2016年7月7日
社会問題の科学最終日に紹介する論文は、私たちが明るい夜を過ごす結果、本当の夜空が失われていることを科学的に示した研究で、七夕の今日こそ考えてみる価値のある社会問題を扱っている。
この研究の責任著者のFabio Falchiさんの所属する研究所はInstituto di Scienza e Tecnologia dell’Inquinamento Luminoso、すなわち「光害」科学技術研究所で、この社会問題に特化した研究所があることに驚く。
論文のタイトルは「The new world atlas of artificial night sky brightenss(夜空の人工光輝度についての世界地図)」で、6月10日Science Advanceにオンライン出版されている(Fabio Falchi et al, Science Advance,
e1600577, 2016)。
人工光源による夜の明るさを正確に示した世界地図を作ることがこの研究の目的だ。最初掲載された写真を見て、衛星からの画像を分析しただけかと思ったが、論文を読んでみるとさすが光害科学技術研究所からの仕事だけあって、測定に大変な努力を払っている。
もちろん衛星写真データは、地図作成にとって最も重要な位置を占めており、フィンランドの極軌道を旋回する衛星から各地点を6ヶ月にわたって測定し、雲や雪など様々な条件を補正した世界地図を作り上げている。
この地図をさらに正確にするため、「天頂」の輝度を各地点で測定するとともに、グーグルマップ作成時のように、車両に積んだ夜空の質を図る装置「Light quality meter」を用いて全ての大陸の様々な地点で測定を行い、約10000カ所での正確なデータをはじき出している。
最終的にどう処理したのかは専門でないのでわからないが、これらの膨大な測定をもとに、夜の明かりの世界地図が作成され、何枚かの図に分けて掲載されている。なかなか美しいロマンチックな図だ。
さてこの結果を一言で表すのは困難だが、まず現在地球上に住む人間の80%、米国やEU、そして我が国でも99%がまったく自然の夜空を知らずに生きていることに驚く。
この論文では、天の川を見ることができるかどうかで線を引いて、天の川を見ることができない人の割合を各国で比較している。もっとも人工光の影響が強い国がシンガポールで、ここでは夜空自体が存在しない。次いで、クェート、カタール、アラブ首長国連邦、サウジアラビアと中東産油国が続き、アジアで最初に来るのが韓国になる。
我が国はと目を凝らしてデータを探すと、アメリカやロシアより天の川を毎日見ることができる人口は多いが、それでも70%の人は天の川を見られない場所で生活している。
他にも、例えばガザ地区や、リビア、エジプト、そしてアイスランドまでが我が国より悪い数値になっている。
誤解のないようもう一度この数値を説明すると、夜空を汚染する人工光の輝度を6段階に分け、それぞれの領域で生活する人口の割合を比較に使っている。したがって、自然の夜空が存在する面積ではない。
すなわち、人口が都市に集中すればするほど、この数値は悪くなる。したがって、エジプトやリビアまでが我が国より汚染されているということになるが、決してリビアの砂漠の夜空が失われたわけではない。
一方、天の川の見られる場所の面積も示されている。G20の国でみると、我が国の60%の場所で天の川が見られる。この数値は、ドイツやフランスよりよく、要するに少しドライブすればまだ天の川を見ることができる。
あとはこの結果をどう受け取るかだ。日本人としては、七夕の天の川がなくなるのは寂しいが、しかし1時間もドライブすれば天の川を見ることができるなら深刻な問題にならないだろう。正直な気持ちを述べると、個人的には、真っ暗な夜道の方が不安を感じる。確かに「光害」も社会問題だが、これを社会問題として受け止められるようになったら、その国は物心両面で豊かな、成熟した国と言っていいだろう。我が国にそんな日が来るのだろうか。
2016年7月6日
社会問題の科学特集3日目は、ランカスター大学をはじめとする数カ国の国際チームがアマゾンの熱帯雨林環境破壊について行った調査研究を紹介する。タイトルは「Anthropogenic disturbance in tropical forests can double biodiversity loss from deforestation (人間による熱帯雨林の乱れは森林破壊による生物多様性の損失を倍加させる)」で、Natureオンライン版に掲載されたところだ。
