2016年6月27日
マイケル・トマセロは、おそらくほとんどの読者にとって馴染みのない名前だろう。私も、言語学についての著作を集中的に漁っている時、たまたま「Origins of human communication(人間のコミュニケーションの起源)」という彼の著作を手にとって名前を知った。人間特有と思われる行動について、チンパンジーと、人間の子供を直接比較する実験を通して、コミュニケーションの必要条件を探るアプローチについて学ぶことができる優れた科学書だった。
その後、ネアンデルタール人ゲノムを解読したペーボさんが書いた「Neanderthal Man」の中で、戦後ドイツのタブーを破ってマックスプランク人類進化研究所が設立された時、発達比較心理学部門を設けてトマセロさんに教授就任を依頼したことが書かれており、高い理想で研究所を計画しているなと感心すると同時に、一度実際の研究論文を読んでみたいなと思っていた。
とは言っても分野が異なり、なかなか私の網に引っかかってこなかったが、先週ようやくトマセログループからの論文を読むことができた。タイトルは「One for you, one for me: human unique turn-taking skills(一つは君に、一つは僕に:人間独特の交代制を設定するスキル)」だ。
この研究では、二人のどちらかしか褒美を得ることができないが、得るためには協力が必要な課題を、競合するのではなく、交代に褒美を得る様交渉しあって行う共同行動がいつ発達するのか、3歳半、5歳の子供と、大人のチンパンジーにほぼ同じ課題を行わせて調べている。ビデオも添付された論文で、本を読むのとは違って、トマセロさん達が課題を設定する過程を詳しく理解することができた。
結果は5歳にならないと、「まず君、つぎ僕、OK?」といったコミュニケーションが成立しないことを示している。チンパンジーも共同作業を行うが、順番を決めて褒美を得るまでには全く至らない。同じ様に、この様な行動は3歳半でも発達できていない。
トマセロさんの本を読んだ時、人間の心理発達は思いの外遅いという印象を持ったが、この順番に獲物を得る交代制も、5歳まで発達できないのかと驚いた。今後はこの背景にある、例えば、未来の成果が想像でき、自分の欲望を抑えて一回待てる脳ネットワークなど、メカニズムの解析が必要だろう。
言語も含めて人間特有の脳機能の中心に、同じ概念をシンボル化して他人と共有できる能力がある。実際に論文を読んでみて、一見他愛ない様に思える実験の中に、深い構想があることがよくわかる。言語の発達もこの様な研究の繰り返しの上に進むのだろう。
しかし、人類進化学研究所を作って最初にトマセロさんに教授就任を依頼したペーボさんの構想力には脱帽。
2016年6月26日
生きている限り時間は流れる。論文ウォッチ(=報道ウォッチ)を始めて、ついに1000稿を書く日がやってきた。要するに元気で生きている証拠で、感謝。
特に記念の論文を探したわけではないが、私がドイツに渡って基礎医学に専念したときに選んだ、「抗原受容体遺伝子の再構成を観察できるB細胞分化系の再構築」というテーマともどこかで関係する上海・中山大学からの論文を見つけた。タイトルは「Discovery of an active RAG transposon illuminates the origin of V(D)J recombination(RAGトランスポゾンの発見によりVDJ遺伝子再構成の起源が明らかになった)」で、6月30日発行のCellに掲載された。
言うまでもなく抗原受容体遺伝子再構成(VDJ再構成)は、利根川さんがノーベル賞に輝いた発見だが、David SchatzによりRAG1/2遺伝子が再構成のための必要十分な分子であることが示されるまでに約10年かかっている。今日紹介する研究はこの RAG遺伝子の起源がナメクジウオの持つトランスポゾンにさかのぼれることを明らかにした論文.
