研究ではこのデータに基づき、葉酸投与により自閉症の症状改善が可能か二重盲検法を用いて検討している。この治験では、投与群23人と偽薬群25人を選び(7歳時点)、2mg/kgの還元型葉酸folinic acidを2週間投与している。
両群とも半分の患者さんに葉酸受容体抗体がみられ、これまでの結果を確認している。さて結果を簡単にまとめると、12週目で見たとき、folinic acid投与により言葉によるコミュニケーション能力の低下を阻止し、逆に改善がみられたという結果だ。この効果は、抗体陽性群で高いが、陰性群でも認められることから、一般的な自閉症治療として利用できると結論している。
詳しいデータはすべて省略しているが、両方の治験とも明日からでも実施可能な方法で、副作用もほとんどないことから、臨床応用を早期に検討して欲しいと期待している。
2016年10月27日
昨日に続いて、今日もアカデミア発の新しい分子標的薬についての論文を紹介しよう。今日紹介するオーストラリア・ウォルター・エリザホール研究所からの論文が報告しているのは細胞死を防ぐBcl2ファミリーの一員、MCL1に対する薬剤だ。
これまで、ガン遺伝子が活性化して細胞の増殖が促進すると、安全機構が働いて細胞が死にやすくなること、そしてガンではこの安全機構の作用を逃れるため、Bcl2ファミリー分子の発現が上昇することが知られていた。中でもMCL1は血液のガンの多くで発現してガンを細胞死から防いでいることが明らかになっていた。
この様にMCL1は当然ガン治療の格好の標的になっていいが、ノックアウトマウスの解析から、正常血液幹細胞などの幹細胞自己再生に必須の分子であることも明らかになっており、薬剤開発は進んでいなかった。
これに対しウォルター・エリザホール研究所はBcl2ファミリー分子の研究で伝統があり、MCL1についても多くの優れた研究を行ってきた。この伝統が後押しして、MCL1を標的とする薬剤開発を地道に進めていた様で、ついにポテンシャルの高い薬剤が開発されたことを本日発行のNature で報告している。タイトルは「The MCL1 inhibitor S63845 is tolerable and effective in diverse cancer models (MCL1阻害剤S63845は様々なガンモデルに効果を持ち薬剤として許容できる)」だ。
述べた様にこのグループは最初からMCL1阻害剤の開発を目指していた。ただ、肝心の薬剤開発までの過程は詳しく書かれていない。多くの化合物をスクリーニングしたのではなく、小さな化合物とタンパク質との結合に関する構造データをもとに、最終的に化合物をデザインしてS63845を完成させている。いわゆるin silico創薬と言ってよく、メディシナルケミストの腕の見せ所だろう。MCL1に対する阻害剤はこれまでもあるにはあったが、それと比べてS63845は1000倍活性が高い様だ。
あとはS63845がどの様なガンに効くのか、ガン細胞株を用いて調べている。もともとMCL1を強く発現している骨髄腫は17/25の確率で、これまで試されていたBcl2阻害剤より有望だ。また、マウスに人のガンを移植したモデルでも効果を示している。他にも、ヒトのリンパ腫や白血病、あるいはマウスのリンパ腫モデルでも高い効果を示す。最後に、患者さんから採取したばかりの急性骨髄性白血病でも試し、5/25で効果が見られている。
最後に様々な固形ガンにも試しているが、単独ではほとんど効果がない。しかし、キナーゼ阻害剤と組み合わせると多くのガンで効果が見られる。そして、何よりも不思議なことに、200日投与した例でもマウスは生存し、投与されたマウスの造血系にも大きな異常が見られない。
今後なぜ副作用がないのかなど、メカニズムの解析が必要だが、おそらく期待以上の結果が出たと思う。残念ながらすべてのガンや白血病に効くわけではないが、効果を予測するマーカーが存在することから、様々なガンで試されることが期待される。
昨日のAPC、今日のMCL1と、これまで標的として期待されていなかった分子に対する薬剤がアカデミアで開発されたのは心強い。特に今日紹介した薬剤は、新しい手法でデザインされており、今後の期待が膨らむ。
AMEDの旗振りで我が国のアカデミアも薬剤開発を唱えているが、現状はどうなのか、専門家が見て是非率直な評価をして欲しいと思う。
2016年10月26日
APC遺伝子は、家族性大腸ポリポーシスの原因遺伝子として現シカゴ大学の中村祐輔さんらにより特定された分子だが、ポリポーシスの患者さんは高率に大腸癌へと進展すること、また多くの原発性の大腸癌でも変異が見られることから、大腸癌発生の鍵になる分子と考えられている。ただ私もそうだが、多くの人はAPCはガン抑制遺伝子なので、この分子に対する薬剤の開発は難しいと思い込んでいたようだ。
今日紹介するテキサス大学サウスウエスタン医療センターからの論文は、この思い込みが間違いで、APCを標的にした薬剤が開発できることを示した研究で10月19日号Science Translational Medicineに掲載された。タイトルは「Selective targeting of mutant adenomatous polyposis coli (APC) in colorectal cancer (大腸癌のAPC遺伝子変異を選択的に標的にする治療)」だ。
この研究では、ガン抑制遺伝子とはいえAPCはほとんどの直腸癌で、ただ欠損するわけではなく、短い分子が発現していることに注目した。すなわち、この短い分子がガン抑制というより、ガン増殖促進作用があると考えた。
そこで、この短いAPC遺伝子APC-mを持つ大腸上皮細胞株を樹立し、APC-mを持つ細胞株の増殖のみ抑制する化合物を探索し、20万種類の化合物の中から最終的にTASIN-1と名付けた化合物を特定している。
あとは、期待どおりTASIN-1がかなりの割合の大腸癌細胞株の増殖を抑えること、正常のAPCには全く影響がないこと、大腸ポリポーシスの動物モデルで、ポリープ発生と増殖を抑えられることなどを示している。
最後に、なぜTASIN-1がAPC-mだけを効果があるのかについて調べ、TASIN-1がコレステロール合成系のEBPを阻害作用を持ち、ガン特異的コレステロール合成阻害を介して増殖を抑えることを明らかにしている。
この結果は、大腸癌でAPCは、従来考えられていたWntシグナルを介する増殖異常のみならず、コレステロール代謝を細胞の増殖に都合のいい様にかく乱していることを示唆している。この経路のさらに詳しい解析が進むと、大腸癌の弱点がさらに明らかになり、根治は無理でも、ガンの進行を遅らせることができる様になるだろう。
APCの作用について、一つのシナリオで納得するのではなく、それに対する小さな疑問から薬剤の開発まで進んだいい研究だと思う。APC-m特異的なので、実用化は早いのではと期待する。