この研究は本来社会学というより、生物学の一分野である生態学研究に分類できる。しかし、最初から熱帯雨林破壊という社会問題を科学的に解決する糸口を見つけたいという明確な社会的目的を持って行われている点で、社会問題の科学と呼んでいいだろう。
さらに一万年前と比べると熱帯雨林を始めとする原生林の8割以上が失われ、現在も失われ続けており、二酸化炭素問題を始め地球レベルの変動の原因になっている。ただ、この変動は人間の活動によってもたらされたもので、この変動についての生態学的研究は自然と人間の接点でおこる社会問題の科学になる。
もちろん我々も熱帯雨林破壊が地球に及ぼす影響は十分認識しており、多くの政府も経済発展を犠牲にしても熱帯雨林を保護する政策を取り始めている。ただ、この政策の中心は森林を完全に破壊することの規制にだけ向けられており、ジャングルの中で行われる様々な人間の活動についての評価はほとんど行われていなかった。
この研究の目的は、森林内で行われる選択的伐採、人為的な焼畑や火事が、アマゾンの熱帯雨林の生物多様性に及ぼす影響を調べ、エビデンスに基づいて森林内での人間の活動の規制について提言することだ。
研究ではブラジルパラ州の熱帯雨林の様々なローケーションにある水場での、植物、甲中、鳥類の定点観察を2年にわたって行い、その周辺で行われた人為的活動が生物多様性に及ぼす影響を調査している。実際156種、150万個体の観察に基づいて生物多様性の保存の程度が評価されており、大規模な研究であるのがわかる。
膨大な結果が示されているが、全ての詳細を省いてまとめてしまうと、
1) 森林を完全に破壊することで当然生物多様性もほぼ完全に失われる、
2) ただ、これまで規制の対象になっていた大規模破壊だけでなく、森林内で行われる一部の植物の伐採や、人為的焼却も、生物多様性喪失に大きな要因になっている。
という結論になる。
経済目的での大規模破壊が規制され、熱帯雨林が一見保護されているように見えても、ジャングルの中で行われる人間の様々な活動も規制しないと、生物多様性が失われ、その結果森林も失われることを警告している。そして様々な熱帯雨林の状況に即した実行可能な政策を提言している。
1ヶ月もするとブラジルはオリンピックに沸くだろう。しかしその経済状態を見ると、このような提言を実行に移す余裕はないと思う。この研究と同じような、国際的プロジェクトチームがブラジル政府と協力してこの提言を実行していくしかないだろう。いずれにせよ、社会問題の科学も、それが政策として実行されなければ、生物学で終わる。
2016年7月5日
社会問題の科学特集2日目は、科学自体が抱える問題、すなわち科学社会学の論文だ。
科学の発展を左右する一つの鍵は、分野の殻に閉じこもらず、様々な領域の研究者が協力して新しい分野を切り開く力だ。これを学際協力と呼ぶが、その手本と言えるのが、ネアンデルタール人ゲノム解読で有名なペーボさんが立ち上げたドイツライプチヒ・マックスプランク進化人類学研究所だろう。研究所の部門構成をみると、進化遺伝学、言語学、人間行動学、人間進化学、サル学、比較発生生理学からなっている。特に言語学と遺伝学のように全く離れた分野の学問が、人間進化学やサル学を仲立ちに一つの研究所に同居する部門構成をみるとペーボさんの未来志向がよくわかる。
国も学際協力の重要性をよく理解しており、 例えば我が国の新学術領域のように助成を重点的に行う姿勢を示しているが、新しい学際的研究所が生まれるまでにはまだまだ道は険しい。
この原因の一つは、学者自身の交流が狭いことにある。実際現役の頃を振り返ると、広い領域の人と交流する余裕はほとんどなかった。
今日紹介するオーストラリア国立大学からの論文は、学際協力を目指す助成申請書を審査する側にも、学際協力を阻む要因があることを示した研究で6月30日号のNatureに発表された。タイトルは「Interdisciplinary research has consistently lower funding success (学際研究は常に採択率が低い)」だ。
オーストラリア政府も学際協力を推進しており、自然科学から人文科学に至る広い基礎研究を同じ枠内で助成する「The Discovery Programme」を設けている。この研究では、5年間にわたりこの助成金を申請した18476件の申請内容を分析し(採択率は15−20%)、申請の学際率を申請者が属する領域から計算している。計算方法は、進化過程でそれぞれの種がどれだけ離れているかを形態から計算するときに用いられる手法を用いている。ただ、領域の距離の算定方法はかなり恣意的に行われている印象だ。