楽しく読むことができる力作で、1000回目に紹介する価値があると思う。
RAG1/2分子は共同して再構成標識配列(RSS)が標識するDNA部分を切り出し、隔てられていたVとD,DとJ各遺伝子を再結合させる。このプロセスは、トランスポゾンが自分を切り出し、他の部位に挿入されるプロセスと似ているため、RAGがトランスポゾンに由来することは、遺伝子再構成が明らかになった当時から想定されていた。このグループは、脊椎動物へ進化する前のナメクジウオのゲノムに散らばるトランスポゾン配列の中から、低いがRAGと相同性を持ち、RSSに似た配列(TSD)と近くに再挿入時にできるトランスポゾン特有のリピートを持つ配列を発見する。
あとは、
1) この分子がトランスポゾンとして働く過程は、RAG遺伝子がVDJ再構成する過程に似ていること、
2) RAG1/2両遺伝子がナメクジウオでもセットでゲノムに存在するが、脊椎動物とは異なり、それぞれの遺伝子はイントロンを持つこと、
3) ナメクジウオのprotoRAG遺伝子と相同の遺伝子がウニにも存在すること、
4) 切り出しの時の標識配列は完全に異なっていること、
5) RAGでは切り出し時に両方の断端がほぼ同時に切れるが、protoRAGはバラバラであること、
6) ProtoRAGが切り出した後の宿主の再結合様式が異なること
7) 試験管内でprotoRAG分子を用いてトランスポゾン挿入を再現できること、
など、利根川さんの論文以後RAGを求めて多くの研究者が開発した手法を駆使して、RAGとprotoRAG を比べている。
これだけデータを見せられると、まず間違いなくRAGはトランスポゾン由来であることを確信するし、なぜRAG遺伝子が八つ目ウナギには伝わらなかったのかの説明もある程度理解できる。研究グループの高い実力と同時に、中国生命科学一般のの急速な発展を実感させる論文だった。
最後に1000回ということで報道ウォッチに関して一言。
1000回にこだわるのは、松岡正剛さんの千夜千冊に綴られた書評のあり方に深い感銘を受けていたからだ。時代にとらわれず、古典を含む東西の著作について、一作品ごとに他の多くの本を引用しながら、思考を紡いでいく膨大な営みは、我が国の知識人から生まれた重要な貢献だと思っている (一般受けはしないので、多くの読者には馴染みがないと思うが)。
もちろんこれと比較するのは難しいが、同じ様なことを生命科学でできたらいいなとぼんやり考えて論文ウォッチを始めた。幸い、始めた当時と比べるとずいぶん物知りになり、一つの論文を、様々な分野の状況との関わりで理解できる様になってきた。少なくとも生命科学についてはさらに知識を集め、時代の科学について適切に語れる様努力したいと思っている。
折しも英国がEU離脱を決意した。この出来事を見て2つの問題を感じる。一つは年寄り(20世紀の遺物)が若者(21世紀)を支配しようとする傾向と、知識人の劣化だ。
年寄りの若者支配については、言及は必要ないだろう。あらゆる分野で、未来の可能性を蝕んでいる。
知識人の劣化は私一人の感覚だろうか?
離脱派のボリス ジョンソンには、一般受けするために「知」を劣化させたエリートを感じるし(知識人の劣化にSNSの果たした役割は大きい)、残留派のデビッド キャメロンには「知」が「経済」以外の何ものも代表できないエリートを感じる。
我が国も同じ様な状況で、世界は分断の危機を迎えている。こんな状況で知を磨くことは虚しいかもしれない。しかし欧州の人たちも、ロベール・シューマンらの知識人が磨いてきたEUの理想に共感したはずだ。
私は英国のEU離脱は、知識人が一般人から分離したのではなく、SNS語に慣れて本当の知を磨くことをやめ、世俗に同化してしまったからではないかと思う。
当分は2000回を目指し、「書を求めて書斎にこもろう」と思っている。
2016年6月25日
自然免疫は我が国の得意分野だが、様々なTLR刺激がNFkBを活性化してサイトカインを誘導して炎症を起こすという簡単なスキームが、最近複雑になってきている。これは自然免疫刺激によりNLRP3と呼ばれる分子が活性化され、インフラマゾームと呼ばれる分子複合体を形成し、caspase1を介して炎症に関わるサイトカインを活性化させる経路が知られる様になったからだ。特に、NLRP3変異による病気が発見されたのもインフラマゾーム概念形成に大きく貢献した。