この方法を用いると各申請は0〜1の範囲のどこかに分類される。0に近いほどよく似た領域、1に近いほど離れた領域になる。この数値と、実際の採択率をプロットしたのがこの研究のハイライトで、学際率と採択率は見事に負の相関を示すというのが結論だ。
これが、オーストラリア内での研究所のレベルに影響されているのか、あるいは有力研究者の参加と関係あるかなど、様々な要因の影響を調べているが、結論としては誰がどの研究所から申請しようと、学際研究は採択率が低いという結論は変わらないようだ。
科学が仲間による審査を基盤に成立している限り、学際協力研究の発展は難しいことをこの研究は示している。事実ペーボさんの著作を読むと、研究所の部門構成は自由に構想したようだ。とすると、学際協力を推進するためにはもっと違ったメカニズムが必要だと思う。
2016年7月4日
社会学を、学者のもっともらしい見識だけに頼る学問から、科学的手続きを経た社会科学へと発展させることは21世紀の課題だ。トップジャーナルの編集者もこの使命を十分認識しており、社会問題を科学的に分析した論文を積極的に採択している印象がある。特にScienceやNatureなどの科学全般を扱う雑誌を見るとこの傾向が最もよくわかる。実際、私がサマリーに目を通して紹介してもいいなと思った論文だけでも、この2週間で4編にのぼった。そこで、今日から4回にわたって、社会問題の科学と題してこの4編の論文を紹介することにした。
初日はネット上のテロリスト集団について精力的に研究を続けているマイアミ大学から、ネット上で特定できるテロ集団内の女性の役割を調べた論文がScienceの姉妹紙、Science Advancesに発表されているので紹介する。タイトルは「Women’s connectivity in extreme networks (テロ集団での女性の連結性)」だ。
テロリスト集団の中心は男性が占めていると思いがちだが、テロ実行犯に限らず、女性の重要性が認識されるようになっている。この研究では、ロシアのSNSサイトVKontakte上の投稿を、「イスラム国」「シリアに対するジハード」などのキーワードで検索し、この中から個々のイスラム国支持集団を割り出し、それぞれの集団の中での女性の役割を、ネットワーク上の発信数と広がり、ネットワーク上での活動期間などから分析している。
この研究でなぜフェースブックでなく、ロシアのVKontakteを対象にしたのかは、先月に同じグループの研究を紹介した時(http://aasj.jp/news/watch/5404)述べておいたが、
1) フェースブックと違って、テロに関わるサイトも閉鎖されないこと、
2) チェチェンなどテロリスト集団の多い地域をカバーしていること、
などの点から、VKontakteはイスラム過激集団のネット上の活動を研究する目的には欠かせないネットサイトのようだ。
具体的には2015年2、3月の2ヶ月間の書き込みの分析から、一つの閉じたイスラム国支持グループが抽出され、それぞれのメンバーがどのような役割を演じているのか、ネット上での活動状況から解析している。
結果は、多数のメンバーとつながり、情報や物の受け渡し、メンバーのリクルートに中核的役割を果たしているのは女性が多いことが明らかになっている。
また同じ分析を幾つかの個別のグループで行い、女性の重要性と、組織の寿命を調べると、女性の役割が高いほど組織の寿命が長いことを示している。
この分析結果が、ネットという新しい媒体の登場によって生まれたのか、テロ集団支持組織の一般的特徴かを調べるため、この研究では詳しい活動記録を得ることができる北アイルランドのテロリスト集団アイルランド共和国軍についても分析を行い、テロの激化に呼応して、女性の果たす役割が高まっていることを明らかにしている。
以上、「政府機関にマークされにくい」、「実行犯として働くことが少ない」などの条件から、テロ集団の活動期間が長くなれば、自然に女性がネットワークの中核を占める傾向があるというのが結論だ。
読んでなるほどと納得する論文だが、この研究のスポンサーになっている軍に有益でも、一般人の立場から考えると、知ってどうなるという気持が先に来る。ただテロ集団に限らず、ネット分析を通した集団分析が社会学の中心になることを示す意味で、Science Advanceに掲載されたのだろう。今後さらに技術が進んで、テロリストの心理まで分析が可能になれば、科学のトップジャーナルのこのような論文が登場する機会は増えるような気がする。
最後に我が国のテロ集団について記憶をたどって思い出してみると、赤軍派が繰り返したハイジャック事件、オウム真理教の麻原彰晃だけでなく、連合赤軍事件の永田洋子、日本赤軍の重信房子と女性が中心的役割を果たしている事件が多い。これが偶然なのか、必然なのか?学者の見識にだけ頼らない分析が重要だろう。
2016年7月3日
ドイツで暮らしたときの忘れられない思い出の一つは、ジャムを塗ってもよし、ハムを乗せてもよし、朝は何は無くとも、たっぷりバターを塗ったブロッチェンをコーヒーと食べることだ。今でも、ドイツに旅行する時は、この朝食を期待している。しかし、バターは飽和脂肪酸を多く含む食物として、動脈硬化に悪い食べ物の代表としてやり玉に挙げられてきた。ところが、2015年ぐらいから潮目が変わって、少なくとも我々のような高齢者のコレステロールを何が何でも下げていいのかについてはエビデンスがないとする論文が多く見られるようになった。今日はそのような論文を集めて解析した(メタアナリシス)を2法紹介する。
最初は米国タフツ大学からの論文で、バターの摂取量と心臓病、糖尿病との関連についての9編の論文をまとめ直した研究で6月28日PlosOneに掲載された。タイトルは「Is butter back? A systematic review and meta analysis of butter consumption and risk of cardiovascular disease, diabetes and total mortality (バターは本当に原因か?バター消費と心血管病、糖尿病、全般的死亡率との関連についての系統的再検討)」だ。
研究ではバター摂取について調べたコホート研究論文9編を選び、これらの論文で対象になった約65万人の死亡率、心臓血管障害発症率、糖尿病発症率とバターの摂取量の関連についてのデータを再検討している。結果だが、相対危険度で死亡率全般については、1日バター消費量14グラムに対して1%相対危険率の増加が見られるが、心臓病の発症率とはほとんど相関がなく、糖尿病に至っては4%の低下が見られたという結果だ。
今回再検討された論文の中には血中の脂肪酸とバター消費についての相関を調べたけ論文があり、それによるとバター摂取と血中のペンタデカノイック酸、及び奇数鎖脂肪酸との相関があり、これは心臓病の発症を低下させると結論されている。
要するにバターの楽しみは諦めることはないという話だが、コレステロールやLDL-コレステロールが飽和脂肪酸摂取で上昇することは確かで、これまでの常識に逆らう結果ではないのか?と思っていたら、次の日発行のThe British Journal of MedicineにLDL-Cと心臓病との関係を再検討したスウェーデンからのメタアナリシスが報告されていた。タイトルは「Lack of an association or an inverse association between low-density-lipoprotein cholesterol and mortality in elderly: a systematic review (高齢者ではLDL-Cと死亡率は相関しないか、逆相関が見られる:系統的再検討)」だ。
この研究では19編のLDL-Cと死亡率との相関を調べたコホート研究データが集められ、もう一度再検討されている。対象は、60歳以上の男女が約7万人だ。結果は単純で、60歳以上についてはLDL-Cと死亡率には全く相関がないか、論文によってはLDL-Cが高い方が長生きするというデータまで出ているようだ。この研究には日本の論文も対象になっており、また高齢者にとってコレステロールを維持する方が重要であるという結果を最初に報告したのは日本のグループだ。
以上、単純にコレステロール、そしてその原因になる食物を目の敵にしていいのかについては、さらに研究が必要だと思う。実際、コレステロールを下げるスタチンの長期効果は幾つかのコホート研究で示されており、今日紹介した話と真っ向から対立する。両方正しいとすれば、スタチンがコレステロールを下げる以外のメカニズムで心臓病を防いでいることになる。