今日紹介する英国King’s Collegeからの論文は、インフラマゾームカスケードがさらに複雑な制御を受ける可能性を示した論文で6月17日号のScienceに掲載された。タイトルは「T helper 1 immunity requires complement-driven NLRP3 inflammasome activity in CD4+ T cells (1型ヘルパーT細胞免疫はCD4陽性T細胞内で補体により活性化されるNLRP3インフラマゾームの活性を必要とする)」だ。
このグループはT細胞の活性化に関わる補体の役割を研究している様だ。T細胞と補体との関係ではC3に結合して補体カスケードの活性化を抑えるとともに、T細胞内のシグナルに関わるCD46がよく知られているが、この研究ではなんと、細胞内のC5がヘルパー機能にどう関わっているかを研究している。
最近補体がシナプスの剪定に関わるなど、思いもかけない機能が明らかになっているが、細胞内で働いているという話は初耳だ。
この論文のハイライトは、
1) 1型ヘルパーT細胞のCD3とCD46を同時に刺激すると、細胞内でC5が産生されること
2) ヘルパーT細胞ではC5受容体のC5aR2は細胞膜、C5aR1は細胞内で発現すること、
3) C5aR1とC5の結合はミトコンドリアROSを介してLRP3分子複合体形成を活性化して、インフラマゾーム形成を促進すること
を発見したことだ。残りのデータは、この発見の意味を問うため、阻害剤やノックアウトマウスを使った詳細な炎症反応の解析で、C5の研究とインフラマゾームの研究が入り組んでしまってメッセージがわかりにくい。
このシナリオはいいが、少し気になるのが細胞外のC5aR2の役割で、論文ではたしかにC5aR1とC5を奪い合って、C5aR1機能を阻害するとともに、直接インフラマゾームの活性化を抑制することが示されている。とすると、C5の刺激が複雑な回路を形成してしまうことになる。実験的に言えば、最終結果が何であってもC5誘導で説明ができてしまうのはスフェアではない様に思える。
とはいえ、C5が細胞内で働いているということ、インフラマゾームの活性化が、自然免疫だけでなくT細胞の抗原刺激でも起こることを示したことは、LRP3遺伝子変異による疾患の深い理解に貢献するだろう。
2016年6月24日
昨日、医学において「心」と「体」を切り離すことが本当は難しいこと、そして逆に「心」を体から切り離して考える人工知能研究の問題を指摘した(
http://aasj.jp/news/watch/5418)。参照した論文が他愛ない論文で、大上段の議論のためには少し物足りなかったと思うが、全ては今日紹介するハーバード大学からの画期的な論文を紹介するための伏線だったと理解してほしい。
さて、明日(6月25日午後2時)私たちのAASJチャンネルで、MECP2重複症のお子さんを持つお母さんとこの病気の勉強会を行い、ニコニコ動画で放送する予定だ(
http://live.nicovideo.jp/watch/lv265257395)。病気については、2時からの放送を見てほしいと思うが、この番組について今日宣伝記事を書くため、MECP2についての最新論文を探していたところ、この画期的な論文に行き当たった。論文のタイトルは「Perpheral mechanosensory neuron dysfunction underlies tactile and behavioral deficits in mouse models of ASDs(末梢の機械刺激ニューロンの異常が触覚異常とともに行動異常の背景にある)」だ。
MECP2はメチル化されたDNAに結合するタンパクで、これが欠損するとレット症候群、この遺伝子が重複するとMECP2重複症になる。それぞれの症状は異なるが、ともに自閉症様の社会性発達異常を伴う。ただ、遺伝子についてわかってきても、なぜこの様な症状が出るのか明瞭な説明はまだできていない。
自閉症スペクトラムの研究は専ら脳の研究に焦点が当てられている。しかし、MECP2機能が欠損するレット症候群では触覚過敏症が見られることが知られており、また多くの自閉症スペクトラムでも触覚異常が報告されている。この症状をヒントに、このグループは体の感覚を伝える体知覚神経異常が自閉症様症状の原因になっているのではと着想した。すなわち、中枢神経ではなく、体と脳を結んでいる体知覚神経の異常が自閉症を起こしているのではと考えた。この仮説を証明するため、マウスの体知覚神経だけでMECP2遺伝子を欠損させ、社会行動異常との関わりを調べたのがこの研究だ。
断っておくが、これは全てマウスモデルで行われた研究で、ヒトにどれだけ当てはまるかは不明だ。ただ、MECP2欠損や重複に関しては、マウスやサルモデルとヒトの病気はよく相関していることは述べておく。