いずれにせよ、最終的結論を得るには、さらに長期の国際共同研究が必要だ。ただ、バターについての論文は個人的に正しいとして認めることにした。
2016年7月2日
急性感染症と異なり、慢性で複雑な生活サイクルを示し、変異が早い病原体に対するワクチンの開発は難航を極めている。例えば6月30日号のThe New England Journal of Medicine (Olotu et al, 374:2519, 2016)に、7年間にわたるマラリアワクチンの効果に関する論文が発表された。確かにワクチン接種後1年間は感染を抑える効果が見られたが、その後は効果が薄れてしまうという残念な結果の報告だ。同じ状況は、エイズを引き起こすHIVに対するワクチン開発にも見られる。長年にわたって開発が試みられているが、ウイルス中和抗体を安定的に誘導するワクチンはまだ開発されていない。
そこで、まず変異体も含む様々なHIV系統の感染を食い止める抗体とはどのような抗体かをまず明らかにし、同じような抗体を誘導する作戦を考える方向で研究が始まっている。すなわち、多くのエイズ患者さんの血清中の抗体を調べて、中和抗体の特徴を探ろうとする研究だ。この研究から、中和活性の強い抗体が出来ていることは確認できるが、そのほとんどが長い年月をかけて抗体遺伝子が変異を積み重ねた結果出来てきた抗体であることが明らかになった。すなわち、一回や2回のワクチン接種で同じような抗体を誘導することは難しいことが明らかになった。
そこで、大人の抗体を探す代わりに、エイズに感染して時間が経っていない幼児に高い活性のある中和抗体が存在していないか探索が始まっていた。
今日紹介するフレッド・ハッチンソンがん研究所からの論文は、生後3日ではウイルスが検出されず、3ヶ月にはエイズ感染が確認された幼児の血清を15ヶ月齢で調べ、発見された中和抗体についての研究で6月30日号のCellに掲載された。タイトルは「HIV-1 neutralizing antibodies with limited hypermutation from an infant (一人の幼児に見つかった突然変異の少ない抗HIV-1中和抗体)」だ。
結果だが、十人の感染幼児から10種類の中和抗体を分離することが出来、特にその中の一人から、多くのウイルス系統にわたって高い中和活性を示す抗体を分離することに成功している。この抗体を成人から得た抗体と比べると、多くの系統に反応できる点では同等だが、活性は低いことがわかる。しかし期待通り、抗体遺伝子にほとんど突然変異は蓄積していない。このことは、ワクチン接種後すぐに誘導される抗体の中にも、ウイルス感染を防御できる抗体が存在することを示している。
使われている抗体遺伝子は成人から分離された抗体と全く異なることから、おそらく大人の場合長期間の刺激により、最初は親和性が低く、弱くしか刺激されなかったB細胞が、時間をかけて進化し、優勢な抗体になっただろうと結論している。すなわち大人の反応と異なり、幼児の場合抗原刺激にすぐに反応できる抗体遺伝子を特定できることになる。他にも幼児の抗体が外殻の3量体を認識する、大人では見られない抗原特異性を持つことなど多くの結果が示されているが、重要な結論は突然変異を蓄積しない抗体遺伝子でウイルスに対応できる可能性を示したことだろう。
確かにワクチン接種後すぐに有効な抗体が作られる可能性は示されたが、例えば幼児で反応する抗体遺伝子のレパートリーの違いや、その違いが最初に持っている抗体遺伝子の差を反映しているのかなど、もう少し詳しく示してほしいと思った。さらに、同じ抗体が持続的に作られるのかもわからない。結局ワクチン開発への道はまだまだ険しいという印象を持った。
2016年7月1日
21世紀に入って、DNAシークエンサー、iPS、CRISPR、光遺伝学、超解像顕微鏡と新しいイノベーションが相次いでいるが、忘れてはならないのが今日紹介するクライオ電子顕微鏡だろう。最近論文を読んでいると、この技術を使ってタンパク質の構造を高分解能で観察する研究が目につく。例えば3月31日にはジカウイルスの外殻タンパクの構造解析がScienceに発表されたが、この論文はクライオ電子顕微鏡が大きなタンパク質の迅速な構造決定を行う能力を持つことを教えてくれた。さらに6月16日号のCellに、この技術が大きなタンパク質だけでなく、100KDaぐらいの小さな化合物とタンパク質の結合解析も可能で、創薬領域で期待できることを示す論文が発表されている。
この技術は、タンパク質をそのまま高電圧の電子線で観察する技術で、私がドイツから帰国して京大で研究を始めた頃、理学部の山岸さんたちが核酸を観察するためこの技術を開発しており、ヘリウムで冷却したステージの振動にどう対処するかなど、苦労話を何度も聞いたのを覚えている。
その後、ゲノムプロジェクトの進展、リコンビナントタンパク質合成、CMOSセンサーによる直接撮影、そして何よりもコンピューターによる画像処理技術の進展で、単一粒子クライオ電子顕微鏡法という技術が開発され、多くの単一分子の画像を集めて高解像の解析像を得ることが可能になり、2010年以降急速に普及してきた。
今日紹介するドイツ・マックスプランク分子生理学研究所からの論文は、この技術を使った極め付けのような例で、この技術の要点を知るには格好の論文と言える。タイトルは「Cryo-EM structure of a human cytoplasmic actomyosin complex at near-atomic resoluteion (クライオ電子顕微鏡方によるヒトの細胞室内アクトミオシン複合体のほぼ原子レベルの解像度の構造)」で、6月30日号のNatureに掲載された。
もちろん結晶化したミオシンを使った研究は古くから行われている。また、筋収縮の構造解析は、電子顕微鏡が最も活躍した分野だった。ただ、アクチンとミオシンによる複合体は結晶化が難しく、収縮力がどう発生するかについての構造解析は遅れていた。この研究では、アクチン、ミオシン、トロポミオシンなどを別々に合成し、これを混合してできたアクトミオシン複合体を、単一粒子クライオ電子顕微鏡で観察し、それぞれの分子がどう相互作用しているのかを原子レベルの解像度で明らかにしている。
さて結果だが、これは言葉で表すのはほぼ不可能だ。もともと構造解析の結果は、いくら眺めていても意味がない。一方、その分子について様々な疑問を持っている時には、構造はほとんどの生化学実験に優る価値を持っている。従って、読者の皆さんには、アクトミオシンの構造に関わる疑問を持った時、ぜひ参照して欲しいというほかない。
ただこれで終わるのはあまりにそっけないので、最後に、アクチンとミオシンが弱い会合から、互いに強い結合に至る分子過程が手に取るように示されていることを付け加えておこう。
35年を経て、クライオ顕微鏡技術がついに花咲いていることを伝えるのが今日の目的だ。
2016年6月30日
サリドマイド系の薬剤はその催奇形性作用で使用が中止されたが、その後骨髄腫や、骨髄異形成症候群のうち5番染色体の一部が欠損している患者さんに治療効果があることが明らかになり、より催奇形性の少ないレナリドマイドは、これらの病気の最も重要な治療薬になっている。この薬剤の抗腫瘍作用のメカニズムについては最近研究が進み、タンパク分解酵素(ユビキチンリガーゼ複合体CRL4)をcereblon(CRBN)分子を介して細胞増殖に必須のIKZF転写因子に連れてきて分解することが明らかになっている(
http://aasj.jp/news/watch/827)。これ以降、この薬剤は標的分子を分解できる新しい効果を持つ薬剤として研究が加速している。
今日紹介するミュンヘン工科大学からの論文は、この薬剤がタンパク分解とは異なるメカニズムを介しても効果を発揮していることを示す論文でNature Medicineオンライン版に掲載された。タイトルは「Immunomodulatory drugs disrupt the cereblon-CD147-MCT1 axis to exert antitumor activity and teratogenicity (免疫修飾薬剤はcereblon(CRBN)-CD147-MCT1結合を切断して抗腫瘍作用と催奇性作用を発揮する)」だ。
様々な実験が行われておりわかりにくいと思うので、結論だけを述べよう。この薬剤が結合するCRBNはCRL4をタンパク質にリクルートするだけでなく、CD147やMCT1に関しては、出来たばかりのタンパク質に結合してタンパク質の正常な形を保障し、また正常な糖修飾を進めるシャペロンとして働いている。すなわちCD147,MCT1が合成され、細胞膜へ輸送されるためには必須の分子として働いている。ここにCRBNに結合するサリドマイド系の薬剤が介入してくると、CRBNのシャペロンとしての機能が阻害され、その結果、裸になったCD147やMCT1の安定性が損なわれ、これらの分子の機能が失われるという結果だ。
では、この機構が抗がん作用や催奇性作用にも働いているのか?