さて、あらゆる詳細を省いて結論だけを述べると、
1) 体知覚神経だけでMECP2遺伝子を欠損させると、触覚過敏や新しい物体を触って認識する機能の低下などの体知覚異常がおこるが、これに加えて社会行動異常も起こる、
2) 成熟してから同じ様に体知覚神経のMECP2遺伝子を欠損させると、触覚異常は起こるが、社会行動異常は起こらない。
3) MECP2が完全に欠損したレット症候群モデルマウスで、MECP2分子を体知覚神経だけで発現させると、触覚異常とともに社会行動異常は正常化する。しかし、記憶や運動障害は治らない。
4) MECP2欠損は、GABA受容体の発現低下を介して異常の症状を誘導する。
になる。
これらの結果は、MECP2欠損による自閉症様症状は、体と脳をつなぐ体知覚神経の異常が主因であることを明確に示した。もちろん、体知覚が障害されると脳発達が遅れ、その結果社会行動異常が起こるが、これは体知覚を刺激することで治せる可能性がある。重要な貢献だと思う。
「この様に、心の発達に体からの刺激は必須だ」とカミさんに熱っぽく語ったら、「体知覚刺激はオキシトシン刺激かも」と答えが返ってきた。マウスモデルとはいえ、今後様々なことが明らかになる予感がする。
2016年6月23日
2年前高野山大学が大阪で毎年開催している一般向けの講演会で話をしたことがある。「生物学の成り立ち」などと堅い話をして、あまり受けなかったが、この講演会のプランナーであった京大医学部の大先輩、村上和雄筑波大学名誉教授は、心と体の関わりを面白おかしく話され、大受けしていたのを覚えている。この時村上さんは「笑いの身体的影響」についての自らの実験の話をされた。一般の方に昼食後、初日は「糖尿病のメカニズム」について話をし、2日目には同じ時間に生でコンビ漫才を聞かせた後血糖の上昇を調べ、漫才を聞いて大いに笑った場合、医学の講義を聞いた時と比べて、血糖の上昇が著明に抑制できたという結果だ。茶目っ気の多い村上先生ならではの実験だが、決して話題のための実験ではなく、論文として発表されているのを知って感心した。
今日紹介するドイツ・ルール大学からの論文も同じ様に「心と体」の問題を、今度は音楽について調べた論文でドイツ医師会雑誌国際版6月号に掲載されている。タイトルは「Cardiovascular effect of musical genres(心血管に影響する音楽ジャンル)」だ。
研究では平均年齢47歳、平均血圧が124/77mmHgの健康人120人をランダムに2グループに分け、片方にはモーツアルト交響曲40番、ヨハンシュトラウスワルツ集、そしてスウェーデンの音楽グループABAのアルバムを順不同に聞いてもらい、それぞれのジャンルを聞いた前後の血圧、脈拍数、そして血清コルチゾール濃度を調べている。対照群は静かな部屋で安静にしてもらった後、同じ検査を受けている。
結果は全ての検査で、音楽を聞いた方が静寂より良い効果がある。血圧と脈拍に対しては、モーツアルトの交響曲が最も高い効果を示し、収縮期圧で4.7mmHg、脈拍数では毎分6回程度低下する。次に効果が高いのはヨハンシュトラウスで、ABAの音楽は静寂よりは効果があるが、モーツアルトやヨハンシュトラウスより少し劣るという結果だ。
話のネタとしてはわかりやすいし、おそらく誰もが納得できる結果だと思うが、村上先生の実験も含め、この様な研究を「話題・ネタ」で終わらさないことが科学者にとっては重要なことだ。
デカルトの2元論以来、科学者は「心」と「体」を分離して、一般の日常世界とは異なる生命科学領域を育成してきた。ただ、当時の「心」は「脳」という言葉でずいぶん置き換わっている。今日紹介した2つの話も、実際には「脳」と「体」との関係に変えることは簡単だろう。とは言え、「脳」の経験する歴史の違いが「心」になり、脳科学永遠の課題「私・自己」になる。そう思うと、人工知能研究にとって最も重要な課題は、人工知能が自己を持つ過程の解明ではないかと思う。この時、血糖検査や血圧を計れない「体」のない人工知能で、本当に自己が成立していることがわかるのか、興味が尽きない。
2016年6月22日
創薬は、特定の生命現象に効果がある薬剤を見つけてから、その作用機序を明らかにする方法と、逆に特定の現象の分子メカニズムを明らかにし、それに関わる分子をまず決めて、それを標的にして薬剤を開発する方法に分けることができる。後者の方法は、新しい創薬の方向性として20世紀後半から各製薬会社が取り入れているが、どの標的分子に対して薬剤を開発可能かがまだ明確でなく、結局多くの候補分子をスクリーニングする経験的方法に頼らざるをえない。
今日紹介する米国スクリプス研究所からの論文は、これまでの創薬をさらに論理的に促進するための研究でNatureオンライン版に掲載された。タイトルは「Proteome-wide covalent ligand discovery in native biological system(自然の生命システムを用いて特定のリガンドに共有結合する標的タンパク質を網羅的に探索する)」だ。
この研究の目的は特定の化合物が結合するタンパク質のカタログを作ることだ。ただ最終的に治療に用いられる複雑な化合物の代わりに、様々な化合物の構造の元になる基本骨格と反応するタンパク質を網羅的にカタログ化しようと試みている。
これまでも同じ様な試みは行われてきたが、創薬候補のリストは拡大してこなかった。この反省に立って、この研究では化合物がタンパク質のシステインと共有結合できる様にして、化合物と結合したシステインの周りの配列から候補タンパク質をリストする手法を採用している。研究では、細胞をこの化合物と培養し、反応するタンパク質のシステインをこの化合物で標識する。次に細胞を溶解した後、すべてのシステインに結合する別の化合物と反応させる。細胞が生きている時に標識に使った化合物と結合しているシステインは、溶解後の化合物と反応できないため、これによって特定の化合物と特異的に結合するタンパク質を特定することができる。こうして特定したシステインがタンパク質の機能活性部位に存在しているかどうかは、タンパク質を熱で変性させる実験を用いてさらに確かめている。
方法の説明が長くなったが、実際の方法は重さの違うアイソトープを用いたさらに複雑な方法なので、詳細は全て省く。この研究ではこの方法で30種類程度の化合物に反応するタンパク質の活性部位を網羅的にリストしており、こうしてリストされた標的分子の数は、これまで創薬標的として分類されてきた分子の5−6倍の数に上る。すなわち、まだまだ様々な分子に対する薬剤を開発できることになる
最後にリストされてきた特定の分子を取り上げ、この方法で発見される分子が創薬標的になることを幾つかの方法で確認している。例えば、すでに創薬標的として開発が進んでいる分子はこの方法でリストすることができ、また今回の結合を元に実際の薬剤開発が可能なことを、多くのガンで突然変異が見られるIDH分子を例に示している。
最後に、細胞死の経路を調節するカスパーゼ8、10について、今回結合が見られた化合物をもとに、より特異性の高い化合物へと改良した化合物を作成し、FAS刺激によるT細胞の細胞死を特異的に抑制する薬剤を実際に開発できることを示している。
私はこの分野の素人だが、このリストは自分で見定めた分子が創薬標的になるかどうかを合理的に判断するために大きく役立つ様に思う。特に、どの様な構造の化合物が効きそうかあらかじめ予測できるのは大きい。今回作成されたデータベースがどこまで公開されているのかわからないが、閲覧するために金を払う価値は十分ある様な気がする。
2016年6月21日
体幹と異なり、脳は血液脳関門によって様々な分子が侵入できない様に守られている。しかしこの関門は、脳内の病気の治療に使う薬剤の脳への浸透も妨げる。したがって多くの製薬会社はこの関門を突破するための研究開発を続けており、このホームページでも紹介してきた。
しかし今日紹介するパリ公立病院からの論文を見るまで、物理的にこの関門を突破しようという試みがあるとは思いもかけなかった。論文のタイトルは「Clinical trial of blood-brain barrier disruption by pulsed ultrasound (パルス状超音波で血液脳関門を突破する臨床治験)」で、6月15日号のScience Translational Medicineに掲載された。
このグループだけでなく、超音波を照射して物理的に脳血液関門を緩める試みは、様々な動物を用いて続けられてきた様だ。この開発がようやく臨床応用段階に入ったことを示すのがこの論文で、総勢十七人のグリオブラストーマの患者さんを用いて第1/2相の治験が行われている。
タイトルにある様に、この方法はパルス状超音波を用いている。超音波は頭蓋によって減衰するため、治療ではまず1cmほどの超音波発生器を頭蓋内に手術で埋め込む。この発生器を通して、局所的に超音波を照射するが、その時超音波診断時の造影に用いる微小バブルを同時に投与し、この泡の力も借りて小さな脳領域の血液脳関門を破壊する。この方法で、どの程度関門が破壊でき、治療を続けても安全かどうかを調べるのがこの研究の主目的だ。これに加えて、血液脳関門破壊後すぐに通常は脳内に移行しにくいカルボプラチンを投与して、腫瘍の進展を観察する第2相試験も兼ねている。