これを理解するためにはCD147,MCT1の機能を知る必要があるが、CD147はMCT1と結合して細胞膜で発現し、骨髄腫や骨髄異形成症候群で見られる芽球細胞で発現が上昇している。この複合体は、糖分解などの細胞代謝に関わるトランスポーターとしての作用のみならず、血管増殖因子やメタロプロテアーゼなどの発現を誘導して、ガンの増殖を助けていることが知られている。
そこで、CD147・MCT1分子の発現を直接抑制して、これらの分子が抗がん作用に関わるかを調べ、骨髄腫、骨髄異形成症候群ともにこの分子が抑制されるとガンの増殖が低下することを確認している。
興味を引くのは、CD147/MCT1が5q欠損の骨髄異形成症候群だけで発現していることで、なぜレナリドマイドが5q欠損のグループに高い効果を持つのかが初めて説明できている。
これまでサリドマイドの催奇形性はFGFを分解することによることが示されていたが、このグループはCD147をノックダウンするだけで、fgf8の発現が低下することを示し、CRL4タンパク分解系のリクルート以外に、この分子が重要な役割を演じている可能性を示唆している。
以上サリドマイド系薬剤の研究に新しい可能性を示した重要な研究だと思う。何よりも新しいメカニズムがわかることで、ガンのモニタリングも可能になる。とりあえずは、患者さんのがん細胞のCD147発現を調べ、薬剤の効果を予測することは明日からでも可能だろう。ぜひ試していってほしい。
2016年6月29日
ウィルソン病を知っている読者は少ないと思うが、ATP7Bと呼ばれる銅輸送に関わるATPaseをコードする遺伝子変異による病気だ。
銅は肝細胞内でセルロプラスミンと結合して血液、胆汁に分泌されるが、この分子が欠損すると銅が徐々に肝細胞のミトコンドリアに蓄積し、最後はミトコンドリア機能不全で変性性の肝不全に陥る。幸い、血中の銅を補足して尿中に排出させるキレート剤が有効で、一生服用が必要だが、病気の進行を止めることができる。しかし、この方法は血中の銅には有効だが、一旦細胞内に蓄積し始めた銅を処理することはできない。このため、診断が遅れてミトコンドリアの障害が進行した患者さんを救うことはこれまで難しかった。
これに対し、遺伝子治療や肝細胞を保護する新しい方法で開発が進んでいたが、今日紹介するドイツ・ヘルムホルツセンターからの論文は、細胞内で銅をキレートできる分子を使う画期的治療法の開発について報告している。タイトルは「Methanobactin reverses acute liver failure in a rat model of Wilson disease (メタノバクチンはウィルソン病モデルラットの肝不全を正常化できる)」だ。
要するに細胞内に蓄積した銅も処理してくれる新しいキレート薬メタノバクチンが見つかったという研究だ。メタノバクチンはプロテオバクテリアから最近単離された分子量1154Daのペプチドで、これまで知られているキレート剤と比べて数オーダー高い銅への親和性を持つことがわかっている。
この研究では、ATP7B遺伝子が欠損したラットモデルを使い、
1) このモデルが人のウィルソン病とほぼ同じ病態を示すこと、
2) ミトコンドリアに銅が蓄積すると、ミトコンドリア膜の電位や透過性の維持が破綻すること、
3) 肝障害が発症したモデルラットにメタノバクチンを投与すると、65−85%の銅を除去することができること、
4) 短期治療プロトコルでも、効果は2−3週間続くこと、
5) これまでのキレート剤と比べて副作用がないこと、
を示している。