結果だが、順番に照射量を上げていき、0.8メガパスカルを超えると、MRI で血液脳関門が破壊されることが確認できる。また、破壊の程度も照射量に比例して上昇する。最終的に1.1メガパスカルでは局所的な関門破壊の程度も十分で、且つ副作用が全くないことを確認している。
1.1メガパスカルの照射とカルボプラチンの治療を受けた患者さんの数は、この治験で結局三人で止まっているが、このうち一人で腫瘍の進行が4ヶ月間完全に抑制できている。全く対照群のない治験だが、グリオブラストーマの一般的な結果から考えると、かなり期待が持てるという結果だ。
この論文は、要するに初めて脳内超音波照射をヒトに応用することができたという話で、治療効果についてはきちっと計画された治験が必要だろう。しかし、いったんこの結果を見てしまうと、本当に無作為化して研究を行ってもいいのか少し気持ちが揺らぐかもしれない。
ディスカッションを読むと、この方法は他にも様々な可能性を秘めている様だ。例えば免疫系を物理的にアジテーションすると抗腫瘍免疫反応が高まるという論文が発表されているらしい。さらに驚いたのは、βアミロイドの処理が促進するという話もある様だ。その意味で、この方法の安全性が患者さんで確認されたことが、この研究の最も重要なメッセージだろう。
2016年6月20日
ヨーグルトやプロバイオを手がける企業に限らず、最近腸内細菌叢に対する我が国の関心は高まっており、私も相談を受けることが増えた。そんな時いつも「腸内細菌叢が重要なのは、取り替え可能なもう一人の自分だから」と答えている。すなわち、腸内細菌叢は様々なルートを介して私たちの体の恒常性維持に関わっていることがわかってきた。しかも、自分自身の体と異なり、ある程度取り替えることすら可能だ。このため、人工甘味料のように自分の体は代謝できなくとも、腸内細菌叢が処理して様々な物質に転換するため、糖質を抑えるために利用した人工甘味料が、逆にもう一人の自分によって糖尿病体質を誘導することもありうる(
http://aasj.jp/news/watch/2190)。
今日紹介するベーラー医学校からの論文はなんと自閉症スペクトラム様症状が腸内細菌叢の中に存在する乳酸菌ロイテリ菌現象に起因することを示した研究で6月16日号のCellに掲載された。タイトルは「Microbial reconstitution reverses maternall diet-induced sociall and synaptic deficit in offspring (母親の腸内細菌叢を再構成すると子供の社会性の欠如とシナプス形成異常を正常化する)」だ。
マウスモデルで、肥満の母親から生まれた子供に社会行動異常が出ることが知られていた。この研究はこの原因を明らかにし、治療法を開発することを目的に行われている。実際の結果を見ると驚くが、肥満の母親の子供を7週齢で他のマウスに対して興味を示すかを指標とした社会性テストを行うと、自閉症スペクトラムの子供に似て、他のマウスに興味を示さず、また新しいことに興味を持たない。これほどはっきりと差が出ると、妊婦さんの体重管理は重要だと実感する。
肥満で母親の腸内細菌叢が変化することは知られているので、次に肥満マウスの子供の腸内細菌叢の変化が社会性欠如の原因ではないかと狙いを定め、社会性欠如を示す肥満マウスに正常マウスの細菌叢を移植すると、行動が正常化することを発見した。
さらに驚くことに、細菌叢が全く存在しない無菌マウスの行動を調べると社会性が欠如しており、この異常を正常マウスの細菌叢移植で正常化できる。このことから、何か特定の菌の欠損が社会性欠如の原因ではないかと考え、もともと夜泣きなどに効果があるとされプロバイオに利用されているロイテリ菌に狙いを定め調べると、確かに肥満マウスの子供ではロイテリ菌が著明に減少しており、ロイテリ菌を飲み水から服用させると社会性の欠如を治療できることを発見している。
詳細を省いて結論を急ぐと、
1) 母親の肥満は子供の細菌叢発達に影響を与え、結果ロイテリ菌の減少が起こる。
2) ロイテリ菌は脳内オキシトシンの発現レベルを誘導し、これにより中脳辺縁系のドーパミン性褒神経回路を維持している。
3) このため、ロイテリ菌の現象は自閉症様症状発生につながり、ロイテリ菌によるプロバイオで治すことができる。
4) 同じ症状は、オキシトシン投与で治すことができる。
になる。
この研究が正しければ、ここで扱われる自閉症スペクトラムは、遺伝性の全くない、誰でも示す可能性がある自閉症スペクトラムである点だ。ヒトでも同じ様に肥満の母親からの子供でロイテリ菌減少が起こっているか調べる必要がある。しかし、自閉症スペクトラムの多くは遺伝的変異を持っており、この図式は当てはまらないことが多いだろう。
しかし一方、オキシトシンがほとんどの自閉症スペクトラムに良い影響があることが確実なら、ロイテリ菌プロバイオは、自閉症一般の治療として、オキシトシンの代わりに使うことは可能だ。
あまりに綺麗な仕事で、そのまま信じがたいが、間違いなく自閉症スペクトラムをこの視点から再検討することは重要だと実感した。
2016年6月19日
シリア・イラクでのイスラム国は往時の勢いにも陰りが見えてきたが、パリ、ブリュッセルと立て続けにテロ攻撃を繰り返し、存在感を示している。イスラム国の特徴の一つが、SNSや動画投稿サイトを戦闘員のリクルートやプロパガンダに最大限に利用していることで、2013年発足の組織の急速な成長の要因の一つとなっている。しかしSNSを多用することは活動や支持者の情報を公にすることで、SNS全体の中からイスラム国関連の情報の流れを抽出してイスラム国活動を分析できる可能性がある。
この可能性に気づいてSNSの分析を行っているのは当局だけではない。驚くべきことにネットからイスラム国やテロ集団の活動を分析する論文は数多く発表されている。これによると、階層性がしっかりしたテロ組織や、逆に一匹狼の活動をネットから把握することは難しいという結論になっていた。
今日紹介するマイアミ大学からの論文は、ネット本来の自由なつながりが維持されている間に、自然発生的に結合が急成長し、それが現実の活動へとエスカレートする過程が、イスラム国の行動を知る手がかりになる可能性を調べた研究で6月17日号のScienceに掲載された。タイトルは「New online ecology of adversaryial aggregates: ISIS and beyond (敵対的集団の新しいオンライン上の生態学:イスラム国、そしてその先に)」だ。
この研究では2014年以降、ロシアの会社が提供しているVKontakteのコミュニケーション全記録にアクセスして、イスラム国を支持する書き込みと、それにつながる個人を追跡している。私たちになじみのフェースブックは、イスラム国支持の書き込みが即座に遮断されるため使っていない。逆に、ロシアのVKontakteでは運営者による遮断は行われないようだ。また、このサイトは戦闘員を多く供給するチェチェン出身の利用者が多く、イスラム国がプロパガンダに最も利用しているサイトらしい。
この膨大な記録の中から、イスラム国支持の書き込みを様々な言語について検索し、書き込みを行ったユーザー同士のつながりを再構築して、個人の書き込みが増幅しあって大きな集団になり、実際の行動へ発展する過程を分析している。
例えば2015年1月から8月までに、196の集団が存在し、その集団をフォローしている約10万人の個人を特定できる。この集団の数は刻々変化し、またフォロアーも刻々変化する。図に示されているが、半年ほど続く集団もあれば、1ヶ月も続かない集団もある。
この変化は自然発生的で、決して階層的な組織構成をとるわけではない。しかし重要なのは、自然発生的変化が実際の出来事につながっていく点だ。この例として、2014年イスラム国がトルコ国境のクルド族の村Kobaneを急襲した事件を分析しているが、襲撃の半年前から急速にネット上の支持集団の数が増え、事件をピークに再び沈静化する様子が観察できる。
さらに書き込みを分析すると、襲撃ルートなどの作戦の詳細まで記載されていることがわかり、秘密裏に階層的な組織により現実の襲撃が行われるのではなく、かなり自然発生的に戦闘員が組織化されるのがわかる。
比較のために、ブラジルで2013年に自然発生した反政府デモについても分析すると、やはり半年前からネット上の集団が増加を始め、事件前に急速に増加するのが見て取れる。
これらのデータに基づき、この論文ではネット上で支持集団が形成され、現実のデモや作戦へと昇華する数理モデルを作成し、これを防ぐための手立てまで示唆している。
読んですぐは、ネット上のビッグデータの分析はすごいと感心してしまうが、よく考えると、この数理モデルが予測できるのは、バーチャルなネット上の活動が、多くの人間が参加する行動へと移行する過程で、おそらくパリのバタクラン劇場襲撃やブリュッセル空港爆破テロの分析には利用できないことに気づく。