実際にはまず急性肝障害が出始めた患者さんに使ったあと、これまでの傾向キレート剤と組み合わせるといった治療が行われると思われる。早速治験登録サイトを調べてみたが、まだ全く登録はないので、臨床応用まで時間はかかりそうだが、大いに期待できる薬だと思う。
しかし、人知の及ばない分子を合成できる細菌の力にはいつも驚かされる。
2016年6月28日
私が学生の頃、病理学は病理学総論と病理学各論に分かれていた。そして、病理学総論で習ったことを要約すると、病気は変性、炎症、腫瘍の3種類の状態が単独で、あるいは組み合わさって現れるということだった。乱暴な議論に思えるが、しかし動脈硬化や肥満まで、炎症の関わりが重要だとされる昨今の風潮を見ていると、炎症の関与が疑わしい病気について、可能性を再検討することは重要な課題であると思う。
変性性疾患の代表とも言えるパーキンソン病でも、ミクログリア反応が見られるため、病気の進行に及ぼす炎症の関わりは研究されてきた。今日紹介するカナダ モントリオール大学からの論文はさらに進んで、ミトコンドリア上のタンパク質に対して自己反応性T細胞が誘導されることがパーキンソン病の引き金になる可能性を示唆する研究で、7月14日号のCellに掲載された。タイトルは「Parkinson’s disease-related proteins PINK1 and Parkin repress mitochondrial antigen presentation (パーキンソン病発症に関与するPINKとParkinはミトコンドリア抗原提示を阻害する)」だ。
読んでみると、この研究は細胞生物学の研究で、抗原提示能は細胞内過程を特定するための一つの標識として使われているに過ぎないことがわかる。すなわち、抗原が組織適合抗原(MHC)と結合して細胞膜上に提示されるためには、抗原が分解され、MHCが発現するエンドゾームでMHCと結合し、最後にエンドゾームが細胞膜に運ばれるという細胞生物学的過程が必要だ。
しかも、抗原が分解される経路は様々で、それに応じて細胞膜までの経路も変化する。例えばミトコンドリア内の抗原はオートファジーでミトコンドリアごと分解されると予想される。この研究では、ミトコンドリアに局在するウイルス抗原がどの様な経路で細胞表面上に提示されるかについて研究している。この過程で、ミトコンドリア抗原が提示される経路は、オートファジーではなく、ミトコンドリアの一部が離脱したミトコンドリア小胞(MDV)がエンドゾームに取り込まれる特殊な過程であることを細胞生物学的に示すとともに、この過程に関わる分子Snx9,Rab7,Rab9などを特定している。
オートファジーが関係ないとすると、パーキンソン病とどう関わるのか?この研究では、パーキンソン病でのオートファジーに関わるParkinやPINKが欠損した細胞ではMVDの生成が促進し、その結果ミトコンドリア抗原提示が上昇することを示している。
シナリオをまとめると、ミトコンドリア抗原は様々なストレスで誘導されるMVD経路でのみ提示される。ただ、ParkinはMVD形成に関わるSnx9を分解し、またミトコンドリア全体がそのまま分解されるオートファジーを促進するため、ミトコンドリアからのMVD形成は抑えられている。ところがParkin/Pink機能が低下するパーキンソン病では、MVD形成の抑制が外れるため、ミトコンドリア内の分子が抗原として提示され、自己免疫を誘導する可能性が高くなるという話だ。
示されたデータだけですぐパーキンソン病に免疫性の炎症が関わると結論するのは早いと思うが、十分考慮に値する面白い論文だと思った。