とすると、この数理モデルが一番役に立つのは、自然発生的な一般市民の抗議行動を抑えたいと思う当局ということになる。中国ではネットでの情報を当局が調節して、自然発生的デモの勃発をコントロールしていると聞くが、同じような分析とモデリングが行われているのではと懸念する。そして、我が国を始め民主主義国ですら、為政者はこのような技術を使いたいという誘惑を感じるはずだ。
イスラム国と聞くとテロ防止の決め手と納得してしまうが、ネットは知らず知らずのうちに、私たちをビッグブラザーによる支配へ導いているのかもしれない。考えさせる論文だった。
2016年6月18日
今日紹介するハーバード大学からの論文は現役で研究している生命科学の専門家にとってもなかなか馴染めない話ではないかと思う。当然、私自身の理解も現役時代からスッキリしない。というより、スッキリしたと思っていても、新しい論文が出るとまた理解が曖昧になる。そんな今も概念形成途上にある分野がBivalentヒストン修飾だろう。
遺伝子発現のエピジェネティック調節を担う2大柱は、DNA自体のメチル化と、DNAが巻きついているヒストンのメチル化、アセチル化による修飾だ。私が現役の頃ゲノム全体に渡ってこの修飾状態を調べる方法が開発され、特にES細胞を用いて研究が進んだ。
最初のころの単純な理解は、PRC2によりヒストン3の27番目リジン(H3K27)がメチル化されると遺伝子の発現はオフ、COMPAS複合体がH3K4をメチル化するとオンでよかった。ところが、この両方がメチル化されている遺伝子プロモーターがES細胞で多く見つかることが報告され、頭は混乱し始める。
まあES細胞のように様々な方向へ分化する必要があるとき、多くのオンにしたい遺伝子をとりあえずオフに止めておく場合の調節として私も理解してきたが、ES細胞を2iと呼ばれる無血清培地で飼うとbivalentプロモーターのほとんどのH3K27メチル化が消失するという論文が出ると、またbivalencyについての理解が混乱してしまう。
Bivalencyとは何か。この論文では、ES細胞ではなく、実際の組織から分離してきた細胞のbivalent修飾を調べ、またH3K27メチル化を行うPRC2コンプレックスの機能を組織特異的にノックアウトしてbivalent修飾の変化と遺伝子発現を調べ、この機能に迫ろうとしている。タイトルは「Acquired tissue-specific promoter bivalency is a basis for PRC2 necessity in adult cells(分化課程で新たに獲得されるプロモーターのbivalencyは大人の細胞でPRC2が必要になる基盤)」で、6月2日号のCellに掲載された。
この研究ではChip-seqと呼ばれる方法を用いて、主に腸管の幹細胞と分化した絨毛上皮細胞のbivalentプロモーターを網羅的に解析し、それぞれの組織でbivalentプロモーターの分布は異なっており、半分以上のbivalentプロモーターは重複しないことを示している。
さらに、未分化なES細胞や、腸管上皮細胞の分化課程での比較から、H3K27メチル化は分化の課程で新たに獲得され、これにより遺伝子発現が抑えられることを明らかにした。
次に、H3K27のメチル化に必須のPRC2の成分Eed遺伝子が幹細胞から増殖期細胞へ分化したときにノックアウトされるマウスを用いて、PRC2の機能がなくなると細胞の増殖が低下、また細胞分化の遅れが出ることを示している。すなわち、分化課程でH3K27メチル化が必要であることを示している。
最後に、PRC2ノックアウトでどの遺伝子の発現が影響を受けるか調べ、多くの遺伝子でH3K27のメチル化が外れただけでは遺伝子の発現は誘導されないが、H3K4がメチル化されたプロモーターだけでポリメラーゼがプロモーターに結合し、遺伝子発現が上昇することを示している。
以上の結果をもとに、再度頭を整理すると、bivalencyは分化過程でこれまで発現していた遺伝子にポリメラーゼが結合するのを防いで遺伝子発現を迅速に低下させた状態を見ていることになる。もちろんデータを仔細に見ると、この話に合わない遺伝子も結構存在しているようで、これらがどう調節されているのかがわかると、また異なる整理が必要になるかもしれない。
若い人たちと話していると、このような複雑な話は避けて通っている気がする。しかし、自分の研究に幅を持たす意味でも、整理が難しい研究分野をしっかりフォローしていってほしいと思う。